第7章 蛇壺 -1-
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稲穂が揺れて、黄金色の波がたなびいていた。
綺麗だ。
穂の先が水面のように流れ、大きな渦となって止めどない。こんな緩やかな丘に、見渡す限り一面の金の穂だ。思わず見入ってしまっている。
丘の向こうは三山が連なり、広々と開けた空間だ。
こんな穏やかな気持ちになるのは、いつぶりだろう。
どこまでもどこまでも、空と黄金が広がり、手も足も伸びて、心に羽根が生えているかのように、遠く広がっていく。
顔を上げると、雲ひとつないスカイブルーだ。すうっと息を吸い込むと、鼻の奥に香ばしい香りが漂ってきた。
振り返ると、
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「智加さん。風邪をひかれますよ。智加さん?」
にゅうっと伸びてきた手を、ぱしりと払いのけた。
「申し訳ありません。てっきり眠ってらっしゃるのかとばかり」
高宮がすぐそばで話していた。謝罪してる口ぶりだが、寝てる暇はないのにやれやれといった顔つきだ。
ここは東辞の麓にある神社の社務所で、智加専用に一室を貰っていた。ソファとテーブル、デスクにパソコン、ロッカー、ちょっとした給湯設備があった。ここで昼食を取ったり、仮眠したりする。
「楽しそうなお顔でしたよ。何か、良い夢でも見てらっしゃったのですか?」
(夢?)
覚えてないな。
智加は無言だ。
「ああ、折角、章子様が昼食をお持ち下さったのに、召し上がってないのですね。午後の用意は私が致しますので、少し召し上がって下さい」
高宮は午後に着る智加の装束をロッカーから取り出すと、ハンガーラックにかけて整えた。
「午後はこれを着て下さい。それと、机の上に資料を置いています。本庁から、祝詞作成の依頼がきています」
またか、と智加は面倒な顔をした。
「最近増えましたね。それだけ、智加さんの祝詞の威力が強いと判ったのでしょうね。総代も鼻が高いでしょう。こんなに色んなことが順調で、少し怖い気もしますね」
ふんと心で呟いて、髪をがさがさと掻いた。
横浜の進水式の神事からこっち、月4,5本は依頼が来るようになった。神社本庁からの依頼がほとんどだが、親父に直接言ってくる小さな神社もあった。産土神を祭るような地元の古い神社で、智加はそちらの方が作っていて楽しかった。
「今月まで2本だそうです。よろしくお願いします。ああそれと、来週は本庁からの取材が来ます。季刊誌の特集を組まれるそうですよ」
「は?」
思わず声が出た。
「写真付きでインタビューだそうです。素晴らしいじゃないですか。そうです、スーツを新調しましょう。靴とネクタイも要りますね。ああ、今から楽しみです」
むっとした顔を尻目に、高宮は喜々として部屋を出て行った。
小さなため息をついてテーブルを見ると、サンドウィッチやスコーンの軽食が置かれていた。その脇に、メモが一枚置いてあった。
『智加さん 眠ってらっしゃるようなので、お昼を置いて戻ります。召し上がって下さい。章子』
壁掛け時計を見ると、13時を過ぎていた。午後の祈願まで20分はある。ここの仕事は土日もない。一日を通して、神事と来客者の祈願で終わる。大学を休学して三ヶ月になるが、ほぼ神社での生活だ。出かけることもほとんどなかった。
唯一変わったことは、章子と結婚したことか。章子は普通の人間なので、智加は言葉を交わさないよう注意している。なので、結婚というか、ただ人が増えたという感じのままだ。
だが、親父のような下劣な人間から守ってやりたい、そう思っている。
東辞に引き取られて十年、自分の人生はそこで決まったようなものだ。
『東辞を出て、生きていけるわけないでしょう』
高宮はそう言った。自分の言霊の能力、それを生かすも殺すも、東辞の囲いの中だけだという。いまだに、智加の耳にはGPSのついたピアスが刺さったままだ。
その中で、明来と過ごした時間は、愉しかった。
犬みたいに笑って、何の躊躇もなく自分に喋ってくる。
言霊は効かない。ちょっといじると、表情をくるくると変えて、怒ったり笑ったり、思ったことを素直に言う。卵焼きは不味いし、お節介だし、人の言うことは聞かないし。
少し目を離すと、黙って唇を噛んでいる。そんな姿は見せないように、隠したつもりで。
校舎の屋上で、ソーダ水を飲んだ。太陽に透かすと、弾けた泡が綺麗に光っていた。明来の顔はなぜだか見れなかった。
あの夜のことを、明来は覚えているのだろうか。
甘い、甘い、思い出しただけでも、身体が反応してしまいそうだ。
智加は静かに目を閉じた。自分の唇を指でなぞる。いまだに明来の感触が、ここに残っていた。ふっくらとして、強い唇。
その時、屑金がぱっと光を点滅させた。智加の胸に巣食う飯山の穢れ神だ。地鎮祭の時に払いきれずに自分に憑いたものだ。
「お前のせいだ。判っているのか?」
智加は思わず睨みつけた。
そう、自分は、明来を抱いてしまった。
それも自分の新婚初夜にだ。
それが半精神体で行った行為だとしても、紛れもない事実だ。
章子と結婚をした。章子の部屋に行かなければ、そう考えていた。別にそれくらいはできると。
「馬鹿なのは俺か」
章子が待っている部屋の扉を開けようとした刹那、一瞬で飛んでしまった。文字通り、気付いたら空だった。真っ暗な闇に、あんなに星が近く、風が気持ちよく、空を飛べるなんて知らなかった。
降りた先に、明来がいた。
ふわふわとした焦げ茶色の髪、驚いて、目を見開いていた。唇が少し開いて、何か呟いた。小さな舌が見えていて、
それを見た瞬間、自分が止められなかった。
屑金が柔らかな、まるでシャボン玉のような光をふわふわと降らせている。電灯にあたって虹色に光り、ゆっくりと消えていった。
「褒めろ、とでも?」
屑金がそうだと自慢気に点滅した。自分の功績だとでも言いたいのか。
実際、自分を飛ばしたのは屑金の力だ。一体いつそんな力を溜めこんだのか。自分に取り憑いていたとしても、そこまでの力を発揮できるとは思わなかった。屑金は、智加の溜めこんだ欲望、本当の気持ちを解き放った、と言いたいのだろう。
故意に遠ざけた。この先もずっと、そのつもりだった。そうすれば、明来は守れる。なのにこの体たらくだ。
さて、どうするか。
どうにも、ならないか。
智加は手に顎を乗せると、ぼんやりと心を漂わせた。
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それから、月日は何ごともなく過ぎて、11月になった。神社はますます盛況で、七五三の時期を迎え忙しさは増していった。更に来週は3日ほど東京へ行って、神社本庁の研修会に参加することになった。その前に一度大学にいって、後期の授業免除になる履修の手続きをする必要があった。
今日の予定は、16時くらいから空いているはずだ。高宮にメールしてその旨を伝えると、承知しました、と返事が来た。
午後の祈願が終わったら、着替えてとっとと行くかと、重い腰を上げた。
大学の履修手続きも終わり、腕時計を見ると18時近かった。久しぶりに一人で自由な時間が取れた。用事を済ませて車に戻ると、ふと思い立ってハンドルを握った。ここから、明来の大学まで、20分ほどだ。明来は居るはずもないだろうが。
明来の大学の近くの駐車場に車を止めて、町並みを見ながら歩いて行く。以前一度だけ行ったことがあった。入学したての頃だ。明来が通う大学はどんなところだろうと興味があった。
今はどうやら学園祭の季節のようだ。構内に入ると、賑やかな人の声がした。クラブや同好会が立て看板を作ったり、出店する夜店を作っている様子があちこちに見えた。
大学一年目で休学している智加には、初めての光景だった。面白げに見て歩いていると、やはり人がこちらを見てぼそぼそと言い始めていた。学生に紛れるように、白いTシャツに黒のジャケットだけで、目立たないようにしていたのだが、立ちふるまいが違和感でもあるのか。つかず離れず、人が後ろにつき始めた。
まずいな。
構内の木々に覆われた駐輪場のようなところに行くと、掲示板があった。まるでここの学生のようにして、掲示板を見ていると、そのガラスに人が写っていた。すうっと何人もの学生が通り過ぎていく。
その中に、ス―パーの袋をいくつも提げた学生が3人写り込んだ。ガサガサとビニールの音を立てて、慌ただしい。
「ショウガ買った?」
「うん。ええと、今の時期、新ショウガってあったんだけど」
「明来君、どっち買ったん?」
「判らないから、二つとも。全部で40固。あはは」
「えええー」
「ジンジャークッキーにジンジャーケーキ、大量生産せなあかんやん」
明来だ。ガラスに映った明来の姿が、はっきりと見えた。
智加のすぐ後ろを、話しながら歩いていた。何も変わっていない。頬を緩めて笑っていた。猫っ毛のふわふわした茶色い髪は、少し短くなったように思えた。背は少し伸びたのだろうか。目をまん丸にして、相手の男を見上げていた。この時間なら、料理倶楽部の連中か。学園祭の出店でもするのだろう、大量の荷物だ。
あの時の、
瞳の色。
睫毛の先まで、思いだせる。
智加は指先を握り込んだ。明来が自分の後ろを通り過ぎていく。ゆっくりとスローモーションのように、腕が動き足が動いて、
ああ、離れるなんてどうせ無理だ。
誰もいなくなったガラスに、夕陽が輝いていた。
(続く)




