第1章 大学生活 -2-
-2-
「東辞、待った? ごめん」
はぁっと息をはいて、明来は顔を上げた。
涼しげな切れながの目、すっとした鼻梁、黒髪を少し切って大人っぽくなったように見えた。身長も伸びたような気がする。口を一文字に結び、ちょっと穏やかならぬ表情だ。
人だかりになっている集団の中で、きゃあと言う女性の声に、明来は振り返った。やはり、智加をちらちらと見て何やら囁きあっていた。
これだけのイケメンだから、それは仕方ないだろうな、と一人ごちする。
智加は明来を一瞥すると、すたすたと先に歩き出した。人ごみの中では、喋りたくでも喋れないだろう。明来の腕を取ると「行くぞ」と目で言って、動きだした。
ただそれだけなのに、きゃーっという叫び声が聞こえてきた。明来は軽いめまいとともに、目頭を押さえた。
高校生の頃も女生徒にすごい人気だったが、大学生の歳上のお姉さま方にも通用するらしい。
明来は、次回の待ち合わせは絶対大学の正門なんかにしないぞ、と心に決めた。
ところがである。
智加はなんと大学構内に入っていくではないか。
「ちょ、東辞、そっち違う」
これでは火に油を注ぐようなものだ。明来の気も知らず、智加は先に行く。
「とうじっ」
智加はすたすたと歩く足を止めると、明来に顔を寄せた。
「見学」と小声で言う。
ふーん、と心の中で思った。
大学を見たかったのか。
なんだかそう思うと可笑しな気になって、明来はニヤニヤとしてしまった。
本当のことを言うと、明来は少々複雑な気持ちだったのだ。
福岡から戻ってきた時、空港で高宮が迎えにきていた。その時言ったのだ。「結納」と。
それはめでたいことなんだと思う。だが、智加の場合、親のいいなりになって、望みもしない結婚ではなのか。第一そんな話は、一言も聞いたことなかった。驚いたこともそうだが、なんだか疎外感もあって複雑だった。
あれから、ようやく今日なのだ。お互い、入学の準備で、連絡もままならなかった。
智加とは大学が違うから、構内をこんな風に一緒に歩けるなんて、不思議な感じだ。
明来は智加の腕を反対に掴むと、ようやく建物の場所が判り始めたばかりの校舎を案内しはじめた。
智加の国立の総合大学と違い、明来の大学は文科系のみで規模は小さい。
「あそこが講堂で、チャペルもあるんだ。たまに宣教師さんがきて説教するんだ」
ふん、と智加は頷いた。
「あそこは学食で、隣は体育館と文科系の部活」
智加がじっと学食を見ていたので、
「お昼食べた? まだだったら」
智加は首を横に振った。
明来をじっと見る。なんだか言いたそうで、その目を見つめた。
「あ、美味しいよ。定食いっぱいあるし、安いしね」
そうか、と言う顔をして、智加は頷いた。
なんだ、そんなことが聞きたかったのか。
出会った頃、自分がお弁当を作って、一人で校舎の屋上で食べていたのを気にしてたのかな。
明来は微笑んだ。
「食べてるよ。クラスに友達もできたし」
ついと視線を合わせてきた。この話題をもっと聞きたいのか。明来は続けた。
「関西から来た人で、同じクラスの出席番号が隣なんだ。背が高くて、東辞よりも高いかな。ふわんとした喋り方で、関西弁が柔らかくて、人好きのする感じだよ」
「……」
へえという顔をしている。
「その人の先輩がここにいてさ、料理研究会してるんだって。それで一緒に入らないかって」
智加は更にじっと見つめてきた。もっと聞きたいのか。
「クラブには何か入りたいなーって思ってたんだけど。運動部はちょっと無理だし。料理は前からやってみたかったし。色んな食材を使って、身体にいいメニューを作るって言ってた。郷土料理も食べて行ったりするって。楽しそうだよね」
「……」
ぼそりと智加が何か言った。
「え?」
明来は耳を近付けた。そこに智加が近づき、薄い唇が「卵焼き」と言った。明来はくすりと笑った。
「甘いのだろ?」
こくりと智加が頷いた。
「上手になったよ。お弁当作って、どっか行こうよ」
智加が微笑んだ。
ただそれだけなのに、明来はじっと見つめてしまった。少し見上げるくらいの身長差。風が黒髪をさわさわとなびかせて、笑うと目が少し細くなった。唇は薄くて、白いシャツのボタンが二つ開いて、首元が開いていた。黒いジャケットを羽織ったラフな格好で、たまに髪に手を突っ込んで、目の前に流れる髪をすいている。
なんだろう……、これ。
どうでもいいや。結納なんて。
明来はふいに恥ずかしくなると、下を向いて歩き始めた。
その後しばらく大学構内を歩いて、二人は当初の予定である買い物に行った。服を買うという明来に、智加が付き合ってくれた。帰りは車で来ているという智加に、送ってもらうことになった。
車は、高宮がよく使っているサファイアブラックのプジョーだった。智加は通学に車が必要らしく、早々に免許を取ったらしい。車のドアをバタンと締めると、ようやく智加が声を出した。
「ふう。ようやく喋れる」
「これ、高宮さんの車?」
「ああ。その内買おうと思ってるけど」
「どんなの買うの?」
「これと言ってこだわってる訳じゃないから。高宮が適当に選ぶだろう。赤とか選んだら、即廃車にしていやるけどな」
「あはは。赤って本気で似あいそう。いいなー。オレも免許取ろうかな。そう言えば料理クラブって、ドライブや旅行もするんだって」
「へえ。楽しそうだな」
「里美君、あ、さっき言ってた関西の人だけど、ドライブ好きらしい。免許持ってるらしいけど、車がないから、クラブ入ったら楽しみって言ってたな。二つ年上なんだよね」
「年上?」
ロック版が下がる音が終わり、智加はギアを入れると、アクセルを軽く踏んだ。かくんという版を踏み越す音がした。
「うん。高校生の時に病気で一年休学して、大学入るのに一年浪人したって。今二十歳。見た目もちょっと大人っぽいよ」
「そうか。児童学部ってことだから、将来は教師か」
「そうだね。東辞の大学はどう?」
「普通。別に変ったことはない」
「神学部ってどんな人が来てるの? みんな神社の家の人とか?」
「そういう人が大半だな。それに年齢もすごくばらけてている」
「年上の人もいるんだ」
「五十歳くらいの人もいた」
「えー、すごいね」
「会社の役員だったのに、稼業継ぐからって大学に入り直したらしい」
「女の人もいるの?」
「少ないな」
「クラブは入るの?」
「いや、入らない。そんな暇ないし。大学もスキップしろって言われているから」
明来は、え?となって急に固まった。普通に、せめて4年間は学生生活がエンジョイできると思っていたからだ。智加に楽しんでもらいたかった。そうなのか、と俯いてしまう。
「このあと、予定あるのか?」
智加に聞かれて、明来は我に返った。
「あ、ないよ。父さんも出張中だから」
「じゃあしばらくドライブして、夕飯食べよう。高宮が慰労会するって言うから」
「慰労会? 高宮さんが?」
「ああ。お前が福岡行って、頑張ってくれたからってさ」
「そんな、全然頑張ってないのに」
「いいんだよ。理由なんて。高宮がお前に会いたいだけだ」
「そっか。ふふふ」
途端、智加の指先が飛んできた。ぎゅっと明来の頬を引っ張った。
「あがっ。痛いじゃない。もうなんだよ?」
「知らん」
そう言って、智加はそっぽを向いた。明来はもうっと口を尖らせた。
ちかちかと左折のウィンカーを上げて、智加はスムーズに駐車場から車道へと入っていった。明来は初めて智加の運転する車に乗ったのだが、運転が安定している。ブレーキでも加速でも曲がる時でも、なんのストレスも感じなかった。高宮の時もそうだが、なんだか二人は似ているような気がした。そんなことを言うと、智加は怒るのだろうが。
「あ、書留が来ているんだった。ごめん、郵便局に寄っていきたいんだけど」
「中央郵便局でいいのか。じゃあ先に行くか」
「うん。ありがとう」
智加は静かに加速していった。ケヤキの多い車道で、緑の新緑の影がフロントガラスに映っていた。智加の運転する車は、とても気持ち良かった。
(続く)