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第4章 二人 -1-

-1-


「どうしたん? 最近、浮かない顔してるみたいやけど。体調でも悪いん?」


明来あきは顔を上げた。


今、大学で料理倶楽部の調理実習をしていた。活動は週2回あって、1回は料理について歴史を調べたり、実際食べに行ったりで、あと1回は調理実習だ。季節に合わせた食材で、料理やお菓子を作っている。


里美さとみが話しかけてきて、明来は卵白をホイップしていた手を止めた。


「そんなことないよ。全然元気だし」


満面の笑顔を作って、そう作って、明来は答えた。ふんと言った顔で、里美は覗きこんできた。


体調は悪くない。悩みと言われても、これは悩みではない。福岡の英彦山から帰ってきて、頭がぼうっとして考えがまとまらないでいるのだ。


智加が母親に何と言ったのか、それを聞くこともできなかった。病室から出てきた智加の顔を見た瞬間、自分は何も言えなかった。


そのあとは、特別何を話したわけでもなく、飛行機に乗って戻ってきた。


それから、智加に連絡できないでいる。


自分は、何故あの時何も言えなかったのか。自分がしたことは、正解だったのか。


あの時の、智加の顔が忘れられない。



「大丈夫だよ」と笑って、かしゃかしゃと、卵白を泡立て始めた。


「ほんまか? 何かあったら話してな。一人で溜めこんでも、なんもならんよって。話しするだけでも、楽になるし」


「うん。ありがとう。里美君こそ、バイトに授業に、大変そうだよね。身体もつの? オレなんてまだバイトも見つけてないし」


「自宅やから、焦らんでもええやろ。バイトなんて、学生時代にできる経験の一つなんやから、楽しんでやってみたらええよ」


「そうだよね。なんか回りがどんどん進んでいって、オレだけ成長できてないって感じがしてさ」


「なんや、そんなこと? 自分のスピードがあるんやから、人と比べたらあかんよ」


里美が目を大きくして言った。それが、明来の不調の原因だと思ったのだろう。


「そうなんだけど。里美君とか、もう彼女もできたんだろ? いつの間にって思ったんだけどさー」


明来はちょっと口を尖らせて、里美を睨みつけた。


「あはは。ごめんごめん。でもちゃんと明来君には話したさかい。隠したりするの変やけど、同じクラブの先輩やから、ちょっと気まずいかなー思うて。でも明来君にはちゃんと話したで」


ふいに里美は視線を外すと、とある女性を見た。同じ料理倶楽部の二つ上の先輩だ。浪人した里美とは同じ年になる。


明来から見ても、優しそうで落ち着いた女性だった。明来から見たら、歳上であるため、とても大人の女性に見える。最初聞いた時は驚いた。里美のことだから、もっとハデで軽い系の女子と付き合うのかと思っていたからだ。


「なんか一緒にいて、楽なんや。自分を飾らんでええし。元々そんなん僕苦手やしね」


「そうだね」


と言って、明来は微笑んだ。


『一緒にいて、楽』


なぜか今の明来には、胸をざわざわとさせる言葉だった。


つと手が止まっていた。手元の卵白が浮いてきている。白っぽくクリームのように滑らかにしなくちゃいけないのに。思うように泡だってくれない。


途端、先輩の声が背後でした。


「明来っ、卵白は途中で止めたら、水分と分離するぞ。ほらほら、しゃかしゃかして」


「あっ、済みません」


明来はまたボールを片手に持つと、泡だて器を握り直した。


今日のメニューは、卵白蒸しの和風だしあんかけ茶碗蒸しと鶏のフリッターだ。どちらも下地にする卵白が重要だ。


「卵白で包むことにより、より食材の旨みを閉じ込めることができると証明するのだ。卵白を使ったものと、使わないもので味比べするのだからな」


先輩は声高らかに喋っている。


「はい。楽しみです」


明来は頷いた。


--


調理も終わり、目の間にずらりと並べられた料理の味比べが始まった。


「明来君、これめっちゃうまいで」


里美が満面の笑みだ。こぼれそうな笑みを手で押さえて、白い皿に乗った鶏のフリッター卵白衣を差し出した。明来はぱくりと口に入れた。


「うわっ、美味しいー」


フリッターを食べた瞬間、肉のうまみがじゅわっと口中に広がった。鶏独特の臭みもなく、ジューシーだ。


(これ、食べさせたい)


明来は思わず、顔をほころばせた。


「おやおやー、今誰のことを思ったのかな~」


隣に座っていた先輩が、こつんと明来の脇腹を小突いた。


「え?」


明来は驚いた。誰と言われても、何も考えていない、ふっと浮かんだだけだ。


「いやいや、それでいいんだ。美味しいものを食べる。愛する人に作って食べさせる。それが料理の基本というものだ」


明来は先輩の勢いに、びくりと肩をすくめた。


「明来くん。いいか、よく聞け。料理は愛だー! 愛なのだーっ」


先輩は立ち上がって、拳を振り上げ、力説している。


「先輩。判りましたって。座ってください」


里美がトーンも低めに、やれやれと相槌を打った。


その温度差に、笑い声がどっと起きた。里美が、先輩がみんなが笑っている。明来も笑った。ただ、胸の端が、ちりちりとしていた。




夕方八時近くになり、軽く飲みに行こうとなった。


大学の近くには、安い居酒屋が沢山あった。そういうところは、やれ冷凍の揚げ物ばかりがメニューに並ぶが、それはそれ、料理クラブの先輩は、安くて旨いところを知っていた。


夫婦二人でやっているという居酒屋に連れていかれた。


小さな和風の店で、天井の梁が大きくむき出しになっていた。まるで古民家のようで、奥には調理場あって、大将の顔が見えていた。自分の父親よりも随分上のように思えた。


先輩がここは野菜が旨いんんだ、と言って、ざざっとメニューから勝手に注文をしていく。


「まずはビールだな?」


「あ、先輩。明来君はまだ未成年だからコーラで」


「なに固いこと言ってんだ? お前だって高校生の頃から飲んでただろ?」


「ええー。そんな」


里美は苦笑いで首をすくめた。ざっと人数分きたビールのジョッキを持って、部長先輩が立ち上がった。


「えー。こほん。今日は無礼講ということで。卵白の勝ちに乾杯ーっ」


皆がわっと歓喜の声を上げた。かつかつっとガラスのジョッキの当たる音が響いた。ざわざわとした雰囲気。先輩たちは皆笑顔だ。なんだか明来まですごく楽しくなった。


隣や前の人とジョッキをぶつけながら、明来は一口黄金色の泡を飲み込んだ。


(うげ、苦い)


思わず顔がしかめっ面になった。皆美味しそうに飲んでいるのにだ。それに気付いたのか、先輩が大声を上げた。最初の一杯を一気飲みして、もう出来上がったのか。


「明来ー。もっと飲めー。酒の味も覚えろ。料理に大事なものだ」


はいっと言って、明来はジョッキを先輩のそれとこつんと当てた。


「乾杯ー」


口にまた一口含んで、明来はやっぱり苦虫でも噛み潰したような気分だ。不味いし、苦いー。


途端、明来の袖が引っ張られた。隣に座っていた里美だ。顔を近づけて、そっと耳打ちする。


「飲んだらあかんよ。コーラ頼んどいたから、これ。ビールは下に置いといてな。僕が飲むよって」


「ありがとう。ごめん、ちょっと苦いね」


ふふと里美が笑った。明来もつられて微笑んだ。これが美味しいなんて、いつか思える日がくるのだろうか。


出された料理を皆で食べ、話題は料理の話につきなかった。ビールも進み、今度は焼酎を飲んでいる。たった二、三歳上なのに、すごい酒豪だ。女性の先輩も二人いて、がんがん飲んでいた。今度は料理ツアーをしようと、皆が行きたい場所を方々で言い合った。


「北海道」


そう言ったのは、部長だ。それに負けじと女子部員が真っ赤な顔をして言った。里美の彼女とは別の先輩で、皆から高子たかこと呼ばれている。


「いやよ。九州よ。私はとんこつラーメンが食べたいー」


「とんこつラーメン? あんなの料理じゃないぞ」


「何よー。美味しければいいのよ。料理の基本ってそこでしょ? 美味しいのが幸せなのよ」


「や、それはご尤も。おっしゃる通りですよね」


里美がへへーと頭を下げた。


「よねー。里美君」


「はいー」


一応、女性を立てるという里美の方針らしい。部長にも頭が上がらないはずだけど、里美らしいなと思いながら、明来は九州と言われて、英彦山を思い出した。

智加のことが脳裏をよぎった。


明来は知らずと下唇を噛んだ。智加のことを思うと、どうしてか口が勝手に噤む。


先輩らは構わず話を続けていた。


「なんだとー。里美、お前はどっちの味方だ!」


「そりゃー高子先輩の見方ですよ」


「なんだとー。こっちに来いっ」


里美は引っ張られて、もみくちゃになっていた。傍らであわわと思いながらも、里美がくれたコーラをごくごくと飲んだ。やっぱりビールより美味しい。


ふいに背後に影を感じて、明来は振り返った。高子先輩が隣に来ていた。里美と付き合っている先輩と同学年だから、明来より二つ年上だ。


「斉藤君。飲んでる? って、あーコーラ」


「すみません。未成年なので」


「いいなー若いなー。お肌なんてぴっちぴちだし?」


「若いって、先輩だって若いじゃないですか」


「ぶー。十代じゃないもの。二つも上だよ。微妙な年頃なのよー」


取りあえず、明来は笑った。高子先輩は、髪を茶色に明るく染めた、どちらかと言えばテンション高い元気な先輩だ。はきはきとしていて、部長と付き合っているのでは?と噂されているが、真相は不明だ。里美の彼女はおっとりしていて、正反対なタイプだった。


「ねーねー。明来君って呼んでいい?」


「あ。はい」


「今度遊びに行こうよ。ドライブとか好き?」


「はい。免許取りたいなって思ってるんです」


「ドライブいいよね。私も免許取ったよ。車持ってるから、今度一緒にさー」


と言ったところで、高子と呼ばれた。先輩はむうと小さく口を尖らせて、明来の肩をぽんと手を置くと、立ち上がって去っていった。


深夜を回り、飲み会はお開きになった。あちこちで出来上がった先輩たちは方々へ消えていった。


明来は里美と里美の彼女と高子先輩の四人のグループで帰路についた。


駅まで女性を送るということになり、公園を突っ切って駅までの道を歩いた。公園の中はところどころに街頭が灯っていて、足元は明るい。夜の静かな風が、緑の香りを届けてきた。すっと深呼吸をすると、明来はさっきまでの喧騒を思い出していた。ふと気付くと、里美ら二人は遅れ遅れで歩いていた。


明来の腕が急に掴まれて、驚いて振り返った。

途端、高子先輩の顔が近付いてきた。


いきなりのことで避けきれなかった。明来は、高子に唇を塞がれてしまう。柔らかな唇。べとっとつくのは口紅なのか。途端、むっとする酒の匂いが、鼻をついた。


その瞬間、明来は高子を突き飛ばしていた。


痛いと言って、高子は道路の上に転んだ。


明来は、はっとなって、高子に手を伸ばした。


「済みません。オレっ」


歪んだ顔の高子は、明来を見上げると、一言言った。


「サイテー」


明来の手を取ることなく、高子はすっと立ち上がると、スカートの裾をぱぱっと払った。


「バッカじゃない? 冗談も通じないなんて、ほんとコドモ。つまんない」


踵を返すと、高子はすたすたと歩き出してしまった。明来はぎょっとなって、その後ろ姿に手を伸ばした。


「あの。先輩っ」


ポンと肩を叩かれ、振り返ると、里美と彼女が立っていた。


「気にせんでええよ。高子先輩、酔うと節操無いねん」


「オレ……」


「仰山飲んでたみたいやし。明日になったら忘れてはるよ」


「でも」


明来はしゅんとなって下を向いた。手が勝手に唇を覆った。


キス、された。


年上の女性に。


好きとか嫌いとか、思いもしてなかった。


何だろう、この胸にぐるぐるする思いは。


「それよりも、さっき、誰のことが浮かんだん?」


「え?」


「明来君の、心の中におる人やろ?」


明来は目を見開いた。思ってもいない里美の問いに、茫然となった。


誰って言われて、明来は眉根を寄せた。


「言わんでもええよ。好きな人がおったんやね。高子先輩も悪い人やないって思うけど、明来君には似合わへんかなって思うとった。狙われとったの気付かへんかった?」


「え? 全然わからなかった」


里美はにっと笑った。傍にいる彼女もふふという笑顔だ。


「その人のこと、大切にしーな」


明来は俯いた。苦笑いしか浮かんでこない。その人は、違うと思う。明来は取りあえず、里美に笑いかけた。


(続く)

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