第3章 母 -3-
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部屋を出て廊下に出ると、明来は窓のあるところまで歩いていった。外の風景は、とても綺麗な稜線を描いた山並で、青い空が広がっている。空の上のほうでは、ハンググライダーが頼りなさげに浮いていた。
あまりにものどかな景色で、どんな綺麗な風景も、明来の中には入ってこなかった。
ドアの向こうの智加のことを考えると、知らずと唇を噛みしめていた。
話せって言ったのは自分だ。当初会うつもりはないと言っていた。ようやく探すのに同意してくれた智加だったが、心の整理が出来ていたわけではないのだ。さっきも部屋を出ていこうとしたいた。
これがもし自分だったら、何を話せばいいのかなんて、判らない。
第一話そうにも、意識不明の状態なのだ。
ひどく酷なことを言ったような気がして、明来はため息をついた。
視線を外の景色から戻すと、廊下の端でタバコを吸っている平田を見つけた。携帯用の吸い殻入れを片手で持って、ふうと煙をはいていた。明来が近づくと、慌ててタバコの火を消した。
「あの、お尋ねしてもいいですか?」
一瞬ぎくりとした顔をして、平田は、何でしょう、と言った。
「水桧さんは、何か言ってませんでしたか?」
「何かというと?」
「その、息子の話とか。東辞のことです。何か言ってませんでしたか?」
平田は少し言いよどんで、その、と言い出した。
「水桧さんは精神を病んでいて、あまり意思の疎通はできなかった。彼女も自分から何か喋るという感じでもなかった。ただ穏やかに過ごさせてやることが、私の勤めでしたから」
「先生の勤め? 水桧さんは、いつからここに?」
「もう十年近いでしょう」
智加と離されてから、ほとんどここに居たことになる。明来はまじまじと平田の顔を見た。
「先生はなぜ? どこまで知ってるんですか?」
平田は一瞬顔を歪めると、目を伏せて視線を彷徨わせていた。が、顔を上げるとまっすぐに明来を見つめてきた。
「答えられる範囲でしか、話せませんが。私が言うことは、他言しないでもらいたい」
「ええ?」
「あなたも東辞家とは何か縁のある方でしょう。あなたがどちらの派閥なのかは知りませんが、悪い人には見えない」
「オレはただ、東辞をお母さんに会わせたかっただけで」
「信じます。友達なんですね」
「そうです。高校の頃から。オレのほうが東辞に助けられてきたんです。だから、少しでも恩返しがしたくって。あいつはお母さんには会わないって言ったんです。でも、オレは会った方がいいからって無理矢理」
「そうなんですね」
明来は急にしゅんとなって、下を向いた。リノリウムの白い床の上は、塵一つなくぴかぴかと光っていた。
「高宮という男を知っていますか?」
「高宮さん? 知ってますよ。すごく優しい人で、オレなんかにも親切にしてもらって」
「そうですか。きっとこれは高宮が仕組んだことでしょう」
「え?」
「水桧さんをここに連れてきて、外部から遮断して世話をして欲しいと頼んだのは、高宮なんです」
「えっっ?」
明来はぎょっとなった。ぽかんと口を開けたまま、頭が真っ白になった。意味が判らない。水桧さんを探すように指示したのは、高宮さんだ。その本人が、水桧さんを隠したということなのか。
「どういうことなんですか? 高宮さんが水桧さんを探してくれって、オレに言ったんですよ。だから福岡まで来て」
ふむと言って、平田は腕を組んだ。顎に手を伸ばして、薄く伸びた鬚をさすると、ふっと息をはいた。
「あの男とは、大学時代からの付き合いでして。だいたいのことは読めます」
「何を考えているんですか、高宮さんは?」
「あなたでしょう」
「え?」
「あなたに探し出して欲しかったのでしょうね。あなたを信頼していると言っても過言ではない。東辞智加さんに会わせるには、あなたという中間が必要だったのでしょう」
「オレが?」
「高宮が智加さんを連れてきて、母親に会わせたところで、素直に会うとも思えませんし」
確かに、そう言われて納得した。明来はいきなりはっと声を上げると、前髪をがしがしと掻きだした。
「高宮さんってば、もう」
「あいつは、いい男です。大切なものは、なんとしても守る。ただ、素直ではないかな」
平田もふっと笑った。
明来はきゅっと唇を結ぶ。振り返って、先ほど出てきた扉を見つめた。
「東辞……」
高宮が10年前、母親から智加を引き離し、智加を東辞家に連れてきた。一人残された母親を、高宮は保護したことになる。これはどういうことなんだろうか。智加は言っていた。父親の東辞亘は、母親の所在を探していると。部下の高宮は母親を隠していたのこになるのか。
智加は、高宮を信用するなと言った。東辞亘に陶酔してる、言いなりだと。
何が真実なのか。
言いようのない不安が、明来の胸を覆っていった。
(続く)




