Spread Spring
四月。
どうでもいい日常が、ゆっくりと流れていく、そう思っていた。
四月。
春一番が日本列島を縦横に走り回ったというニュースも記憶に新しい今日この頃。ようやくなじんだと思えていたクラスから、半分以上の人と一度も話したことのない新しいクラスへと変わったことへの混乱もようやっと落ち着いてきた頃のことだった。
特に何か新学期にこれといった目標を打ち立てるわけでもなく、ただクラスとそのメンバーと、後教科書が新しくなった程度にしか思っていなかったのだが、それを友人二人に言うと、彼女ら曰く「凛は達観しているからそんなことが言えるんだよ」とのことらしい。
齢十七の小娘を捕まえて「達観している」とはまたずいぶんと激しい評価を下されたものだ。と、その時にはその程度しか感じなかったから、その場は微笑んでお茶を濁しつつやり過ごした。
それとも、そういったところが、達観している、と言われる所以なのだろうか。
話が逸れた。
ともあれ、暦を信じるのならばいまは四月なのだ。私の主観では、まだ年が明けてから二か月ほどしか経っていないような気がするのだが、カレンダーが言うには四月のようだった。
私のずれた暦の感覚はさておき、春だ。
今年は例年より桜の開花前線が私の住む町へと来るのが遅く、そのおかげで私は四月の第二週という今日になっても、古来より日本人が愛した、であろう、桜の風景を見ることができている。
とはいえ、四月の二週ともなればさすがに葉がところどころで目立ち始めており、個人的に一番綺麗だと考えている、「葉桜の上に桜の花」がコントラストを表現している。
私の通う高校の前には、長い並木道がある。
名前はなぜか「並木プロムナード」、つまりは並木道ではなく散歩道なのだが、春には桜が、秋には公孫樹が、それぞれ盛況なのだからここはやはり並木道と言ってしまっても誰も文句は言わないであろう。
はてさてその並木道(と呼ぶことにした)は我らが第二南高校へと続く唯一の道であるので、朝の登校時間には同じ服を着た少年少女が道一杯に、いやむしろあふれる。
私もマイノリティではなくマジョリティであり、特に裏道を使ったりせず登校しているので、当然のことながら今日も今日とて名称がはっきりしない桜並木をくぐっていた。
そんな時である。
私は、誰かがこちらを注視していることに気が付いた。
言っていなかったが、私の髪の色は明るく、手っ取り早く表現してしまえば友人曰く「薄めの紅茶のような」色をしている。
なんでもひいおばあちゃんの血が濃く出たとかなんとか、別に我が家の家系図を確認したわけではないのであれだが、別段誰の血かわかったところでかわりえないのでそこはどうでもいい。
とにかく、日本人ではない血が入っている、らしい。
日本という国は一つの人種が一億人もいる国であり、だから黒以外の髪の色というのは染でもしない限り滅多にいない。ましてや二南高は染めることはおろか脱色も厳禁なので、私は校内唯一の「黒ではない髪の毛」をしていることになる。こんなところでマイノリティにはなりたくないのだが、地毛なのだし仕方ないとあきらめている。
その事で、入学当初は先生方とひと悶着どころかよん悶着ほどあり、そのせいと、普段から向けられている好奇の視線から、他人の視線に関しては割と鋭くなってしまった。というより、ならざるを得なかったのだが。
立ち止まり、視線をそちらへ向けると、そこには一人の男子生徒がいた。ネクタイの色から察すると一年生であり、私の一つ下にあたる。顔立ちは平凡、を少し出る程度? 友人二人がよく雑誌片手に騒いでいる「イケメン」の定義がよくわからないから、そういった方面でどういう顔立ちなのかはわからない。
が、真面目そうな顔つきはそのまま性格を表しているようで好感が持てた。
彼のほうは、よもや視線に気づかれるとは思っていなかったらしく、私が斜め前を向くと急にあわてだした。
慌てる理由がよくわからないのだが、とにかく私が注目していると、件の彼は意を決したようにこちらに向き直り、小走りに駆けよってきた。
「お、おはようござい…ます」
「うん、おはよう?」
挨拶された。
急なことだったのに、語尾にクエスチョンマークがつくだけで済んだ事を誰か褒めてはくれないだろうか。無理? そう。
彼はそのまま、逃げるように校門へと走って行ってしまった。というか、間違いなく逃げた。脱兎のごとく。
「……何だったのかな?」
よくわからないが、この時交わした一言は、今日一日、妙に頭の中で繰り返されるのだった。
テスト二週間前とかならその限りではないが、高校生にとって平常の授業というものは聞き流すか、もしくは子守唄として有効に活用している人がほとんどではないだろうか。
私も、ノートを写し終えたら他の事をしようと―つまりは内職である―思っていたのだが、先生の「じゃあ適当にあてた人に問題聞いていくから」との言葉に、他の事に意識を割くわけにはいかなくなってしまった。
そんなこんなで昼休みだ。
いつものように机をくっつけ、いつもと同じ三人で弁当をつつく。
「そういえばさ、凛。今日の朝、なんで並木プロムで立ち止まってたの?」
三人組の参謀役、本田夕夏が問いかけてきた。
闊達そうな目と顔立ちをしている彼女は色も黒く、反対に額と目元だけが白い。
典型的な水泳のゴーグル焼けで、その通り水泳部に所属している。塩素で脱色された髪は、もうほとんど茶髪と言って差しさわりなく、私と並ぶと「不良コンビ」なんて言われたりする。
言ったやつには夕夏直々に跳び蹴りがプレゼントされたが。
「あたしはともかく、凛が不良なもんか!」とのことである。
「あ、まだその呼び方を普及するの、諦めてなかったのね」
ため息をついたのは、三人組のブレーキ役かつブレーンの嶋村秋穂。背中までのばした黒髪と本人の楚楚とした立ち振る舞いから、初対面の人はまず間違いなく「文学少女」もしくは「大和撫子」といった印象を受ける。
が、大きな間違いである。確かに物腰もやわらかいし普段は穏やかなのだが、「口は出すけど手は出さない」をモットーにしており、彼女と口論になって勝利した者はまだいない。理詰めで雨あられと浴びせられる正論に心を折られた人数ははかりしれない。
「並木プロムの事? いい呼び方だと思ってんのになぁ」
ほう、と夕夏は息を一つ吐くと、再び口を開いて。
「そんなことは今問題じゃなくて、今は凛の話だよ。で、何があったのさ」
ここで話さないと夕夏はいつまでも追及し続けるだろうし、私としても朝の一件に対しての二人の見解が聞きたかったので、素直に話した。
話した、のだが、二人は渋い顔で唸ってしまった。
「これは、ねぇ?」
「ええ、やっぱり…」
「何、なんなの」
二人して顔を見合わせて、したり顔で頷き合っている。置いてけぼりにされているようでいい気はしない。
やがて二人はこちらを向いて、夕夏が口を開いた。
「そりゃあほら、あれだよ、その一年生、凛に気があるんだよ」
……うん?
「ごめん、ちょっと聞き取れなかった」
「だーから、その某一年生は凛に気があるの」
がしがしと頭を掻きながら夕夏が言う。その後ろでは秋穂が何度も頷いている。
「誰が?」
「一年のその子が」
「誰に?」
「凛に」
「気がある、って?」
「そゆこと」
いや、いやいやいやいや。
出来の悪い子どもに何度も教え込んでいるような表情の夕夏と秋穂を交互に見ながら、私は混乱する頭で必死に考えてみた。
言うことによると、その朝の男子生徒は私の事を憎からず思っているらしい。いやいや。ないない。
「どうしたの? 二人して変なものでも食べたの?」
「食べてないよ、失礼だな」
「いや、それはないよ」
「凛もさー、教科書がボーイフレンドです、みたいな感じじゃなくて、ちょっとはそういったことに興味持ったら?」
「失礼な、興味くらいあるよ」
多分、だけれども。自分ではよくわからない。
結局、昼休みの間中そのネタでからかわれたのだった。
そして放課後。
一日の授業が終わったという満足感と、午後の少しの倦怠感を纏ったHRを終えて、さて二人を誘って帰ろうかと席を立った所で、夕夏と秋穂が向こうから寄ってきた。
手には学校指定の鞄があり、既に帰る気満々、といった様子の二人は、おもむろにこう切り出した。
「明日、いっしょに登校しない?」
そう言った秋穂は彼女にしては珍しく意地の悪い顔をしており、後ろでは夕夏がヘンににやついている。
「どうしたの、急に」
「あくまでも凛が否定するから、それならその子を私達でも見てみたいと思って」
と秋穂。彼女は普段は冷静なのだが、こと色恋沙汰の匂いが少しでもすると暴走し始める。まだ色恋沙汰と決まったわけでもないのに。
本来それを止める役目の筈の夕夏まで乗り気なため、ブレーキなんてないも同然、そこに私の意志が介入する余地は無い。
つまり、ここで私が何を言った所で、巨大な焼石にスポイトで水を垂らすのと同じことだ。意味がない。し、食い下がった所で意義もない。
「わかった。じゃあ、八時に並木前ね?」
こう言っておけば、波風を立てることなくその場をやり過ごせるのだ。
たとえ、翌朝に大嵐になったとしても。
翌朝。いつもと同じ時間に家を出て、いつものバスに飛び乗り、いつものバス停で降りて、いつもの時間に並木道の前についた。
つまり、午前八時。
我ながら几帳面なことだ、と苦笑しながら、この一点においてはカントにも引けを取らないのではないか、と思ったりもする。
別に私は二人が寝坊しても一向に構わないのだが、そうすると問題は明日に送られるだけであって根本的な解決策ではない。
結局のところ、いやなことはさっさと済ましてしまうに越したことはないのだ。澄ました顔してやり過ごせば、それでいいのだ。
なぜ私が二人の介入を疎ましく、嫌がるのかはよくわからないのだが、このもやもやにも二人が最適な解を見つけてくれるのかと密かに期待していたりもする。
無論、口には出さないけれども。
そんなこんなで合流。二人の中では、一晩かけて熟成された「年下の男の子」像が幅を利かせているらしい。気楽そうでなにより。面倒くさいことこの上ない。
雑談しながら並木道を進んでいると、昨日と同じ場所に、昨日とは違って最初からこちらを向いてその子が立っていた。
「おはよう、ございます」
しどろもどろ、といった感じで朝の挨拶を口にするその子の顔はほんのりと赤いようにも見え、後ろでは二人が「昨日の話は間違っていなかった」と喜んでいる。
「うん、おはよう」
奇しくも、昨日と同じ返事になってしまったのだが、その子の方はそれでも充分だったらしく、心配そうな表情から一転して明るい顔になっていた。
「凛」
秋穂が小声で私を呼ぶ。まだ少年と私との間にはそれなりの距離があり、本当に小さな秋穂の声は聞こえなかったようだった。
「何」
小学生の頃、暇だったからという理由で習得した腹話術まで使って聞き返すと、先ほどよりも少し力強い小声で、今度は夕夏が。
「名前、訊きなよ」
あ、と思った。
そういえば少年だのその子だのとばかり呼んでいて、本来の名前を訊いていなかったと今気が付いた。これは失態だ、と反省しながら、私は口を開いた。
「君の名前は? 私は高垣凛。二年生だよ」
自分では出来る限りフランクに訊いたつもりなのだが、夕夏が言うに「愛想が足りないんじゃなくて、愛想が無い」私だから、もしかしたら硬い印象を与えてしまったかも知れない。
「渋谷亘一、一年B組です」
幸いそんなことはなく、ちょっと戸惑いながらも少年改め渋谷の亘一君は名乗ってくれた。クラスのおまけまでつけて。
いい意味で、「熨斗つけて」返してくれた。
「そう、亘一君だね。よろしく」
「よ、よろしくお願いします!」
言うや否や勢いよく頭を下げ、「失礼します」と短く言って走り去ってしまった。
あまりにも突然のことだったから、反応する暇もなく私は昨日と同じように一人残される形となってしまった。
「どうしたんだろ」
小首を傾げる私の背中に、秋穂が飛びついてきた。「最初から名前呼びなんて、なかなかどうして、凛もレベルが高いわね」とかなんとか言いながら。
「え、まずかった?」
別に私は苗字呼びと名前呼びで親密度を区別しているわけではなく、ただ呼び易いほうで呼んだだけの話なのだが、いけなかったのだろうか。
「凛、凛」
と、夕夏が肩を叩きながらたしなめるような口調で言ってくる。
ちなみに夕夏は人を注意する時やたしなめる時、つまりは今のような状況になると、必ず語気を強くする代わりに名前を二回呼ぶ。なんでも、とある歴史家志望の戦略家の癖であり、彼女はそれを本で読んで以来、自分の癖に組み込んでしまって久しい。
私もその本を勧められたのだが、まだ四巻までしか読了していない。
「あれはダメだよ。凛は純情な少年の心を何一つ理解してない」
「はあ」
生返事になってしまったのを誰が咎められようか。知らないのだから理解も何も無いだろうに。
「恥ずかしくなったんだよ、憧れの赤毛の先輩にいきなり名前で呼ばれて。わかんないかなぁ」
いいながら、夕夏はしきりに首をひねっている。わかるかそんなの。
「赤毛は関係ないでしょ」
「そうでもないかもよ? 凛の赤毛、綺麗だもの」
背中に額を押し付けるのにも飽きたのか、秋穂が私の髪を撫でながらそう言った。折角苦労して朝梳かしているのだからやめてほしい。
「まあ、とにかく!」
夕夏が声を張り上げる。
「今日も一日、頑張ろう」
気づけば、校門が目の前に迫っていた。
渋谷亘一。
今朝判明した、「挨拶少年」の名前である。
別段珍しい苗字でも名前でもないのだが、何かが私の中で引っかかっていた。
かといって、その引っ掛かりを上手く言葉には出来ないのだけれど。
よくわからないものをよくわからないままにかたちにしようとしても、それは結局、よくわからないものにしかならない。
だから、というのは逃げかも知れないが、もうしばらく、この心情は解説されることなく、私の心の中の抽斗の、二段目の先頭位にしまわれておくだろう。
考えが上手くまとまらない。散文化、は全く違うか、断片化? してしまっている。
それもこれも亘一君の所為だ、と責任を嫁がせてみる。
うん、意外としっくりきてしまった。
もやもやする。よくわからないし。
「よくわからないや」
呟く。
悩むのは性分じゃない。
なるようになるし、なるようにしかならない。
それでいいのだ。
「それでですね、どうなったと思いますか?」
「そうだね…順当に行けば、そのまま怒られたんじゃない?」
「それが、親父さんに妙に気に入られて、そこでバイトしてるんですよ」
「嘘!?」
「ホントなんですよ、これが」
信じられませんよねー、と続けて、亘一君は一度口を閉じた。
「っと、もう校門ですね」
「本当だ、早いね」
「では、失礼します」
「うん、また」
一礼して、彼はそのまま走って行った。
あれからひと月。カレンダーは一枚めくれて五月になり、その五月も残すは今日と週末のみとなっている。今では挨拶どころか、並木道の入り口で自然に合流して、そのまま校門までの間、雑談する程度には仲良くなっていた。
二人はこれを「初夏の前に春が来るのは当然の事」としたり顔で頷いていたが、そういうのではない、と思う。
あと別に上手くない。
親密になることは悪いことではない。けど、何かが違うのだと感じてしまうこともある。
よくわからない。
最近口癖になってしまった。由々しき事態だ。
そういえば、彼の誕生日は来月の中ごろらしい。
やはり何か贈るべきだろうか。
「凛、凛。まさか、まさかまさかのまさかだとは思うけど、渋谷後輩の誕生日に何もプレゼントしない、なんてことはないよな?」
「やっぱり、しないとだめかな」
「むしろしないって選択肢があることに驚きだよ」
相談すると、二人ともが口を揃えて、それどころか声まで揃えて(つまりは異口同音に)こんなことを言ってきた。
「誕生日っていう大きいイベントに、最近仲良くなった憧れの先輩からのプレゼントを期待している亘一後輩の淡い期待を、まさか無碍にはしないよね?」
と秋穂。そこに夕夏が続けて言うには。
「何も高価なものを贈れって言ってるわけじゃないさ。気持ちだよ、気持ち」とのことらしい。
「でも、何を贈ろうか…」
三人で考え込んで、結局結論は出なかった。各自考えておくように、ということで一先ず解散した話し合いの、今日が二度目の開催日だった。何も思いついていないのだけれど、それでも大丈夫なのだろうか。
まあ、なるようになるか。
それはつまり、なるようにしかならない、ということなのだけれど。
刺繍でハンカチに何か入れたら、と言ったのは秋穂だった。それだったら私も手伝えるし、教えてあげられるから。という提案は賛成二票で満場一致、可決された。
「ここはもうちょっと上に針をいれるんだよ」
「このへん?」
「うん、そんな感じ」
秋穂の家にお邪魔して、マンツーマンでの指導。夕夏はというと、シーズンが始まって、今は塩素水にまみれているところ。
「でも、イニシャルとは考えたわね」
「そう、かな? 安直過ぎないかな」
「それぐらいでいいのよ、プレゼントなんだから」
それくらい気軽に言ってくれると、こっちまで安心してくる。
これは秋穂の持つ雰囲気のなせる業だろう。
「……できた」
少しだけ誇らしげに持つそのハンカチをのぞき込んで、一つ秋穂が大きく頷いた。
及第点なのか、もしくは満点なのか、言ってはくれなかったからわからないが、少なくともプレゼントとしては十分に合格しているのだろう。
合格、ということらしかった。
師匠のお墨付きも貰ったので、出来に関しては心配いらないだろう。包装も自分なりに選んできちんと包んだ。
あとは何時渡すか、だけれども。それに関しては、特に考えなかった。
考えずとも、一つの場所が浮かんでいた。
今度は待たれる側ではなく、待つ側に。
勝負は、明日の朝になりそうだった。
いつも向こうが待っていた桜の木の下で、私はそっと鞄の中をのぞいてみた。
中には、青い包装紙に包まれた、小さな包み。
待つ間は変に落ち着かなくて、前髪をいじったりしてみる。陽にすかしてみると、一足先に秋が来たようで、少し笑ってしまった。
未だにこの心情が何なのか、よくはわからない。
けれども、この「よくわからない」気持ちは、これまでの「よくわからない」達とは少し違って、どこか心地よいものだった。
向こうから歩いてくる人影は無数にあるけれど、一人だけが際立っているように思えた。
なるようになる。
いや、少し違うか。
したいように、する。つまりこの気持ちは、そういう事なのだろう。
暦は六月だけれども。
どうもこれから、春がはじまりそうだった。
あ、はい、短いっすよね。
でもここで切るのが最適だと感じてしまったので、これはここで終わりです。
続編…あるかなあ?