怒ってるの?
「あれ、サクじゃん」
一通り買い物を終え膨らんだエコバックを手に食料品店から出てくると、親しげにそう呼ぶ声が聞こえ、櫻子はそちらを見やった。自分を「サク」と呼ぶのは一人だけだ。母や友人たちは「サクラ」と呼ぶ。振り返って見えた顔は、頭に浮かんだものと同じだった。
「ケイちゃん」
とこちらも親しげに返すと、ひょろりと背の高い同年代の青年が嬉しそうに破顔した。手には木版やペンキなどの入った袋を下げており、細身のジーンズのポケットには茶色の財布が突っ込まれていた。
「何、買い物? ま、見れば分かるけど」
ケイちゃんと呼ばれた青年――本名は相模圭治というのだが――は、からかう様にそう言った。
「ケイちゃんこそ、日曜大工? 今度は何作るの?」
「犬小屋。近所のおばさんに頼まれた。どーでもいいけど、無茶苦茶でけぇのそこの犬」
「そりゃたいへんだ」
小さく噴き出す櫻子に、急に怪訝な顔になった圭治が尋ねた。
「なあ、サク。後ろの子、知り合いか?」
問われて振り返れば、むっつりと真一文字に唇を結んだ美少女――アジュールが立っていた。
「わっ!」
と驚く櫻子に対し、アジュールは射殺すような視線を圭治に向けている。圭治はいたたまれなくなり、櫻子の腕を軽く引き、耳を寄せた。
「なあおい、無茶苦茶睨まれてんだけど。なぁ俺、この美少女になんかしたかな?」
「いや、たぶんケイちゃんじゃなくて、私に怒ってるのかも。待たせちゃったのかな」
それくらいしか不機嫌の理由など思い当るはずもなく。櫻子はアジュールに振り返り、その手にある紙袋を一瞥し、
「早いね。全部買えた? 私もちょうど買い終わったところだよ」
「……少し前に買い終わり、あなたを探していたらちょうどお二人を見かけたんです。そちらはご友人ですか?」
冷え冷えとした口調で問われ、圭治はもちろん、櫻子も引いた。
「先ほど『あれ、サクじゃん』という場面から見ていましたが、ずいぶん親しげでしたね。お二人は恋人関係ですか?」
一向に答えようとしない二人に焦れたのか、にっこりと氷の笑みを浮かべるアジュールに、圭治は櫻子を見やり、少し困ったように顎を掻いた。
「あ、いや、恋人っていうんじゃあねぇかな。ちょっと前まではそうだったけど」
躊躇いがちに暴露すれば、櫻子がたしなめる様にきつく睨む。
「ケイちゃん、なにもそこまで言わなくても」
「いや、でもさ。真剣に訊かれたから……」
と言いつつ、櫻子が睨むのをやめないので、悪い悪い、と圭治は苦く笑う。
「――そうですか」
アジュールは静かに頷いた。
「そろそろ行きましょう。私はとてもお腹がすきました」
と言って、圭治が掴んでいるほうの手を解かせ、引っ張っていく。
「あ、あの、ちょっと、」
慌てて引かれるままについていくも、櫻子は圭治を振り返って困ったように笑う。
「ごめん、ケイちゃん。またね」
圭治もまた、同じような表情で手を振った。
さて、この状況をどう打破すればよいか、と櫻子は考える。二人は今、通りすがった喫茶店に向かい合って座っていた。アジュールはメニューを眺めるも、考えているようには見えない。お腹が空いた割には悠長だな、と櫻子は思った。
「あの、決まった? 私は決まったんだけど。何にする?」
「――嫌いで別れたんではないんでしょう?」
「は?」
だしぬけに何を言うのかと思えば、まだ先ほどの話の続きらしい。間抜けな櫻子の顔にため息をつき、アジュールは同じ言葉を繰り返した。
「先ほどの男と、嫌いで別れたのではないのでしょうと訊いたんです」
誤魔化せる視線ではない。とりあえずメニューを閉じて、櫻子は降参だと言わんばかりに頷いた。
「そうだよ。嫌いになったからじゃない。でも、だからって理由を話す理由にはならないよね」
詮索されるのは嫌だった。自然と語気が強くなる。
「……理由など聞く気はありません。嫌いになったわけではない、それだけで十分です」
「そ、そう?」
あっさりと引き下がられ、櫻子は拍子抜けした。
アジュールは再びメニューに視線を落とす。今度はちゃんと見ているようだ。
「――そうですね。この、スペシャルステーキセットをいただきましょう」
言われてみれば、写真の横に「特盛!」と特記してあった。やっぱりお腹空いてたのか、今夜のおかず、あれだけで足りるだろうか。ふと心配になる櫻子だった。
それから数十分ほどでそれぞれ頼んだものが到着し、櫻子の前に置かれたオムライスプレートをじっと見た後、早く食べるように急かす。抵抗する必要性も感じられなかったので、素直に一口食べた。
「美味しいですか?」
とアジュール。まだステーキセットには手を付けていない。
頷けば満足げに笑う美少女に、櫻子は一種気味の悪さを覚えた。食べないのかと尋ねようとしたら、先にフォークに突き刺したステーキを一切れ口の前に運ばれる。怪訝に思って動きを止めると、アジュールはさらに口のそばに近づけてくる。
「あ、あの、何?」
「食べなさい」
「いや、それあなたのだからさ」
少し呆れたように言えば、アジュールはむっとした様子だった。
「ならば、毒見しなさい」
「はあ?」
今おかしな言葉が聞こえたような……?
顔をしかめると、アジュールは有無を言わせず突っ込んでくる。
「あなたは黙ってこれを食べ、そのあとそちらの黄色いものを私に食べさせなさい」
押し付けられたのだから仕方がないとステーキを噛んでいると、さらにおかしなことを言われて櫻子の思考回路が一時停止する。業務命令に似た口調だったが、平たく言えば「はい、あーん」のひどく冷静なバージョンだ。いや、彼の場合は、オムライスが美味しそうに見えたのかもしれない。オムレツサンドも好きだったし……。きっとそうだ、と櫻子は結論付けたが、食べさせあいの理由にはなっていない。
「まあ、いいけど」
ようやく飲み込んでから、承諾した。美少女に食べさせるのだ、それほど抵抗はない。
スプーンに盛って運んでやると、当然のように口を開けて食べるアジュールに、櫻子は少しどきっとさせられた。――まるで給餌しているようだ。まあ、こんな美少女の母親になることはないのだろうけれど。内心で朗らかに笑っていた櫻子は知らなかった。この妙なやり取りが、プレートが空になり、櫻子が満腹でギブアップするまで続けられることなどは。
「……ようやく、かえってきた」
少し遅めの昼ごはんで、非常事態の満腹状態になった櫻子は帰宅した途端冷蔵庫の前に崩れ落ちた。結局アジュールはステーキを一枚も食べなかった。何なんだ、何がしたかったんだ。考えてもわかるはずもない。ギブアップを告げた櫻子に、アジュールは不承不承フォークを置いて言った。
『もう少し太りなさい。どこもここも薄っぺらいのは抱き心地が悪いですよ』
とんでもない有難迷惑だ。そのあたりも問題なく成長するだろう美少女に言われると、やるせない気持ちになった。とんだ精神攻撃も加わったせいか、櫻子は買ったものをのろのろと冷蔵庫に入れていく。
一方のアジュールは見る限り満足げだ。おそらく悪気はないのだろう。小さくため息をついて思考を切り替え、夕食は少なめにしようと決めた櫻子だった。
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