行ってきます
下着から食材まで、とにかく買い物といったらここだ、とはじき出されるのが、櫻子にとっては商店街という素晴らしい場所だ。目の醒めるようなお嬢様然とした美少女を連れ歩くには庶民的だが、商店街を歩くものはすべて運命共同体とでもいおうか、何かしら温かい雰囲気が漂っているこの場所を、櫻子はたいへん気に入っている。
田舎から出てきた櫻子にとっては人と人とのつながりは馴染み深いもので、ホームシックも少し手伝って足しげく通ったものだ。よく利用する店には常連と認識されている。おまけしとくね、ありがとう、なんてやり取りは日常になりつつある。アジュールとの買い物についても、商店街に向かうことは決定事項だった。昨夜伝えるのを忘れていたのだが、特に問題もあるまい、朝食を取りながら話そうと決めた櫻子だった。
窓の外は買い物日和の良い天気で、雲一つない快晴だ。朝食は洋風にオムレツサンドとサラダ、コーンスープにコーヒーである。コーヒーはポットに入れてある。勝手に注げと言外に訴えてみたのだが、特に不満はないようだ。櫻子の行動をまねて自分で注いでいた。
どうやら櫻子の行動を人間界の慣習だと認識しているようで、しばらく観察した後真似ている。どのような意味か尋ねてこないのが彼らしい。いただきますもごちそうさまも、自分なりに理解して行っていた。郷に入れば郷に従えとはいうけれど、ここまで素直に異文化を身に着けようとするアジュールの行動は、櫻子にとって気持ちがいいものだった。“受け入れてもらった”と大仰に表現するものではないだろう。共有できた、とでもいえばいいだろうか。
人間界と魔界。互いは全くの異世界だ。“異国”ならば、この情報化社会の中、イメージするのは難しくない。しかし、魔界は全く予想外だ。もし、自分が魔界に行ったとしたら、と。ありえない考えに思わず笑いが込み上げた。
「何を笑っているんです?」
アジュールの怪訝そうな声に、櫻子は思考の海から浮上した。なんでもないよと返す。
「そうですか。まあそれほど興味もないんですけれどね。笑っていたので」
「ホントに、たいしたことじゃないよ。ありえないことが浮かんだから」
「ありえないこと、とは」
「え、聞きたい?」
「聞きたいというほどではありませんが、人間ががありえないと思うこととはどういうことかと、少し疑問に思っただけのことです。あなたが話したいのならば聞きましょう」
「ありがと、でも別に話すほどのことでもないかな」
「面倒くさい人ですね。私が聞きましょうと譲歩しているんですから、さっさと話せばいいんです」
譲歩ってどういう意味だったかな、と櫻子は疑問に思った。まあとにかく、話せば問題なさそうだ。
「いや、あのね、私が魔界に行ったらどんな反応するんだろうなって、ちょっと考えちゃって」
櫻子の言葉に、アジュールは意外そうな顔をした。
「それがありえないことですか?」
「うん、だって私は異世界に飛ぶっていうのかな、そういう力もないし、普通の人間だから」
「人間が魔界に行く方法はありますよ」
「ふぅん、そうなんだ」
「……行きたいですか?」
「うーん、どうかなあ。行く理由がないし」
「理由が必要ですか?」
必要だろうね、少なくとも私にとっては。
櫻子がそう答えると、それきりアジュールはその話題には触れなかった。もうあと二切れとなったオムレツサンドを一つ取って、
「これはなかなか悪くないですね。明日の朝も同じものが出てきたとしても、私は一向に構いません」
と一口で食べてしまった。残る一つも言わずもがな。二日目にして、この男は遠慮なくたくさん食べるのだと理解した櫻子は、脳内買い物リストに食材をいくつか加えた。
朝食の片づけもあらかた終わり、すでに美少女の姿となってソファで寛いでいるアジュールを一瞥した後、櫻子は自分も出かける準備を始めた。普段から着ていく服に迷うほうではない。ジーンズにTシャツ、その上に薄手のシャツを羽織り、荷物持ちに備えて肩掛けのバックを用意した。化粧はいつもどおり薄めにファンデーションを塗り、チークを叩いた。
「おまたせ」
と声をかけた櫻子を振り返り、アジュールは上から下へと視線を動かして、残念そうなため息をついた。
「地味ですね」
はっきりと感想を述べて立ち上がり、腕を組んで思案する。ファッションに熱心な友人も、いつだったか似たように考え込んでいたのを思いだし、櫻子はげんなりとした。
「ただでさえ地味な顔立ちなのですから、もう少し着飾りなさい」
容赦ないなあ、と櫻子は苦笑する。適当に言い訳を連ねて、ようやくマンションからアジュールを連れ出すことに成功した。
道すがら、すでに行先は決まっていたが、先に説明しておこうと口を開く。一通り説明が終わったところで、
「なるほど、専門店の立ち並ぶ市場ですね。庶民向けの。はたしてそこに私の目にかなうものがあるかは分かりませんが、なにぶん人間界には不慣れですから、しかたがありません。そこでいいですよ」
アジュールは言葉の割には満足げな態度を見せた。物珍しいものが見られるだろうと期待しているのか。冷静沈着頭脳派の見た目を裏切り、なんとも猪突猛進好奇心旺盛坊ちゃまのアジュールに、櫻子は内心嘆息した。“庶民的”というのは彼にとっては否定的な言葉ではなく、“馴染みのない階級の”とでも訳したほうがいいかもしれないな、と櫻子は考えた。少なくとも、アジュールの言葉に悪意はない。ひねくれているが。
とりあえず同意は得られたので、笑顔で「ありがとう」と言っておいた。
商店街に到着し、初めに換金した。探せばあるものである。美少女姿のせいか、男たちの視線を集めるものの、見るからに未成年のアジュールに話しかけるものはない。思わせぶりな視線を向ける男に「失せなさい、ゴミが」と念を込めて微笑み返したのも一因ではある。少し歩いて店を冷やかした後で、アジュールがふと思いついたように言った。
「大体把握しましたので、あなたはどこへなりと好きにしてよいですよ。あとはこちらで好きに動きますから」
勝手な申し出ではあるが、いつもどおり一人で動けるのならば、ありがたい申し出でもある。櫻子は「わかった」と頷き、
「じゃあ私は、生活用品とか買っておくね。歯ブラシとか、そういうの。任せてもらっていい?」
「ええ。特に要望もありませんし。着替えはこちらで見繕ってきますので」
そう言ってふいと踵を返し、紳士服の店へと入っていく。あの恰好で試着はできないだろうに、どうするんだろうと櫻子は疑問に思ったが、アジュールのことだ、どうにかするのだろうと結論付け、雑貨店や食料品店のほうへと足を向けた。
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