ごちそうさま
浴室に戻って髪を乾かした後、櫻子は、さすがにパジャマ姿は失礼だったかと反省して上にカーディガンを羽織った。下のズボンは無地で、一見するとスウェットに見えなくもないから勘弁してもらえるだろうと思い、リビングに戻る。
小学校時代に身なりに厳しい先生がいたが、アジュールの低い声にその記憶が呼び起こされた。気にしていませんとは言っていたが、あの顔は非常に困惑しているようだった。機嫌が悪くなければいいが。うかがいながら近づけば、アジュールはソファに座り、櫻子を一瞥しただけで何も言わなかった。かすかにその耳が赤いのはなぜだろう。もしや怒りで?行き当った考えに櫻子は内心でため息をついた。
「さっきはごめん、いつもどおりにしてたから」
そう言って隣に腰かける。アジュールは盛大なため息をついて視線をそちらに向けた。耳の赤みも引いたようだ。別段表情に変化はない。容赦のない美貌が怪訝そうに歪む。
「全く気にしていません。お好きなように、楽にしなさい。あなたの家なんですからね」
「う、うん。ありがと」
言っていることと表情の食い違いに櫻子は怯んだ。これからは気を付けようと胸に刻んだ。
「髪、きちんと乾かしましたか?」
「あ、うん。私の髪ってそんなに長くないし」
櫻子の髪は肩に届くほどのミディアムストレートだ。邪魔な時は一つにまとめている。一つ付け加えれば、風呂に入るまではずっと髪はまとめられていた。
「…髪を下すと雰囲気が変わりますね」
アジュールの目がすっと細くなり、値踏みするように見つめる。
観察されて居心地の悪い櫻子は、反笑いで首をかしげ、
「そ、そう?」
「変わったところで取り立てて言うほどのことでもないですが」
「はあ」
貶されたのだろうか。怒りよりもなんだか呆れが先だって、間抜けな返事がのんびりと漏れる。何が言いたいのか全く分からない人だな、と櫻子は結論付けた。なんだか面倒くさいから、さっさと明日のことを決めて寝てしまおう。
「それはさておき、明日のことなんだけど」
「明日?ああ、買い物に行くという件ですね」
「そうそう。ちょっとお願いがあるんだけど、明日はその、その姿になる前の、び、いや、女の子の姿になってもらえないかな?」
美少女、と言いかけて慌てて言い直した。櫻子のお願いに、アジュールはとたん眉を寄せる。
「なぜ?」
「なぜって、その容姿はちょっと」
「連れ立って歩くのには不都合ですか」
「そう、そのとおり」
「なぜ」
「なぜって、いや、だからね」
いつの間にか腕組みをして、アジュールはどこか剣呑な雰囲気を漂わせていた。説明しろということらしい。素面で褒めろということか。そうなのか。それほどの美貌を持っているのだから、自覚というものはないのだろうか。まったく。櫻子は開き直って答えた。
「あなたの顔は、一言でいうと、このあたりでは見かけないほどかっこいいの。そんなので買い物なんて行こうものなら、囲まれることはないかもしれないけどいちいち声かけられて面倒になるよ。だったら、女の子姿のほうが断然声かけにくいし、あっちもずいぶん美少女だけど、さすがに未成年には遠慮するだろうから、っていう理由」
どうだわかったか、この悪魔め。とは言わなかったが、してやった感満載の顔でアジュールを見れば、
「……は?」
ぽかん、として瞬きを繰り返すアジュールがいて。
「い、意味わかった?」
「……まあ、ええ。いいでしょう。そういうことなら」
櫻子から視線を外し、アジュールは頷いて了承した。
「よかった。あ、服はある? その、女の子用の」
確か白いワンピースを着ていたが、青年姿になると同時に消えてしまった。櫻子の服を着られないこともないだろうが、着て出かけるには趣味が違うだろう。はてどうするべきかと考えていると、アジュールは「大丈夫です」と答えた。
「あの姿になるときは自動的に服も変わりますから。いうなれば、あの姿に服が付属しているんです。少し魔力を付与すれば違う型にもできますし。まあ、魔力の皮をかぶっていると考えれば分かりやすいと思いますよ」
魔力、の概念がそもそも欠落しているので、櫻子は曖昧に笑って頷くだけだ。それを理解したのだろうと誤解したアジュールは満足げにほほ笑む。テレビ画面越しにイケメンの俳優にウィンクされたときのような、心臓を打ち抜かれたような動機を覚えた櫻子は、さっと立ち上がってそそくさとキッチンに避難した。
「こ、コーヒーでもどう?」
「いいですね」
アジュールは特に不審に思っていない様子。この自然なやり取りで、どうやら魔界にもコーヒーはあるらしいと、どうでもいいことを考える櫻子。ふと近くの棚にクッキーの入った瓶があるのを見て、アジュールの顔を一瞥する。見るからに甘いものは好まない顔をしているが、お茶うけに出してみるか。
コーヒーを淹れて瓶を小脇に抱えて戻る。マグを一つ手渡し、ソファに座って間に瓶を置いた。アジュールの視線は意外なことに瓶にくぎ付けになっている。
「これは?」
「クッキーっていう甘いお菓子」
「食べても?」
「どうぞ」
櫻子が答えるや否や、アジュールはマグを床に置いて瓶を開ける。一つ取出し、口に入れた。サクサクと噛む音が響く中、櫻子も黙って様子をうかがっていた。食べ終わったようで、アジュールの手が再び瓶に伸びる。また一枚。そしてまた一枚と口に放り込み。見かけにも明らかに中身が減ってしまったところで、ようやく櫻子が押し殺したように言った。
「あ、あの、その辺にしておいたら?」
「なぜ」
ぴたりと食べるのをやめて、アジュールは怪訝そうに訊ねた。なぜと聞かれると答えにくい。出しておいて食べすぎだと取り上げるのも変な気がした。相手が子供ならもう駄目よ、明日にしなさいとでも注意すればいいが、目の前の美貌に向かっては言えそうにない。
「こ、コーヒーが冷めるし?」
「……なるほど、それもそうですね。コーヒーもいただかなければ」
意外にあっさりと瓶は手放したが、マグを持ち上げてコーヒーを飲み干すと、また瓶に手が伸びた。これはだめだ、と櫻子は諦めることにした。少なくとも一週間分のおやつにしようと用意したのだが。スナック菓子のように食べられてしまい、なんだか少し悲しい。傷心気味にコーヒーをすすっていると、隣からクッキーを食む音が聞こえなくなった。恐る恐る振り返れば、瓶の中は空っぽになっている。うらめしそうに見つめれば、さすがのアジュールも何かを思ったらしく。
「……ごちそうさまでした?」
それは魔法の言葉じゃないんだけどな。出かけた言葉を飲み込んだ櫻子であった。
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