どっちがいい?
手渡されたスウェットとトレーナーを片手に、アジュールは浴室にいた。着替えるなら浴室で、と言われたからだ。もう随分と長い間一人暮らしをしてきた身ではあるけれども、さすがに人前で着替える趣味はない。ちょっと着替えるから待ってくれと布を腰に巻いただけで応対したどこかの誰かとは違うのに、と若干不機嫌そうに嘆息した。
渡された服ははっきり言って趣味ではなかったが、何の用意もせずに飛び出してきた彼にとってはありがたいものだ。人間用に縫製された品があの女の言ったように自分の身に合うか少々疑いつつ、スーツとシャツを脱いで着替えたが丈は問題なく、すると今度はこの服は誰の持ち物だったのだろうと気になった。足が長いのか、ただ背が高いのか、どちらにしろあの女の服ではないことは確かだ。深く考えるのは下世話か、とそれ以上考えるのをやめたが、気になる気持ちは消せなかった。
浴室から出てリビングに戻ると、櫻子がソファを壁際に押しやって、どこからか出してきたのだろう布団一式を敷こうとしているところだった。もちろん、アジュールが布団を見るのは初めてだ。生まれてこの方ずっとキングサイズのベッドが寝床だった。
「なんです、それ」
問いに振り返った櫻子は、安堵したように笑みを浮かべたあと、「布団だよ」と答えた。怪訝な顔をするアジュールに、寝具だと説明する。
「お客様用布団だから、ちゃんと干してきれいにしてたし、長さもあるから。布団、はじめて?」
アジュールは「初めて見ました」と首を振った。
「そっか、もし寝にくかったらベッド使う?」
言わずもがな、それは櫻子のベッドを指す。他人のベッドに眠れるものか、と内心苦々しく思いながら「いえ、そのフトンとやらで構いませんよ」と答えると、そうかそうか、と櫻子はほっとしたようだ。
「じゃあ、枕が変わると眠れないとかは?」
からかうように聞こえて、アジュールの眉間にしわがよった。許容した覚えはないのに軽々しく領分を越えて肩に触れてきた輩の顔がよぎった。
「ごめん、馬鹿にしたとかじゃなくて。私がそうだから。枕が変わると眠れない」
困ったように笑う櫻子を見て、込みあがった嫌悪感は消えた。
そうだった。この女は驚くほど何も考えていない。心配になるほど裏がない。突然住まわせろといった男を簡単に信じてしまうのだから。
拠点がないのも荷物がないのも本当のことだが、もしも反対の立場だったら女といえども容赦せず、「怪しい」の一言で殺していただろう。悪魔と人間の差か。それともこの女が変なのか。こんな人間ばかりなら、さぞかし人間界は平和なのだろう。
「心配無用です。そもそも快眠を求めることもありませんし」
一人暮らし、とはそういうことだ。熟睡などほど遠い。魔力が補てんできれば十分だと思っている。
「そっか」
頷いた櫻子の横顔に、アジュールは既視感を覚えた。心の中ではまだ何か言いたそうな、諦めたような表情。まだ数時間しか過ごしていないが、櫻子がたびたびそのような表情をすることに気が付いていた。そういうとき、頭は悪くないのだろうなと考えを改めさせられる。櫻子がはたして、自分の領分をわきまえているからか、アジュールのことなど気にならないのか。そのどちらなのかはわからなかったけれども。
甲斐甲斐しくも布団を敷いてから、櫻子は風呂に入ると言って浴室に向かった。
アジュールは壁際に寄せられたソファに座り込み、背をぐっとそらせた。関節の気泡が破裂する。慣れないことをして疲れているらしい。“試験”といったか。人とは面倒なことをするものだ、とアジュールは思った。いや、魔界とてそういう制度がないわけではない。ただ、どちらかといえば知識より魔力量が優先されるので、学んだとて力がなければ何の意味もないのが魔界である。それでもないよりはマシ、知らなければ魔術が使えないということで、学院というものが存在するのだ。
貴族の家に生まれついたアジュールは学院を出ていない。ぼんやりとだが、家庭教師がいた記憶がある。殺したのか、追い出したか。どちらだっただろうかと記憶を探るも、徒労に終わった。同じ空気を吸うことさえ嫌悪したことは覚えている。媚を売るもの、怯えるもの、従わせようとするもの。遠くで飛べばいいものを、目の前で煩く羽音を立てるハエのようだった。
「……」
嫌な記憶を呼び起こしたのか、アジュールの眉間に深いしわが寄る。くだらない毎日だった。誰もかれもが信用できず、たった一人の大事な者も守れなかった最悪な時代。それからずっと一人だった。一人になった、というべきか。
そういえば、と思考は先ほどの食事に移った。全体的に茶色い色合いの食卓だったが、温かく手の込んだ料理だった。何の疑いもなく口に運んでしまう自分が不思議だった。毒見役もいない、数時間前に出会った人間の作った料理に安心した。懐かしい気さえした。そんな自分を彼は妙だと思った。決して悪い意味ではないけれど理由がつかめなくて戸惑うような、そんな感情が湧いたからだ。
本当は、人間の作る料理がどんなものか興味があっただけで、食べるつもりなどなかった。食べずとも魔力で補てんすれば死にはしないし、特に問題はないとアジュールは思っている。現に、魔界にいる時もまともな食事をとってはいない。どんなものか見て、満足して、それから「もう食事は必要ありません」と言うつもりだったのだ。
だが、すべての料理に箸をつけ、出された分を平らげた。沸き起こる食欲に半ば呆れた。同時に、困ったことになった、とも。空になった皿を見て、満たされた食欲に呆然とした。明日からどうして生きていけばいいか一瞬わからなくなったが、魔界へ通じるゲートが開くのはまだ先だと思い出す。要らないと言わない限り、あの女は食事を作るだろう。魔界へ帰った後のことはその時考えればいい。
そんなことを考えていたら、櫻子がちょうど、暇ではないかと話しかけてきた。魔王の妃に相応しい者の条件を述べながら、目の前の櫻子は全くの対象外だと面白がっていた。
この女は陛下に相応しくなどない。容姿は見られないことはない。
だが陛下と並べば吹いて飛ばされるようなものだ。
簡単に他人を信じるし、計略などできまい。
情に流され、正しい判断などできるものか。
刃向うものを切り捨てるどころか、泣いて逃げ出しそうだ。
全体的に小さく華奢で弱そうなことこの上ない。
陛下は弱いものを好まない。
温かい料理が作れたところであの方には必要のないものだ。
この女はだめだ。――この女はだめ。
櫻子とのやり取りを思い出し、アジュールは僅かに口角を上げる。そのとき、浴室のほうから濡れた髪をタオルでごしごし拭きながら、パジャマ姿の櫻子が戻ってきた。アジュールに目を留め、しまったという顔をする。
「あ、ごめん、こんな格好で」
その顔には「そういやこの人いたんだっけ」と書いてある。忘れていたようだ。
さすがのアジュールも驚いたようで、目をぱちぱちとさせてから、我に返って「い、いえ」と歯切れ悪く答えて首を振る。なぜだかわからないが無性に腹が立ってきて、怒りを抑えるためにひっそりと拳を握ってようやく収まった。
「…気にしていません。早く髪を乾かしなさい」
意図したよりずっと低い声が出てきた。櫻子は慌てて浴室のほうに戻っていく。
「…………っ」
姿が見えなくなった瞬間、火を噴いたかのように顔が熱くなった。ずるずると頭がソファの背もたれを滑り、座面に落ちる。
「なんなんです……寝間着姿とか……」
人間って、人間って、と両手で顔を覆って呻くアジュール。耳まで真っ赤なのは免疫がないからだ。いっそ色気を前面に出したような、布とも判断付かないような服ならばこんなことにはならなかったはずだ。それを着るのは仕事なのだから。
「婦女子がなんてはしたない。人間め……」
その声色に怒気はなく、ただただ困ったように呻いている。この時ばかりは、その容赦のない美貌もくずれて見る影もなかった。
1/7 行間に変更を加えました。