幸せになる?
最終話。次回エピローグ予定です。
たった一つ、ほんの少し気になっていただけの言葉が、いやにしつこく、頭の中をリフレインする。
――もう、思い残すことはありません。
カレンダーを見つめ、日付を辿る人差し指の先は、パステルピンクに塗られていた。つるりとした爪先が、やや強めに紙面を削る。ゴシック体で印字された日付は、やや乱暴な筆跡で「×」の烙印が押されていて、その数は今朝、三十を超えた。
友人とくすぐったいような恋愛話に興じたのがついこの間のことに思えて、西宮櫻子はふと思い出し笑いをこぼした。面白いほどに動揺し、赤面し、しどろもどろになってアジュールのことを打ち明けた自分は、ひどく遠い。
「あれから、一カ月、かあ」
海外から帰還したような、生ぬるい空気に包まれたあの日は、すでに過去のものとなっていた。「約束」を強調した少女の温度はすでに薄れてしまって、思い出すことは少し辛さを伴う。故郷を離れたときはこれほどの思いを抱かなかったその理由を、今は考えるのが怖い。
一週間たって、二週間たって、三週間たって。
明日になれば、と自身に言い聞かせる日々が過ぎ、メールも手紙も、思い描いたその姿さえ見えないことに、不安が降り積もっていく。
できるだけ早く会いに来るって、言ったじゃない。
そう口に出しそうになって、慌てて唇を噛んだ。
まだ一カ月だ。ここにはそれ以上の間いたのだから、そう簡単に溜まっていた仕事が片付くわけがない。
それでも、と愚痴を零しそうになる自分が嫌になる。
それでも、連絡の一つくらい、よこしてくれてもいいではないか。
リビングテーブルにふと視線をやって、盛大なため息をつく。片付いたその上には、可愛いからと取っておいたクッキーの缶がひと箱。レトロな蓋を開けると、中には数枚の分厚い封筒が入っている。すでに封の切られたそれらは、赤い蝶の封蝋が押されていて、差出人らしき文字列は読解不可能な文字で構成されていた。決まって淡い桃色の封筒で、甘い林檎の匂いがするそれを送ったのが誰かはすぐに分かった。
くすり、と笑って、櫻子は最初に届いた手紙を手に取った。
――はやる気持ちを押さえられずペンを取ったが、彼女もずいぶん落ち込んだように、まだ文字を知らないのです。貴女に送る初めての手紙の文字を、私に託した彼女は悔しさを押し殺しておりました。このたびの申し出は、彼女が文字を学ぶことにかつてない意欲を見せたことで、すでに成果は出たのではないかと、思っております。いずれ貴女がまたこちらに来て、彼女のとなりで本を読むこともありましょう。そのときは私が用意したこちらの本を、彼女とともに読むことができればよいと、そう思います。
美しい文字の書き手は、どんな顔をしてこれを書いたのだろうと、そう考えるだけで可笑しい。
櫻子はいったん手紙をテーブルに置いて、キッチンに行き、コーヒーを片手に戻ってきた。椅子に腰かけ、再び手紙を手にした。
転移陣を作るための交換条件は、ミエルの家庭教師になることだった。もちろん、魔界のことなどほとんど知らない櫻子に求められているのは、ミエルの遊び相手としての役割である。少女の強い希望があったことは言うまでもなかった。
手紙については、まったく知らされていなかった。
こちらに帰ってきて一週間ほどたって、大学からの帰宅後、テーブルの上に見知らぬ封筒があった。差出人不明の、可愛らしい封筒。それが、ミエルからの初めての手紙だった。
――おそらく、突然現れた謎の封筒に驚かれたことでしょう。この場での詳しい説明は省略します。簡易な術式を使ったもので、彼女が手紙を書きたいと言い出したものですから、急きょこうしてお送りすることになった次第です。
さて、こうして私がペンを取ったのは彼女の代筆の役目を預かったからなのですが、やはり自分の言葉は自分で伝えたいと彼女の希望で、あえて私の言葉で説明を綴っております。きっと貴女は、彼女の近況をお知りになりたいと思いますので、私の言葉でお伝えします。
ただいま、彼女はメイレムに師事し、字の勉強をしております。字の成り立ちについてひどく考えさせられる文字ですが、先日自分の名前が書けるようになったと、喜んでおりました。魔力を込める方法に慣れておらず、おそらく貴女には読解不可能な文字列に見えていることでしょう。表の差出人名は、彼女が書いたものです。
こうして彼の字が読めるのは、彼の書いた字に魔力がこもっているかららしい。こちらから手紙を送るのは無理そうだ、と櫻子は残念に思ったものだ。
――同封した絵も、彼女の描いたものです。独創的というべきか、前衛的というべきか、非常に迷いつつ、どちらも間違いではない気がします。メイレムが上手く聞き出しました。貴女と彼女と、私だそうです。
手紙はそこで終わっている。末尾に書かれた「I」の文字は、手紙に焼き付けられたように黒くはっきりとしていた。
「わたしと、ミエルと、イヴォワールさんか…」
封筒がひどく分厚いのは、ミエルの絵が小さく折りたたまれて同封されていたからだ。すでに見たそれをもう一度開いて、まじまじと見る。イヴォワールが言ったように、人型の何かが描かれているものの、どれが誰だかわからない。色遣いはすでに、人を現すような柔らかなものではなく、原色がちりばめられていた。大きな人型が三つと、後ろに小さく、もう三つ、描かれている。
これ、メイレムさんと、レグリスさんと、アル、だったり、して。
一際小さいのが、アルな気がする。
そんな考えに、思わずくすりと笑みが漏れる。
手紙は、一通目が届いた日から不定期に届き始めた。
――前回の手紙で、彼女は自分の言葉で伝えたいと希望したと書きましたが、現実化はまだ遠いようです。貴女が寂しがるといけないから代わりに何か書いてほしい、と言われ、またこうしてペンをとりました。何かと言われても、私は手紙を書くことに長けているわけではありません。転移陣の製作に手紙に、次から次へと催促されて困っております。I
――すでに三通目となりました。前回は取り留めのない内容で、申し訳ないことをしたと思います。彼女の字も大分上手くなったように思いますが、「欲目ですね」とメイレムに一蹴されました。あの男は世辞という言葉を知らぬようです。彼女としては自信がついてきたようで、これを送ってほしいと、懸命に書いた文字列を差し出してきました。残念ながら、魔力の込め方が甘く、そちらに送っても読むことはできないでしょう。ですから、私が代読いたします。
「みえるがいるよ いつでも、いるよ」
彼女の存在を疑ったことは一度もないので、この文をどう解してよいか、私にはわかりかねますが、貴女ならばわかると彼女は言っていたので、貴女にお任せいたします。I
「ミエルがいるよ、か」
言外に、寂しくないかと問われているような気がして、涙目になる。
彼女からの手紙があるのに、どうしてアジュールからは何も連絡がないのだろうか。イヴォワールが代筆と称して綴るのはミエルのことばかりで、――酷い友達と言われるだろうか、その文面にアジュールの名を探してしまう。
不定期に届く手紙で、魔界とつながっているのだと感じては、ではどうしてアジュールとは繋がっていないのだと、八つ当たりのような気持を抱いてしまう自分が嫌だった。
たった、一カ月。されど、一カ月。
言葉が欲しい。一言でいい、名前を呼んでほしい。
鼻がつんと痛み、唇を噛み、顔を手で覆って俯いた。くしゃ、と手紙を握りしめてしまい、ハッと我に返って、皺の寄った封筒を眉根を寄せて伸ばし始めた。
「ごめん、ミエル、ごめん…」
ぽたりと涙のしずくが落ちて、読解不可能な文字が滲み、黒い波紋が広がった。手紙をたたみ、封筒に押し込んで、缶の中に仕舞い込む。そして、スマートフォンが揺れた。鼻をすすって、振動し続けるそれを掴み、発信者の名前を見て緩く口を開ける。
“実家”
窓の外はすでにうす暗がりに染まっていて、なぜだかふと、母親の「ごはんよ」の声が聞こえた気がした。
「帰ろう、かな」
たしか来週月曜は、教授の出張で講義がなかったはずだから。
情けないことに、今はどうしようもなく、一人が寂しい。
通話、のボタンをタッチすると、開口一番「遅いじゃないの」と懐かしい母の声が聞こえてきた。あんたまだ操作に慣れていないの? どんくさいわねえ、とはきはきした口調が、今はただただくすぐったい。
「うん、ごめん」
謝れば、変な子ねえと返された。そのまま話は、近所のなんとかさんが今度結婚するのだという、世間話に繋がった。あんたはどうなの、誰か好い人いないの? お決まりのセリフが飛び出してきて、いつもなら笑って「いないよ、そんな人」と返すのに、何も言えない。
「今度の週末、そっちにちょっと、帰ろうかな」
母のマシンガンのような言葉を遮って、そう言った。なんなの、どうかしたの、と一拍遅れて母の声がする。
ピンポーンとインターホンが鳴る音が聞こえ、しきりに「ねえ、サクラ、何かあったの?」と訊く声をBGMに、玄関へ向かった。
「何にもないよ、ただちょっと、そっちに帰ってもいいかなって思っただけで、…あ、ちょっと待って、誰か来たみたいだから、このまま」
スマートフォンを耳に当てたまま、ドアを開けて。
「え」
にっこりと笑うその訪問者に、目を丸くする。ちょっとどうしたのサクラ、と母の声が煩い。
「ごめ、ちょっと、お母さん、後でかけなお」
慌てて切ろうとしたのだが、すいとスマートフォンが奪われてしまって。
「え、ちょ」
「はじめまして。櫻子さんのお母様ですか。私、アジュールと申します。家名はスパーダで」
え、何言ってるの。
「いえ、スパーダです。スパゲッティではありません。櫻子さんのお母様ですから、どうぞアジュールとお呼びください。あ、いえ、お母様の名前はお教えいただかなくても大丈夫です。お母様とお呼びいたしますので」
丁寧なのだか分からない口調の訪問者――アジュールは、ちらと櫻子を見やって、何の問題もありません、とばかりに微笑んで見せる。
「いや、あの、待って、アル。何して」
「え? 櫻子さんとの関係? こちらでいうところの“結納”を終えた、愛し合う恋人関係ですね」
その瞬間、電話口と櫻子の口から驚愕の叫びが漏れた。
「は、え、ちょ、」
結納って、なに。
「いえ、こちらの結納とは少し違うとは思うんですが、まか、いえ、私の故郷では婚約の証に花かごを用意する慣習があるんですよ。ええ、櫻子さんはとても喜んでくださって。ええ、そうなんです。愛し合っているんです。お母様にもできるだけ早くご挨拶したいのですが、日取りはいつがよろしいでしょう」
電話口から、しきりに感心したような「はぁ」という母の声が聞こえてきて、櫻子は何だか眩暈がした。
「そうですね。では櫻子さんと相談してから、改めてご連絡いたしますので。ああ、櫻子さんに。はい、今代わります」
再びスマートフォンがわが手に戻ってきて、櫻子は呆けた表情のまま、耳を当てた。
「もし」
お決まりの言葉を言い終わる前に、母の弾丸トークが鼓膜を襲う。
今の人ホントにあんたの恋人なの、すごい声! すごいイイ声! もうお母さんびっくりしちゃったわ。はやく教えてくれたらいいのにホントサクラのいけず。お会いするのがすごく楽しみだわ、新しい服買っちゃおうかしら、ねぇどう思うサクラ。サクラってば!
恐ろしいほどはしゃいでいる母の声に、櫻子はそのまま黙り込み、
「その件はまた後日」
一言だけ言い置いて、電源を落とした。
「楽しいお母様ですね」
ご機嫌なアジュールを見上げ、むくむくといろんな感情が溢れだしてくるのを感じた。とても複雑な感情だ。そしてとても、混乱している。どう収拾を突けたら良いかわからず、上目遣いにじろりと睨みあげていた。
「アルのばか」
連絡をくれないし。
帰ってくるの遅いし。
勝手に電話に出ちゃうし。
笑ってるし。
すべてをひっくるめての、ばか、だった。
アジュールは困ったように笑い、携帯を握ったまま力なくだらりとさせた櫻子の左手を、やんわりと取った。
「一月、長かったです」
櫻子さんに会いたくて、会いたくて、触れたくて。
「愛しています。とても。この一月が、幾千の年月にも感じられるくらいに、櫻子さんが愛しいです」
開いたほうの手が、暗色のコートのポケットへと延びる。櫻子は不細工な膨れっ面を浮かべ、しかしその目は、アジュールの少しやせた顔を切なげに見つめていた。
「じつはこれを作っていて、少し時間がかかってしまったんですが、どうしても必要なものだと、マイースが言っていたので、――受け取って、いただけますね」
断定的に言いながら、アジュールは取り出した小箱を櫻子の前に開いて見せた。
紺色の台に鎮座するのは、シンプルな銀色の指輪。
「え…」
膨れっ面など消え去って、あまりに予想外の出来事に、櫻子の思考は完全に停止した。
「有事に備えてステルス仕様に仕上げて、いくつか術を施しましたが、それは気にしなくても良いのです。ただ、花かごの意味を知らない櫻子さんとは違い、それを贈るという意味を、私はきちんと理解しています」
「え、あの、それって、つまり」
慌てる櫻子の前に、アジュールは静かに片膝をついた。櫻子の手からスマートフォンを受け取ってポケットにしまった。
「こちらでは言い古された言葉だとは聞きましたが、私の気持ちを表すのはこの言葉です」
小箱から指輪を取って、櫻子の手をそっと掴む。
「必ず櫻子さんを幸せにします。私と結婚してください」
美しいターコイズの瞳には、瞠目する自分が映っていて、櫻子は思わずごくりと喉を鳴らした。
こんなのまるで現実じゃない。だけど、指に触れる温かさは本物だ。
自分を見上げるアジュールの顔を見つめ、その優しい眼差しに、酷く入り組んだ感情の糸がほどけていく。
「……アルも、わたしといて、幸せになる?」
「櫻子さんが、私を幸せにする最初で最後の愛しい人です」
「同じだね」
「同じですか」
二人顔を見合わせて、ふふっと小さく噴き出すように笑った。
「わたしも、アルといると、世界で一番幸せになるよ」
だから、返事は、もちろん。
end
長い間お付き合いくださり、本当にありがとうございました。




