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階段で転んだそうだ

「おはようございます。櫻子さん」


「……おはよう、アル」


 覗き込む晴れ晴れとした笑顔、どこからか聞こえてくる鳥の声。カーテンの開けられた窓から差し込む暖かい日の光に、櫻子は呆然とした。肌に心地よい寝具は滑らかで、胸元を覆うその縁を辿っていけば、自分のそれとは大きく違うむき出しの上半身に到達した。とそのとき、腰元で何かが動き、ひやりと触れ、「ぎゃっ」と声を上げたというのに、スススと脇の下の方へと撫で上げた。


「きもちいい、ですか?」


 意地悪く笑う犯人を条件反射で睨みあげ、そのとたん、昨夜の件をまざまざと思いだし、脳内が大人仕様の映画を上映し始めたところで羞恥に真っ赤になった。行きついた答えをぽろりと呟いてしまうような失態はしまい、と思うが。


「ようやく、櫻子さんの全部を、いただきました」


 ご機嫌な恋人にあっさりと言われてしまい、呻くことしかできない。芋虫のように布団の中に潜り込もうとするのをやんわりと止められて、恥ずかしさと不機嫌さをないまぜにした顔に何度も口づけられ、抵抗しても無駄だと脱力した。


「ふふふ、もう思い残すことはありません」


ふと落ちてきた言葉に違和感を覚えたが、容赦のない愛情表現が邪魔をして、うやむやになってしまった。そろりそろりと肌を撫でる手の感触に、昨夜襲った熱がぶり返す。


「ふ、あ」


「さくらこさん、もういちど、いいですか?」


了解を求めるアジュールの声が、熱に浮かされた脳内に、どこか遠く聞こえた。















「サクラ、背中が痛いのか?」


 可愛らしい少女の声の無垢なる問いかけであったが、櫻子を赤面させるに十分な効力があった。

 無意識に腰に触れていたのだろうかと次いで真っ青になる櫻子に、ミエルは不思議そうな顔を、敬愛するイル様――イヴォワールに向けた。すると突き刺さる、痛々しいほどの必死なまなざし。

 頼まれても言うわけがないだろう、と呆れた視線を返しながら、


「階段で転んだそうだ」


あまりにもベタで、適当な理由をねつ造した。


 櫻子は、しきりに心配をよこしてくるミエルの頭を撫でながら、この場にアジュールがいなくてよかったと思う。大人だがどこか子供っぽい恋人が、ミエルにいらぬ誤解を与えないとは限らないからだ。しかしまた一方で、この場に彼がいないことに不安を覚えないでもない。



 そこはイヴォワールの屋敷の一室で、家具も何もないその床には大きな陣が描かれていた。見覚えのあるそれは、僅かな空間の揺れを漂わせ、羽音のようなものを立てている。これでこの屋敷から、人間界まで飛べるのだとイヴォワールは説明した。以前突然現れたときも、これを使用したのだという。


「あの人は、見送りに来ないのか」


少し嬉しそうに、かつ、やや意外そうにミエルが呟いた。あの人、とは言うまでもなくアジュールのことを指している。


「アルは、お仕事なんだって」


 櫻子の講義は二限目から、ということで、朝の戯れを終えてのち、ご機嫌な恋人にイヴォワールの屋敷へと送ってもらった。本音を明かせば出立間際まで一緒にいたかったのだが、昨夜が初夜でした、という雰囲気を醸し出すアジュールとともに二人の前に出るのは憚られた。付け加えて言えば、空港まで見送りに来られると別れる辛さに涙してしまう、それに似た状況に陥ってしまうことも嫌だった。


できるだけ早く会いに行きますからね。


アジュールはそう笑みを浮かべた。大好きです、櫻子さんと、何度も甘く囁いた。


櫻子も笑って、待っていると答えた。何度かキスをして、しっかりと抱擁を交わして――。



「お仕事か。あの人も、たいへんなんだね」


ミエルの声に、意識が現実に戻る。櫻子へのコメントながら、その視線は転移陣の微調整をするイヴォワールの背中に向けられていた。














 最後に覚えているのは、まるで不機嫌そうに唸る転移陣の「ウウウウン」と軋む音だった。もちろん、「またすぐに会えるよね、約束忘れないでね」と抱き着いてきたミエルの温かさも、しっかりと覚えている。


 一度だけ乗ったことのある飛行機のタラップを降りる、その感覚に似た生ぬるい空気が、櫻子の全身を包んだ。


 転移陣がどういう仕組みなのかは分からない。着地点は、恐ろしく精確だ。

 目の前に飛び込んできたのは見慣れた自分の部屋の景色で、魔界という異世界のことなどまるで夢だったのだと思わせるような、当たり前の日常がそこにはあった。


「帰って、きちゃった、し」


 長袖Tシャツとジーンズでちょうどよい、そんな温かさ。午前の日の光が注ぐ部屋の床を素足で踏みつけ、確かめるように親指を動かす。何度も弄ったその場所は、生ぬるくなってしまった。


「静か」


ふと零すと、呪文でもかかったかのように、静けさだけが身に染みた。くるり、と部屋を一周見回して、誰もいないことにほう、と小さく息をつく。


こまったな、もう、会いたい。


あいしている、と何度もうわ言のように言ったあの夜に帰りたい。



「………」


リビングテーブルの上で、ブブブとスマートフォンが揺れる。不意に現実が戻ってくる。


「学校、行こう」


しばらくして思い出す。


あれ、そういえばわたし、玄関の鍵、かけないままあっちにとんだんじゃないの?



 慌てて玄関へ向かって、しっかりと閉じられた鍵に心底安堵した。


 再び戻ってきたリビングで、ようやく時計を確認する。目を剝いて飛び上がり、慌てて準備を始め、着替えのためにと部屋に入り、襟ぐりがやや大きく開いたTシャツを着た。外の景色は、なんだか少し暑そうだったからだ。

 その後、化粧のためにと鏡の前に立って、絶叫が上がった。











「なんでタートルネック」


 大学構内のカフェテラスに人目を避けるようにして座っていた櫻子は、友人の怪訝そうな問いに肩を上げてびくついた。


「あ、な、ナナちゃん…おはよー」


へら、と笑って振り返ると、合わせてにっこりと笑みを浮かべた友人が緩く手を振っている。

 なかなかスタイルの良い彼女は、V字に大きく、抉るように胸元が開いたTシャツを着ていた。つかつかとヒールの音を立てて近づき、向かいの席に腰掛けると、櫻子のやや暑そうなタートルネックをじろじろと凝視し、目を眇めた。


「ベタ、だよね。それ」


にやり、と愉しげに唇を歪める。とたん、馬鹿正直に慌てはじめた櫻子に、絡めた両手の上にトンと顎を置いて、にんまり笑う。



「で、相手はどんなひと?」



詮索を逃れる言い訳など、櫻子の頭には一つも浮かばなかった。


あさちゅん、ベタですよね…


読了ありがとうございました。

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