これにはわけがありまして
こまごまと用意されたものの一つ、きれいに包装されたそれを櫻子はそっと開封した。
「………」
薄い布の塊。――ネグリジェを手に、あてがわれた部屋の中で深いため息を落とした。
話は少し遡る。
雑貨屋で買い物を終えた後、上手くいかない会話のキャッチボールのおかげで、アジュールと櫻子の間に不自然な沈黙が横たわった。櫻子が過剰な反応をするせいで、手を握ることさえできず、何か理由があるのだろうと察していたアジュールも言葉少なくなってしまった。
そんな空気の中、これ以上買い物を楽しもうという気持ちは双方になかったのだろう。日も傾いてきたこともあり、アジュールは櫻子を自邸へ案内した。
「ここです」
「う、わぁ」
重厚な造りの屋敷は、年月を経た厳かな雰囲気に包まれ、扉に設えられた獅子がいかにもそれらしい。それというのは櫻子の中にある脈々と受け継がれてきた“貴族”のイメージで、最上級悪魔たる身分にぴたりと合致した。イヴォワール・ディ・ファルファッラの邸宅が白を基調とした清々しい色彩ならば、こちらはやや地味なアースカラーを基本にしているようだ。屋敷に続く煉瓦造りの小道の両脇には、迷路のように低く整えられた灌木の庭があり、更にその裏手には樹齢数百年ともいえそうな大木が見えた。
「ここの管理はあの大木に任せてあるのです」
「大木…」
その枝はほとんど丸裸で、周囲にあるくすんだ緑さえ纏っていない。
「あそこからでも十分、櫻子さんのことが見えているようです」
「え?」
意味深な一言にアジュールを振り返ったとき、ザアっと一陣の風が吹き、乱れた髪から顔を庇うように手で遮ってしばらく、再び顔を上げて大木の方へと目をやると、訪れた変化に目を剝いた。
枯れた茶色の木肌を、まるでカメラの早回しのように美しい緑色が覆いはじめ、やがてそこから木の芽が吹くと、するすると蔓や枝が伸びて広がった。薄暗がりの曇天をあざ笑うかのような若々しい緑の先に、ちらちらと現れたのは桜色の可愛らしい花だった。
「櫻子さんの色ですね」
するり、とアジュールの手がぽかんとしたままの櫻子の手に触れる。流れるように繋がれてようやく、そちらを見上げ、向けられた優しい微笑みに顔が熱くなった。
「……うん」
きゅ、とつなぎ返して、頷いた。
「……あの、その…変な態度とって、ごめんなさい」
脈略のない言葉だったが、アジュールは特に気にすることなく、少しだけ意外そうに目を丸くして、笑う。
「店主と何を話していたんです?」
「え? あ、その、色々かな」
「色々、といえば。話には聞いていましたが、色んなものを用意するんですね」
「わたしも、驚いたよ」
「店内にはない品も、あの店主のことです。きちんと整えてくれたと思いますよ」
店内にはない品? ちょっとしたお泊りに、一体何が用意されたのか。櫻子には見当もつかない。悪魔だもんね、と言ってしまってよいのかはたして疑問である。
「まさか、家具とか?」
とっさに漏らした一言は、やけに現実味を帯びていた。アジュールならやりそうだ。
そもそも彼は一人暮らしで、つまるところお泊りに必須のお布団、もしくはベッドは彼の物しかない、という可能性も考えられた。ぐるぐると考え込む櫻子を横目に、
「言っておきますが、別々に寝るという選択肢はありませんからね」
しれっとして言う。きっちり三拍ほど開けて、櫻子はようやくその意味を理解し、絶叫した。
「だ、だ、だ、駄目だよ、そ、そんな! も、もしかして、お布団一つしかないとか?!」
「ベッドは客室にいくらでもありますが。そういうことではないですね、この場合」
「いやいやいやいやいや、でもでもでも!」
「なんです。あちらではいつも一緒に寝ていたでしょう。今更なんですか」
今更、とはいうが。今だからだ、と櫻子は動揺も甚だしい。大体、「今さら」という言葉で片付けられるほど、同衾に関してはまだ「慣れ」の域に達していないのだ。
「いや、でも、あの、その…」
ごねる櫻子に、アジュールはスッと目を眇めた。
「店主に何を言われたか。大体想像がついていますが」
「へ?」
「私はいつでも、櫻子さんを抱きたいと思っています」
「え」
「櫻子さんの身も心も、私のものにしたいと、いつも思っています」
やけに真剣なまなざしで言われて、櫻子の頬に朱が浮かぶ。
「う、うん…」
「私のことを意識してくれているのは、よく分かりました。それを察して、私はとてもうれしかったです。でも、それで櫻子さんがいつもの櫻子さんでなくなるのは、寂しいんです。悩んでる櫻子さんよりも、笑っている櫻子さんを見る方が、私は好きですよ」
思わず目を潤ませた櫻子の手をぎゅっと握りしめ、アジュールは空いているほうの手でその頬を撫でた。
「こうして手をつないで、触れて、キスをして、名前を呼んで。その一つ一つが愛しいです、櫻子さん。手を握り返してもらえて、触れることを許されて、求められて、名前を呼ばれることで、私は幸せです。また私の隣に櫻子さんがいることが、とても嬉しいんです」
だから大丈夫ですよ、とアジュールはあやす様に言った。
だいじょうぶ。そうか、大丈夫なのか。
櫻子の心に、嫌にストンとその言葉が落ちた。
「わかりますか?」
「うん」
そう頷けば、髪をそっと撫で、口づけられた。
「櫻子さん、大好きですよ」
そっと背を押され、屋敷に招かれた櫻子は、先に荷解きをするようにと客室らしき一室に案内された。アジュールはどうするのかと尋ねると、にっこりと笑って「自室を少し片付けてきます」と答えた。
自室に「寝室」が含まれているのは暗黙の了解で、またからかわれているのだと分かったが、いつものように不機嫌そうな膨れっ面を浮かべることはできなかった。二人一緒に寝ることは決定事項だ。でもそれはいつものことで。
「……いつものこと、だよね」
ぽつりとつぶやき、部屋の扉を開ける。その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽った。
唖然とするのはこれで何度目か。
「うそ…」
様々な花が美しく整えられた巨大な花かごが、部屋の真ん中に鎮座している。その周囲には店主が選んだ小物が、こまごまと並んでいた。これはまさか、魔界的「ちょっとしたお泊り」の当たり前、なのだろうか。考えてみても答えは出ない。
「これ、なんなの。ホント、すごい…」
花にそれほど頓着しない櫻子でも、これには感動した。
「私も初めて見ましたが、中々いいものですね」
ふとそんな声が聞こえ、振り返ると扉の横にアジュールが立っていた。
「片付けより前に、櫻子さんの反応が見たかったんです」
「あ、あ、あの、ありがとう。すごく嬉しい。びっくりしたし…」
「もともとは、歓迎しますという意味を込めて贈るものだったんですよ。ただ、櫻子さんが喜んでくれるなら、慣習というものも案外悪くはありませんね」
「慣習?」
「ええ、良い香りでしょう?――愛する人に、贈るものなんですよ」
愉快気な一言を置いて、アジュールは「今度こそ部屋を片付けてきますね」と踵を返した。
パタン、と扉が閉まり、取り残された櫻子は呆然と呟く。
「は、んそく、だよ…」
どうして、そんなにも甘いのか。
愛する人。愛する人、なんて言われた。
わたし、つまり、愛されている。
あの人に。あの人に。
誰でもない、アルは、わたしのこと、愛しているんだって。
じわじわと上る熱に、唇が震える。
こまごまとしたうちの一つに手を伸ばす。紙の包装を解くと、中から羞恥を煽るような薄い布の塊――ネグリジェが出てきた。ぎゅっと握りこんで、湧き上がった決意に、内心で拳を握りこむ。
「よし」
やけに勇ましく立ち上がった櫻子は、真っ赤な耳のまま、潔く身にまとっていた服を脱ぎ落した。
自分と住んでいる間留守にしていたはずなのに。
屋敷の中は隅々まで掃除が行き届いていることに、妙な関心を覚えつつ、櫻子は品の良い装飾の廊下をひたひたと素足で歩いていた。つるりとした床板がひやりと冷たいので、つま先立ちの忍び足だ。しんと静まり返った屋内は、否応なしに櫻子の足音を響かせた。目当ての扉が見えてきたが、もうノックができる位置に到達しても、あちらから扉が開くことはなかった。
いやおうなしに、鼓動が早まる。
「………」
ぐ、とこぶしを握り、扉の前に上げて――臆病風に吹かれ、ぎゅっと眉根を寄せた。俯けばやけに白い自分の足が視界に入って、その付け根のあたりをひらひらと泳ぐ服の裾を、居たたまれなさに握りこんだ。
どんびき、されやしないだろうか。
ここまでこんな格好で歩いてきた自分を褒めてやりたい気分だが、ようやく、と言ったところで妙な考えに取りつかれた。ナイスバディ―なお姉さんが着たら、さぞかし似合う代物だが。
わたしって、どうなの。
どうなの、本当に。
これ、ネグリジェって、大丈夫なのか。
そもそもこれ、着てくる必要あった?
着替えなくても、よかったんじゃないの?
そう確信した瞬間、ざっと顔が赤らんで、それからすぐに、青くなった。
帰ろう。いますぐに。
ふわりと揺れたレースがなんだか自分を嘲笑っているようだ。
唇を噛んで、踵を返したが、一歩が出ない。今これ、帰ったら、もう戻ってこられないんじゃないの。そんな予感がした。だけどどうすればいい?
ゆっくりとその場にしゃがみ込み、静かな呻きを漏らし俯くと、潤んだ視界に入ってきた親指がもじもじしているのを見て、落胆に顔を両手で覆い隠す。かちゃ、と音を立てて開いた扉に緩慢な動作で振り向いた。
「なにをして」
静かな声が、途切れ、ハッと息を呑む音が聞こえた。
見上げると、揺らぐ視界に驚いた恋人の顔が映っている。細胞の一つ一つが警鐘を鳴らし、「即時撤退!」と姦しく滾っているが、櫻子はただ唇をへの字にして、涙声の言葉を紡いだ。
「あの、その、これは、そのね」
幼子のような舌足らずなそれと、むき出しの太ももの白さにアジュールは眩暈を覚えた。
ざっくりと開いた胸元、丸く華奢な肩に伸びる鎖骨。柔らかい肌を覆うのは頼りなげな薄布は、甘いレースに縁どられていた。ただ直立不動となり、まじまじとその姿を見下ろした。
「あの、これは、今流行のやつ、らしくて、それで」
「………」
「に、に、似合わないとは、思ったんだけど、勢いで、その」
「……」
「ら、ラベンダーもいいと思ったんだよ。でも、桃色も捨てがたく、って、違う、これにはわけが」
「……」
「……………あ」
「……」
「あ、の、あのね、アル、わたし、ね」
呆然とするばかりで、アジュールは何も言わない。そのことがとても、居たたまれなくさせた。
くたりと完全に床に座り込み、困ったように眉を下げて、途方に暮れたようにその胸の内を告白する。その目は涙に濡れていた。
震える唇が愛を紡ぐ。
「わたしも、アルのこと、愛しているよ」
泣き笑いは不意に伸びた腕の中に消えた。ぽかんとした「え?」と言う声が男の耳元を掠めたが、バタンと扉の閉まる音に、かき消された。
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