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どうしましょう

 音も立てず扉が閉まる。わずか一瞬のことながら、櫻子は視界の端にその光景(シーン)を捉えたが、長い指に頬を取られ、あっという間に視界が切り替わった。とん、と廊下の壁に背中を押され、眼前に迫った怜悧な美貌にはっと息をのむ。瞠目した黒い瞳に、ターコイズブルーの瞳が眇められ、形の良い唇が愉悦に歪む様が映り込んでいた。


「再びこの手に取り戻すことができたとして……」


 どこか感情を押し殺したような掠れ声が、人気のない廊下に静かに落とされた。アジュールは戸惑いの表情を浮かべる櫻子を見下ろしながら、頬に当てた手を首筋に下し、鎖骨をなぞり、華奢な肩を掴む。薄く開かれたままの唇に視線を落とし、引き寄せられるように口づけた。容易に口内へと侵入した舌は吐息を貪るように性急に動き、行き場に迷う櫻子のものを巧みに誘導する。


「ん、…っ」


 口の端から漏れる嬌声は高い音域を途切れ途切れに奏で、苦しげな息遣いとともに静寂の中へと溶けていく。壁に触れた身体が床へとずれ落ち、覆いかぶさるような体勢でアジュールは膝立ちとなった。


「あ…」


 息苦しさと、耳を犯す水音と、ときおり交わす熱い吐息に内から言い知れない熱が湧くのを感じて、櫻子の眦に涙が浮かんだ。ふと顔を上げ、アジュールはその涙を指で拭う。眉根を寄せ、困ったように告げた。


「……櫻子さんが、足りないんです。もっと、名前を呼んでください」


 その声はぞっとするほどの熱を孕んでいた。

 頬を紅潮させ、乞われるままに名を呼ぶ櫻子に、アジュールはふわりと微笑む。 “アル”と形作った唇を柔く食んで、そのまま壁の方へと頭を押して、押し返そうとする両腕を床に縫いとめた。息継ぎの間、くぐもった声が「アル」と呼ぶ。


「櫻子さん、もっと、はっきりと、アルと、呼んで」


唇を解放し、懇願する言葉の合間に、赤みを帯びた耳朶へと口づけを落としていく。熱に浮かされ、まるで泣き言のような呼び声に、満足げに口角を上げた。

 そうして一つ、低く艶のある声で櫻子の耳元に囁きこむ。


「――これより先、あまり私を焦らせないように。心得なさい、櫻子さん」


 紛うことのない悪魔のささやきに、櫻子は息も絶え絶え、「心得ます…」と了解した。


















 ファルファッラの屋敷を後にして、アジュールは櫻子を連れて王都へと転移した。直接彼の屋敷に飛ぶことも可能ではあったが、未だ嫉妬に揺れる自分と恥ずかしそうな櫻子を顧みて、一時王都観光へと舵を取った。薄い長袖Tシャツを着ただけの櫻子にどこからか取り出したコートを着せ、やや明るい色味ながら男物(自分の物)に包まれる櫻子に独占欲が慰められた。


 すでに時刻は夕刻に近づいていたが、二人はまだ昼食らしきものを口にしてはいなかった。それほど空腹ではなかったが、魔界の料理も食べてみたいと言った櫻子を、アジュールはふと目に留まった道沿いの喫茶店に案内した。


「どうかしましたか?」


 橙の光のベールをかぶった店内の奥、数席分用意されたその場所には櫻子とアジュールの二人だけだ。静かなBGMが耳に心地よく、他の客の話し声は遠い。


「え?」


 テーブルの上には空になった皿と、湯気を立ち上らせる紅茶のカップ。アジュールはすでに飲み終えていたが、櫻子は他に気を取られた風でまだ手を付けていなかった。店員が通りすがって御用伺いをするたびに挙動不審になる彼女の様子に、気づいていないわけがない。


「あ、その、えっと…」


 口ごもり、自らの首筋に触れた。辺りを伺いつつ、眉を下げ困った風の表情を見れば、黙っていてもその思考などあっさりと読めてしまうもので、アジュールは思わず小さく笑いをこぼす。とたん、悔しそうな、咎めるような視線が睨みつけてきて、


「大丈夫です。つけていませんから」


ようやくそう教えてやった。

 それよりも…、とテーブルに置かれた紅茶を勧める。櫻子はハッと目を瞬かせ、申し訳なさそうに口をつけた。ふわふわと上る湯気に、「おいしい…」と感嘆のため息が混じる。嬉しげに眼を輝かせ見上げてくる櫻子に、アジュールも満足そうに顔を綻ばせた。


「お茶については、魔界もそう捨てたものではありません。食事に関しては、櫻子さんの料理にはとても敵いませんけれどね」


 彼曰く、魔界の料理とは単純な手順で作られることが多いらしい。出された料理も、素材の味を生かした味付けだった。


「魔力って便利そうだけど、料理には向いていないってなんだか不思議だね。なんでもできそうなのに」


 悪魔にとって料理とは、睡眠と同様に魔力回復の一方法である、とアジュールは説明した。それゆえ、歴史的にみても、味に関する追求はなされず、食物本来の魔力をそのまま摂取するためにはどうすればよいか、という観点で発展し、魔力を持つ者が手を加えれば加えるほど本来の魔力は失われていくため、より簡単な調理法に定着した、ということだった。

 魔力を込めずに料理することは不可能に近いらしく、その点でいえば、悪魔は料理に対してだけ物凄く不器用なのだろう。因みに、お茶に関しては茶葉そのものの魔力値がゼロに近いらしく、淹れる者の魔力に染まる性質ゆえ、独自に開発が進んだらしい。


「お菓子が難しいっていうのはそういうことだったんだ…」


 思わず呟いた言葉に、アジュールが意地悪そうな笑みを浮かべる。


「誰が見ても、あのように手の込んだ料理を悪魔が作ったとは思いませんよ」


「あ、いや、でもね、ミエルも色々と手伝ってくれたし、わたしはミエルの作りたい気持ちにこう、手伝ってあげたいなと思って、でもほら、オーブンとか包丁とか危ないでしょ? それで――」


「分かっています。少し彼女の魔力も感じましたし。……ただ、妬けたんですよ」


 目を伏せ、陶器のような肌に長いまつ毛の影が落ちる。その声には僅かに自嘲の色が滲んでいた。


「あ、あのね。ミエルのことは手伝ってあげたいって思ったけど、作ってあげたいって思ったのは、アルだけだから。食べてほしいなって一番に思うのは、アルだよ」


 中々に恥ずかしい告白だったらしく、櫻子は頬を染め、うろうろと視線を彷徨わせる。アジュールは身を乗り出してその顎を取り、ついばむようなキスを落とした。


「嬉しいです、とても」


眩しそうに目を眇め、愛おしげに頬を撫でる。


「わ、わたしも、その、嬉しかった、かも」


「嬉しい?」


 怪訝そうに訊かれ、躊躇いがちに口を開く。


「そ、その、アルが妬いたって聞いて、ちょっとドキドキした」


その言葉に思わずぽかんと呆気にとられたアジュールを見て、慌てて「ごめん」と繰り返す。


「上手く言えないんだけど、自分のものだって言ってもらえて、無性に嬉しくて、ちょっとびっくりしたけど、ドキドキした」


 彼女自身その気持ちを持て余しているようで、困ったようにほほ笑む。アジュールはまた身を乗り出しかけたが、ふっと目を伏せ、頬から手を下して席に着いた。秀眉を寄せ、盛大なため息をつく。


「困りました…」

「え?」

「櫻子さんは困った人です」

「ご、ごめん、えっと」

「どうしましょうか」

「ど、どうしましょう…?」


 アジュールの言いたいことがつかめず、おろおろするばかりだ。額に手を当てて俯くアジュールの耳が赤く染まっていることに気づくことなく、ウェイターを呼び水を持ってきてもらう。


「あ、アル、お水飲む?」

「大丈夫です。結構です。ご心配なく」


 早口に断られ、水を持った手の行き場がない。


「あ、あの、変なこと言ってごめん。気に障ったのなら」


「謝らないでくださいね。櫻子さんは一つも悪くないんです」


アジュールは眉間のしわを消し去ると、櫻子の言葉を阻み、にっこりと微笑んだ。


「本当は私の方が困った男なんです」

「そんなこと、ないと思うけど…」

「いえ、本当に。きっと、櫻子さんをたくさん困らせます」

「えええ」


何その宣言、と思ったが、真剣な眼差しに気圧され、言葉にはできなかった。


「駄目ですか」


「駄目、っていうか、まあ、ちょっとくらいなら、アルならいいよ」


 そんな風に譲歩した櫻子に、アジュールはまたぐったりと俯いた。


櫻子さんは鈍感です…! とやきもき

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