茶番だな
とっさに動きかけた櫻子の身体を、アジュールは強くその腕の中へと押しとどめる。身をよじって解放を求める櫻子に優しく微笑み、困惑する彼女を措いて、イヴォワールについと視線をやった。
「これより後、あなたの隊の雑務をすべてこちらで請けます。それで転移陣を用意してはいただけませんか」
その提案に、レグリスはぎょっと驚愕の表情を浮かべ、イヴォワールは意外そうに目を眇めた。
「貴方の隊で、か?」
「いえ、私自身が請け負います。そちらの隊の雑務がなければ、あなたの研究もさぞかし捗るはず。悪い話ではないでしょう?」
余裕たっぷりの笑みを浮かべると、レグリスの盛大なため息が聞こえた。
「おいおい、そりゃ本末転倒ってもんだぜ。陣があったとして、いつ人間界に行くつもりだ? そんな時間、いくらおまえでも捻出できるわけねぇだろ。せめて隊の奴らに」
「生憎ですが、私の我が儘にあの者たちを酷使するなど私の矜持が許しません。まあなんとかなるでしょう」
「なんとかって、どうせ寝ないつもりだろ」
図星だったのかしばらく黙りこんだ後、にっこりと綺麗な笑みを張り付けた。
「もう黙りなさい。交渉相手はあなたではなく、イヴォワールです」
傲然と言い放ち再びイヴォワールに向き直ると、ついとその袖を引かれた。視線を落とせば、心配そうな面持ちで櫻子が見上げてくる。
「大丈夫ですよ、櫻子さん。何も問題はありません。困った悪魔には、何もしないで待つよりもこちらのほうが性に合っています。待てない私の我が儘なのですから、心配しなくていいんです」
優しく言われたその言葉に、櫻子は悔しそうに唇を噛んだ。より強く袖を引き、今度はぐいと腕を掴む。突然のその挙動に、アジュールは目を見張った。
「ぜんぶ、嘘だよ。写真じゃ足りないし、一人じゃやだ。一人でなんか待ってられない。寂しいに決まってる。そんな覚悟、一つもない。離れたくない。一緒がいい。……これ以上辛いのが嫌だから、嘘をついた」
ぽつりぽつりと明かされた本音に、アジュールは目を瞬かせる。その目元がうっすらと赤みを帯びた。
「櫻子さん……」
「わたしも、アルと同じ気持ちなんだよ。アルの我が儘は、アルだけのものじゃない。アルが何かするのなら、わたしもできることをするから」
意志の強い眼差しに吸い寄せられるように、アジュールはその目元に軽い口づけを落とした。人前での行為に、強張った櫻子の顔が真っ赤に染まる。
「ちょ、あ、アル、」
わたわたと手を動かし、熱を冷ますように頬を覆った櫻子に、アジュールはふ、と柔らかい笑みを浮かべた。あやす様に櫻子の手に自分のものを重ね、壊れ物のように彼女の頬を包んだ。
「ありがとうございます、櫻子さん。“離れたくない”のは二人の我が儘にしましょう。ですが、もう一つ、困った悪魔には別な我が儘があるんです」
「もう一つ?」
恥ずかしさに目を潤ませ、上目遣いでそう訊いた。熱っぽい色をターコイズブルーの瞳に浮かべ、アジュールはその耳元へと唇を寄せる。甘い吐息が耳朶を掠め、櫻子の心臓は早鐘のごとく脈を打つ。
「大好きな櫻子さんの“懇願”を見るのは、私だけの特権であってほしいんです。だめ、ですか?」
「あ、う、う」
艶のある低い声で囁かれ、脳内に荒々しい警報が鳴り響く。毅然として、「それでもアルだけに無理はさせられない」と言いたいのに、首筋に滑り落ちた指先の温かさに翻弄され、言葉にならない音を漏らすばかりだ。つ、と喉元に触れた爪先に細い悲鳴を上げ、愛おしげに見下ろしてくる瞳に視線を奪われ、まるで束縛の術中に陥ったかのように、甘く懇願を続ける悪魔に捕らわれ身動きできない。
「――茶番だな」
「見てるこっちが恥ずかしいぜ…」
すっかり傍観者となったイヴォワールとレグリスは、盛大なため息をつき、互いに頷き合った。
メイレムにお茶を頼んだミエルが、彼とともに応接間に戻ってきたことで、“茶番”の名を与えられた甘い時間は中断された。執事がお茶を用意する傍ら、悪魔たちと櫻子は先に出されたアップルパイに舌鼓を打つ。“ミエルが作った”と冠することで、和やかなお茶の時間は守られた。
「え、わたしが?」
櫻子は目を丸くし、自らを指差した。
「ああ。アジュールの提示した条件も悪くはないが、生憎と既に条件は用意してあった。そちらが了承すれば、転移陣を用意しよう」
さっくりとしたパイを切り分けながら、イヴォワールは静かにそう説明する。
隣に腰掛けたミエルは身を乗り出し、櫻子の返事に興味津々と待ちわびていた。一人別のテーブルで給仕を受けるレグリスは、アップルパイの美味しさに夢中の様子である。
ふとアジュールを顧みれば、パイを一口食べ、にっこりと微笑んできた。
「櫻子さんのお手製とよく似ていますね。教える者の腕が良いと、出来栄えは格別です」
表情から見るになんの含みもなさそうだが、言葉にはやや棘があった。
「そ、そう、よかった、あはは。じゃあその、ゆっくり楽しんで――」
「――それで、要求を呑むのですか?」
普段より増して早口な問いに、一瞬その場がしんと静まり返る。顔は笑っているが、その瞳は笑っていなかった。とたんに強張ってしまった櫻子の顔を見て、ばつが悪そうに視線を逸らす。その眉間には深いしわが刻まれていた。
「……すみません。ただの、つまらない矜持です」
「男の、な」
とレグリスが笑いをこらえつつ、付け加えた。弧を描いたその唇にはパイの欠片がついている。
「……レグリス」
ちょうど沸点の低くなっていたアジュールは、おどろおどろしい声でそう呟くと、空になった皿を置いてレグリスのほうへと行ってしまった。アップルパイを持って部屋の中を走り続ける男を「それはやはり私のものです!」と追いかけまわしている。
「あの人、ホントにアップルパイが好きなんだ。イル様、取られちゃわないうちに食べてね」
ミエルの屈託のない一言にイヴォワールは何かを言いかけたが、黙って残りを平らげた。ジッと見つめるミエルの顔はとても嬉しそうだ。自然と頬を緩ませた櫻子は、天気の話でもするように、穏やかな口調で言った。
「さっきの話、お願いしてもいいですか」
イヴォワールは皿から視線を上げた。ミエルはキラキラと目を輝かせ、破顔する。
「ホント? ホントにいいの?」
「もちろん、むしろお礼はこっちがしなきゃいけないんじゃないかと思うほどだよ」
そもそもイヴォワールから提示された条件は、条件と呼べるかどうかも怪しい、櫻子にとって何の不都合もないものだった。断るわけがない。
「やったー! イル様、イル様、いつ完成する?」
腕に取り縋って可愛らしく尋ねてくるミエルに、イヴォワールはややたじろいだ。
「まだ取り掛かってもいないが…」
「早くできるといいなあ」
「……努力はしよう」
「わーい! イル様大好き!」
そのやり取りに、櫻子は二人の力関係が何たるかを見た気がした。
「あ、あの、よろしくお願いします」
「……アジュールの機嫌取りは貴女に任せる。あちらに帰るのは明日で構わないか」
「あ、はい。送ってくれるんですか?」
「無論だ」
イヴォワールはそう言うと、すっくとその場に立ち上がる。長い指先が彼を見上げる櫻子の頬を撫で、口元までをゆっくりとなぞった。
「あの男は、幸福だな」
相変わらずの硬い表情ではあったが、目元は柔く緩み、形の良い唇はゆるりと弧を描く。それらと相まって、耳に届いた甘い声色に、櫻子は怖いほどの動悸がした。その様子をどう思ったのか、イヴォワールはふ、と笑みをこぼすと、コートを翻して応接間を出て行った。
「サクラ、サクラ。イル様とアジュール、どっちがカッコいい?」
にじり寄ったミエルは、どこか悪戯っぽく櫻子の耳に囁いた。赤面し黙り込んだままの櫻子をよそに、“イル様のカッコいい所”を指折り数えはじめる。
「うう…、悪魔め」
ようやく凪いだ心を簡単に、それもあっという間に波立たせた美貌の主に、人知れず精一杯の悪態をつく。恋情を抱くほどに時めいたわけではないが、人外の美貌はやはり心臓に悪かった。
「サクラ? ちゃんと聞いてた?」
「え? あ、ごめん。イル様のカッコいい所、だっけ?」
ミエルの言葉をそのまま借用しただけなのだが、間の悪い一言だった。
「――“イル様”とは、誰のことですか? 櫻子さん」
冷え冷えとした声が聞こえ、ソファの背もたれ越しに振り返ってみれば、嫣然とした笑みを浮かべたアジュールが立っていた。予想どおり、目は少しも笑っていない。その後方では、レグリスが愉しげに笑っていた。
「あ、アル、その、えーと」
ようやく気付く。イル様はイヴォワールの愛称なのだから、そのまま繰り返してはいけなかったのだ、と。
「やー、今のはアウトだな、サクラちゃん」
「今のあなたの呼び方も、本来ならばアウトですよ、レグリス。しかしまあ、あなたへの仕置きは後回しでも構いません。大して面白いことでもありませんしね」
「ありがとう、とでも言うべきか?」
苦笑交じりの言葉を、アジュールは黙殺した。櫻子に向き直り、ゆっくりと手を差し出す。
「どうやらもうここには用がないようですね。さてそろそろお暇しますよ、櫻子さん。迎えは明日になったようですし、今夜は私の屋敷に泊りなさい。分かりましたね?」
「わ、わかります」
「さすが私の櫻子さんです」
そう言って、アジュールは緊張に張りつめた櫻子の背中に手を当てた。ゆっくりと押してやれば、櫻子はぎこちない挙動で出口に向かって歩き出す。
「ではお二人とも、ごきげんよう」
一人振り返ったその顔は、少しも笑ってはいなかった。
「……あの人、怖いね」
ミエルが怯えた顔をレグリスに向けた。
「嫉妬ってやつだ。覚えとけ」
2/8 表現の一部を修正しました




