できません
思いのたけを告白した。
返ってきたのは言葉ではなく、溺れるほどの口づけだった。
衝動的といっていい口づけに一瞬目を見張ったが、櫻子はやがて陶酔するように目を閉じた。髪の間を撫でる左手も、頭をしっかと掴み耳朶を撫でる右手も、その指先は冷たく、触れられるたびにぞくりと肌が粟立った。どこか見知らぬ場所に行かぬよう、高い位置にある肩を縋るように掻き抱いた。
「ん…」
唇から漏れる吐息は誰のものか。
熱に浮かされた頭が自分のものだと理解したが、喘ぎのようなそれに否応なしに高められる自分に気づき、櫻子の頬が赤く上気する。
瞼と頬、それから甘く濡れた唇を追って撫でるようについばむ唇は果たして誰のものか。愛撫に酔った頭でも、はっきりと分かる。途切れ途切れ、低い吐息で鼓膜を震わせ、微かなリップ音を響かせ、“彼”は熱い熱を首筋へ押し当てた。
「――さくらこさん、」
「な、な、に?」
蕩けるような声で呼ばれ、櫻子はふと動きを止めたアジュールを潤んだ瞳で見上げた。
視線を絡ませること数秒、軽く肩を上下させる櫻子に、アジュールは言いかけた言葉を無理やり飲み込み、やや困った顔で笑った。
「いえ、私も櫻子さんが大好きです。どうしようもなく、好きです」
余りに嬉しくて、少し暴走してしまいました。
そう付け加えたアジュールの笑みが眩しくて、櫻子は目を細め、一層頬を赤らめる。
「櫻子さんを諦めるつもりは少しもなかったんですよ。すぐに人間界に帰って、考え直してもらえるよう懇願するつもりでした。だから、櫻子さんのさきほどの言葉、とても嬉しかったです。私は、櫻子さんと出会う前の私など、思い出せそうにありませんからね」
言って、悪戯っぽく笑い、櫻子のこめかみにキスを落とす。
くすぐったそうに身をよじった櫻子は、ややトーンを落とし、縋るような視線を向けた。
「……こっちに、帰ってこられるの?」
なんとなくだが、それは難しいことなのだろうと櫻子は察していた。行き来に問題なければ、部下の人がわざわざ説得を頼みに来る事態にはならなかっただろう。一度帰って、またすぐ来ればいいのだから。
アジュールの表情がたちまち曇り、秀眉がぐっと顰められた。
「……それは、現状では難しいです。許可を得ようと動いているのですが、すぐに魔界を離れることはそう簡単には叶わないでしょう」
予想通りの実情に、櫻子も辛そうに表情を歪めて俯いたが、駄々をこねる訳にはいかないと自分を諌めた。
気持ちがまた通じ合っただけで十分ではないか。謝ることもできた。
好きだと言ってもらえたし、自分の気持ちも伝えた。
その事実さえあれば、一人の夜もきっと怖くないはずだ。悪夢にうなされることもないはずだ。寂しいのはきっと同じ。きっと我慢できる。いや、出来ないと怯えることなど許されない。
――つんと鼻に痛みが走ったが、ぐっと堪えた。
「櫻子さん、何を考えているんです?」
怪訝そうな声に、櫻子は視線を彷徨わせた後、顔を上げた。
「……アルが帰っちゃう前、わたしが言ったこと、覚えてる? 離れても、お互い頑張ろうって言ったよね」
「……ええ」
櫻子の言葉に当惑しつつ、アジュールは頷いた。
「わたし、ずっと待てるよ。アルがこっちに来られる日まで、きっと我慢できる。いつか来られるよね? それだけ約束して。それと、来られる日が決まったら連絡がほしいな」
明るい笑顔を張り付ける櫻子を、アジュールは痛ましげに見つめた。直視できず、櫻子は視線を強引に外す。
「それだけ、ですか?」
「あとは、帰る前にぎゅってしてほしいかも。アルを充電しないとね」
「…それだけで足りますか?」
「あとは、えっと、その、写真があったら、ほしい。アルの、笑ったのがいいな。できればたくさんほしい。一緒のも撮りたい…けど、やっぱりそれはいらないかも。写真の中の自分が羨ましくなったら困るし。なーんて、あはは、ホント、それは困るよねー…」
ぎこちない笑い声が止み、厨房は怖いほどの静けさに包まれた。黙ったままのアジュールと、櫻子は目を合わせることができなかった。沈黙を破ろうと何か言おうとしても、喉が嫌に乾いて言葉が出ない。
嫌だ、と内なる誰かが悲痛に叫んだ。
嘘をつくなと声を上げる。
縋れと泣きわめく。
「櫻子さんは、ひどいです」
内なる声の叫びに苛まれる櫻子にとって、アジュールのその一言は止めだった。
そうだ、“わたし”は酷い。自分に嘘をついただけでなく、笑ってアルに嘘を告げた。だからといって、どう振る舞うのが正解なのか分かるはずもない。
怯えたように見上げた櫻子に、アジュールはひどく冷たい声で言いつのる。
「私は、写真なんていりませんよ。一枚だって欲しくない。そんなものに愛を囁いて、会いたいと泣いてすがって、触れられもしない現実を嘆くなんてまっぴらごめんです」
「で、でも」
「何度でも言います。そんなもの櫻子さんの代わりに成り得ません。櫻子さんの温かさを感じて、笑顔に触れて、抱き寄せてキスをして、名前を呼ばなければ、私はとうてい生きていけません。我慢など、強いられたってできません!」
一気に吐き出して、アジュールは唇を噛み、喘ぐように訴えた。
「私は、悪魔です。独占欲の強い、困った悪魔です。お願いされたって、櫻子さんのように物分かりの良い人間にはなれません!」
子供の様に駄々をこね、偽りのない気持ちを吐露したアジュールに、櫻子はただただぽかんと口を開けて呆けていた。拗ねたように睨みつけてくるターコイズブルーの瞳は僅かに潤んでいる。
なぜだか急に、櫻子は笑い出したくなった。実際に毀れたのは、大粒の涙だったけれども。
この人が好きだ、と櫻子は思い知った。
今この瞬間、愛しいと言う気持ちが何かを知った気さえした。
「我が儘だとは分かっていますよ、分かっています。でも、どうしようもないんです。どうしたらいいですか。どうしたらそんな風に考えられますか」
声も上げず泣き続ける櫻子の頬を指で拭いながら、アジュールは困ったような笑みを浮かべ、何度も何度もそう尋ねた。その声に冷たい響きはなく、ただ甘く懇願するように問いを繰り返す。
櫻子は何も答えることができなかった。ただアジュールの胸に飛び込み、ぐずぐずと泣き続けるだけだ。どれだけ泣けばすべて思い通りになるのだろう。一生分泣けば、どんな我が儘も叶うのだろうか。その答えも、わからない。
「あー、彼女のために答えれば、だな。アジュール、おまえには逆立ちしたって無理だろっつー話だ」
どれだけそうしていたのか、突然かけられた声に、アジュールはハッと振り返り、櫻子は驚きに目を見開く。
厨房の入口に、声の主――レグリス・ディ・レオーネが気だるげにもたれかかっていた。だれ?とでも言いたげな視線を向ける櫻子に対し、アジュールは安心させるように一つ頷いて、レグリスをきつく睨みつける。
「……レグリス、あなたいつからそこに?」
「いつからっていう具体的な質問は、あれだ、彼女の精神的平和のためにもあれだろ、黙っとくべきだろ」
その答えが何を意味するのか、分からない二人ではない。アジュールは盛大なため息をつき、櫻子はカアッと顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯いてしまった。
「今すぐに忘れなさい。出来ないと言うのなら、その鬱陶しい頭ごと吹っ飛ばして差し上げても一向に構いませんよ。それと、櫻子さんを見ないでください」
「おいおいなんつー独占欲。まあ、彼女に免じて忘れてやるけどな。っていうか一言言わせてくれ。彼女さん、あれだ、独占欲の強すぎる困った悪魔はその男だけだぜ。全悪魔がそういうわけじゃねぇから、そこのところ誤解しないでくれよ」
「櫻子さんを見ないでください!」
「すぐこれだ。まったく困ったもんだなあホント。減るもんじゃねぇだろうが。なあ?」
とレグリスは櫻子に同意を求める。
減るものではないだろうが、アジュールの機嫌は確実に悪くなるのでやめてほしい。驚きに涙も引っ込んだ櫻子は、今はただ切実にそう思う。
「ていうかアジュール、おまえはもっと、そこの彼女さんみたいに大人になれ。おまえが来るまで待てるっていじらしいほどの健気さを見習え。対するおまえは、できません、できませんってまあ、少しは譲歩しろってなあ? 彼女さんもそう思うだろ? なんでまああんたみたいな子がこいつを好きになったのか分からねぇが、騙されてるわけじゃなさそうだからまあいいとして、だな。あ、そうだ。今更だが、俺はレグリスだ。レグリス・ディ・レオーネ。そこの我が儘坊ちゃんの同僚だ。彼女さんは確か、西宮櫻子だったな。なーんか長ったらしいんで、さて、なんと呼べば」
「レグリス」
思わず一歩出て自己紹介をしかけた櫻子を自分の背に隠し、アジュールはレグリスを睨みつける。
「いいじゃねぇか、ちょーっと仲良くしたってよ」
へらり、と悪びれる風もなく、レグリスは櫻子に笑って見せる。櫻子がそろりと視線を上げて伺いを立ててきたので、アジュールは不承不承頷いてやった。
「はじめまして、西宮櫻子です。その、みんなサクラと呼んでくれるので、良ければサクラと。“櫻子”は、えっと、アルだけの呼び方なので……」
最後の一言で、アジュールの機嫌は見る見るうちに良くなった。照れた風の櫻子が駄目押しでちらと見やると、満足げな笑みを浮かべるまでに回復する。
その変わりようにぽかんと呆けたレグリスであったが、仕方がねぇなぁと言わんばかり、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。
今回の更新をもって、一時こちらの更新をお休みします。
2014/0322 誤字修正しました




