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好きだよ

 託を携えた魔鳥が虚空へと消えたのを確認するや、ファルファッラ家執事―メイレム・ノーノは屋敷へと踵を返した。


『アジュール・ディ・スパーダに託を。西宮櫻子が見つかった、と書けば分かる』


 主はそう言って、足早に厨房に向かった。その背を見送って、なるほど人間である櫻子が魔界にいたのはそういう事情か、とメイレムは察した。


 魔王陛下の側近の任は現在のところ――ファルファッラ家、スパーダ家、レオーネ家の領主が拝命している。スパーダ領主が人間界に渡ったという話はメイレムの耳にも入っていた。櫻子のいう“ひょんなことから知り合った悪魔”とスパーダ領主は同一人物だろう。“友人らしき男”――つまり、櫻子を魔界へと連れ去った者が誰かなど、火を見るより明らかだ。異界の門を通らず、他者を伴に移転魔術を展開できるのはイヴォワールしかいない。



「困りましたね……」


 “友人であるサクラ”を置き去りにした人物に対して、ミエルの抱いた感情は好ましいものではない。お嬢様には知られてはいけない、とメイレムは冷静に判断した。

 なぜイヴォワールが櫻子を連れ去ったか、と疑問は浮かんだが、スパーダ領主が一時帰還したらしいと知った今、大体の予想はついた。


「ふむ…」


 ミエルのことを可愛いと言って笑った櫻子の顔を思い出し、メイレムは困ったように苦笑する。ミエル(お嬢様)と並んでも遜色ない、暖かみのある笑みだった。二人並んだ様子は仲の良い姉妹のようで、若い母親と娘のようにも見えた。優しい眼差しに、愛くるしい笑みが応える。目を閉じればまだ、幸せに満ちた場面(シーン)が瞼の裏に浮かび上がった。


「……ただの人間ならば、ここに留め置くこともできたでしょうに」


 困りました、と執事は薄く笑った。迎えはじきにやってくるのだろう。屋敷へと続く石造りの道を歩き、開け放たれた扉をくぐり、メイレムは数歩歩いた玄関間の中央で足を止めた。音こそ聞こえなかったが、扉の外でバチンと空気のはじける音がした。石造りの道を蹴る音が近づいてくる。

 メイレムは踵を返し、じっと前を見据えたのち、最敬礼をとった。


「ようこそいらっしゃいました。主は厨房にてお待ちでございます」


 ご案内を、と顔を上げたときにはもう、そこには誰もいなかった。








***


 転移魔術が苦手っス、と泣き言を漏らした部下を置き去りにして、アジュール・ディ・スパーダは単身、ファルファッラ領主の屋敷の扉をくぐった。案内を申し出た執事には一瞥をくれただけで、勝手知ったる他人(ひと)の家とばかりに奥へ進んでいく。

 漂う甘い香りはどこか懐かしく――この先に求める人がいるのだ、と鼓動が早まった。いっそ厨房まで飛べたら、と気が急いて仕方がない。コートの裾が慌ただしくはためく。廊下を叩く靴音がやけに響いて聞こえた。


 領主らの私室とは反対の方向へ廊下を曲がれば、香ばしくも甘い香りがぐんと強くなった。なにやら少女のはしゃいだような声が聞こえ、自然と耳を傾ければ、頷き返すのは無愛想な同僚の声だった。何より聞きたかった声が聞こえてこないことを怪訝に思い、また焦りも募る。実際には数分と掛かっていないが、千里の道のりとも思えた厨房にたどり着き、中を覗きこんですぐ、アジュールはわが目を疑った。


「……イヴォワール(あなた)、櫻子さんに何をさせているんです?」


 ちょうど、ファルファッラ領主―イヴォワールのカップに、櫻子が二杯目の紅茶を注いでいるところだった。ほぼ無意識にその全身に視線を走らせ無事を確認したが、安堵の息をつく余裕など湧いてくるはずもない。アジュールの登場に目を瞬かせ、さっと青ざめた櫻子に気づかなかったほどだ。

 並みの悪魔なら悲鳴を上げて椅子から転げ落ちそうな視線と声色で問われたにもかかわらず、イヴォワールはついとアジュールに視線をくれて、淡々と答える。


「給仕だ」


 見れば分かる、と冷静に指摘するほどの冷静さなどあるわけもなく、アジュールの全身が瞬時に青白い炎に包まれた。比喩ではない。怒りで魔力が漏れ出て、炎のように空気を染め上げ、揺らしたのだ。


「い、イルさま、どうしてこの人怒ってるの…?」


 突然現れた見知らぬ者(アジュール)に、ミエルはイヴォワールの服――ではなく、櫻子のエプロンの裾を掴み、その背後へと隠れた。イヴォワールが僅かに目を見張り顔を顰める。櫻子は真っ青な顔でアジュールを見つめ、声を掛けようと口をパクパクさせていた。


「さあ、私にはわからない」


イヴォワールは目を伏せ、興味なさそうに答えてやった。


「櫻子さんの手ずからお茶を淹れていただくなど言語道断! それになんですか、その美味しそうなアップルパイは! 思わせぶりに襟元にパイの欠片をつけて! 美味しい美味しいと舌鼓を打っていたんでしょう!」


 厨房の調理台には紅茶カップの受け皿(ソーサー)と、食べかけのアップルパイが置いてあった。イヴォワールの正面に置かれたそれらが誰のものであるかは一目瞭然だ。

 ずびし、と指差しで糾弾され、イヴォワールはミエルに向き直る。ミエルは襟についた欠片をさっと払ってやってから、へらりと笑った。イヴォワールも心なしか満足げだ。

 ほのぼのとした二人の様子に、アジュールは高まった怒りを萎ませ、悄然として俯いた。


――それは私だけの、……私だけの特権だった(・・・)のに。


 櫻子の無事を喜ぶ機会は再度失われてしまった。かつて我が物にしていた櫻子の独り占め(自分だけの特権)は、別れを告げられた現実の下、自分の手から奪われてしまった。誰にお茶を淹れようが、誰に手製のお菓子を振る舞おうが、櫻子の自由だ。自分が駄々をこねていい理由は一つとしてない。


「っ……」


 正論を自分に言い聞かせても、荒狂う感情を御するには何の役にも立たなかった。しかし、ぐっと拳を握りこんで押さえつけ、冷静になろうと努める。諦めるつもりは毛頭ない。今回の一件で思い知ったのは、櫻子なしでは生きていけないという現実だった。


 ここまでくる間、周りからは滑稽なほど狼狽えていたことだろう。

 櫻子をさらったと言った賊が真実を吐いた途端、この男を嬲り殺さずにさえいればすぐにでも櫻子に会えるという期待を打ち砕かれ、心は絶望の闇に染められた。


 ――ここでなければ、櫻子さんはどこにいるのか。


 恐ろしい考えばかりが浮かび、意味のない八つ当たりをし、過去の自分を罵り、これらはすべて自分の短慮が原因だと責めるアジュールに、ファルファッラ家執事からの託は、その場に崩れ落ちるほどの安堵をもたらした。


――櫻子さんは無事


 潤む視界の中紙片を何度も読み返し、涙を堪えようと震える歯を噛みしめたそのときは、その事実だけで本当に幸せだった。ところがどうだ。その無事を自らの目で確かめた途端、別の昏い喜びを満たそうとしている自分がいる。アジュールは自嘲に肩を震わせた。


「サクラ?」


 そんなアジュールの耳に、ミエルの驚きに満ちた声が飛び込んできた。ふと顔を上げてそちらを見れば、櫻子がその目から大粒の涙をこぼしていた。散々我慢して声を押し殺していたのだろう。目元は赤く、食いしばった唇は血が滲んでいる。ミエルが動揺も露わに何度も櫻子を呼ぶ。さすがのイヴォワールも怪訝そうに顔を顰め、かける言葉を考えあぐねているように見えた。


「サクラ、サクラ、どうしたの? 何が悲しいの?」


 ミエルの問いに、櫻子はぐずぐずと鼻をすすり、「なんでもないよ」と涙声で答えた。それを鵜呑みにする者などいるはずもない。どうみたって強がりだ。

 ミエルはしばらく櫻子を見つめ、何かを思いついたのだろう、未だ厨房の入口に立ち尽くしたままのアジュールを振り返り、きつい視線で睨みつけた。


「あなたのせいだ! サクラはあなたが来るまで笑ってたよ! あなたが来て怒鳴ったから、サクラ怖くて泣いちゃったんだ!」


「私は櫻子さんに怒ったわけではありません」


 やや困惑気味に宥めるように答えたが、怒りに燃えた美少女の感情を逆なでするだけだった。ミエルはアジュールの下へと走り寄り、どんっと厨房の外へと押し出した。


「出てってよ! サクラを泣かせる人なんてきらい! ほら、早く出てってよ!」


 本気で噛みついてきた少女に確実に外へと追いやられながら、アジュールはやんわりと押し返しつつ、櫻子に視線を走らせる。その顔には確かに、待ち焦がれた笑顔はない。


「ち、違う、違うよ、ミエル。その人(・・・)は、全然悪くない」

「さくらこ、さん?」


 一瞬で絶望的な表情となったアジュールなど放置し、ミエルはホッとしたように櫻子に駆け寄った。


「サクラ、ホントに?」


 しゃくりあげながらも、櫻子は頷き返す。しばらくして涙で濡れた目元を指で拭うと、ニッと笑って見せた。すでに傍観者と化していたイヴォワールは、やれやれと言った風に小さくため息をついた。


「だったら、あの人は誰? イル様のお友達じゃないみたいだけど」


 ミエルの質問に、「あの人(・・・)はね」と口を開いた櫻子だったが、ひどく悲しげなアジュールの呼び声に阻まれてしまった。


「櫻子さんの気持ちは、よく分かりました。あのときあの場に留まり、どういう意味かと確かめなくてよかったです。あのとき聞いていたら、私は口に出すのもおぞましい事態を引き起こしていたかもしれません」


 その言葉に、櫻子はハッとして言葉を割り込ませる。


「待って、あれは、わたし、謝らないといけなくて」

「いえ、もしも簡潔な言葉で示されなかったら、より長くあの場に留まっていたことでしょう」

「ち、違うの! そうじゃなくて!」


 焦って言葉を募る櫻子だが、悟りを開いたような落ち着きを纏ったアジュールは、にっこりと綺麗な笑みを張り付け、「良いのです」と首を振るだけだ。


「櫻子さんが謝ることはありません。あれでよかったのです」


 決め台詞のように言い切れば、櫻子は俯いてしまった。華奢な肩が震えるのを見て、傷ついた自分を慰めようとしたのだろう、優しい人だ、とアジュールは的外れな感想を抱いたが、すぐにその考えは覆された。


「アルの馬鹿! 違うって言ってるのに!」


 そう叫んだ櫻子の目には、再び大粒の涙がたまっていた。


「やっぱりあなたが泣かせた!」


 ミエルがまたアジュールを睨みつけるが、「アル」と呼ばれたことへの幸福感でまるで聞こえていなかった。


「さ、櫻子さん? 今その、私をアルと呼んで」


 おずおずと問いかけるが、櫻子は「アルの馬鹿!」と泣きわめくだけだ。ミエルは徐々に距離を詰めてくるアジュールを威嚇し、「出てってよ!」とヒステリックに叫ぶ。

 イヴォワールは盛大なため息をつき、キャンキャン吠えるミエルを櫻子から引き離し、アジュールに目配せして厨房を出て行った。


「せっかく、せっかく謝れると思ったのに! なのに、アル、ぜんぜん話聞いてくれなくて!」


 酷くしゃくりあげながら、櫻子はアジュールの胸をポカポカと叩く。

 泣きながら怒っている櫻子に、アジュールは不謹慎ながら、言い表しようのない愛しさがこみ上げてくるのを感じた。


「櫻子さん、すみません。話を聞かない私は本当にいけませんね」


「そう! アルは話聞かない! アルはひどい! …勝手に帰っちゃうし、どうしたらいいのかわかんないし、やっと会えたのに、あの人と話してばっかりだし、わたしのほうはぜんぜん見てくれないし…!」


 文句を言いながら、櫻子は愛しい愛しいと彼を呼ぶ。人間である櫻子がそう意図していないと分かっていても、アジュールはともすれば涙が出るほどに嬉しかった。

 そっと肩を掴まれ、櫻子は叩く手を止め、濡れた目で見上げ、自分の醜態に気が付いたのか、困ったように泣き笑いの表情となった。


「酷いこと言って、本当にごめんなさい。たとえアルが魔界に帰っても、距離は遠くなるけど、恋人なら、お互いに連絡を取って補えばなんとかなるって思った。あのとき、そう言いたかったの。きっと大丈夫だって思ったから。でも、……でも、無理だよ。たった一度の一人の夜が、寂しくてどうしようもなかった。アルに嫌われたらどうしようって考えて、さよならを言われる悪夢にうなされた。朝起きて、アルがいなかった。それだけで打ちのめされた」


「櫻子さん…」


 アジュールの声はかすれていた。


「……どこにも、行かないで。ここにいて。前にはもう、戻れないよ。アルがいないあの頃には、戻れない」


 そう言って、櫻子はアジュールの広い背中へと手を回す。その胸に頬を押し当て、とくりとくりと普段より早く脈打つ鼓動に耳を傾けながら、震える声で告白した。


「――アルが、どうしようもなく好きだよ」


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