お腹すいたな
片付けの終わったらしいミエルの部屋は、櫻子の予想よりずっと可愛らしいものだった。淡い桃色で統一された家具、花柄の散った壁紙、白の絨毯。どれ一つとっても造りの良い一級品であることは明らかだが、はたしてミエルの趣味なのだろうかと少し疑念が残る、そんな内装だった。
天蓋付のベッド脇には、おそらく就寝時、ミエルを仲間として嬉々として迎えるのだろう縫いぐるみが所狭しと置いてあるが、その並びは少し雑で、仲間の間に頭を突っ込んでこちらに尻を向けているものもいた。――慌てて適当に置いた、という感が否めない。
「サクラ、ああいうの好き?」
じっと眺めていたらふいにそう問われ、櫻子はうーんと唸る。可愛いとは思うが、買って部屋に並べる趣味はない。
「見る分には構わない、かな。ミエルの趣味?」
率直にそう返せば、ミエルはどこかホッとしたように息をつき、遠慮がちに首を横に振った。
「イル様が買ってきてくれたんだけど、だんだん置き場所に困ってきた。最近まではもっと少なかったんだ。今じゃ朝起きるとほとんど下に落ちてる」
“最近”
それがキーワードなのだろう。
仕事が立て込んで参観日に行けないと言った母親が、申し訳なさそうにケーキを買ってきたことを櫻子は思い出した。大好きなケーキだったが、微妙な気持ちになったことをおぼろげながら覚えている。きっと何を言って謝られても、どんな交換条件でも、お詫びの品があったとしても、同じ気持ちになっただろう。今から思えば随分勝手な子供心だ。でも、母親の存在は何にも代えがたい。それをわかって、母親は彼女のできることをしたのかもしれない。
「ミエルは、何が好き?」
突然の質問だったが、ミエルは反射的に答えた。
「美味しいもの!」
清々しい答えに櫻子は思わず笑ってしまった。その反応にミエルは若干ムッとしたようだが、櫻子の笑みにつられてころりと態度を変えた。
「私ね、甘いもの大好きなんだ。あまく煮た果物が一番好き。昨日は林檎だった」
まるで秘密の恋人を打ち明けるように、ミエルは櫻子の耳元でそう囁いた。
「わたしも好きだよ。たまにたくさん作ってアップルパイにするかな」
アイスクリームを添えたら最高だ、とうっとりしながら相槌を打つ櫻子に、ミエルは不思議そうな顔だ。
「“アップルパイ”ってなに?」
「え? あ、名前が違うのかな。煮林檎を入れたお菓子のことだよ」
「お菓子、って本で読んだことある。甘くて美味しい食べ物のことだよね」
「ほ、ほん?」
「作るのすごく難しいんだよ。すごく昔にはあったんだって。でも誰も作れない。“せんさい”だから」
ミエルの言葉に、櫻子の脳裏に疑問符が浮かぶ。
彼女の経験から、お菓子作りは十把一絡げに“難しい”と言われるものではない。初心者向けからプロ用まで、レシピは多種多様にある。おそらくミエルの読んだ本はプロ用のものだったのだろう。準備を面倒くさがらなければ、初級中級のお菓子作りはそれほど繊細さを要しない。
「お菓子作りはね、何より愛情が大事なんだよ」
愛情が入っているから、といつだったかむきになって主張したことがあった。
リクエストされたことが嬉しくて、アジュールを喜ばせたくて、たくさんお菓子を作った。
そんな自分に、美味しそうに平らげては、甘い言葉ととろけるようなキスを返してくれた。
――ともかく、櫻子さんの料理でないと、私は嫌です
そんな言葉を思い出し、泣きそうになる。
「そうなの? じゃあ、私にも作れる? イル様、林檎が大好きなんだ。サクラの言った“アップルパイ”、作ってみたいな。サクラ、手伝ってくれる?」
「もちろん」
「やった! メイレムさんにお料理していいか聞いてくる!」
ミエルの迅速な行動に、櫻子はホッと安堵の息をつく。
こらえきれなかった涙が一つ、ぽろりと頬を滑り落ちた。
***
「見つからねぇなあ」
レグリスは重苦しいため息をつき、いつの間にか隣に立っていた無愛想――イヴォワールを振り返るが、取り立てて反応はない。捜索状況は芳しくない。似たような女を連れてくる部下はいたが、西宮櫻子は依然行方不明だ。
ぐうう、と腹が空腹を訴える。
「そういや昼はまだだった。食ってる場合じゃないんだろうが、生きてる以上腹は減る。アジュールにはとても言えねぇが、いったん屋敷に帰って昼飯を食うのもありじゃねぇか?」
「空腹ではない」
イヴォワールは温度の無い一瞥をくれ、冷たく答えた。
「……そういや、おまえのとこに御宅の主人はどこですかって聞いたままだ。気が向いたら帰ってやれよ。ここの所まともに帰ってねぇんだろ? 方法は何にしろ、あのバカを外に連れ出したんだ。散々迷惑かけられた分、今回の件はトントンだと思うぜ」
「貴方に心配されるなど、世も末だ」
「へぇへぇそうかよ。まあ、おまえの勝手だけどな」
困ったもんだ、とレグリスは肩をすくめ、後方から走ってきた部下に呼ばれてそちらに歩き去った。イヴォワールはしばらく前方を眺めていたが、ちらとレグリスの背に視線をやり、唇を真一文字に引いた。
バチン、と音が響き、レグリスが振り返る。
「素直じゃねぇなあ、とお決まりのセリフを言ってみる俺」
にやりと口角を上げた彼の視界には、気難しい悪魔の姿はなかった。
「お帰りなさいませ」
普段通り柔和な笑みを浮かべて自らを迎えた執事に、イヴォワールは無表情に頷いてやった。
「レグリスから託があったそうだな。……あの子は?」
釈然としないものの、気付けばそう口にしていた。
「厨房にいらっしゃいます」
そう報せた執事の顔は普段より増して穏やかだ。
厨房、と聞いて嗅覚に意識を集中させると、くん、と甘い匂いがした。
「厨房? 何をしている」
まかり間違って刃物など持たせた暁には……と目つきを鋭くさせた主に、執事は朗らかに笑って否定する。
「いえ、危ないことはなさらないようにとお任せいたしましたので」
「任せた?――誰かともにいるのか?」
ますます鋭くなる主の語気にも、執事は少しも慌てることがない。
「お嬢様のご友人の方です。目を見張るほどの繊細な手つきに感服いたしました。お嬢様は興味津々といったご様子で、素晴らしいサポート役をこなしておられます。試しに、とお作りになられた“ホットケーキ”なるものは本当にふっくらとしておりまして、ほんのりと甘いそれにたっぷりと蜂蜜をかけて、それはもう幸せそうに召し上がっておられました。私もお味見させていただきましたが、歳ばかり重ねた私も経験のない絶品でございました」
いつにもまして饒舌な執事にイヴォワールは怪訝顔を浮かべた。
「メイレム、話が全く見えない。ミエルに友人? どういうことだ」
「これは…! 申し訳ございません。失念しておりました。本日偶然お知り合いになられた方で、長く生きてまいりましたが、人間の方と見えることは初めてでありまして、少々動揺していたのかもしれません」
「なん、だと?」
困ったものです、と笑っていた執事だったが、ようやく主の異変に気が付いたようだ。
「どうかなさいましたか、イヴォワール様」
「人間、人間の方と言ったな、メイレム」
確信をもって尋ねたらしく、イヴォワールは執事の頷きなど見もしなかった。盛大なため息をつき、疲れたように額に手を当て、唸るように再度尋ねた。
「その人間の名を、知っているか?」
執事はしばらく思いめぐらし、にっこりと笑って答えた。
「確か、西宮櫻子と。僭越ながら、サクラ様と呼ばせていただいております」
予想通りの返答に、イヴォワールは酷い頭痛を覚えた。




