覚悟なさい!
「おー、イヴォワール、ようやく来たな!」
銀髪の髪も存在も鬱陶しい男にそう声を掛けられて、薄黄色の髪の男――イヴォワール・ディ・ファルファッラは僅かに顔を顰めた。魔鳥の託にあった『面倒事が起った、助けろ』という文句に相当する、七面倒くさい事態が起こっているらしい。
「……レグリス、どのような経緯でこのような事態になったか説明を」
イヴォワールの問いに、銀髪の男――レグリス・ディ・レオーネは後ろ頭を掻きながら、困ったように笑う。
「いやー、なんつーかなあ、引きこもっちまったんだよ。屋敷はすでに厳重に結界が張られて、ご丁寧に声しか届かない優れものだ。さすがだなあ」
「感心している場合か」
イヴォワールは冷たくそう返し、目の前の屋敷に視線を向けた。代々スパーダの領主が継ぐこの屋敷には、現在領主一人しか住んでいない。目を細めて解析に当たれば、確かにレグリスの言う通り、厳重に結界が張り巡らされている。重厚な造りの屋敷は、今や堅固な要塞だ。
「陛下はなんと?」
「『僕の出番はなさそうだから、君たち二人でどうにかしてね』だとよ。まぁ、二人で無理やりこじ開けるにも、反発がひでぇだろうな」
「冷静な判断は有難いが、事態は全く好転していない」
「この局面でも嫌味を言うか」
レグリスの苦々しい言葉を、イヴォワールは黙殺した。レグリスの焦りは手に取るようにわかったが、彼には策があった。
「ていうかおまえはいったい今までどこにいたんだよ。どーせおまえも、一筆書けって“お願い”をすげなく断ったんだろ? 嫌味の一つや二つ上乗せして」
「大したことは言っていない。それより、あちらはなんと要求している。速やかに説明を」
「あー…なんだ、ともかく人間界に帰りたいんだとよ」
「予想していた通りか」
「一手も二手も先を読んでんならよ、どうにかしてくれよ、ホントマジで」
レグリスは面倒くさそうに言った。そんな彼に氷のような一瞥をくれ、イヴォワールは屋敷の扉に近づいた。両開きの扉には、それぞれ円い取っ手を咥えた獅子が模られ、訪問者を睥睨している。あと一歩で扉に触れるところまで近づくと、二頭のうち一頭がゆるく頭を振り、目をぎらりと光らせた。
《我が主の命により、何人たりともこれより先通さぬ》
低く唸るような声に、イヴォワールは少しも表情を変えなかった。落ち着き払った口調で、獅子に話しかける。
「アジュール、聞いているのだろう。要求については否。それがこちらの返答だ」
淡々とそう言えば、獅子の口から別の声色が返答した。
《――そうですか、残念です。交渉は決裂ということですね》
聞こえたアジュールの声に、レグリスが呆れたような声で口を挟む。
「おい、アジュール! いい加減にしろよ。さっさと出てきて仕事しろ!」
《事務処理のできない人は黙っていてもらえますか》
辛辣な一言に、レグリスはうぐぐ、と黙り込むしかなかった。
イヴォワールは細くため息をついた。
「アジュール。愛しいものに会いたいという想い、この男は知らずとも、私にとって共感しがたいものではない。一時帰還したという貴方の部下に訊いた。西宮櫻子、という名の人間。それが貴方の恋人か」
《…………そうですが。参考までに訊きますが、その部下は金髪でしたか?》
おどろおどろしい声で尋ねたが、イヴォワールからのそれに対する返答はなかった。
どこか遠くで、哀れな部下が盛大なくしゃみをした。
「案ずるな。聞いたのは名だけだ。それさえあればどうとでもなる」
イヴォワールの含みのある答えに、アジュールは嫌な予感を覚えたのか、
《……あなた、……それは、どういう意味ですか》
一段と声を低くし、怒りに震える声でそう訊いた。
「泣いたのかは知らぬが、目の縁が少々赤くなっていた。術が甘い。腫れもやや残っていた」
「おいおいおい、そりゃどういう意味だ? おまえまさか」
レグリスの問いを押しのけ、アジュールが噛みつくように叫んだ。
《イヴォワール! 答えなさい! あなた、許可なく私の櫻子さんに会ったのですか!》
イヴォワールには全く意に介した様子はない。じわじわと相手の首を絞めるかのように、淡々と言葉を運ぶ。
「ずいぶん素直で従順な女だった。警戒心をどこに捨てたのやら。命じられるままに目をつむり、私の手を取り――」
《イヴォワール!》
アジュール烈火のごとき怒りに同調し、屋敷全体を覆う結界が大きく揺らいだ。
「怒り狂ったところで既に女は私の手の中。さて、私の研究を滞らせ、予定を狂わせた原因の一端である彼女に、元凶である貴方の尻拭いをさせてもよいが」
普段はちらとも笑みを見せない無愛想が、そう言い終えて不敵に笑った。
レグリスが驚きに目を見張り、屋敷の奥では孤高の領主が怒りに高く吠えた。
《イ、ヴォ、ワール!!》
爆発的な魔力の揺れに屋敷全体が揺れ、膨張した力に押し上げられた結界がパンッ、とはじけ飛ぶ。入口の両扉が凄まじい音を立てて開き、闇色に染まった屋敷の奥から無数の光線が放たれた。イヴォワールはもちろん、レグリスに向けてまっすぐに進み、最上級悪魔たる二人の瞬間的な回避がなければ、体中に向こう側を見通せる穴がいくつも生じただろう。
「おーおー、怖ぇなあ、ぶち切れてるぜ」
本気で殺されかけたというのに、どこか楽しげにレグリスは言った。
すっかり無表情に戻ったイヴォワールも、純然たる殺意に嬉々として見えた。
「悪くはないが、殺し合いをしている場合ではない」
正論だが、喧嘩を吹っ掛けた本人が言うセリフではなかった。
「イ、ヴォ、ワール! 覚悟なさい! 次は本気で殺りますよ!」
屋敷の奥から現れたアジュールは、間髪入れずに最高位の術を放とうと両手を構える。
「落ち着け」
イヴォワールは冷静に告げた。
両者の温度差にレグリスは頭痛を覚えた。
――いったいどう始末をつける気だろう、この無愛想は。
レグリスの心配通り、アジュールはその怒気を少しも抑えようとはしなかった。しかし、さすが常時冷静なことで定評のある最上級悪魔は一味違った。
「――西宮櫻子がこちらに来ている」
静かに放たれた言葉に、アジュールの怒気は瞬時に収束した。
「は? 今、なんと言いました?」
アジュール同様、レグリスも怪訝そうだ。
「西宮櫻子は、今魔界にいる」
イヴォワールははっきりとそう繰り返した。
残りの二人が瞠目し、言葉も出なかったのは言うまでもない。




