最後の手段です
「つーか俺様は忙しいってことをよ、そろそろ理解してもらえると有難いんだけどな」
ノックもせず部屋に入ってきたアジュールを見て、銀髪の男はため息交じりにそう言った。腰元まで伸びる髪はくせ毛なのか櫛を使っていないのかまとまりが悪く、樹海の蔓のようにうねった前髪は顔の半分以上を覆い隠している。
「あなたへの理解など、櫻子さんの愛の前では無に等しいです」
きっぱりと返したアジュールに、男はげんなりとして半眼する。パチンと指をはじくと、執務机に乗った分厚い本の塔や意味不明な記号・図表の書かれた書類の束が宙に浮かび、そのまま絨毯の敷かれた床に移動した。広くなった机上にどっかりと足を乗せ、面倒くさそうにため息をつく。素顔は全く見えないが、素肌に羽織った上衣が開いて横腹へと滑り、露わとなった彫刻のような褐色の肉体が壮絶な色気を醸し出す。
「“愛”ねぇ。おまえの口からそんな言葉を聞くとは、明日には魔界も終わるかもしれねぇな、なんて……まぁ俺には関係ないこった。それで、用件は? どーせあいつには断られたんだろ? おまえが人間界に行ってから、書類仕事はほとんどあいつに回されたんだからな。その上なんだ、振られたから自殺するってか? 事後処理はごめんだぜ」
「誰もかれもどうしてそうも情報が早いんですかねえ」
「なんだ、マジで死ぬ気かよ」
男は楽しげに口角を上げる。
アジュールは嫌そうに顔を顰めた。
「一瞬そんな考えもよぎったのは事実ですが、櫻子さんがどう思おうと諦めるつもりはありません。おそらく、人間は色々と不安定なのでしょう。そうに違いありません。こちらに戻ってきたことでむしろ色々と囲い込める材料を用意できるというものです。それをもって、あの手この手で説得に当たるつもりですからご心配なく」
「見ず知らずの相手にここまで同情しちまったのは初めてだ、とだけ言っていいか?」
男の顔はやや引きつっていた。
「心外ですね。まああなたにどう思われようと痛くも痒くありません。それよりも、『アジュール・ディ・スパーダの人間界への早急なる渡界に賛成する』と一筆書きなさい」
「誰が書くか。馬鹿にしてんのか」
「イヴォワールも似たようなことを言っていましたが、馬鹿にはしていません。真摯なお願いです。今すぐにでも飛べ、と書き添えていただいても一向に構いません」
「それはおまえの意向だろ」
「櫻子さんに何も言わずに飛び出してきてしまいました。最後の言葉が『そうですか』ですよ! まったく、これでは私が別れに同意したようなものではありませんか!」
「じゃあ聞くが、なんで帰ってきちまったんだ」
「………突発的に何か恐ろしいことをしそうなほど凄まじい感情の波が起り、いかんともしがたく、とにかくここから離れねば、と思いまして、気づいたら帰ってきていました」
それまでの強気な様子はすっかり消え、どこかしょんぼりとした風にアジュールは告白した。
「あなたが賛成すれば、二対一で私たちの勝ちです。それを持って陛下に嘆願します」
「陛下が反対したら二対二じゃねぇのか。俺も賛成しないから、三対一でお前の負けだな、こりゃ」
「なっ…!」
男の言葉に、アジュールは驚きに目を丸くして固まった。
「おまえ、頭はいいってのにたまに抜けてるから残念だよな」
駄目押しされ、がっくりと肩を落とし俯いた。
「大体あれだ、おまえどんだけ書類溜まってると思ってんだ? 隊がなんとかやったとして、おまえの処理能力に適うわけねぇだろーが。一カ月以上あっちにいたんだ。陛下だってそうそう許しちゃくれねぇよ」
それが分かりきっているからこうしてお願いしに来たのだろうけれど、と男は思う。
「ともかくあれだ、溜まった書類片付けてからにしろ。イヴォワールの奴も急な予定変更に相当苛ついてたぜ。あいつはほら、扉の管理もしてるしな、研究もあるし」
「申し訳ない、とは思います。そうですね、仕方がありません。櫻子さんが今この瞬間にも誰か別の男の魔の手にかからないかと非常に心配ではありますが、………………やはり、一筆書く気にはなりませんか」
「ならねぇよ」
「では部下の誰かにまた」
「その手は無理だ。すでにイヴォワールの奴が手を回して、おまえの隊の連中には渡りの許可を出さないようにしたってよ。陛下も言ってたぞ。『そろそろ書類も溜まってきたしね』だとよ」
男の言葉一つ一つに、アジュールの表情が鬱々としたものに変わる。
「……仕方がありません。最後の手段です」
「お、なんだなんだ? まだ奥の手があったのか?」
他人事だと思っているのだろう、男の口調は非常に楽しげで好奇心に満ちていた。アジュールは不敵な笑みを浮かべ、呪いのような言葉を吐いた。
「――引きこもります」
「ふーん、引きこもり………って、おい!」
男が意味を理解して叫んだ時にはもう、アジュールの姿はバチンという音とともに部屋から消えていた。
「おいおいおい……つまりはあれか、職務放棄ってことかよ、マジかあ!」
男は自らに書類処理能力が欠けていることを知っていた。
もう一人の側近がマジ切れ寸前なことも知っていた。
アジュールが仕事を放棄すれば非常に困る。とても困る。
「ちっ!」
慌てて魔鳥を使いに出したが、帰ってきたのは「申し訳ございません、主人はただいま留守にしております」との空しい返答だった。
「どーすんだよおい! くそったれ!」
既にいないアジュールを罵ってみるが、効果などない。男が頼るべき相手はもう一人しかいない。
「仕方がねぇ、こうなったら陛下に相談してみるかぁ…?」
アジュールが本気になったら、屋敷は難攻不落の城砦となり、鉄壁の引きこもりが完成する。そうなる前に一時人間界に戻してやるべきかと思うのは、これまで書類仕事を丸投げしていた過去があるからだ。だが、異界への扉を管理するのは自分ではなくマジ切れ寸前の側近であり、最終的な決定権は魔王陛下にある。卑下するつもりはないが、権限がない自分にできることはほとんどないのだ。
「まったく、これだから我が儘野郎は…」
ぶつくさと文句を言いながら、男は身支度を整え始めた。




