さみしいよ
異文化間の交流の中で難しいことの一つに、慣習の違いというものがある。
言葉の使い方一つでたいへんな誤解を生む、なんてことも往々にしてある。
「……知らなかった、です」
櫻子は呆然として言った。
「そりゃそうっスよね」
部下は苦笑するほかなかった。櫻子はなおも独り言ちる。
「まさか、“遠距離”って言葉が、“別れましょう”になるなんて」
関係を続けたいと言ったつもりが、まさか「別れましょう。お互いに頑張ろうね」になっていたとは。他人事なら笑える話だ。異文化交流ってそういうものだよね、だ。
「おれの推測ですけどね、えーと、なんていうか、隊長はたぶん、誤解して、そのー、驚いてあっちに帰っちまったっつーか、なんというか……」
部下は言葉を濁した。“驚いて帰ってしまった”とお茶目なことを言っている状況ではないだろう。別れを告げられた上司は、怒り狂ったか死ぬほど落ちこんだか、とにもかくにも感情に任せて何をするか分からず、彼女に危害を加えないうちにと帰還したのだろう。帰還は有難いが、ショックで死んではいないだろうか。まあ、あれでいて変に真面目な所があるから、発作的に自殺を図ることはないだろうけれども。――と思ったことはとても口には出せなかった。
「アルに、謝りたいんです」
「そ、そうっスね。そうしてもらえると有難いっス」
部下は笑うしかなかった。
「…前にも一度、あったんです。名前の件で色々と」
「あー…」
と部下は遠い目をする。
冷静に考えれば、櫻子だけに非があるわけではない。異種間の相互理解はそう簡単ではないとすでに学んだのだから、“遠距離”と言われた上司こそ櫻子の本意を確かめるべきだったのだ。見た目を裏切った猪突猛進な性格ゆえ、盲目的に愛する女性に別れを切り出されたと思い込んだ瞬間、真っ白になってとっさに帰ってしまったのだろう。
――なんだっけ、こういうの、“話は最後まで聞け”?
部下はげんなりとした。
「……あのときはホント、見知らぬ男に飛びかかっていった隊長を止めるに止められず、どうなることかと」
「その節はあの、ホントにご迷惑をかけて、すみません」
「いえいえ。丸く収まったのはあなたのおかげっス」
「今度はわたしがとんでもない勘違いをさせてしまったんですけど」
櫻子の顔色はひどかった。
「あー……」
と、部下はまた遠い目をする。
とんでもない、と言えばとんでもない。しかし、部下にはそれほど深刻に考えることができなかった。
おそらく、あの上司は感情的に動いただけで、別れに納得したわけもなく、当然彼女を諦めたとは思えない。しかし、生きがいとさえいえる彼女に嫌われたと考えた場合はどんな行動に出るのか予想がつかなかった。なぜ自分より強い男の心配などしなければならないのだろう、と世の不条理さを嘆きたくなった。
ちら、と櫻子を見やり、その落ち込んだ様子を気の毒に思い、慌ててフォローする。
「と、ともかくおれは一時あっちに戻って様子を見てくるっス。上手くいけば事情を話して、誤解を解くこともできるかもしれませんしね! あっ、その前に同僚に隊長のこと聞いてみるっス!」
櫻子を励ますように、出来るだけ明るい口調で部下はそう言った。
***
部下の考えなど少しも知らない櫻子は、『とりあえずは今まで通り生活しておいてください』と言われ、アジュールのことが気になって仕方がなかったが、講義もあるため帰宅することになった。目の腫れは部下に治してもらったため問題はない。昼食は食べる気にならなかったので、着替えを済ませて軽く化粧をし、大学に向かった。
ぼんやりしているうちに講義が終わり、帰宅した彼女を迎えたのは静寂だった。薄暗い部屋に規則的な時計の音。どこからか聞こえるモーター音。
「は、ははは、はは……」
笑いとともに涙がこぼれた。
夕飯の時間になっても食欲などわかなかった。二人分に慣れてしまった今、自分の食事など作れそうにない。シャワーを浴びて、ベッドに飛び込んだ。
ふわりとアジュールのにおいがして、たまらず涙が零れ落ちる。寂しい。とても寂しい。湧き上がるのは後悔の念だ。もっと違う言葉を使っていれば、と自分を責める。
「寂しいよ、アル」
自責の念に苛まれながら、枕に顔を押し付け、くぐもった声でそう呟く。
毎夜毎夜、櫻子と呼んでくれた声が聞こえない。
“おやすみなさい、櫻子さん”と、あやす様な甘い声は幻想の中に消えた。
耳元を掠める息遣いはなく、腰元を包む腕もない。背中がひどく寒い。
規則的でもやはり自分の物とは違う誰かの心臓の音が聞こえない。
重なり合った鼓動。頬をすべる指先は他より少し冷たかったことを覚えている。
――朝起きたら、おはよう櫻子さんと、言ってくれたらいいのに。
耐えられそうにない。
手紙や文字で何とかできると思っていた。どうにかなると思っていた。
遠距離になるけど、お互い頑張ろうね。そう言った自分を、夢の中でひどく詰った。
翌日になったが、部下からは何の連絡もなかった。連絡用にとメールアドレスを交換したが、ボックスには一通も届いてはいない。自分でまいた種なのに、何もできないのが歯がゆい。
鏡を見れば酷い顔をしていた。いつメールが来るか知れないと何度も確認したせいもあるが、夢にアジュールが現れ、櫻子が言ったセリフを繰り返し、さらにこう付け足した。――別れましょう、という意味ですよ、と。
酷い悪夢だった。目を閉じるたびそれを見た。知らないとはいえ、酷いことを言ったのだ。魔界に帰るなら別れようと、そう言ったように理解されただろう。
「……」
怖い。想像するだけで震えが走る。逆の立場だったら、どうしていただろう。魔界に帰るのであなたとは別れます。アジュールにそう言われたら、泣いて縋っただろう。離れただけでこれだけ辛いのだ。今すぐにでもアジュールのところへ行って謝りたかった。はたして許してもらえるのかと、その先を考えるのは怖くてできなかった。
さすがにその日は朝食を押し込み、大学に行く準備をし始める。腫れぼったい瞼を隠すために化粧は念入りにした。着替えも終え、出かけようと鍵を持ったとき、インターホンの音が響く。
「…っ!」
まさか、と期待して頬が高潮する。足がもつれそうになりながらも慌てて玄関へ走った。確認もせず、勢いよくドアを開ける。――が、期待した顔も、それどころか誰の姿も見えなかった。
「……?」
右を見て、左を見たところで視界に飛び込んできた人影に瞠目した。
「ひゃっ…」
小さく悲鳴を上げたのも致し方ないことだ。ドアの左側、通路には目を見張るほどの美貌を湛えた男が佇んでいた。暗い色調の碧眼が櫻子をじっと見下ろしている。薄い黄白色の髪はきっちりと顎のラインで切りそろえられていて、黒色のコートではなく薄紅の衣を羽織っていれば天女と見紛うような美しさだ。人外の美貌、とでも言おうか。
櫻子には彼が誰の関係者か心当たりがあった。
「……あ、あの、アル…アジュールのお友達、ですか?」
怖々と声をかけた櫻子の言葉に、美麗な男は瞬きもしなかった。精巧なマネキンに見下ろされているようで、居心地が悪い。しかし言うべき言葉が見つからない。
「……西宮櫻子は貴女か」
男は唐突に口を開いた。
「え、はい、わたし、ですけど」
「そうか。目をつむれ」
「は?」
「目をつむれ」
ぽかんとする櫻子に焦れたのか、男は手で櫻子の目を覆ってしまった。
「え、あの、え? あのすいません、前が見えなくて」
「黙っていろ」
櫻子を黙らせ、右手をついと上げて、親指と中指をこすり合わせる。パチッと火花が散って、爪先を中心にぶぅうん、と音を立てて方陣のような文様が宙に浮かんだ。透き通る七色の線が織りなす方陣は、櫻子が見ていれば思わず見惚れてしまうほど美しかった。男は低く艶のある声で、櫻子の耳に囁いた。
「手を」
目を隠されたままの櫻子は、操られたように円の中央へと手を延ばす。緩く弧を描いた指先がほんの少し円に触れたとき、
――しゅん
煙のように、二人の姿はかき消えた。




