叫んでも?
部下は頭を抱えたくなった。
なんでまたこんなことになったんッスかねえ!
土砂降りの雨の中、彼は根城であるアパートへの道を駆けていた。その背には女が一人。彼女もまたずぶぬれで、ぐったりと部下の背に体を預けていた。
指先で触れるだけで極刑に値しそうな彼女をこうして背負っていることが、未だ彼には信じられない。これは何かのドッキリで、このあとでタコ殴りにされるのではないか。いやいや、むしろそんなコメディ展開ならよかったのかもしれないな、と苦笑を浮かべた。
部下が女――西宮櫻子を見つけたのは深夜の商店街だ。バケツをひっくり返したような雨が降る中、レンタルDVDの返却期限のおかげで外出する羽目になったのは、ドラマのヒロインのごとく酷い風体でさまよう櫻子を見つけるための、天の采配だったのかもしれない。
部下を視界に認めた瞬間、雨粒でない何かが櫻子の目の縁に盛り上がり、青ざめた唇が何かを呟いたのを彼は確かに見た。驚き立ち尽くす暇もなく、櫻子の身体が崩れ落ちる。慌てて傘を投げ出し、走り寄って抱き留めると、彼女の身体は冷え切っていた。
「なんで、こんな…」
まだ夏前の、こんな真夜中に、傘も差さず何をしているのか。いやむしろ、上司は今何をしているのか。辺りを見回すも姿は見えない。嫌な予感がした。
だが、今は上司のことなど考えている場合ではない。櫻子をどうにかするのが先決だと考え、ぐったりと意識を失った櫻子を抱き上げた。背に抱えると服越しにも冷たさを感じ、耳元を掠める弱弱しい息遣いにひやりとした。
「っ、くそっ! 触ったからって殺人光線はあんまりっスよ、隊長!」
忌々しげに舌打ちし、部下は激しく雨打つ道を駆けはじめた。
なんとかアパートに戻った部下は、構うものかと自分の布団の上に櫻子を寝かせた。あっという間に水分を吸い、変色し始めた布団など気にした様子もない。しかし、濡れた服を脱がせようとして、ぴたりと動きを止めた。
「――あー……やっぱ、そのままでいいか」
苦笑しつつ、両手を櫻子にかざし、呪文を唱える。掌から暖かい光が放出するや、ぐっしょりと纏わりついた水分が蒸発し始めた。
「隊長だったら一瞬なんスけどね、ホント困った人っス。肝心な時にいないなんてまったくホント」
ぶつくさと小声で文句を言いつつ、念入りに乾かしていく。自分がまだずぶ濡れなので、時折盛大なくしゃみをするのだが、櫻子が目覚める様子はなかった。
「足なんか靴擦れしちゃってまあ、何してたんだかホントに。おれ、治すのあんまり得意じゃないんスよ?」
そう呟きつつ、血の滲んだ踵を直していく。すっかり乾いたところで、上布団を掛けホッと一息ついた。額に手を当てて確認し、大丈夫そうだと安堵する。体の冷えも改善したに違いない。
「ま、おれにしては上出来だってことで」
立ち上がり、洗面所に立つ。濡れた服を脱いで洗濯機に投げ込み、そのまま浴室に飛び込んだ。
***
「……なんか、へん?」
目の前に飛び込んできた見知らぬ天井に、櫻子は怪訝そうにつぶやいた。体に触れる布団の感触も普段と少し違う。服も何だか寝苦しい。足に触れるとデニムの感触だ。ぐるりと辺りを見回すと、目の動きが鈍い。休日寝過ごしたときのような、腫れぼったさを感じた。視界の片隅にカーテンから覗く日の光を認め、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「あれ、朝?」
”朝”
キーワードを打ち込み封じられていた扉が開いたかのように、怒涛のように昨夜の記憶がよみがえる。櫻子は目を見開き、布団から飛び起きると、血相を変えて叫んだ。
「アル!」
そうだ、昨日、アルを探して。――なのに、ここはどこ?
悲鳴のような声を聞きつけたのか、狭い台所からひょっこりと顔を出したのは、記憶の片隅のある金髪男の顔。――アルの部下の人、だ。
「おはようっス」
揃いのジャージを着込み、その手にはお玉。どこかホッとしたようにため息をついて、バチンとコンロの火を止めた。昨夜確かに部下の姿を見た気がするが、そのあたりは曖昧だったため、櫻子は混乱気味に彼を見つめ返す。
「どこか悪いとこ、ないっスか? 頭痛いとか、熱っぽいとか」
「え、と、ないです。ちょっとだるいくらいで」
反射的に答えると、部下は楽しげに笑った。
「はは、もう昼前っスからね。目の腫れは……あー、あとで治しときましょうね」
へらりと笑って尋ねた部下に、櫻子はとたんくしゃりと顔を歪めた。見る見るうちに眦に涙が盛り上がり、ぽろぽろと滴になって零れ落ちる。慌てた部下がお玉を投げて傍に駆けつけると、子供のような泣き顔のまま、涙声で打ち明けた。
「アルが、アルがいないんです。出ていっちゃった、探したのに、見つからなくて…」
ぐずぐずと鼻をすすり、途切れ途切れの言葉は聞き取りづらい。ダムが決壊したように泣き続ける彼女に、部下は宥めようと上げた手をどこに置いていいか迷いに迷い、結局頭で落ち着いた。ぎこちなくも優しい手つきがますます櫻子の涙を誘う。滂沱する櫻子に、部下はバスタオルを差し出した。
「ええと、それで、隊長が出て行った、って聞こえたんスけど…」
困ったようにそう尋ねる部下に、櫻子は泣き止まない自分を恥じた。記憶は曖昧だが、助けてもらったことは分かる。それだというのに子供の様に泣いてばかりなど、困らせるばかりだ。
「部下さん、……助けてくれたんですよね。お礼も言わないで、ごめんなさい。ありがとうございました」
「いいっスよ。帰りにたまたま見つけて拾っただけで。……それより隊長のことっス。あれっスよね、おれの頼んだことを話したから、とか?」
「……話を聞いて、アルと離れるのは確かに寂しいし、辛かったけれど、でも何が起こるかわからないなんて危険なことしてほしくなかったから、戻るように言ってみたんです」
そう切り出したのは昨夜、夕飯を食べた後のことだ。
「因みになんて言ったんスか?」
「帰らなければならないことを聞いたと言ってから、戻ってほしいと言いました。『遠距離になるけど、お互い頑張ろう』って、そんな風に言った途端、びっくりするほど怖い顔になって、何か言いたそうにしていたけど、でも、怒鳴りたいのを堪えるような顔になった後、『そうですか』って。そのあと、バチンって聞こえて、そしたら、アルの姿がどこにもなくて、それで、外に出て探して…でもどこにもいなくて」
話している途中で思い出したのか、櫻子の目がうるんでくる。声も震えていた。
櫻子の説明に、部下は額を押さえ、げんなりとした表情で盛大なため息をつく。
「あー………なるほど。事情はよぉおおく、わかったっス」
「もっと話したいことがあったのに、何も聞かないで行っちゃって、何が駄目だったんですか? 悪魔の人って、遠距離恋愛は面倒だって思うんですか? それならそうと言ってくれたら、…言ってくれても、たぶん辛かったけど、こんな形で駄目だって言われるくらいなら、ちゃんと振られたほうがまだよかったのに…!」
悲しみと怒りとが交じり合い、櫻子は泣きながら怒っていた。
「あー……そうっスよね、人間ってそうっスよね」
部下は疲れ切った様子で、適当な相槌を打つ。それがますます櫻子の怒りに油を注いだ。
「そうっスかってなに! 遠距離恋愛とかめんどくせー人間めってことですか! 人間でもなんでも、好きなら距離なんて関係ない! それなのにそうっスかって! せめて手紙でもとか、わたしから会いにいければとかいろいろ考えていたわたしはただのバカだってそう思ってるの!?」
怒りに任せ、櫻子は部下の襟元を掴み、前後に勢いよく揺らした。ぐらんぐらんと揺れる中、部下はおろおろと泣き言をこぼす。
「お、思ってないっスよぉ…、ちょ、落ち着いてくださいよぉ」
部下は叫びたくて仕方がない。
なんでこんなことになったんスかねえ!




