それが何か?
長い間お待たせして申し訳ありません。櫻子がいない、男二人のあけすけな会話ですが、楽しんでいただけると幸いです。
ここからまた本編扱いです。
世の中には笑い飛ばしてはいけないことがある。うっとうしい金髪頭の部下にも例外なく、禁止事項を書き連ねた長いリストが存在する。時と場合に応じてリストの順位は入れ替わるのだが、現時点でのトップは“隊長の相談事”だった。
尊大で我が儘な隊長は、いつだって自由奔放だ。ふらりと部下の小さなアパートに押しかけては、部下にとっては抱腹ものの相談事を持ちかけ、適当に返事をすると抹殺五秒前カウントを開始する。つい数年前までは平平凡凡な庶民であった部下にとって、凶悪な殺人光線を無詠唱で放つお貴族様などそもそも理解の範疇に存在しないのだ。ともかくも黙って従えば命は繋がる。
さて今日も今日とてふらりとやって来た隊長はどんな相談事をするのだろうか。まあ十中八九“西宮櫻子について”に決まっている。長年人間界で“人間界における魔術”について研究してきた部下にとって、人間の生態などはおまけで知りえたようなものだ。しかし毎度の相談事がその程度の知識で解決できるのだから、改めて恋とは恐ろしいものだと部下は思う。
そう、恋だ。思い立ったらすぐ殲滅、と冷静沈着な頭脳派を装いつつ猪突猛進で容赦ない我らが隊長は、今一世一代の恋をしている。改めて西宮櫻子のこの先を愁えた。彼女がどういった性質なのかは部下にはわからないし、知ったところで寿命が縮まるだけだ。
幸か不幸か面識はある。隊長の美貌に霞んでしまうような「美貌」の「美」の字もない容姿であったが、実家の近くに住む幼馴染を思い出させた。心に思うだけで嫉妬深い隊長に「今櫻子さんのことを考えましたね。万死に値します」などと最後通牒をつきつけられるかもしれない。ともかくも、美人ではなかった。ホッとできる、なんだか可愛らしい子だったと表現したら、「櫻子さんを脳裏に思い描くことは私だけの特権」などと言って殺人光線をお見舞いされるに違いない。危ない危ない、と部下はちゃぶ台の向こう側に座る上司を見やった。
「えーと、それで隊長、本日の要件は?」
奇妙なことに、本日の隊長―アジュールは大人しかった。茶を出せとうるさく言わないどころか、ジッとちゃぶ台の木目を見つめているだけだ。部下に問われ、ようやく視線を上げ、爪の先を噛み切ってしまいそうな苛々とした口調で一言、
「一週間後、です」
そう言った。
生憎と部下とアジュールはツーとカーの間柄ではない。
「はあ、一週間後ですか。何かありましたっけ」
怪訝そうに返した部下は、次の瞬間殺人光線に見舞われた。彼の太ももすれすれに、畳に定規で引かれたような黒い線が刻まれている。部下は心臓が“きゅっ”と情けない泣き言を漏らしたのを確かに聞いた。
「一週間といわず今この瞬間あなたが死ねば、少しは私の気も晴れるような気がしてきました」
淡々と恐ろしいことを語るアジュールに、部下はその場で土下座する。その態度に一応満足したのか、アジュールは部下に向けた手を下した。部下は安堵の息をついたところで、ようやくその日何があるかを思い出した。
「確か、通行証の期日っスね」
部下が魔界へと一時帰還したのは数日前のことだ。人間界での研究活動を認められている彼は、一定期間ごとに一度なら自由に通行可能という“通行手形”を発行されている。その彼が先日アジュールに交換を強請られた“通行証”を持っていた理由は、アジュールに通行証を奪われた同僚が「一時帰還を求む」と送ってきたからだ。
隊長であるアジュールが人間界に来ていると知ったとき既に何か嫌な予感を覚えた部下であったが、予感は的中した。可哀そうな同僚は、通行証を奪われただけではなく魔王陛下への伝言も頼まれたという。理由が理由だけに魔王陛下も一応、忙しい部下が羽根を伸ばすにはいい機会だろう(意訳)と事後承諾を与えたらしい。
しかし当然、現状報告だけなら部下が呼び戻されることはなかった。同僚の思惑は、端的に言えば現状を目の当たりにしろ、ということだった。――デスクに積み上がる書類の塔、塔、塔、である。
幸か不幸か最上級悪魔の中でもアジュールが得意とする“書類仕事”の担い手は他にもいたが、アジュールの部隊【スパーダ】の連中が尻拭いをさせられるのは当然の帰結であり、部下の同僚は可哀そうな状態になっていた。
『俺たちのことは気にするなよ、この仕事はけっこう嫌いじゃないんだぜ』なんて強がりを言う同僚は、部下に一枚の手紙を渡した。無生物だからと畏れ多くも隊長に送りつけることのできるはずもない、俺たちが死ぬ前に早く帰ってきてくださいね、という嘆願状だった。
――ばかな、おれにこんなものが渡せるとでも?
手紙はまだ部下の手元にある。部下は自分の命がまだ惜しかった。
「……私は帰らねばなりません」
どんよりとした表情でアジュールは言った。
ぜひ帰ってやってください、あいつらホント切実な状況なんス。
部下は心の中で泣いた。
通行手形と違い、通行証は帰還期日は厳守することが使用の絶対条件となっている。人間界という異界に滞在する悪魔にとって、通行手形や通行証は守護術を施したお守りだ。持っているだけで魔力の変質を防ぐことができ、魔力の補てんも魔界に在るときと同様に行える。
ただしそれは決められた期限内だけのことだ。帰還期日とはまさしく効力が切れる日である。そうなったら最後、何が起こるかわからないのだ。最上級悪魔であろうとも、アジュールも例外なく帰還せねばならない。そしておそらく……と部下は推測する。
――おそらく一度帰還すれば、陛下が隊長を人間界に戻ることをそう簡単に許しはしないだろう。
ここで嘆願状を渡したら高確率で自分は死ぬな、と部下は遠い目をした。アジュールが帰りたくないのは一目瞭然だ。魔王陛下の妃探しが芳しくないから、という理由ではないだろう。
「櫻子さんに何と言えばよいか」
アジュールは唸るように言った。彼とて馬鹿ではないし、部下のように思うままに行き来できる身分でもない。それほど好きなのか、と部下は可哀そうな気分になった。こういうとき最上級悪魔は不憫だと思う。魔力保有量が大きいほど、悪魔の位は高くなる。その頂点が魔王、次席が最上級悪魔だ。
遥か高みにいる彼らを“獣”と呼ぶ者はいないが、その性質はそれとよく似ていた。甘く蕩けるような声で“櫻子さん”と呼ぶ目の前の男は番の片割れにも等しい。盲目的で、独占欲の塊。彼らに愛される存在もまた、不憫なのかもしれない。ましてやそれが人間だ。はたしてどこまで、この男の在り方を理解し、受け止めることができるのか。
「その、連れて帰ったらどうっスか?」
怖々とそう提案すれば、アジュールは苦々しい面持ちとなる。
「……一つ、参考までに訊きますが、成人済みの女性のすべてを自らの手中に収めるためには、どのような手続きを取ればよいと思いますか?」
その質問に部下は思わず黙り込む。おそらく「結婚はどうすれば?」と訊いているに違いない。それを踏まえて考えてみると、いささか混乱した。
はたして隊長の言う“魔界の事情”は、自分の知るものと同じものだろうか。庶民的な常識として、恋人に結婚の申し込みをするのは人間界と同じだが、役所どうの、の話はない。承諾を得られれば同じ家に移り住む。それが魔界の結婚だった。つまり魔界の事情に照らし合わせれば、すでに同居しているアジュールと西宮櫻子はすでに“結婚”していることになる。
「あの、なんていうか、お二人はすでに結婚しているんじゃないッスか?」
「同居している、という点ではそうでしょうね」
アジュールはいささか困ったように表情を歪める。部下は嫌な予感を覚えた。
「……私たちはまだ完全な恋人関係にありません」
「ええと、それってつまり」
「舌しか入れられていませんが何か」
アジュールは開き直っていた。
この際「舌をどこに?」と訊くのは死に急ぐ愚か者だけだ。
「……それはなんていうか、凄いっスね」
恋人と同居している状況で、なんと可哀そうな状況だろうか、と部下は心の底から同情した。色んな意味で“さすが”と言わざるを得ない。部下の気持ちを推し量ったのか、アジュールはじっとりと暗い目で睨みつけた。
「櫻子さんがゆっくりがいいと言うんです。仕方がないじゃないですか。未だにキスをして抱きしめると真っ赤になって、舌を入れるだけで誘うように息を乱す櫻子さんに、すでに限界だ、褥を共にしろと言えますか?!」
そうとう参っているらしい。
「い、言えないっスね」
「子供でもできればともに帰る理由ができたでしょう。ええ、そうでしょうとも。名実ともに私のものです。まあ、櫻子さんの心はすでに私のものですが、余すことなく食べてしまいたいと思ってどこが悪いんですか。――ところで、あと三日あれば、人間界の一つや二つ消えてもおかしくないですよね?」
にやり、と黒い笑みを浮かべる。
「いやいやいやいや! ちょっとそれは待ってもらえるとありがたいかと! 西宮櫻子がそれを望むとは思えないっス!」
「もちろん、櫻子さんの故郷を滅ぼすなど冗談ですよ。せっかちはいけませんよ」
爽やかに笑った。
「は、はあ。書き留めときます」
部下は疲れ切っていた。一方のアジュールは何か良いことを思いついたようで、奇妙なほど明るい笑みを浮かべて見せた。ぽん、とこぶしで掌を打つ。
「いいことを思いつきましたよ。このような状態で櫻子さんと離れるなど馬鹿のやることです。あちらに帰らなければ万事解決です」
「ちょ、ちょちょっ! ちょっと待ってくださいよ! それは駄目っスよ!」
部下が縋りつくが、アジュールは考えを改める気はないようだ。
「嫌です。もう決めました。残っても妃探しはいたしますと、あなた、陛下にお伝えしなさい」
「えええええ!」
部下が悲痛な叫び声をあげるも、アジュールは満足げな笑みを浮かべるだけで意に介する様子もない。良い考えですね、と壊れたように笑うだけだ。
部下は思った。もしも隊長が帰らなければ、もちろん隊長自身にも何が起こるかわからないが、魔界で喘いでいる同僚たちはどうなるだろうか、と。
ひっかきまわした挙句爆弾を投下した彼の上司は、すでに部屋の中から姿を消していた。冗談めいた口調だったが、その表情はまったく本気だった。もうたった一人しか解決できそうな人物は思い浮かばない。
部下は意を決した。
試験的に行間の取り方を変更しました。前と比べていかがでしょうか。読みやすいとの反応がいただけましたら、今までの話も編集していきたいと思っています。変えないほうがいいとのご意見も大歓迎です。
ご協力いただけると嬉しいです。
→1/7 すべて変更させていただきました。ご協力ありがとうございました。




