何か問題でも?
窓を叩く雨音は柔らかく響き、紙面を滑るシャープペンシルやカラーマーカーの音と混じって居心地の良いBGMとなっていた。リビングテーブルに向かい合って座る櫻子とアジュールは、互いにレポートと雑誌のチェックを片手間にちらちらとお互いの様子を窺っているのだが、絶妙なタイミングでそれぞれ顔を上げるので、すれ違って未だ視線が交わることはない。しかしどちらか一方がじっと見つめる体勢に入れば状況は一転、そろりと上向いたもう一方の視線と合致し、室内に雨音だけが響きはじめる。
「………えっと、はかどった?」
じっと見られていたことを知り、櫻子の頬がほんのりと赤く染まる。照れ隠しに視線をさまよわせ、誤魔化すようにそう訊いて、窺うように視線を上げた。その表情の変化を余すところなく堪能したアジュールは、カラーマーカーをテーブルに置き、櫻子の手からもやんわりとペンを奪う。櫻子の爪を指で撫で、名残惜しげに掌を重ねた。櫻子はぎょっと目を見開くが、すでに手首は掴まれていた。
「ええ、とても」
櫻子に聞こえるのは、柔らかな雨音と、酷く煩い心臓の音だけだ。アジュールの指が手の甲を撫でるたび、その軌跡がひどく熱を帯びたように感じた。こういうとき、どうすればいいのだろうと彼女は混乱に陥る。激しいキスよりも甘い言葉よりも、静寂の中でそっと触れられる方がよほど、はっきりとした意図が読み取れた。“何か”を求められているなんて、そんな曖昧な言葉では表せそうにない。
しかしアジュールは何も言わない。だからこそ、その心を読み取ろうとする自分に居たたまれないほどの恥ずかしさを覚え、こうしている間にも温い湯につかるように、じわじわと欲望に塗れていくのだとそう思った。
もう少し大人になれば、こうした戯れも穏やかな時間と変わるのだろうか。鼓動も緩やかに、手を握り返す余裕が生まれるのだろうか。
――そんな自分、まるで想像ができない。
そう思い、柔く唇を噛んだ。
「櫻子さん、どうかしましたか?」
不審げに眉を顰めたアジュールの問いに、櫻子はしばし呆然としてから慌てて首を振った。少しずつ毒されつつある自らの思考など、打ち明けられるはずがなかった。秀眉を歪める美貌の悪魔は、いったい何を考えているのか。
今このとき、この場所で、わたしといて、手に触れて、何を思う?
愛しいと名を呼ばれ、優しくされ、ほほ笑まれ、甘い口づけを受け、そっと抱き寄せられて、想像もつかないスピードで恋は加速し、櫻子の想いは確実に大きく、深く、恐ろしさを感じるほどに成長していた。前よりずっと惹かれて、恋して、溺れる自分に戸惑い、ときどきこれは現実なのかと疑ってしまうこともある。
「……アル、触ってもいい?」
そっと腰を浮かし、空いているほうの手をアジュールの顔へ伸ばして、櫻子はそう訊いた。嬉しそうに頷いた悪魔の頬に手を当てて、その温かさにホッとする。
――アルが好きだ。どうしようもないほどに。
静寂に身をもたげると、切なさが隙間風のように忍び込んでくる。彼に近づきたい、と櫻子は思った。同時に、ほほ笑む彼をずるいと思う。自分を卑下するつもりはないけれど、見惚れるほど綺麗な顔だ。考えてはいけないけれど、どうして自分なのかと思ってしまう。成人済みだとそれだけにすぎない自分とは違い、定義など知らないが彼は大人だった。恋人として隣にいて、それまで知ろうとしなかったことがすべて、“知りたい”に変わった。いつでも聞けると思って先延ばしにしていたことが、今はただ少し怖い。
知っていることと言えば、彼は最上級悪魔で魔王陛下の側近で、妃候補を探していて、美少女に変身できて、金髪の部下の人がいると、それくらいだ。家族はいないと最初に聞いたけれど、こんなにかっこよくて、あっちに誰もいないのかな。不安がそっと忍び寄る。
ねえ、わたしのこと、どう思ってる?
「櫻子さん、そんなに見つめられると困ります」
「え?」
ふいに我に返って、見つめているうちに随分と顔を寄せていたことに気づいた。慌てて距離を取り、椅子に座りなおす。やや残念そうに笑ったアジュールは、するりとつないでいた手を解いて立ち上がり、ソファに腰掛けると、隣を叩いて櫻子を呼び寄せる。
少し間を開けて座った櫻子の腰に手を回し、やんわりと抱き寄せてもう片方の手で小さな顎を取り、頬に唇を寄せ、掠めるようにして下り、唇に到達して口づけを交わす。弱弱しい抵抗を受け、顎に当てた手を後頭部に置いてそれを阻んだ。
雨音に水音が混じり、掠れた吐息が重なった。得体の知れない感情が櫻子の全身を突き上げるようにして湧き、与えられるだけのキスに溺れていく。目じりから涙がこぼれ、抵抗を続けていた両手は自然とアジュールの背中へ回った。息継ぎの合間、途切れ途切れに「アル」と呼ぶ。
内側から自分が変わっていく。
そしてそれを、自分という人間は受け入れつつあり、喜びを見出し始めている。
櫻子は漠然とそう思った。
「雨音を聞くと、この世界に二人きりになったような、そんな気分になりませんか?」
不規則に乱れた息が整ったころ、ぐったりとした櫻子を気遣ったのか、珍しく手ずからコーヒーを入れたアジュールは、カップを差し出しながらそう言った。ありがとうと言って受け取った櫻子の隣に腰掛けると、カップに口をつけたのち、思い出したように付け加える。
「もしかしたら明日にはもう、私と櫻子さん二人きりになっているかもしれません」
愉快そうな言葉に、二人きり、と櫻子は反芻した。
アルとわたしの二人きり。他には誰もいない。それはきっと寂しいのだろう。家族も友人も、アルの他には誰もいない世界なのだ。しかし、それでもきっと、とほの暗い気持ちも芽生える。二人きりになれば、知らない過去も、あちらもこちらもたった一つに溶け合って、心に巣食う不安など消えてなくなるだろう。嫌な考えを誤魔化すように、櫻子は口を開く。
「雨音の向こうには、また別の世界が広がってるんだよ。知らない誰かが、同じこと言ってるかもしれないね」
「――私と二人きりは、寂しいと思いますか?」
コーヒーを一口すすり、アジュールは櫻子を見やってそう尋ねた。桜子もまた、じっと彼を見つめ返す。
「わかんない」
と櫻子は苦笑した。
「でも、アルがいないと寂しいってことだけは、わかる」
「十分です」
アジュールは幸せそうにほほ笑むと、櫻子の額にキスを落とした。擽ったそうに身を縮める彼女を見下ろして、眩しいものでも見つめるように目を細める。
「雨の日は不思議と仕事がはかどるんです。気を散らすと何かが忍び寄ってくる気がして、それが何かもわからずに、机に向かって淡々と仕事をこなすんですよ。静寂に満たされた部屋が雨音に包まれて、何もない空間に放り出されたような妙な浮遊感がありました。今から思えば、あれが孤独というものだったのかもしれません。最上級悪魔たる私が孤独に寂しさを覚えたとは思えませんが、ひどく冷たかったのを思い出しました」
苦笑するアジュールに、櫻子はカップを抱えたまましばらく無言だった。
「……雨の日は、誰かに電話したかな。誰かの声が無性に聴きたくなって、特にお母さんの声とか。こっちは晴れてるって言われると、寂しくなったことが馬鹿馬鹿しく思えたけど、電話を切るとやっぱりまた寂しくなった。今は、その、アルがいるから平気だけど」
「それは光栄です」
にっこりと笑う悪魔を見上げ、櫻子は考え込むように唇を突きだした。完璧にも思えた彼には足りないものがあるとふと気づく。それは恥じらいだ。
「……あの、その、アルは」
「私がどうかしましたか?」
まるで幼子に聞くかのように覗き込まれて、櫻子は出かけた言葉を飲み込む。アルは私といてどう思うか。そう尋ねることがとても子供っぽく思えた。そんな櫻子に、アジュールは珍しくも小さく噴き出した。
「雨の日、私は好きですよ。櫻子さんがいつもより積極的で、何やら思い悩む姿は新鮮で、私がいないと寂しいと言った日ですから。ちなみに電話はもう禁止です。私がいれば寂しくないですからね」
一人楽しげに笑うアジュールを、櫻子は赤くなった顔でじとりと睨みつけた。
「なんです?」
とアジュールは余裕たっぷりの笑みを浮かべ、片方の眉を上げる。
「やっぱり、アルと二人きりになったら困る」
と櫻子は頬を子供っぽく頬を膨らませた。心外そうに眉を顰めたアジュールは、やや不機嫌そうに詰め寄る。
「困る? なぜです」
「アルはわたしを馬鹿にしてる」
「なんですか、藪から棒に。していませんよ」
「アル、何歳?」
「は?」
「いいから! 何歳なの!」
突然怒り出した櫻子に、アジュールは不審そうにしながらも答えを口にした。
「27、ですが」
「にじゅう、なな?」
予想外だ。年上だとは思っていたが、まさか七つも上だとは。
せいぜい23、4を想定した櫻子は、驚きのせいで怒気が収束してしまった。それはまあ、大人なわけだ。むしろ、27にしては子供っぽいのではないかとさえ思える。
「………なんです、何か問題でもありますか。櫻子さんは成人済みだと聞きましたが?」
「え、あ、そうだね、わたしは二十歳だけど」
「ならば問題ないでしょう。……なんです、その目は」
「いや、あの、予想外に年上だったというか、アル、歳より若く見えるから」
「受け取り方によっては貶されているようにも聞こえますが、まあここは素直に受け取っておきましょう。それで、それがどう馬鹿にしていることに繋がるんですか?」
「え、あ、いや……」
23、4ならば、たった数年の違いで大人ぶってる、とでも言えただろうけれども。27歳の視界など想像できるものではなく、櫻子にとって27歳は紛うことない大人だった。
「えと、その、わたし、子供っぽいかなって、いうか」
自分で言って、櫻子は打ちのめされた。初恋、初の恋人、キス、すべて与えられて、それから先はもうちょっと待って、と甘えて。その上馬鹿にしているとわけのわからないことを言って。ついでにいえば平平凡凡な顔立ちで、探せば似た様なのがいくらでもいそうなただの大学生だ。なんなのわたし、と櫻子はかつてなく自分を罵った。
「子供っぽいかそうでないかと訊かれれば、子供っぽいでしょうけれど。いいんじゃないですか、新鮮で」
「し、しんせん」
櫻子の脳内に、魚の生け作りが躍った。アジュールはふと思い耽るように顎に手を当て、櫻子を上から下へとまじまじと観察し始める。
「まあ、不可なく、といったところです」
「えええ」
ざっくりしすぎだ、と櫻子はがっかりした。
「化粧っ気がないのはいかがなものかと思ってはいましたが、触れるには素肌のほうがいいですね。泣いて崩れるよりよほどいい。唇にはいつも何か塗っていますね? 苺の味がします」
「り、リップを、その、イチゴ味の…それを少々」
赤裸々なコメントに櫻子は息も絶え絶え答えた。これではまるでアルのために塗っているみたいだ。唇が乾燥しがちで、イチゴ味が好きだからと単純な理由だというのに…! 言い訳しようと口を開いたが、アジュールに先を越されてしまった。
「珍妙なものがあるのですね。毒入りのものは聞いたことがありますが。チーズケーキ味はありますか?」
「な、ないかな?」
と首を傾げれば、27歳の悪魔はひどく残念そうな顔をする。しかし落ち込むことでもなかったらしく、すぐに嫣然と微笑んで、反笑いの櫻子を宥めるように言った。
「安心なさい。前に言ったでしょう、手取り足取りと。何もかも私が初めてなのですからね、子供っぽいのも当たり前です。そういうのはむしろ、初々しいと言うのですよ」
「ういうい……」
アルが言うと何だか如何わしいのは気のせいだろうか、と櫻子は内心思った。
「心配せずとも櫻子さんの望み通り、別段急いだりしません。ええ、出来うる限りは。たまに今日のように積極的になればよいかと思いますよ」
27歳。新たに知ったことを踏まえて今の発言を反芻すると、なぜだか目の前の悪魔がたいへんな玄人に思えてきて、櫻子はもう悩んでも仕方がないのでは、と考えを改めた。自分が焦っても仕方がないし、どうやってもこの27歳には敵いそうにないし、追いつけるはずもなく、またその必要もなさそうに思えた。くすくすと笑い出した櫻子を、アジュールは怪訝そうに見つめる。
「櫻子さん、何がおかしいんですか? 私にも教えなさい」
なんでもないよ、と櫻子は笑うだけだ。恋人に隠し事ですか、と美貌の悪魔は不満そうだ。それでも明かそうとしない櫻子をアジュールが押し倒す頃には、窓の外の雨は止んでいた。
分厚い雲が割れ、日差しが地上に降り注ぐ。部屋の中は、二人の戯れる声で賑わっていた。
1/7 行間に変更を加えました。




