聞いてますか
西宮櫻子はメールを打つ間、眉間にしわを寄せていることに気づいていない。
長い間使っていた携帯電話をスマートフォンに買い替えたのは割と最近のことだ。ボタンを押す感覚に慣れ切っていたことと、もともとメール機能を頻繁に使用することがなかったので、画面に映るキーボードを打つ作業に酷く時間がかかる。慣れればどうってことないですよ、これからはスマートフォンの時代ですと店員に勧められて買ってはみたが、キーを上手く押せずに誤字に苛々することが頻発した。未だに指を使って画面の拡大縮小ができないのだから、その不器用さは悲しいほどである。
友人の巧みな操作に妬ましさを隠しもしない櫻子を見て、教授を買って出た友人たちはみなその不器用さに白旗を上げた。
そんな事情は知らないものの、苦手なのだろうとは察したアジュールは気を遣ったのか少し間をとってソファに座っていたが、すでに櫻子がメール作業に没頭して数十分経ったこともあり、離れていた身体をじりじりと櫻子へと近づけていく。
「あ、また間違えた……」
誤字を打つたびムッとしたように突き出される唇に、アジュールの視線は自然と引き寄せられる。打った文章を呟きながら作業を進めているらしく、「あ、し、た、だ、い、が、く、で」と読み取れた。明日大学で。そうはじき出すことは頭脳明晰な彼でなくても簡単だ。その続きはまた誤字が続いたらしく読み取れない。
明日大学で? とアジュールは怪訝に思う。
努めて冷静に分析するが、身元不明のメール相手が今この瞬間消滅すればいいのに、と物騒な結論に至る。夕飯も終わって、恋人との時間を満喫していた彼が苛立ち始めるまで、そう時間はかからなかった。
そもそも出来うる限りメールを避けたい櫻子が送るはずもなく、愛の精神攻撃と言い換えることも可能なアジュールとの甘い時間を過ごしていたとき、突然水を差すような着信音が響いた。生意気にもあの金髪の部下も所持している、アジュールにとっては邪魔でしかないものの存在が櫻子の視線を独り占めにし、「ごめん、メール来たみたい」と“待て”を要求した櫻子は、差出人を見てすぐに返信せねばと思ったらしく、“待て継続”を告げた。
可哀そうなアジュールは大人しくソファに背をもたせかけて待っていたものの、まるで甘味を求める子供のようにじっと櫻子を見つめ始める。もちろん子供のそれと比べて可愛さの欠片もなく、無表情のまま凝視するのでむしろ怖い。よほど集中しているのか櫻子が一向に気づかないので、じりじり距離を詰める作戦に出たようだった。
「櫻子さん、櫻子さん」
それでも気づいてもらえないので、甘く呼びかけてみる。構って構って、と同意だが、ニュアンス的には「暇です、構いなさい」に近い。
「ん、なぁに?」
櫻子は視線は画面に向けたまま尋ねる。すぐ隣にアジュールが迫っているのは気づかない。
「まだ打ち終わらないんですか。よほど長い報告書でも書いているのでしょうね」
完璧な嫌味だ。
「んー、なぁにー?」
櫻子はまるで聞いていない。
「櫻子さん、櫻子さん」
「あとちょっと、だから」
適当にあしらわれ、アジュールの眉間に深いしわが寄る。恨めしそうにじっとりとした視線を向けたあと、ふと何か思いついたのか、むき出しになった櫻子の白い首筋に噛みついた。
「うわっ!」
とさすがの櫻子も驚き、ようやくアジュールを振り向く。
とたん、悪魔は満足げにほほ笑んだ。
「びっくりした……突然なに?」
「なんでもありません」
至極冷静に告げる。
「えええ……びっくりしたなぁもう」
櫻子はそれだけ言って、再び画面に視線を戻す。普段なら恥ずかしさに赤面するのだが、意識がメールに向いていて効果が半減したらしい。思惑が外れたと言わんばかり、アジュールは唇をゆがめ、しかし諦める気はないのか、
「櫻子さん、櫻子さん」
「んー」
返事もおざなりになってきた。
「櫻子さん、聞きなさい」
「んー」
釣れない相槌に拗ねたのか、アジュールは唇を真一文字に引き伸ばす。
「そんなの止めて、私に構いなさい」
とうとう本音でもって訴え始めるが、返ってきた返事は同じだ。アジュールは意地になりだした。
「櫻子さん、私は空腹です。給餌を求めていますよ」
「もう日付が変わってしまいますよ」
「櫻子さん、櫻子さん、そろそろ寝ましょう。一緒でないと駄目ですよ」
これらすべてに、櫻子は「ん」と頷くだけだった。
アジュールは最後の手段に打って出る。勢い櫻子をひじ掛けの方に押し倒すと、両腕を抑え込み馬乗りになり、驚いて間抜けに開いた口に舌をねじ込んだ。うぐうぐとくぐもった攻防は明らかにアジュールが優勢で、とうとう櫻子が涙目になったところで解放する。
得意顔で体を起こした悪魔は、呆然として息を荒げる櫻子に昂然と言い放った。
「これに懲りたら、最上級悪魔を甘く見ないことですね」
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