おやすみなさい
日常短編は、本編「悪魔め!」以後の日常の一コマです。未読の方は先にそちらをどうぞ。
時間が前後しています。わかりにくくてすみません。
「理解しがたいですね」
「りかい、しがたい?」
西宮櫻子は美貌の悪魔の言葉を呆然と反芻するも、それが何を意味するのかすぐには理解できなかった。
「ええと、……ええと?」
現状をいえば、櫻子が仕舞いこんでいた客用布団を取出し、リビングの定位置に置いたところに、部下の部屋に荷物を取りに行ったアジュールがちょうど戻ってきたようである。今日からまた二人暮らしだと、恋する乙女は浮き浮きしながら甲斐甲斐しく準備をしていたのだが、戻ってきた美貌の彼は布団を見るなり眉間にしわを寄せた。
「理解しがたい行動ですね」
「りかいしがたい?」
どのあたりが? と櫻子は困惑する。ここで冒頭に戻る。
つい数時間前、二人は想いを通わせた。悪魔曰く、恋人ならばひと時も離れていられないのだそうだ。付き合い始めってそうだよね、と櫻子は小説や漫画から得た知識をもとに、そう納得した。またここにお世話になるのは必然です、とアジュールは部下の部屋に向かい、櫻子は軽く掃除をしてから布団の用意をした。大体の流れを見て、櫻子の行動に別段おかしなところはない。
理解しがたいと言い放ったアジュールは、そう多くはない荷物をリビングの入口において、つかつかと櫻子の方へ歩み寄った。
「これはなんですか」
と布団を指差す。
「布団だけど……」
前にも説明した気がする、と櫻子は不思議そうな顔をする。
「つまり私はここに寝ると、そういうことですか」
「そうだね。良ければ使って」
今更ベッドでないと眠れないと、そんな我が儘を言うことはあるまい。そう思って櫻子は頷く。
「よくありません。“悪魔”の所業ですか」
アジュールは心外そうに顔を顰める。
「えええ……」
悪魔の所業ってなに。
櫻子は思わず自分の耳を疑った。何も言えずにいる櫻子に、アジュールは呆れたように告げる。
「私たちは恋人ですよ。どうして別れて眠る必要が?」
「はい?」
「ひと時も離れていてはいけないのです。一緒に寝るのが道理ですね」
道理ってなんだっけ、と櫻子は本気で考えた。アジュールは櫻子のそばにしゃがみ込むと、たたまれた布団の上に彼女を押し倒した。
「もちろん、一緒なら布団でも構いません。多少暴れても、ベッドと違って“落ちる”危険性は低いですから」
「え、あ、いや、あの」
櫻子は急な展開についていけず、おろおろとするばかりだ。
「ただし、ベッドと違って、別の意味で随分と下に響きそうですが。きしむ心配はありませんね」
布団の利点について見直す必要がありますね、とアジュールは感心したように付け加えた。
櫻子は思う。何言ってんだこの人、と。
言いたいことは分かったし、何を求められているのかも理解したが、到底承諾できる内容ではない。少女漫画だってそういう段階に至るまで、少なくとも数ページは使うはずだ。現実に換算しても数時間足らずな訳がない。せめて数日。もっと穏やかな恋人関係を築きたい。第一、毎回食い尽くすようなキスをされた上に、さらに貪られては体がもたない。精神力も擦り減るばかりだ。もちろん、嫌ではないけれど。嫌ではないけれど、乙女心は複雑だ。
「わ、わたし! 初めてなの!」
僅かな沈黙にもキスを仕掛けようとする悪魔の口を慌てて塞ぎ、必死に起き上ってのち、櫻子は混乱した頭でそう告げた。その手を引きはがし、アジュールはにっこり笑う。
「分かっています。すべて任せなさい」
「い、いや、そういうことではなくて、その、申し出は有難いんだけど」
「遠慮はしてはいけませんよ」
してません、と思ったが、先に主張すべきことはある。
「あの、は、はは、初めてっていうのはね、その、す、好きな人と付き合うってこと自体がそもそも初めてで、キスもアルが初めてで、告白したのもアルが初めてで、い、いろいろと、全部初めてなの。意味、わかる?」
「手取り足取り、ということですね」
あけっぴろげな告白に、アジュールは大変満足げだ。
「そ、そうじゃなくて、その嬉しいけど、でも、そうじゃない。じゃなくて、もっとゆっくりが、いいんだけど」
このままじゃ三段跳びもいいところだ。そういう意味を込めて言ったのだが、アジュールには不可解だったのか、スッと眉が顰められた。
「――あけすけに言えば、私はそれほど早くはありません」
「はい?」
玄人と初心者の相互理解は難しそうだ。アジュールの意味するところを、櫻子は察することができなかった。
「まあ、心がけの問題なら、いくらでも速度は落とせます」
「ほ、ホントに? わ、私ね、ホントはその、キスとかよりも先に、手をつないだり、デートしたり、そういうのがしたかったんだぁ」
嬉しそうな櫻子の発言に、アジュールのほうが互いの意味するところの違いに気づいた。
「……ああ、なるほど。その“ゆっくり”ですか。少し驚きました」
「ん? どういうこと?」
「知る必要はありません。櫻子さんは無垢なままでいてください。時が来るまでは」
「はあ」
分からないなりに適当に返事をした櫻子に、誤魔化すためか単にしたくなったのか、アジュールは軽い口づけを施す。
「櫻子さんが言うのなら、出来うる限り努力しましょう。しかし、櫻子さんは私の努力を酌まねばいけませんよ。飽くなき空腹は、常に満たされずにいるのです」
念を押されたその意味を深く考えてはいけない、と櫻子は察した。
あんまり拒むと暴走するぞ、なんてこと。
――生々しいにも程がある。
「とりあえず、今の段階で留めておくので、一緒に寝ることは許可しなさい」
「えっ、で、でも、私のベッド狭いし……」
ごにょごにょと言い訳する櫻子を、アジュールはため息をついてたしなめる。
「櫻子さん、些細なことに気を取られて本質を見失ってはいけません。狭くてそれが何か問題でもありますか。物質的な問題を解決するのは自助努力ですよ。二人の距離をゼロ距離にすれば解決します」
理路整然と言ったが、意味は「つべこべいわずに、一緒に寝ろ。狭けりゃくっつけばいいだろう」だ。
「ぜ、ぜ、ゼロきょり?」
想像してしまい、一気に頬を染める櫻子。悪戯心が刺激されたのか、アジュールは再び櫻子を押し倒し、鎖骨のあたりに顔を埋め、両腕を櫻子の背に回す。
「これがゼロ距離です」
首元にアジュールの吐息を感じ、櫻子の顔に一気に血が上っていく。こんなの眠れるはずがない、と遅ればせながら確信する。この悪魔、私を寝不足で殺す気だ。どうにかして説得しないと、と櫻子は起き上がろうとするが、アジュールの重さでびくともしない。無駄な抵抗を続ける櫻子をしり目に、アジュールは僅かに下方にずれて、ふと呟いた。胸のあたりに重みが移り、内心「ぎゃっ」と悲鳴を上げた櫻子だが、その呟きに声を出すことはしなかった。
「こうしていると、櫻子さんの心臓の音が聞こえます」
「……うるさく、ない?」
先ほどからドキドキしっぱなしであることは、櫻子自身よく分かっていた。
「不思議と落ち着きます。櫻子さんがこうして私のそばで、生きている。その証拠ですね」
「う、うん」
「――眠ることは、ただの魔力補填にすぎないんです。最上級悪魔ともなれば、最低目を閉じて、ほんの少し夢をさまよえば、ただそれだけで問題はない。広いベッドの上でその時が訪れるまで天井を見つめ、ときに数を数えるんです。百から順番に下っていく。ゼロになるまで数えて、それでも眠れないときは、もう一度同じことをするんです。――ずっと、ゼロばかり数えていました。くだらない話ですね」
小さく苦笑するアジュールに、櫻子は人知れず唇を噛む。アジュールの広い背中に腕を回し、そっと撫でた。
「一緒に、数える?」
震える声で訊けば、とろけるような声で「いいですね」と頷きが返ってくる。ぽつりぽつりと数えはじめ、その規則的なリズムが眠気を誘ったのか、アジュールの体温が心地よかったのか、精神的な動揺からの疲れも手伝って、櫻子の目がうつらうつらとし始めた。
「櫻子さん、眠いのならベッドで」
「だめ、数がわかんなくなる……えっと、にじゅうはち、にじゅう、なな、…ほら、アルも」
促され、アジュールは一つため息を落として数え始めた。櫻子も一緒になって数えだす。しばらくして、
「ごー、よん、さん、にー、いち、……ぜろ。アル、ぜろだよ」
「ゼロですね」
「ねむく、なった?」
と尋ねる櫻子は半覚醒状態だ。アジュールは苦笑を禁じ得ない。
「ええ、おかげさまで」
そうかそうか、とぐだぐだになって数度頷いた櫻子は、満足げににへらと笑って、寝ぼけているらしくアジュールの後頭部に手を回し、勢い起き上がって秀でた額にキスを落とす。とたん目を丸くしたアジュールなど気にする様子もなく、ふわりと笑って、再びばふっ、と布団に体を預けた。ふふふ、と妙な笑いをこぼし、
「ぜろだよ、アル。……おやすみなさい」
寝言のようにそう零し、本格的に夢の世界へと入ってしまう。
その瞬間、アジュールはふと忘れていたことを不思議なほど鮮明に思い出した。幼いころ、ゼロまで数えた後、「おやすみなさいませ」と上掛けを直した存在がいた。どうして忘れていたのか。その理由は分からないでもない。
「ええ、おやすみなさい、櫻子さん……」
生憎と今もまだ眠れそうにない。そう思いつつ、アジュールは櫻子の鼓動に耳を傾けた。失くしたものはこれだった。「おやすみなさいませ」と彼を撫でた手の温かさはもうない。しかし“この”温かさはもう二度と失うまい。
「――櫻子さん、櫻子さん、……櫻子さん」
愛しい、愛しい、愛しいと、どこか苦しげに悪魔は呼んだ。
1/7 行間に変更を加えました。




