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心得なさい

上の続き 上・中・下の下の部分です

 講義も終わり、帰途についた櫻子は買い出しのために商店街の食料品店に立ち寄っていた。その表情は暗い。まだ特別な名前が決まっていないのだと、事情を知る者がいたら瞬時に察することができただろう。講義中もノートを取る手をおろそかにしてまで考えに耽ったが、いい考えは浮かばなかった。名前って難しいんだな、と的外れな結論に至っただけだ。


「なまえ、なまえ、なまえ……」


 今晩の食卓に必要な材料はすでに頭に入っている。どこか上の空でも、それらをカゴに入れることは問題なくできた。だが、ふと呼ばれたことには気が付かず、そのまま通り過ぎようとして肩を叩かれる。


「あれ?」


 と見上げればそこには相模圭治がいた。サクと呼びかけ、見事にスルーされ、相模は少し困ったように頬を掻く。思えばアジュールのとんでもない勘違いの、通行人を巻き込んだ一件以来、彼とは顔を合わせていなかった。ハッと思い出してすぐ、櫻子は申し訳なさそうに謝る。


「あの、この間はごめんね。ちゃんと誤解は解いたから。その、そっちは大丈夫だった?」

「あ、いや、問題なかった。サクが出てきたから納得したってのもあっただろうけど。ほら、よく分かんねぇけど、そういう感じはしなかったから、って。独特の雰囲気ってやつ?」

「なんだかよくわかんないけど、誤解がないならよかった」


 見る限り丸く収まったようで、櫻子はホッと胸を撫で下ろす。


「サクは、夕飯の買い物?」

「ん、そんなとこ。そっちは何買うの?」


とカゴを覗き込もうとすれば、相模は慌ててカゴを後ろに隠した。気まずい雰囲気が漂い、まずいと感じたのかおずおずと説明し始める。


「あ、いや、その、えーと、ちょっとな、その、あいつが来るって言うから」


 恥ずかしそうに言葉を濁す相模の耳は赤く、そんな表情に櫻子は内心驚いていた。長い付き合いだが、あまり見たことがない表情に、これが正しい恋人へのものなのだろうと、自己流に分析してみる。思えばアジュールの前でも赤面してばかりだ。


「彼女と、上手くいってるんだね」

「ま、まぁ、なんつーか、割と」


じわじわと赤らむ顔に、微笑ましさを感じてしまう。


「ね、彼女のこと、なんて呼んでるの?」

「な、なんてって、いや、ふつーに名前で、下の名前で、ほら、呼び捨てだよ、ふつーに」


 動揺が半端ない。思わず櫻子が笑うと、相模は悔しそうに頬を膨らませる。成人男子がやってもちっとも可愛くないが、櫻子は可愛い弟を持つ姉の気分だった。


「そうか、名前か」


 思わず繰り返して、ふとアジュールの言葉が蘇った。初めて名前を呼んだ彼の声は、まるで鼓膜に焼きついたように、彼女の心を捉えて離さない。涼やかな声が「さくらこさん」と形を変えたあのとき。それは後にも先にも、特別な瞬間だった。


 ――さくらこさん。


 それが特別かどうかはわからない。

 でも、それは確かに「わたし」を形容する一番の言葉だった。



「サク?」


 呼びかけられハッと我に返ると、相模が不思議そうな顔をしていた。


「あ、ごめん、ちょっと考え事。気にしないで」


 慣れ親しんだ「サク」の呼び名。友人から「サクラ」と呼ばれることも悪くない。でもそこにときめく自分はいなかった。そうしてふと気づく。特別な名前は、すぐそばにあったということに。




 相模と他愛ない話をして、櫻子は晴れやかな表情で食料品店を出た。家路を急ぐ足も軽い。帰宅するとアジュールは出かけているのか、部屋はしんと静まり返っていたが、寂しさは感じなかった。さっそく夕飯の準備に取り掛かる。

 チーズケーキを焼いて、冷やしておこう。

 ハンバーグに、ポテトサラダ、オムライス、あと何品か作って、それから、それから。


 あっという間に時間は立って、玄関のドアが開いてアジュールが帰ってきた。迎えに出れば、まるで少女漫画の展開だ。当たり前のように引き寄せられて軽いキスを交わすのはいつものこと。ただ今日は、お弁当ありがとうございますと、舌が絡められ呼吸が乱れる事態に陥った。

 恥ずかしさにむくれる櫻子を気にした様子もなく、腰に手を回してまとわりつく怜悧な美貌の持ち主はリビングまでの数歩の距離で何度も彼女を引き留めた。恐るべき一週間記念。身をよじれば、これが悪魔ですとささやかれ、恐るべき悪魔の習慣と目を見張る。


 すっかり食べられた感満載の櫻子は、つやつやとした美貌の悪魔に至極冷静に「空腹です」と夕飯のメニューを尋ねられた。ハンバーグは大好物だと分かりきっているのだが、聞いた途端「良い選択です」と微笑むアジュールにつられて笑ってしまう。「褒めているんですよ」と、顔を寄せてくるアジュールをやんわりと制し、怪訝そうに眉を上げる前に食卓に誘う。


 すっかり夕飯の準備が整った食卓に、スーツの上着を脱いだアジュールが腰を据えると、櫻子も向かい側に腰掛けた。


「チーズケーキも焼いたよ。今は冷蔵庫で冷やしてある。あとで食べようね」


「楽しみにしています」


とアジュールは目を細めた。




 食卓に並んだ料理が綺麗に平らげられ、空になった皿もキッチンのシンクに片付けられると、ようやくチーズケーキの登場だ。ワンホールのそれをまじまじと見つめ、櫻子が切り分けようと皿をナイフを持ってきたところに、アジュールは「貸しなさい」とナイフを求めた。


「切ってくれるの?」

「刃物の扱いには自信がありますからね」

「えっ、料理得意なんだ?」

「違います」


 どういうことだ、と櫻子は混乱した。まさか刃物違いだとは思ってもみないことだ。


「邪推しないように。さて、切り分けましょう。私と櫻子さんの二人だけですから、造作もないことです」


 とワンホールを真っ二つに切った。なるほど造作もない。櫻子の笑顔が歪む。


「えっと、でも、食べにくくない? お皿に乗らないし……」


 と遠慮がちに訊くころには、アジュールは皿に取り分けるでもなく一口食べていた。


「食べないのですか?」


と心底不思議そうに訊かれて、まあいいか、と櫻子もそのままフォークをつける。


「なるほど、これがリッチな味わいですか」

「チーズが主張してるね」

「この間のマフィンとやらも悪くはありませんでしたが、このチーズケーキも悪くありません。櫻子さんの味がします」


 最後の一言を聞き、櫻子は「うぐ」と咽た。


「落ち着いて食べなさい」


と言われて、恥ずかしさも手伝い真っ赤になる。冷静な美貌を崩してやろうと涙目で睨みつけ、


「あ、愛情が入ってるから!」


 むきになって主張し、さらに赤くなって思わず俯く。


「それは心配ですね。料理を食べるたびに櫻子さんの愛情を食べてしまうことになります。その対策として考えられることは一つ、同等以上の愛情を、何らかの形で櫻子さんにも食べてもらえばいいと思いませんか。生憎と私は料理はしませんので、直接的にいただいてもらう方法が一番かと思いますが、いかが?」


 答えられるはずもなく、櫻子はますます俯いた。





 チーズケーキは明日に持ち越しされることなく、櫻子の食べた一切れ以外はすべてアジュールの腹に収まった。「すっかり擦り減る前に私に言いなさい」と再三にわたって厳命され、朝晩の送り出しお迎えのキスで十分だと返せば、「遠慮は無用」と微笑まれた。遠慮ってなんだ、と櫻子は本気で考えた。



「さて」


 洗い物も終わり、食後のコーヒーを片手に二人はソファに腰掛けていた。カップを持っていれば、毀れる危険性があるため、あららら、な展開に流されることはないとすでに学んでいる。嫌ではないが、節度がなければ櫻子の心臓は持ちそうにない。


「今日私が一番欲しいものは、いただけますか」


 いただけますね、と期待に満ちたアジュールに、櫻子は空になったカップを机に置いてから向き直った。とうに飲み干したらしいアジュールは当たり前のように櫻子との距離を詰め、ふと思いついたように唇を重ねる。


「コーヒーが付いていました」


 いけしゃあしゃあと理由を後付され、一言物申さねばと思ったものの、今は別にやるべきことがあると櫻子は思考を切り替える。


 ――言わねば。


「あ、あの、特別な呼び方のことなんだけど……」

「はい」


 驚くほどの上機嫌だ。思わず怯んで顔を俯かせた。心細さにアジュールの服の袖を掴む。


「あの、その、アジュールをアルって縮めるような、そういうのはこう、ホント、正直に言えば、思いつかなかったんだけど」


「ええ、それで?」


「も、もしかしたらアルは、別段こう、特別だって思わないかもしれないけど、でも、その、私にはやっぱりこれが一番っていうか、一番ドキドキするっていうか、アルに呼んでほしいのは」


「呼んでほしいのは?」


 促され、決意を胸に俯いた顔を上げ、見つめてくるターコイズブルーの瞳と視線を合わせた。


「櫻子って、呼んでほしいって、思った」

「櫻子?」


「うん、今までと変わらずに、櫻子って呼んでほしい。確かに私が新しく作った呼び方じゃないけど、誰に呼ばれるでもなく、アルに呼んでほしいのは“櫻子”だった。櫻子さんって呼ばれると、すごく嬉しくて、ドキドキして、アルが好きだって思う。呼ばれるたびに、特別だって思う。友達に“サク”とか“サクラ”って縮めて呼ばれるのも嫌いじゃないけど、ホントに私を呼んでくれてるって思うのは、“櫻子”って、名前で呼んでもらうことだった」


 必死になって言葉を募る櫻子を、アジュールは冷静に見下ろす。一切の感情が読み取れない、恐ろしくもある表情に櫻子は怯んだ。


「櫻子、ですか」

「だめ、かな……」

「困りましたね」


と息をつくアジュールに、櫻子はぐっと唇を噛んだ。服の袖を掴む手に力を込め、上目遣いに懇願する。


「アル、お願い。名前で呼んで」


 その瞬間、アジュールはふわりと微笑む。


「やぶさかではありません」

「ほ、ホントに?」


とたん櫻子は破顔する。思わず抱き着けば両頬を長い指に包まれて、互いの顔が近づき唇が重ねられる。呼吸の合間に「櫻子さん」と繰り返され、じわじわと熱いものが込み上げてくる。熱い吐息に変わったところで、名残惜しげに解放されると、優しげなターコイズブルーの視線をかち合った。


「櫻子さんの特別ならば、それのどこが問題なのか私には理解しかねます。櫻子さんの特別が、私の特別です。心得なさい」


 言葉とは裏腹に、アジュールの口調は優しく、甘ったるかった。

1/7 行間に変更を加えました。

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