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17/43

どうしよう

その後の二人、と題して。

 大学のカフェテラスの一角で一人、西宮櫻子は悩んでいた。注文したカフェオレはプラスチックの表面に汗をかいていて、安っぽい紙のコースターはすっかり水浸しだ。氷で嵩増しされた茶色い液体は透明な層とくっきり二分し、気づかず手を伸ばして一口飲んだとたん、櫻子の眉間に深いしわが寄る。


「マズ……」


 げんなりとして可哀そうなカフェオレをテーブルに置き、盛大なため息をつく。どうすればいいだろうかと思い悩むのは、おそらく人に訊かれたらくだらない問題に違いない。


 ――特別な呼び方について。


 一般にニックネームとか、愛称と呼ばれるそれを、櫻子は一生懸命考えていた。きっかけは今朝の、先日想いを通わせた悪魔――アジュールの一言である。





「櫻子さん、そろそろ一週間になりますね」


 櫻子お手製のオムレツサンドに舌鼓を打ち、満足げに頷きながらアジュールは朝食の席でふとそんなことを言い出した。一週間? と櫻子が持ち上げたカップを置き、小さく首をかしげると、不意にその顎を掴んで頬に唇を寄せる。外国映画のような甘いワンシーンをさらりとこなした後、赤面する櫻子に微笑んだ。


「一週間前、私は櫻子さんに特別な名を告げました。そして櫻子さんは特別な名を考えると言いましたね」


 いわゆる付き合って一週間の記念日、というやつか。いやいやまさか、そんなことをいうタイプにはとても見えない。そうだったね、と櫻子は挙動不審気味に答えた。


「一週間あれば、色々と考える時間もあったでしょう。早く教えなさい」

「はい?」

「特別な名前を教えなさいと言っているのです」


 どこか居丈高に言われたその一言が、そもそものきっかけだ。




 恋人ならばもうひと時も離れていられないのです、と冷静に告げたアジュールは、一時押しかけていた部下の部屋からさっさと引き揚げ、また櫻子の部屋に住むことにしたらしい。無理やり変えさせた魔界行のチケットも返したようだ。ギリギリまでこちらにいますよ、と幼子に言うように甘い口調で報告した。


 もちろん櫻子としてもやぶさかではない。少し照れながら「いいよ」と頷いた。相模圭治という元彼はさておき、アジュールは櫻子にとって初めての恋人である。その彼との二人暮らし。互いの誤解も解けて、人間と悪魔の相互理解も相成れば、甘酸っぱくもロマンチックな生活が待っていると期待するのも当然だ。


 別段ドライな性格ではないのだが、櫻子の予想としては、基本的な生活のリズムはこれまでとそう変わらず、朝昼夜の三食に愛情というエッセンスが加わり、会話に甘さが加わる。そんな少女マンガのような想像を展開していた。しかし、これがまた実に甘い考えだったことを、櫻子はさっそくその晩に思い知らされた。

 何度思い出しても赤面するのは必至な、それでも本人は素面でやってのけるのだから、悪魔とはかくあるべきかと、脳内悪魔のイメージが崩されていく日々である。




 それはともかく、名前だ。それも特別な。


「恋人となって一週間という記念すべき日です。特別な名前を教えるには良い機会だと思いませんか」


 確信をもってそう提案されれば、未だに思いつかないなどと言い出せるはずがなかった。


「そ、そうだね。確かに、記念日だもの」


 ぎこちなく相槌を打てば、アジュールはどこに隠し持っていたのかお菓子作りの本を取出し、いつ施したか分からない付箋のページを開き、掲載写真の一つを指差す。


「このチーズケーキと言うものは、記念日に相応しいように思います。これが今晩の食卓に出てきたとしても、全く問題はありません」


 まさかの記念日をケーキで祝えとのリクエスト。


「えーと、作るの?」

「チーズを二倍にするとリッチな味わい、と書いてあります。生憎と生活に困ったことはありませんが、お菓子のくせにリッチだと、その不可解な部分を解き明かしたいとは思いませんか」


 思いませんとは言えず、曖昧にほほ笑む櫻子に、アジュールは止めの一言を付け加えた。


「――ともかく、櫻子さんの料理でないと、私は嫌です」


 そんなことを言われて、どうして作らないなどと言えるだろうか。思わずニヤけそうになる表情を引き締め、大学の帰りに買い出しを忘れないようにしようと心に決めた櫻子だった。




 そんな会話があったのも今朝のことだ。チーズケーキは問題ない。材料とレシピがあれば簡単だ。問題は特別な名前であって、一コマ目が終わったあとの空き時間、こうしてカフェテラスで考えあぐねているわけである。もちろん、これまでまったくアイデアが浮かばなかったわけではない。どれも廃案と化しただけのことだ。


 愛称の単純な創り方は、名前を縮めたり、語呂が良いように何かを付け足すことだ。例に漏れず、櫻子につけられたニックネームも、サクやサクラと縮めたもので、すでにどれも呼ばれてしまっている。特別とはおそらく、誰にも呼ばれない名前を指すのだろうとはさすがの櫻子にも予想できた。


 サク、サクラが駄目なら、残るは、「サラ」「クラ」「サコ」「クコ」「ラコ」…まあそんなところだ。残念ながら、どれもピンとこなかったし、呼ばれたくはない。自分でないみたいだ。何か文字を付け足すのも妙である。さっそく暗礁に乗り上げた。

 しかし時間はない。おそらくアジュールは、今晩チーズケーキと特別な名前で記念日を祝えると期待しているだろう。どちらに比重が置かれるかと言えば、希望も含め、名前の方に違いない。目に見えて悲しんだり落ち込んだりすることはないだろうけれど、好きな人には喜んでもらいたいのが乙女心だ。


 しかし、まったくアイデアが浮かばない。


「あれ、サクラ?」


 ふと呼ばれて顔を上げれば、友人が手を振っている。軽く手を上げて応じれば、嬉しそうに寄ってきた。断りもなく向かい側の席に座り、ずりずりと椅子を移動させて櫻子との距離を縮める。


「なぁに? なんでこんなところに一人でいるの? 講義休みだったんだ?」

「ナナちゃんこそ、2限はどうしたの?」

「いやー、目覚ましがね、止まっててね」


遅刻したのと照れ笑いする友人に、櫻子も思わず笑いをこぼす。


「私は休講だったから、えっと、のんびりしてた」

「一人で? 何か考え事してたみたいだけど」


鋭い友人である。


「まあ、いろいろと」


曖昧に答えて、ふといい考えが浮かんだ。自分よりよほど社交的で、恋愛経験豊富な彼女にやんわりと相談してみよう。櫻子は友人に内緒話でもするように顔を近づける。


「あのね、ナナちゃんは恋人になんて呼ばれたい?」

「ん? 突然意外な質問。深く追求すべきかしら……あ、やめといたほうがいいのね、その顔は。うんうん」


 へらりと笑って友人はまた口を開いた。


「恋人に限らず、あたしはサクラに“ナナちゃん”って呼ばれるの結構気に入ってるよ。“ちゃん”付けされると自分が可愛くなったみたいに思えるし。でも、“ナナ”ってだけで呼ばれるのも悪くないかな。彼氏にはそう呼ばれたいかも。ナナカって名前で呼ばれると、ちょっとくすぐったいかなあ。近所の人は“ナナカちゃん”って呼ぶけど、なんとなく距離を感じるかも」


「なるほど、なるほど」


「サクラの場合は、サクラってみんな呼ぶよね。相模は“サク”って呼んでたっけ。サクラコってちょっと長い感じがする。あんまり聞かないよね」


「たぶん、お母さんくらいかな。たまにそう呼ぶよ。大体サクラだけど」

「サクラコかぁ。綺麗な名前だよね。でもちょっと照れる感じ」

「そう?」


 そういえば、アジュールは櫻子さんと呼ぶ。照れなどない。それはきっと、いずれ愛称へと移行すると思っているからだ。櫻子という名前は、それほど意味がないのかもしれない。


「サクラとサク以外で、ニックネーム付けるとしたら、何かある?」

「その2つ以外で? うーん、難しいかも。変えてほしいの?」


 少し不安げに尋ねる友人に、櫻子は慌てて首を振る。


「まさか! ただ、あるかなぁって思っただけ。気にしないで。ナナちゃんにサクラって呼ばれるの、結構好きだよ」

「好きとか、照れるし!」


 バシッと背を叩かれ、地味に痛いなと櫻子は苦笑しつつ、やっぱりないよね、と落胆する。


「ね、せっかく2限空いてるし、早昼だけど食堂行かない?」

「いいよ。私はお弁当だけど、何かデザート頼もうかな」


 それいい考え、とはしゃぐ友人の横で、アルももうじきお弁当の時間だろうな、と櫻子は思う。彼女自身、記念日は嬉しいのだ。開けたらびっくりするだろうか、と想像して人知れず表情を緩ませる。いけない。それより名前を考えなくては。気合を入れ直し、先を歩く友人の隣へと駆け寄った。

1/7 行間に変更を加えました。

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