悪魔め!
甘ったるい声で「あなたを食べたい」と乞われれば、どれだけ鈍くてもおそらく、肉食獣のそれではなく、性的な意味でのそれだと予想はつく。だが、目の前の男に関しては、判断が微妙な所だった。空腹、飽くなき食欲、オムレツサンドでは足りないということから考えれば、人間をまるごと一人食べたほうがはるかに腹持ちがいいと、そう解釈できなくもない。
なにせ、男は悪魔なのだから。
「え……え、いや、それは、つまり、こう、頭からバリバリ食べる感じ、の?」
混乱の極みの中そう尋ねる櫻子に、アジュールは心外そうに眉をひそめた。
「私に人肉を好む習慣はありません」
「そ、それはよかった。はは……とりあえず、腕を放してもらえるとその」
「お断りします」
不機嫌そうに断られ、私が悪いのか、と櫻子は自問する。だがこのままでは心臓が持たない。もうどうせ私はこの不可解な悪魔に恋をして、どっぷり堕ちてしまっているのだと開き直る。
「でも、その、お握り作れないよ。お、お腹すいてるんだよね?」
「ですからあなたを食べたいと言っているんです」
「それはその、どういう意味でしょうか……」
「譲歩はするつもりです。あなたの狭いベッドで一向に構いません。ソファでも特に問題はありません」
言っている意味は分かったが、理解には程遠い。誘うにしても、あまりに事務的な物言いだった。
「いや、そんないきなり言われても困るし、その、だめ、かな?」
初心者には判断以前に、考えたくない状況だ。とりあえずこの場は断ろうと櫻子はそう口にした。
「なぜです」
「なぜって、」
と口を開いて、なぜだろうかと思い耽る。
私はアルが好きだ。恋している。
心の準備さえあれば、できないこともない。
好きな人とそうなるのは、むしろ嬉しいことだ。
いずれ魔界へと帰ってしまう彼に、最後に一度と思うことも際立っておかしいことではない。
それでも、何か駄目だ。
何が駄目なのか、よくよく考えて、馬鹿みたいに簡単なことに気が付いた。
―――この人の気持ちを、知らないからだ。
櫻子の口から苦笑が漏れる。
なんて我が儘だ。好きな人に好きになってもらいたい。でないと嫌だなんて。「邪魔」だなんて言える悪魔が、好きになってくれるわけないのに。お腹が空いた=せいよくしょりがしたい、だなんて。許容できるはずがない。
突然表情を暗くさせた櫻子に、アジュールは眉をひそめた。
「どうかしましたか」
「……あのさ、そういう相手は、私、無理だよ」
「なぜです。あなたは私をアルと呼んだ。……ああ、私も呼び方を変えなければいけませんね」
なぜかアジュールは少し照れたようにほほ笑んだ。この局面で何を笑っているのだ、と櫻子は少しムッとする。
「別に、そんなのどうでもいい」
冷たく言い返せば、今度はアジュールが不機嫌そうに顔をしかめた。
「どういう意味です。それは私の気持ちなど要らないと、そういうことですか?」
「あなたの気持ちなんて、わかんない。あなただって、私の気持ち分かんないくせに!」
むきになって叫び、手を振りほどこうとするが逆に力を込められて阻まれた。
「あなたではなく、アルです。それしか受け付けません」
拗ねたように注意され、ますます櫻子も不機嫌になる。
「いみ、わかんない。別になんだっていいでしょ」
「ま、まあ、他に考えたいと言うのなら、別に譲歩しないこともありません」
打って変わり、今度は照れてそんなことを言うアジュール。心なしか嬉しそうなのが、櫻子の癇に障った。
「とにかく放して。振り回さないで」
「仕方がないですね。今すぐというのは心の準備もありますし、理解できないことではありません。狭いベッドもソファも正直言って微妙ではあったので。――ところで、ぶしつけな質問ですが、初めてですか?」
言葉通り不躾で無遠慮な言葉に、櫻子の怒りがとうとう爆発した。カッと頬が熱くなり、涙目になって叫ぶ。
「それが何! 関係あるの?! 今すぐもこれからもあなたとそんなことする気ないから! 処女なんて面倒だって心配なんてしなくていいし、さっさと綺麗なお姉さんに手伝ってもらえばいいじゃない! もうやだ! もうやだ! 出てってよ! 手も放して!」
そんな言葉に驚くのもつかの間、アジュールは櫻子の頬を流れる涙にいてもたってもいられなくなったのか、冷蔵庫に櫻子を押しやって、次々と零れ落ちる滴を舌で拭う。
「やだ、やだ! やだ、もう、やめて……こんなのつらい、ひどいよ、」
「どうしたら、分かってくれるんです。私だって辛い。なぜ泣くんです。笑いなさい。笑ってアルと呼びなさい」
「優しくしないでよ、優しくしないで、それがつらいの」
「何が辛いのか言いなさい。私が解決してあげましょう。だから泣くのはやめなさい。せっかくどこもかしこも甘いのに、塩味はお握りで十分ですよ。アルと呼んで、私を頼りなさい」
優しく問いかけるアジュールの言葉が、ますます櫻子の涙を誘った。もはや彼の行動は、櫻子の理解を越えていた。
「あなたが、あなたが好きなの」
だから優しくされるとつらいのだと櫻子はとうとうその想いを告白した。
アジュールは驚く様子も見せず、優しく微笑みかける。
「知っています。何を今さら。ちゃんと分かっていますよ」
「知ってて、今までからかってた?」
愕然として呟けば、アジュールは困惑したようだ。
「言っている意味が、よく分からないのですが」
「わ、わたし、せいよくしょり、とか、無理。だって好き、だから。それなのに」
「性欲処理? 誰がそんなこと言ったんです」
心底不思議そうに、少し怒りを込めてアジュールは詰問する。櫻子の眦に再び大粒の涙が溢れ、唇が弱弱しく震えはじめた。
「だって、だって、あなたは、私のこと好きじゃないのに、私があなたのこと好きだから、使ってやろうって、ううう……ひどい、そんなのむり、むり、やだ」
ぼろぼろと子供のように泣き出した櫻子を見て、アジュールはようやく何かに気が付いたようで、ハッとしてすぐ、盛大なため息をつき、自嘲の笑みを見せた。掴んでいた両手を解放し、手で涙を拭ってやり、両手で俯く顔を掴んで視線を合わせ、甘い声で強請る。
「アルが好きと、言ってください」
「あ、アルが、好き」
「私も櫻子さんが好きです。人間は初めにそう言うのですね。では悪魔である私に、櫻子さんをどう呼べばいいか教えなさい。特別な、私だけの呼び名をください」
「なん、で?」
しゃくりあげたのち、櫻子は潤んだ瞳でアジュールを見つめ返す。
「愛称を呼び合うのは、恋人の証です。その名を呼ぶたびに、愛しい愛しいと焦がれる心を伝えます。それだけで飽くなき食欲は満たされ、私は櫻子さんを独占する。櫻子さんは私を独占し、ひどい我が儘は甘い懇願になり、僅かな距離さえ幾千の隔たりと化し、息をするのも苦しくなります。かくのごとく、悪魔である私は、櫻子さんなしにはもう、生きていけそうにありません」
熱烈な告白に、櫻子は目を見開き、瞬きを繰り返した。そうしてしばらくし、じわじわと赤くなった顔を俯かせ、蚊の鳴くような声で尋ねる。
「ええと、その、ええと、特別なの、考えるから、待っててもらっても、いいかな?」
悪魔は幸せそうに破顔し、頷いた。
あとがきではじめまして、と書くのも失礼かと気が引けたのですが、失礼を承知で、初めまして。読了ありがとうございました。貴遊あきらと申します。
気持ちがようやく通った二人、ということで、私の中では一区切りついた感じです。拙作を読んでくださる方がいる、とそう思うだけでとても励まされました。本当にありがとうございます。恋愛をテーマにした小説は久々なので、楽しんでいただけたかなと不安ではありますが、今はここまでたどり着けてホッとした、とそんな気持ちです。
二人のその後はより甘く、ニヤつきながらもう少し書かせていただくつもりです。もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。
1/7 行間に変更を加えました。




