ばかみたい
合コンはキャンセル。正直に言えば面倒くさかった外出の予定がなくなって、櫻子は小さくため息をついた。大学から家へと帰る道すがら、週末の予定をぼんやりと考え始める。
誰かに生活のリズムを合わせることはもうしなくていい。
朝からきちんと朝食を作る必要もなければ、昼過ぎまで寝ていたってかまわない。
パジャマ姿でうろうろしたっていいし、お風呂上りに髪が濡れていたって誰にも注意されない。
テレビをつける時間は増えるだろう。
音楽で沈黙を塗りつぶそうとするだろう。
本にかじりつき、窓の外を眺めてはため息をつくだろう。
さみしいなあ、と独り言ちるだろう。
ばかみたいだ。
「ばかみたい、ホント」
生ぬるい風が頬を撫で、シャツの裾を僅かにはためかせた。
たった数日で、どうしてこれほど浸食されなければならなかったのか。得体の知れない美少女が現れて、保護して、占拠されて、ご飯を作って、二人で向かい合う食卓に慣れてしまった。
一人暮らしの前は当たり前だった生活に戻っただけで、もう一度一人暮らしに慣れるのは簡単なはずだ。でもどうしたって、母親とあの悪魔は別人で、住む世界も、想う気持ちも違う。家族じゃない。他人だ。だからこそ、もう二度と会う機会がないと突きつけられる。出て行けといったのはこちらのほうなのに、いつまでも後悔している。
せめて何か、もっと別のことを言えなかっただろうか。
理由を問いただせば何か変わっただろうか。
悪魔であろうと、相互理解できただろうか。
オムレツサンドを気に入ったらしい彼は、魔界でもオムレツサンドにかじりつくのだろうか。でもそれは、似て非なるものだよ。私のオムレツサンドには、隠し味が入っている。きっともう、二度と食べられないよと、そんな意地悪を言えばスッとしただろうか。
くだらない考えに、櫻子は苦笑を禁じ得なかった。
「どこかに」
――魔界行のチケットはないかなあ、なんて。ばかみたいだ。
商店街の見慣れた景色も、思い出が浮かんでは消えて、切ないワンシーンと化していた。向かい合って食べさせ合った店の前を通り過ぎて、無意識に胸のあたりを掴む。ここは空気が薄い。あのときは楽しかった。その思い出が今はただ切ない槍となって櫻子を突き刺してくる。
穏やかな街並みが、辛い思いに浸食され、ゆっくりと着実に、安寧の地を奪われていく気がした。どこへ行っても、思い出してしまう。忘れてしまえば楽なことは、意固地に頭の中に巣食って離れない。輝かしくも手放しがたい思い出は、すぐに悲しく辛いものに取って代わられるだろう。共有した相手はもういないのだと、結論はいつだってそれだ。
行き場を失った幽霊のように力なく、櫻子はひたすら帰途の道を歩いていた。そんな彼女の耳に、ちょうど食料品店の前を通りすがった後、若い男の叫びが響いた。
「ちょっ! いきなり何してるンすか!」
喧騒に溢れた商店街でも、異質な緊迫感を伴ったその声はよく響いた。浮遊していた櫻子の思考がふいに呼び戻され、前方の人垣に視線が向いた。なんだ、どうした、と通行人も不思議顔だ。近づいて隙間から覗いてみたとたん、櫻子の目は驚きに見開かれた。
「放しなさい! この男は知るべき事実を放置してこのような罪を」
白いワンピースの美少女が、金髪男に後ろから羽交い絞めにされている。男はほとほと困り果てた様子で、「無理っス!」と泣きそうな声で答えた。
櫻子の心臓は煩いほどに鼓動していた。どこからどう見ても、あの美少女はかつて向かい合って食事をとった我が儘で不可解な悪魔だ。見つけたと、心が悲鳴を上げる。目的も定まらないまま、そのまま走り寄ってしまいたい衝動に駆られたが、美少女が睨みつける先を見やって、また瞠目した。
「あ、えーと、この間会ったよな、俺、やっぱり何かしたかな?」
困ったように頬を掻く男は、相模圭治だ。手にはスーパーの袋を下げていた。そのやや後方に、庇われるようにして立っているのは見たこともない女性。怯えたように圭治の服を指先で掴んでいた。美少女は怒りを抑えきれないのか、血走った目で圭治を睨みつけたまま、後ろの女性を顎で示した。
「なんですその女は! あなたは自分の立場を全く理解していないようですね!」
女性は可哀そうなほどに怯えていた。少女と言えど、類まれな美貌に凄まれれば、誰だってこうなる。櫻子は一方的に絡まれただろう女性と圭治に同情した。話を聞いてもまるで状況が理解できない。美少女の正体を知らない観客から見れば、圭治は少女を弄び、他の女と買い物をしている図に見えるのだろうか。可哀そうすぎる。
「ちょっと待て、俺が何かしたっていうならまだしも、彼女には関係ないだろ?」
さすがの圭治もムッとしたようで、怯える彼女を後ろにしっかりと庇う。それがまた美少女の怒りを煽ったらしく、金髪の男は少女にはあり得ないだろう力で抵抗され、ひどく顔を歪めた。
「ちょ、ちょ、ちょいやばいっスよ、隊長! この男誰なんっスか!」
隊長? と櫻子は首をひねった。もしやあの人は、前に聞いた部下のことだろうか。
「この男は”悪魔”です」
と美少女は断言する。次に叫ばれた言葉に、櫻子は唖然とした。
「櫻子さんという恋人がいながら、嫌いじゃないのに別れたと不可解な関係を保ち、その上別の女の手を取っているんですよ!」
「マジっスか!」
と部下らしき男が驚きの声を上げる。
圭治もその後ろの女性も、櫻子だって驚いた。聴衆の非難の目が圭治に向けられ、彼女らしき女性も不審げだ。可哀そうすぎる、というよりも、櫻子はいても立ってもいられなくなって、人垣をかき分けて騒ぎの中心へと向かう。
「ちょ、ちょっと待って!」
双方に手を掲げて、中央に立つ。聴衆がなんだ、どうした、誰だと口々に言い、美少女の目はこれでもかと見開かれ、圭治は怪訝そうな顔をした。
「サク?」
「あの、ケイちゃん、ごめん。この子、ちょっと誤解してて。後ろの彼女さんもごめんなさい。ケイちゃんはそんな不誠実な人じゃないですから。この子、私の知り合いで、思い込みが激しいというか、その、今の発言は全部ウソですから」
「……ホントなの?」
と女性は圭治に視線を向ける。圭治はしっかりと頷いた。圭治は櫻子に何か言いたげな視線を向けるも、視線で彼女を連れていけと言えば、黙って彼女の手を取って人垣の外へと出ていった。
櫻子はその背中を見送ってから盛大なため息をつく。
「あ、あの、あんたが西宮櫻子?」
呼ばれて振り向けば、すでに美少女の拘束を解いた金髪男が訝しげな顔をしていた。美少女は抵抗をやめ、悔しそうに唇を噛み、俯いている。
「とりあえず話はあとで。ここじゃちょっと人が多すぎます」
そう言って、櫻子は二人を自宅へと誘った。
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