怒ってないよ
西宮櫻子は友人がどこか怖々と自分を窺っていることに気が付いていた。強引で話し好き、普段は煩いほどに話題を提供してくる彼女が静かな原因が、おそらく自分であることも分かっている。だが、それをあえて指摘する余裕は今の彼女にはない。自分がどんな顔をしているのか知らないが、おそらく怖い顔をしているのだろう、と櫻子は思う。はたしてそれは当たっていた。
「あ。あのさ、サクラ。そ、その、こないだの合コンの件が気に入らないとかだったら、別に無理しなくていいからね? た、たまにはその、羽目外したっていいかなぁって思って誘っただけで、それほど切迫した事態ではないと言うか、そのつまり、つまりその、……サクラぁ、なにかよくわかんないけど、許して!」
おねがいします、と両手を合わせて拝んでくる友人に、櫻子は苦笑いを浮かべる。それだけでびくびくと体を震わせる友人の肩にそっと手を置き、慰めるように撫でた。
「やだな、ナナちゃんのせいじゃないから。昨日ちょっと嫌なことがあって」
「そ、そうなの?! よかったぁ……あたしってほら、その調子のりだから。知らないところで怒らせてることも多いし。ね、ホントにホント? 怒ってない?」
「怒ってないよ」
「そっかあ……」
ホッとしたらしく、脱力して椅子の背もたれにぐったりと寄りかかる友人に、櫻子はくすりと笑みをこぼした。その笑みに気をよくしたのか、友人は瞬時に元気を取り戻し、ちょうど内緒話でもするかのように、肘枕をついて櫻子に顔を近づけた。
「嫌なことって、どうかしたの? あたしに相談できそう?」
心配そうな声色に、相談したいのはやまやまだけれども、と櫻子は苦く笑う。同居させていた悪魔に襲われた、など言えるはずもない。よもやその最低男に恋心を抱き始めているなど、心優しく過激な友人が知ればどうなることか、想像するだけで怖い。
「大したことじゃないよ。――それより合コンの話、ホントにいかなくていい?」
「え、やっぱり嫌だったの?……っていうか、最初から興味ないって感じだったか。うん、いいよ。人数は何とかするし、サクラが無理することなんてないし。適当に見繕うよ」
「ごめんね」
「いいのいいの。でもサクラってホント、自分のペースで生きてるっていうか。ホントに彼氏とか、興味ないの?」
「興味ないってことはないけど……」
ふとすると否応なしに思い出されるのは、二日前の晩のこと。
あまりにも衝撃的で、涙がこぼれたのは最初だけで、精神的に疲れたのかぐっすりと眠っていた。午後からの授業も幸いして、はた目から見れば泣いたことなど嘘のようだ。けろりとして忘れてしまいたい記憶だが、生々しくてそれは叶わない。
膝を舐められたことも、あれほど執拗なキスをされたのも初めてだった。これはきっと恋だと、自分の感情に確信したのも初めてのことだった。全てが衝撃的で、予想もしないことの連続だった。美しい彫像に命が吹き込まれ、息を乱すほどのキスをされたと言っても過言ではないと櫻子は思う。それだけなら、突如降って湧いたような恋に身を任せていたかもしれない。
だがあの悪魔は、「邪魔」だと言い放った。それが許せなかったのだ。
そして同時に、ひどく悲しかった。
「私、辛い恋も、楽しい恋も、どんな恋もしたことないんだよね。誰かを好きになるって、ホントに素敵だと思う。憧れもある。ケイちゃんと付き合ったときも、そうなったらいいなって思ってた。でも、確かに好きだけど、そういうのとは違った。それも恋の形なのかと思ったけど、たとえそうだとしても、私はもっと、違うものだと信じてた」
「あたしに言わせると、まあ確かにいろんな形の恋があると思うけど、きっとサクラのは違ったと思う。楽しいことばっかりじゃないよ。会えて嬉しいとか、浮き浮きするとか、そういうプラスの感情もあるけど、会えなくて辛いとか苦しいとか、片思いの時なんて、周りに別の誰かがいるのを見るとイライラして、全然可愛くなんてなれなかった。
嫉妬ばかりで涙を呑んで、そのくせふいに出会うと無性にうれしくなって笑って、見えなくなると暗い顔で俯く。自分のしてることが馬鹿みたいなことだと思ったこともある。迷惑かどうかって悩んで、自分の言ったことを思い出しては自己嫌悪嵐。言われた言葉を反芻して、どういう意味か色々と解釈しては落ち込んだり嫌に嬉しがったり。それが恋だと、あたしは思う」
ケイちゃんのとは違うね、と答えつつ、櫻子は内心自嘲した。ならば“これ”は恋だ。
あの悪魔に言われた言葉を反芻して、どういう意味か考えた。
簡潔な言葉は嬉しがる余裕など与えてはくれなかったが、ずいぶん落ち込んで、今も取れない棘のようにチクチクと苛んでくる。
たった数日一緒にいただけなのに、寂しいと感じて俯いた。いつか帰ってしまうのだと考えるたびに、呼吸が詰まるような苦しさを覚えた。胸に巣食った重いヘドロのような塊が、目もくらむような美貌が熱に浮かされた表情を思い起こすたび、心を押しつぶすようにのしかかってくる。
唇の温度は生々しく残っていた。耳には息遣いが響いている。頭上に腕を縫いとめた指先は冷たく、滑るように時折重なった頬は熱かった。縋るように呼ばれた名前は、まるで自分のものではない気がした。
これはきっと、初めての経験への戸惑いではない。櫻子はそう確信している。そしてその相手を罵ろうにも、いない。苦しいほどの想いを告げる相手は、ひどい悪魔なのだ。きっと自分は、魅入られ恋に“堕ちた”馬鹿な人間なのだろう。
「私も、素敵な恋がしたいな。ふわふわした、ちょっと苦い、そういう恋」
願わくはその相手が、可哀そうな自分を癒してくれればいい。われながら最低だな。たまらず漏れた苦笑に、友人が困ったように反応した。
「サクラ、あの、やっぱり、その、ホントに怒ってない?」
「怒ってないよ。今のはちょっと、どうでもいいことを考えて、私馬鹿だなあって思ってただけ」
むしろいい加減に信じてくれないと怒るよ、と軽く脅せば、友人は慌てて話題を変えた。
「そういえば、相模くん、この間彼女っぽい人と歩いてたって噂聞いたけど。それを聞いてどう思った?」
「おめでとう?」
小首を傾げれば、友人が噴き出すように笑った。
「これが恋なら、新しい恋の形だわ!」
騒がしい友人を生暖かく見守りながら、櫻子は思う。少しくらい嫉妬したり、悔しがったりすればよかったのになあ、と。
かりそめの恋でも、嘘の恋でもなんでもいい。忘れさせてくれるならば。
叶わぬ恋に身を滅ぼすより、ずっと建設的で長生きできそうだから、と。
1/7 行間に変更を加えました。




