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食べさせなさい

 西宮櫻子の部屋に、細長い影が降り立つ。濃紺のスーツに身を包んだ男――アジュールが帰宅したのは、すでに夜半を過ぎた頃だった。その表情は心なしか疲れている。

 部下の一人が人間界に来ていることは記憶の片隅にあったが、部隊内でもとりわけ個性の強い男だと知っていたので、連絡することは最後の手段だった。ここへきてその部下に連絡したのは、そうする以外に取るべき方法が思いつかなかったからだ。


 ―――利用するだけだったはずの人間の女に、苛々させられて仕方がない。


 言葉にすると馬鹿にされそうなそんな事態に彼は陥っている。だったら殺せばいい。気に入らない奴はいつだってそうしてきたじゃないっスかと、部下はやはり笑った。


「それができたら、苦労しませんよ……」


ため息交じりに呟いた。


 ――かちゃり、とテーブルの上に合鍵を置き、テーブルの中央に置かれた皿を見て困惑したように顔を歪める。初めて見たとき、この黒い塊はなんだと訊いた人間界の食べ物。お握りと紹介されたそれを、勧められるままに手に取り、結局すべて平らげてしまった苦い記憶がよみがえる。

 丁寧にラップに包まれたお握りが、皿の上に三つ、漬物を添えて用意されていた。暗いリビングは、夜目の利くアジュールには何の問題もない。皿の下に敷かれたメモには「夜食です。お腹が空いていたら食べてね」と書いてあった。


 思い返せば、何もかも――合鍵も、お握りも――女はなんのてらいもなく差し出してきた。それを当たり前のように受け取る自分も、今から思えばどうかしている。しかしきっと、笑顔で躊躇いもなく差し出される限り、受け取ってしまうのだろうと予感した。


「…………まったく」


 椅子を引いて、テーブルについた。当たり前のようにお握りに手が伸びる。飽くなき食欲、と呼ぶべきか。


 時計の音と電化製品のモーター音だけが静かな空間に規則的に響いている。屋敷にいた頃は、より濃密な静寂があった。誰かはそれを孤独と呼んだ。ランプの明かりも、風の音も、静かな音楽でさえ、すべてが意味のないものと化していた。はたしてあそこに、温度はあったのだろうか。


 一つ目、二つ目とお握りを平らげていく。

 どうやって作るのかと訊けば、握って見せた女の横顔が脳裏に浮かんだ。あのとき、自分がふとそのうなじに触れようとしたのを、彼女は知らないだろう。好きな具について歌うように説明していた。空いた皿の上、一つ、また一つと並べられていく三角形の不思議な食べ物よりも、彼はじっと、楽しそうな女の輪郭をなぞるように見つめて、顎のラインから首筋を辿り、鎖骨に視線を止め、華奢な肩に移動し、再び横顔に戻って――その繰り返しだった。


 視線を感じたのか、女は手を止め、アジュールに視線を向けた。少女姿の彼は彼女より背が低い。無条件に、年少たる少女に女は優しい視線を傾ける。まるで自分が母親か、それとも姉か、自然とそんな風に振る舞う女に、アジュールは痛みの走るほどの温かさと、叫びだしたくなるほどの怒りを覚えた。――愚かなる、少女の姿を取り続ける自分に。意固地な自分に。


「……シャケ」


 一押しは野沢菜だと女は言った。アジュールは塩鮭が気に入った。


 一つ目は野沢菜、二つ目は昆布、三つ目がシャケ。途中に漬物をかじって、すべて食べ終わると指先を舐めた。女もこうしていたことを、彼は知っている。向かい合って座る彼女の齧りかけを奪い取り、反対に自分のを小さなその唇に押し付けたい衝動に何度駆られたか。愛らしい少女の皮を被った悪魔は、人知れず喉を鳴らした。と同時に、悪魔たる自分に嫌気がさす。


 二人で買い物に出た最初で最後のあの日。向かい合って座った喫茶店の場面が蘇る。

 ステーキを押し付けるたび、苛立たしさに波立っていた気持ちが癒された。オムライスを食べさせられるたび、女の視線は自分だけを見ているのだと満足した。もう食べられないと顔を歪ませる女を見て、異様ともいえる快感が突き抜けた。まるで疑うことを知らない女に、内心嗤った。だがそれは、自分が少女の姿だからだろう。そう理解して、今度は自嘲した。


「……………」


 ――はやくこの場を離れなければいけない。


 そう思うのは時間の問題だった。スーツのポケットには、癖のある部下から調達した通行証が入っている。人間界に来るために部下から奪ったものとは別物だ。ゲートの開く帰還日が数週間後など、今の彼には待っていられなかった。妃候補が見つかっていないことなど、些末なことに思えるほどに事態は切迫していたのだ。今すぐあの冷たい屋敷に戻らなければいけないような気がした。


 西宮櫻子の部屋には、恐るべき温かさが存在した。彼女の領域、それがアジュールには恐ろしい。とめどない食欲は、本当は食欲などではないと気が付いていた。今はただただ、生ぬるい肌と媚びた視線に身を投じなければ壊れそうだった。


「………ふぅ」


 忌々しそうに女の部屋に視線を向けて、また嘆息する。湧き上がる感情を押さえつけ、空になった皿を持って立ち上がった。この部屋で彼は「皿洗い」を学び、ほんのたまにだけれども、気まぐれのように実行した。今回も、そんな些細なものだった。水を流しながら、泡立てたスポンジで丁寧に洗っていく。泡を洗い流して、水切り籠に立てかけようとして――


「おかえり」


 パチンと電気がついて、――掛けられた声に驚き、失敗した。ガチャンと大きな音を立てて皿が手から滑り、床に落ちる。慌てたように近づいてくる女の気配に、アジュールは振り返ることも、砕けた破片を拾おうとしゃがみこむこともできなかった。


「あーっと、割れちゃったかあ。暗くて見えないし……怪我してない? わ、結構飛んじゃってるなあ。あ、足元気を付けてね」


 無防備に裸足で歩いてきた女は、人に注意を喚起した次の瞬間に痛みに小さく悲鳴を上げた。ふわりと香る鉄の匂いに、アジュールは反射的に振り返る。しゃがみこんだせいで、女は膝に傷を負ったらしい。ガラスの破片から少し後ずさると、苦笑いを浮かべて、ズボンをたくし上げて傷から滴る血を指で拭おうとしていた。


――していた、確かに、“していた”。


「え、―――」


 どんっ、と音がして、女の視界いっぱいに天井が広がる。

 腕が頭上に絡め取られ、曲げた足元に誰かの存在を感じた。

 膝頭に温かく湿った何かが押し当てられる。

 馴染みのない水音に、女は自然とそちらへ目を向け、驚愕に目を見開く。


「っ……!」


 美しい悪魔から惜しげもなく与えられる、膝頭へのキス。

 アジュールは女と目が合うと、ふと動きを止め、上体をずらして女の真上へと移動した。ニコリともせず、黙って女を見下ろす。驚きでまじまじと見返すしかなかった女が何か言おうと口を開いたそのとき、それを阻むように唇を重ねた。

1/7 行間に変更を加えました。

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