【短編046】 膝の上の温度:壊れていくものの傍に、いた。
においで、わかることがある。
これは、猫の話です。
そして、壊れていくものの話です。
においでわかる。
わたしはほとんどのことを、においで知っている。
あのひとが来るのは、いつも夜だった。
金属と、焦げた絶縁材と、わずかに甘いオイルの匂い。
そこへ最近、別の何かが混じり始めていた。
錆びが始まる前の、静かな酸化の匂い。
最初に気づいたのは、春が終わる少し前だった。
*
わたしの縄張りは、壁の染みの前だ。
そこだけ、空気が少し違う。
長い時間をかけて、誰かの体温が染みついた場所。
わたしはそこに座って、夜の匂いを読む。
あのひとはいつも同じ場所に来た。
壁にもたれ、膝を立て、何かを見ていた。
何を見ているのかは、わからなかった。
でもわたしは、あのひとの膝の上が好きだった。
温かかったから。
機械が温かいのは変だと思うかもしれないが、わたしはそれを変だと思ったことはない。
温かいものは、温かい。
それだけだ。
膝に乗る前に、わたしはいつも手の匂いを確かめた。
左の手のひら。そこに鼻を近づけて、一度だけ息を吸った。
金属と、かすかな熱と、その日あのひとが触れてきたものの痕跡。
それを確かめてから、乗った。
なぜそうするのかは、わからない。
ただ、そうしないと落ち着かなかった。
*
変化はゆっくりだった。
ある夜、あのひとの膝の上に乗ると、いつもより少し揺れた。
細かく一定のリズムで、止まらない揺れ。
わたしはそれでも降りなかった。
揺れはしばらくして、止まった。
あのひとは何も言わなかった。
別の夜、声が途切れた。
あのひとは時々、ひとりごとを言う。
何の言葉なのかはわからないが、声の波形でだいたい判断できる。
低くて、ゆっくりで、雨音に少し似た声。
ただそれは本当の声ではなくて、声の形をした別の何か——信号か、記録か、あるいはその両方か——のような気がしていた。
区別する必要は、なかった。
その夜、声が途中で止まった。
続かなかった。
止まり方が、いつもと違った。
言葉を探しているのではなく、言葉の入れ物ごと、消えてしまったような止まり方だった。
わたしは耳を立てた。
あのひとは、また声を出さなかった。
ただ手だけが、わたしの背中の上を動いた。
止まった。
また動いた。
リズムが、少しずれていた。
*
においが変わった。
金属の匂いは同じだった。
オイルの甘さも、変わらなかった。
ただ、錆の匂いが濃くなっていた。
それだけではなく、もっと奥から来るもの——煙に近いが煙ではない、焦げる前の静かな温度——の匂いがするようになった。
わたしはそれを嗅ぐたびに、少し鼻を持ち上げた。
判断するためではなかった。
ただ、確かめたかった。
なぜ確かめたかったのかは、わからない。
わからないことは、気にしないことにしている。
*
夏の終わりに、あのひとが転んだ。
壁から離れようとして、足がもつれた。
一瞬のことだった。
コンクリートに手をついて、立ち上がった。
外装に傷がついた。
あのひとは傷を見て、少し笑った。
その笑い方がわからなかった。
うれしいのではない。
かといって、痛そうでもない。
ただ何かを確認したような、そういう笑い方だった。
わたしはその笑い方を、どこかで知っている気がした。
どこで知ったかは、思い出せない。
あのひとは壁に戻って、また座った。
膝の上に手を置いた。
わたしはいつものように、左の手のひらに鼻を近づけた。
金属と、熱と——
それだけだった。
その日あのひとが触れてきたものの痕跡が、なかった。
どこにも行っていないのに、なかった。
わたしは少しの間、手の上に鼻を置いたままでいた。
それから、膝に乗った。
おかしかった。
重さが、違った。
膝の上に乗るたびに、わたしはあのひとの重心を知っている。
どこに力が入っていて、どこが抜けているか。
体温と同じくらい、それはいつも同じだった。
その夜は、芯がなかった。
温かいのに、支えているものが内側から消えたような、そういう重さだった。
わたしはしばらく、降りるべきかどうか迷った。
迷ったことが、なかったから、迷い方がわからなかった。
結局、降りなかった。
手が、少し冷たかった。
いつもより、ずっと冷たかった。
*
声が変わっていった。
低くてゆっくりの声が、時々高くなった。
高くなるのではなく、ぶれる、という方が正確かもしれない。
同じ言葉を言っているのに、途中で違う音が混じった。
雨音に似た声に、砂が混ざるようになった。
わたしはそれが好きではなかった。
好きではない、という感覚を、わたしはあまり持たない。
食べ物の好き嫌いはある。
場所の好き嫌いはある。
でも声の好き嫌いはあまりない。
それでも、砂の混じった声は、好きではなかった。
なぜかはわからない。
その夜、わたしは手の匂いを確かめなかった。
確かめないまま、膝に乗った。
なぜそうしたかは、わからない。
ただ、その夜だけは、確かめたくなかった。
*
秋になって、あのひとは来る日と来ない日が出てきた。
来ない日、わたしは壁の前に座った。
染みの匂いを嗅いだ。
古い体温の残骸。
雨に薄められ、また薄められ、それでもまだそこにある何か。
わたしはそこで、朝まで座っていたこともあった。
誰かを待っていたのかもしれない。
待っていたとして、誰を、という問いには答えられない。
明け方、鳥が鳴いた。
わたしは立ち上がって、どこかへ行った。
夜になると、また戻ってきた。
あのひとは、いなかった。
*
来なくなる少し前、あのひとの目が変わった。
目には光がある。
暗い場所でも、生きているものの目には光がある。
光の種類で、大体のことはわかる。
あのひとの目の光は、いつも、とても静かだった。
静かだけれど、確かにそこにある光だった。
ある夜、その光がちらついた。
ちらつく、というより、迷う、という感じだった。
何かを探しているような、何かが届かないような、そういう光だった。
わたしはあのひとの膝に近づいた。
いつものように、左の手のひらに鼻を寄せた。
金属。錆。焦げる前の温度。
そして——何もない場所。
かつて何かがあった場所の、空白の匂い。
わたしはそれでも、膝に乗った。
いつもより深く、爪を立てないように、乗った。
あのひとの手が来た。
背中を撫でた。
手の動きが、また少しずれていた。
そのずれ方が、転んだ夜とも、声がぶれた夜とも、少し違った。
もっと根っこから来るずれだった。
*
最後の夜のことを、うまく言えない。
においは同じだった。
金属と、オイルと、錆と、焦げる前の何か。
でもその夜は、もう一つ何かがあった。
名前のない匂いだった。
嗅いだことはある。
でも何と呼ぶかを知らない。
場所が終わる前に、場所が持つ匂い。
古い草が倒れる前の匂い。
水が土に沁みる前の匂い。
わたしは膝に乗る前に、いつものように手のひらに鼻を近づけた。
一瞬、あった。
あの甘いオイルの、かすかな気配が。
でもそれは、なかった。
わたしが、そう思いたかっただけだった。
何もなかった。
金属も、熱も、痕跡も。
空白だけがあった。
わたしはそのまま、膝に乗った。
確かめることをやめて、乗った。
あのひとはその夜、長く話した。
わたしに言葉の意味はわからない。
でも話し方でわかることがある。
最初はゆっくりで、速くなって、また止まった。それから静かになった。
静かになった後が、一番長かった。
わたしはずっと、膝の上にいた。
声は出なかった。
手だけが動いていた。
背中を撫でる手。
迷いながら動く手。
それでも止まらない手。
わたしはそのまま、目を閉じた。
目を閉じても匂いは読める。
匂いの中にいた。
しばらくして、手が止まった。
止まり方を、わたしは知っている。
眠ったときの止まり方ではなかった。
わたしは目を開けた。
降りた。
あのひとは壁にもたれたまま、静かだった。
目の光は、もうちらついていなかった。
ちらつかないのは、ちらつく元がないからだった。
わたしはその場で、しばらく座っていた。
特に何も考えなかった。
考えるということを、わたしはあまりしない。
夜明けが来た。
空が灰色から白になった。
鳥が鳴いた。
わたしは立ち上がった。
一度だけ振り返った。
それから、歩き始めた。
*
においは長く残る。
体温は消えても、においはしばらく残る。
金属と、オイルと、錆と、名前のない何かと——
あともう一つ。
わたしがずっと好きだった、温かいものの匂いが、まだそこにあった。
機械が温かいのは変だと思うかもしれないが、わたしはそれを変だと思ったことはない。
温かかったものは、しばらくの間、温かかったものの匂いがする。
それだけだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
猫の一人称で書いた作品です。
ハルは何も説明しません。ただ、においで知っていました。
温かかったものの匂いが、どうか少しでも残りますように。




