↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

「どうせみんな君を忘れる」と婚約破棄されました~前世が忘却の渡し守だった私は、あなたの後悔ごと向こう岸へお渡しします~

作者: uta
掲載日:2026/08/10

「君との婚約を破棄する」


王太子ユリウスの声が、きらびやかな夜会の大広間に響き渡った。


シャンデリアの光。無数の視線。ざわめき。その中心で、私——セレスティア・フォン・レーテは、婚約者からの一方的な宣告を受けていた。


(……ずいぶんと、大勢の前で。念入りなことね)


「君はいるだけで空気のように影が薄い。誰の記憶にも残らない女だ」


ユリウスの隣には、薔薇色の髪をした聖女ミレイユが寄り添っている。人懐こい笑みを浮かべ、勝ち誇るでもなく、ただ無邪気に彼の腕にすがっていた。


「ユリウス様……あの、そんなに強くおっしゃらなくても」


「構わないさ、ミレイユ。大丈夫、どうせみんな、君のことなんて忘れるさ」


——ああ。それは。


その一言が、鍵だった。


頭の奥で、何かが音を立てて開く感覚。冷たい川の匂い。櫂を握る手の感触。暗い水面を渡る、無数の魂の声。


忘れられる、という言葉。


そうだ。私は——ずっと前から、忘れられる者だった。


記憶が奔流のように流れ込んでくる。前世。剣も魔法もない、もっと静かな場所。死者を運ぶ渡し場。未練を抱えた魂を舟に乗せ、記憶の川を渡して送り出す仕事。


忘却の渡し守。それが、私だった。


(なるほど。だから私は、この世界でも忘れられる体質なのね)


妙に納得してしまった。悲しみよりも先に、腑に落ちる感覚が来る。実に私らしい。


「聞いているのか、セレスティア。返事くらいしたらどうだ」


ユリウスが苛立ったように言う。周囲の貴族たちは、憐れむように、あるいは嘲るように私を見ていた。


私はゆっくりと顔を上げ、静かに微笑んだ。


「かしこまりました、殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


喚くこともなく、涙を流すこともなく。


「ただ、一つだけ申し上げておきますね」


ドレスの裾を持ち上げ、優雅に一礼する。


「あなたは今、とても大切なものを手放しました。それに気づくのは——たぶん、私がいなくなってからです」


そして私はきびすを返し、大広間を後にした。


背中で、ユリウスが「意味のわからないことを」と鼻で笑うのが聞こえた。


数分後には、彼は私の顔も、この会話も、忘れているだろう。


そういう体質なのだ。


(さて。渡し守が、この世に戻ってきた。ならば——やることは、決まっている)


---


実家に戻った私を待っていたのは、父の冷たい一言だった。


「忘れられる娘は、嫁ぎ先の恥だ。お前はもう、この家の者ではない」


公爵家の当主たる父は、私の顔を見ながら、すでにどこか私の存在を曖昧に扱っていた。話している最中から、彼の目の焦点が少しずつ緩んでいくのがわかる。


(ああ、始まっている。もう忘れかけているのね、私のことを)


不思議と、傷つかなかった。


前世を思い出した今、私はこの体質の意味を理解している。これは呪いではない。渡し守の証だ。


「かしこまりました、お父様。それでは、失礼いたします」


私は必要最低限の荷物だけをまとめ、屋敷を出た。


門を出て振り返ると、使用人たちがすでに「今、誰か出て行ったか?」という顔をしていた。


実に清々しい。


王都のはずれ。誰も近寄らない、古い石橋。その下に、朽ちかけた小屋がある。かつて渡し守が使っていた小屋——だと、私の魂が知っていた。


「ここね」


川面には、王都の夜景が揺れていた。冷たく、静かで、どこか懐かしい水の匂い。


私は小屋の埃を払い、古い舟を引き出した。櫂を握ると、手に馴染む。前世の感触そのものだった。


「渡し場を、開きましょう」


看板は出さない。出しても、どうせ皆が忘れる。


だが——それでいい。


忘れられる者の元へ、たどり着けるのは。心に消えない未練を抱えた者だけ。


「思い出したい者だけが、思い出す。それが、渡し場の理」


私は舟に腰かけ、月を見上げた。


かつて王宮で、私は無数の政務を片付けていた。民の陳情、貴族の調停、書類の山。誰にも記憶されないまま、ただ黙々と。


だが、もういい。


あの場所は、私を必要としていることにすら気づいていないのだから。


「なるほど。私は渡し守。ならば——渡してさしあげましょう、あなたたちの後悔を」


川面に、そっと灯がともった。


それは、最初の客の訪れを告げる光だった。


---


最初に渡し場を「思い出した」のは、一人の老兵だった。


深い皺。曇った瞳。杖をつき、震える足で古い橋を渡ってきた彼は、私を見て、驚いたように立ち止まった。


「……あんた、確か。いや、待て。俺は今、なぜここに来た?」


「いらっしゃいませ。ここは、渡し場です。忘れられぬ想いを、向こう岸へ渡す場所」


老兵——グレイと名乗った彼は、しばらく呆然としていたが、やがて震える手で懐から古い封筒を取り出した。黄ばみ、擦り切れた手紙だった。


「戦友がいた。俺の代わりに死んだ男だ。あいつに……礼を言えなかった。この手紙を、渡せなかった。何十年も、ずっと」


涙が、皺を伝って落ちる。


「もう死んじまった相手に、どうやって渡せばいい。俺はそれを、ずっと胸に抱えたまま……」


「大丈夫です。その手紙、私が確かにお渡しします。向こう岸へ」


半信半疑の顔で、グレイは手紙を私に託した。


私は舟に乗り、櫂を漕ぐ。月光の川面が、ゆらりと揺れて——やがて岸の景色が薄れ、代わりに、この世ならぬ靄が立ちこめた。


記憶の川。生と死の狭間の、渡し場の理。


川の向こうに、ぼんやりと人影が立っていた。若い兵士の姿。グレイが、まだ若かった頃に別れた戦友。


私は手紙をそっと水面に浮かべた。


「あなたへの想いが、ここにあります。受け取ってください」


手紙は光となり、向こう岸の人影へと吸い込まれていった。人影は静かに微笑み、そして——消えた。


岸に戻ると、グレイは膝から崩れ落ちて泣いていた。


「届いた……わかるんだ。あいつに、届いた。ああ、ようやく……ようやく、俺は」


「よかったですね」


私は静かに言った。


グレイは何度も頭を下げ、去っていった。橋を渡り切る頃には、もう私のことも、渡し場のことも忘れているだろう。


だが、その胸には確かに、長年の未練が消えた温もりだけが残っている。


それでいい。それが、渡し守の仕事だ。


(呪いではなかった。忘れられる力は——忘れたくない者と、忘れられゆく者を、つなぐためのものだった)


私は初めて、この体質を愛おしいと思った。


そしてこの夜から、渡し場の噂は——皆が忘れるがゆえに、逆説的に「思い出したい者」の間だけで、静かに広がっていくことになる。


死んだ母に謝れなかった商人。忘れられた恋人に別れを告げられなかった娘。誰もが、心に消えない一言を、私の舟に託していった。


---


一方、その頃。王宮は静かに、しかし確実に崩れ始めていた。


「これは……誰が処理する案件だ?」


宰相が、山積みの書類を前に呆然としていた。


国境の調停。飢饉の陳情。貴族間の争議の仲裁。税の再分配。そのどれもが、いつの間にか「誰も担当していない」状態で放置されていた。


「おかしい。以前は、こうした案件は気づけば片付いていた。誰かが……誰かが、ずっとやっていたはずだ」


宰相は額を押さえた。


「だが、誰だ? 誰がやっていた?」


思い出せない。名前も、顔も、何も。ただ「誰かがいた」という感覚だけが、空白となって残っている。


そして王太子ユリウス。


彼は玉座の間で、日に日に増えていく問題の報告を受けながら、奇妙な焦燥に苛まれていた。


「殿下、東部の領地争いが泥沼化しております。以前のように迅速な調停を……」


「以前のように、とは何だ。誰がやっていた」


「それが……記録には残っておりません。ですが、確かに、いつも滞りなく」


ユリウスは苛立ちを募らせた。


隣には聖女ミレイユがいる。だが彼女は、書類を前にきょとんとするばかりだった。


「わたくし、こういう難しいことはよくわかりませんわ。聖女ですもの」


無邪気な笑顔。それは社交界では魅力だったが、今この場では、何の助けにもならなかった。


人々の記憶には、鮮やかに残る。だが、実務は何一つこなせない。


ユリウスは初めて気づき始めた。


(記憶に残ることと、本当に大切であることは——違うのか)


夜。眠れぬ寝台で、ユリウスは天井を見つめていた。


胸に、埋めようのない穴がある。


「何かを、忘れている」


それが何なのか、思い出せない。だが確かに、かつて自分の隣に——誰かがいた。


静かで、有能で、いつも一歩引いた場所から、すべてを支えてくれていた、誰か。


「……誰、だった?」


名前が、喉まで出かかって、消える。


水面に書いた文字のように。


ユリウスの頬を、理由のわからぬ涙が伝った。


---


その夜、ユリウスは無意識のうちに寝台を抜け出していた。


城を出て、月明かりの道を歩く。どこへ向かうのか、自分でもわからない。ただ、胸の穴が「こちらへ」と囁いている気がした。


気づけば彼は、王都のはずれ。誰も近寄らない古い石橋のたもとに立っていた。


川のほとりに、小さな灯がともっている。


舟の上に、一人の女性がいた。


銀灰色の髪。水底のように澄んだ薄青の瞳。静謐な美貌。


ユリウスは、その顔をどこかで見た気がした。だが——思い出せない。


「渡し守どの、でしょうか」


彼はふらふらと近づき、頭を下げた。王太子が、素性も知れぬ渡し守に。


私——セレスティアは、舟の上から静かに彼を見下ろした。


(あら。まさか、ご自分でいらっしゃるとは)


目の前にいるのが婚約破棄した相手だと、彼はもう気づけない。当然だ。私は、忘れられる女なのだから。


「何か、渡したいものがおありですか」


私が問うと、ユリウスは苦しげに顔を歪めた。


「一人だけ……どうしても思い出せない女性がいるのです。名前も、顔も、思い出せない。だが確かに、僕はその人に、ひどいことをした気がする」


彼は胸を押さえた。


「謝りたいんだ。彼女に、謝りたい。それだけが、どうしても消えなくて」


涙が、月光に光った。


傲慢だった王太子が、今、名も知らぬ渡し守の前で膝を折り、泣いている。


私は静かに息を吐いた。


(怒りは、もうなかった。ただ、渡し守として、目の前の未練を見つめるだけ)


「では。その方への言葉を、ここに置いていってください。向こう岸へ、確かにお渡しします」


ユリウスは震える声で、語り始めた。


「すまなかった。君の価値に、僕は何一つ気づいていなかった。君がいてくれたから、すべてが回っていたのに。君を、空気のようだと嗤った。誰の記憶にも残らないと。だが——忘れられていたのは、僕の方だった。君という存在の、本当の姿を」


言葉が、川面に落ちて、光の粒になる。


「どうか、幸せに。僕なんかを、もう思い出さなくていいから」


私はそっと櫂を握り、彼の後悔だけを舟に乗せて、静かに漕ぎ出した。


---


記憶の川を渡りながら、私は舟の上で、ユリウスの言葉を胸に抱いていた。


「すまなかった」


かつて、大勢の前で私を切り捨てた男が。今、私だと気づかぬまま、心の底からの謝罪を口にした。


皮肉なものだ。


忘れられる女だからこそ、彼はここまで正直になれた。取り繕う相手も、体裁を保つ理由も、彼の中にはもうないのだから。


川の向こう岸に、ぼんやりと影が浮かぶ。それは——過去の私自身の姿だった。婚約破棄を告げられた、あの夜のセレスティア。


私は彼の後悔の言葉を、その影にそっと手渡した。


「受け取りました。あなたの謝罪は、確かに届きました」


影は静かに頷き、光になって溶けていった。


岸に戻ると、ユリウスはぼんやりと立ち尽くしていた。


「……僕は、なぜここに?」


もう、忘れている。渡し場のことも。渡し守のことも。そして、謝りたかった女性のことも。


だが、彼の顔から、あの苦しげな影が消えていた。


代わりに残っているのは——「許された」という、理由のわからぬ温もりだけ。


「不思議だ。何か、ずっと重かったものが……軽くなった気がする」


ユリウスは胸に手を当て、小さく微笑んだ。それは、私が知る傲慢な王太子の笑みではなく、どこか穏やかなものだった。


「なぜだかわからないが、僕はもう、大丈夫な気がする」


彼はきびすを返し、橋を渡って帰っていった。


二度と、私を思い出すことはないだろう。


王宮はこれからも、彼の失ったものの重さに苦しみ続けるだろう。それが、彼の背負うべき罰だ。


だが、その胸にだけは、許しの温もりを残してやった。


それが、渡し守の——いや、セレスティア・フォン・レーテの、最後の情けだった。


「さようなら、殿下」


私は誰もいなくなった橋のたもとで、静かに呟いた。


「これで、私たちの物語は、終わり」


川面に、月が揺れていた。


喪失も、後悔も、すべてを渡し終えて。


私は一人、舟の上に残された。


——そのはずだった。


---


「相変わらず、お人好しだな。君は」


背後から、聞き覚えのある声がした。


低く、飄々として、どこか懐かしい。


私は舟の上で振り返った。


古い橋のたもとに、一人の青年が立っていた。漆黒の外套。夜の川面を思わせる、深い藍色の瞳。月光を背に、彼はまるで最初からそこにいたかのように、自然に佇んでいた。


心臓が、跳ねた。


「……あなた」


「久しぶり、と言うべきかな。それとも、何百年ぶり、と言うべきか」


青年は口の端を上げた。


私の魂が、彼を覚えていた。前世。渡し場で、共に魂を送り続けた相棒。冥府の管理者——死神カロン。


「なぜ、あなたが……」


「ずっと探していたんだ。君を」


カロンは、ゆっくりと近づいてきた。


「君が転生したのはわかっていた。だが、見つけられなかった。当然だ。君は——世界中の誰からも、忘れられる存在になっていたんだから」


彼は苦笑した。


「全存在を管理する冥府の長が、たった一人の女を見つけられずに、何百年も迷子だ。笑えるだろう」


私は、言葉を失っていた。


忘れられる女。誰の記憶にも残らない女。


そんな私を——ずっと、覚えていてくれた人が、いた。


「どうして、あなただけ、私を忘れないの」


カロンは、舟のすぐそばまで来て、私を見下ろした。


「相棒だからだ。渡し守が魂を忘れないように、俺は君を忘れない。それだけの理由だよ」


真っ直ぐな瞳だった。皮肉も、駆け引きもない。


私は、思わず笑ってしまった。


「ずいぶんと、甘い言葉を臆面もなく言う死神ね」


「君に嫌われないためなら、いくらでも言うさ」


彼はそっと、私に手を差し出した。


「なあ、セレスティア。君はもう、十分に渡してきた。他人の未練も、後悔も、想いも。全部、向こう岸へ届けてきた」


藍色の瞳が、優しく揺れる。


「今度は、君自身の番だ。忘れられる世界に、一人でいるのはもう終わりにしよう」


彼の指先が、私の手に触れた。


温かかった。


「ようやく見つけた。——君を忘れない世界を、俺と作らないか」


忘れられる令嬢が、初めて出会った、忘れられない相手。


月光の下、私は静かに——けれど確かに、微笑んだ。


「……仕方のない死神ね」


そっと、彼の手を取る。


「いいでしょう。ただし、条件があります」


「なんだ?」


「私が渡し守を続けること。忘れられたくない人たちのために。それを、あなたが隣で覚えていてくれること」


カロンは、目を見開き、そして——今まで見たことのないほど、柔らかく笑った。


「喜んで。永遠に」


川面に、二人分の影が映る。


そのどちらも、もう消えることはなかった。


忘却の渡し守は、初めて、自分を覚えていてくれる人の手を取り、新しい岸へと——静かに、舟を漕ぎ出した。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「構わないさ、ミレイユ。大丈夫、どうせみんな、君のことなんて忘れるさ」⇒セレスティアではなくミレイユの事を忘れてしまうのですか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。