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番外編3 王宮法務局の新しい事件

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/30

正式婚約に向けた協議が進んでいても、王宮法務局の仕事は減らない。

 むしろ増えた。

 貴族間婚約契約の標準規定が採択されたことで、これまで曖昧に処理されてきた相談が次々と届くようになったのだ。

 その朝も、私の机には新しい相談記録が置かれていた。


相談者

リディア・フォルスト子爵令嬢


相談内容

婚約者であるハロルド・ミンス伯爵令息より、婚約契約書への署名を急かされている。

契約書には、結婚後の財産管理権をすべて夫側へ委任する条項が含まれている。

また、婚約者は「妻は夫を信じるものだ」として、詳細な説明を避けている。


備考

相談者は、クラリッサ嬢たちの相談会を経由して王宮法務局へ来訪。


私は最後の一文を見て、少しだけ微笑んだ。

 クラリッサたちの相談会は、もう機能し始めているらしい。

「エリス補佐官」

 記録係が、扉の前に立った。

「相談者のリディア嬢がお見えです」

「お通ししてください」

 応接室に入ってきたリディア・フォルスト子爵令嬢は、緊張した様子だった。

 薄緑色のドレスを着た、控えめな雰囲気の令嬢である。  両手で小さな鞄を握りしめていた。

「リディア・フォルストと申します。本日は、お時間をいただきありがとうございます」

「王宮法務局特別補佐官のエリス・フォン・アシュベルトです。どうぞお座りください」

 リディア嬢は椅子に座るが、背筋は硬い。

「緊張なさらなくて大丈夫です」

「はい。あの、私、こういう場所へ来るのは初めてで」

「多くの方がそうです」

 私は記録係へ目配せした。

 記録の準備が始まる。

「まず確認します。今日ここで話す内容は記録されます。ただし、あなたの許可なく婚約者やご家族へ内容を伝えることはありません」

 リディア嬢の表情が少し緩んだ。

「本当ですか」

「はい。危険や緊急性がある場合は別途確認しますが、原則としてあなたの意思を尊重します」

「クラリッサ様たちも、そう言ってくださいました」

「相談会へ行かれたのですね」

「はい。友人に勧められて」

 リディア嬢は鞄から契約書を取り出した。

「これを、婚約者から渡されました。明後日の婚約披露までに署名するようにと」

「確認します」

 私は契約書を受け取った。

 最初の数項目は一般的な婚約契約だった。  結婚式の日取り。  持参金。  新居。  親族間の贈答。

 だが、中盤に差しかかったところで、私は手を止めた。


婚姻成立後、妻リディア・フォルストが所有する財産、相続予定財産、婚姻後に取得する収益については、すべて夫ハロルド・ミンスが管理権を有するものとする。


妻は夫の許可なく財産の使用、処分、寄付、投資、貸与を行わない。


妻が本条項に異議を申し立てた場合、婚姻生活への不信行為とみなし、夫側は婚姻条件の再検討を求めることができる。


私は、静かに契約書を机へ置いた。

「リディア嬢。この条項について説明は受けましたか」

「夫婦になるのだから、財産を一つにするのは当然だと」

「それだけですか」

「はい。私が不安だと言ったら、ハロルド様は“私を信じられないのか”と」

 よく聞く言葉だ。

 信じられないのか。  疑うのか。  愛しているなら任せられるはずだ。

 そうして、確認する権利を奪う。

「あなたは、この条項に納得していますか」

 リディア嬢は、しばらく黙った。

 そして、小さく首を横に振る。

「納得していません」

 その声は震えていた。

「でも、私が細かいことを言いすぎなのかと思っていました。母にも、結婚前からお金の話をするのは可愛げがないと言われて」

「可愛げで財産は守れません」

 私が言うと、リディア嬢は目を丸くした。

 記録係が少しだけ肩を震わせた気がした。

「失礼しました。ですが、事実です」

「いえ……少し、安心しました」

「この条項は、少なくともそのまま署名すべきではありません」

「やはり、問題がありますか」

「あります」

 私は契約書の該当箇所を指した。

「財産管理権をすべて夫側へ委ねる内容になっています。さらに、異議を申し立てること自体を“不信行為”としています」

「はい」

「つまり、あなたが確認しようとすることすら、責める根拠にされる可能性があります」

 リディア嬢の顔色が変わった。

「そんな……」

「契約は、信頼を壊すものではありません」

 私は言った。

「むしろ、信頼を守るためにあります」

 その時、応接室の扉が強く叩かれた。

 記録係が確認に向かう前に、扉が開く。

 入ってきたのは、背の高い青年だった。

「リディア!」

 リディア嬢がびくりと肩を震わせる。

「ハロルド様……」

 婚約者、ハロルド・ミンス伯爵令息だろう。

 彼は私を見ると、眉をひそめた。

「あなたがエリス・フォン・アシュベルト殿ですか。人の婚約に口を出すことで有名な」

「王宮法務局特別補佐官です」

 私は静かに答えた。

「そして今は、リディア嬢の相談を受けています」

「これは私たちの問題です」

「はい。ですから、当事者であるリディア嬢の意思を確認しています」

「彼女は私を信じています」

 ハロルド令息は、当然のように言った。

「そうですか。では、リディア嬢本人から確認しましょう」

 私はリディア嬢を見る。

「リディア嬢。あなたはこの契約書に、今のまま署名したいですか」

 リディア嬢は震えていた。

 ハロルド令息が低い声で言う。

「リディア。私を信じると言っただろう」

 その声に、彼女の顔が強張る。

 私は静かに口を開いた。

「リディア嬢。答えは、ハロルド令息ではなく、あなたに尋ねています」

 彼女は、鞄を握りしめた。

 長い沈黙の後、小さな声が落ちる。

「……署名したくありません」

 ハロルド令息の顔色が変わった。

「リディア!」

「私は、不安です」

 彼女は顔を上げた。

「私の財産を全部管理すると言われて、不安でした。でも、細かい女だと思われたくなくて、黙っていました」

「私は君のためを思って」

「私のためなら、説明してほしかったです」

 その言葉に、ハロルド令息は詰まった。

 リディア嬢の声は震えている。

 けれど、止まらなかった。

「私が不安だと言った時、“信じられないのか”ではなく、“一緒に確認しよう”と言ってほしかったです」

 応接室が静かになる。

 私は契約書を閉じた。

「ハロルド令息。本契約書は、現時点では署名を推奨できません」

「あなたにそんな権限が」

「王宮法務局へ相談された契約について、問題点を指摘する権限はあります」

「夫婦の信頼に法が割り込むのですか」

「信頼を盾にして確認を拒むなら、法の確認が必要になります」

 ハロルド令息は悔しそうに唇を噛んだ。

「では、どうしろと」

「まず、財産管理条項を修正してください。妻側財産の独立性を認めること。共同財産と個人財産を分けること。重要な処分には双方の同意を必要とすること」

 私は淡々と告げる。

「そして何より、リディア嬢に十分な説明時間を与えてください」

 ハロルド令息は、リディア嬢を見た。

 彼女はまだ震えていたが、目を逸らさなかった。

「……リディア」

「はい」

「私は、君を困らせるつもりではなかった」

「はい」

「だが、説明しなかったのは私が悪かった」

 リディア嬢の瞳が揺れる。

 私は黙って見守った。

 謝罪が本物かどうかは、言葉だけでは分からない。

 これからの行動が記録になる。

「契約書は、作り直す」

 ハロルド令息は言った。

「君と一緒に確認する」

 リディア嬢は、少しだけ泣きそうな顔で頷いた。

「はい」

 その場で解決したわけではない。

 だが、少なくとも彼女は自分の不安を口にした。

 それは大きな一歩だった。

 後日、二人は修正された契約書を持って再び王宮法務局へ来た。

 財産管理条項は大幅に改められていた。


婚姻後も、妻リディア・フォルストが婚姻前より所有する財産および相続財産は、妻本人の管理財産とする。


夫婦共同で取得した財産については、双方の同意に基づき管理する。


重要な財産処分については、夫婦双方の署名を必要とする。


本契約内容について、当事者双方は十分な説明と確認期間を得たことを確認する。


私はそれを確認し、頷いた。

「この内容なら、問題は大きく改善されています」

 リディア嬢は、ほっとしたように微笑んだ。

 ハロルド令息は少し気まずそうだったが、以前のような傲慢さはなかった。

「私も勉強になりました」

「契約書を読むことは、信頼を壊す行為ではありません」

 私は言った。

「信頼を、長く守るためのものです」

 二人は揃って頭を下げ、帰っていった。

 その背中を見送りながら、私は少しだけ息を吐いた。

 今回は、破談ではなかった。

 ざまぁでもない。

 けれど、これもまた王宮法務局の仕事だ。

 壊れた後に裁くだけではない。

 壊れる前に、確認する。

 誰かが泣き寝入りしなくて済むように。  誰かが大切な人を、無知や傲慢で傷つけなくて済むように。

 夕方、ユリウス殿下が法務局へ顔を出した。

「新しい事件はどうでしたか」

「事件になる前に済みました」

「それはよかった」

「はい。とても」

 私は窓の外を見た。

 王宮の鐘が、遠くで鳴る。

 かつての私は、婚約が壊れてからようやく声を上げた。

 けれど今は、壊れる前に立ち止まれる人がいる。

 そのための記録がある。

 そのための法務局がある。

「エリス嬢」

「はい」

「あなたは、嬉しそうですね」

「はい」

 私は素直に頷いた。

「こういう仕事を、これからも続けたいです」

「私も、あなたがそうしている姿を見ていたいです」

 ユリウス殿下は、当然のように言った。

 私は少しだけ笑う。

「では、殿下にも契約書確認をお願いします」

「私もですか」

「正式婚約に向けて、確認事項はまだ残っています」

「……覚悟します」

「よろしい」

 私たちは並んで、書類の山を見た。

 未来は、甘い言葉だけでは進まない。

 確認すべきこと。  記録すべきこと。  話し合うべきこと。

 たくさんある。

 けれど、それでいい。

 曖昧なまま誰かを待つより、ずっといい。

 私はペンを取る。

 王宮法務局の新しい事件は、今日もまた記録になる。

 そしてその記録は、きっと次の誰かを守る。

お読みいただきありがとうございます。


番外編その三です。

王宮法務局での新しい事件として、「壊れる前に確認する」お話を書きました。


本編とは少し違い、ざまぁよりも予防と対話寄りの後日談です。

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