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外伝短編|正しい社員

作者: 安剛
掲載日:2026/05/23

 朝のオフィスは、まだ白かった。


 窓の外の光より先に、蛍光灯の色が天井から落ちている。

 机の列。

 低いパーティション。

 まだ誰も座っていない椅子。

 コピー機の待機音だけが、部屋の奥で小さく続いていた。


 私はいつもより少し早く来ていた。


 革靴はまだ硬い。

 歩くたびに、かかとの内側が少しだけ擦れる。


 新しい手帳を机に置く。

 ネクタイを指でまっすぐに直す。

 コンビニで買ってきた熱いコーヒーを、紙カップのままパソコンの横へ置く。


 今日はやるぞ、と思っていた。


 昨日うまくいかなかった分、今日は取り返したい。

 先輩より先に資料を揃えて、上司に一度でも「助かった」と言わせたい。

 まだ何者でもない自分を、ここで少しずつ大きくしたかった。


 会社のため、ではなかった。


 自分の未来のためだと思っていた。


 役に立てるようになりたい。

 仕事ができる側に入りたい。

 怒られない新人ではなく、使える若手として見られたい。


 そういう熱が、朝の白い光の中でまだちゃんと動いていた。


 パソコンを立ち上げる。

 低い起動音。

 メールソフトが開く。

 予定表を確認する。


 今日の訪問先。

 社内会議。

 提出資料。

 空いているはずの時間帯にも、あとから何かが入るのだろうと思う。


 それでも、この頃の私は、埋まっていく予定をどこか前向きに見ていた。


 忙しいのは期待されているからかもしれない。

 任されるのは、見込みがあるからかもしれない。


 そう思いたかった。


 始業時間が近づくにつれて、社員が少しずつ増えていく。


 椅子を引く音。

 パソコンを開く音。

 誰かが咳払いをする音。

 コピー用紙の束が机に置かれる乾いた音。


 その全部が、会社を起こしていくみたいだった。


 朝礼で、部長が前に立つ。


「今日も当事者意識を持って動いてください」


 よく通る声だった。


「受け身では成長できません。プロ意識を持って、自分から仕事を取りに行くこと」


 みんな黙って聞いている。


 私も聞いている。


 その言葉の全部が嫌だったわけではない。


 当事者意識。

 プロ意識。

 成長。


 どれも、まったくの嘘だとは思えない。

 だから余計に、強く入ってくるのだと思う。


「甘えを捨てましょう。会社は家族です。支え合って、乗り切るんです」


 そこだけ、少しだけ喉の奥に引っかかった。


 家族、という言葉だけが、きれいすぎる気がした。


 でも、私はまだその違和感に名前をつけられない。


 朝礼が終わる。

 椅子の脚が一斉に床を擦る。


 午前中は、電話が多かった。


 受話器を取る。

 頭を下げる。

 名前を名乗る。

 担当者へつなぐ。

 切る。


 その繰り返しの中に、上司が誰かを詰める声が混ざる。


「なんで確認してないんだよ」


 低くて、乾いた声だった。


「言われる前に動けって話してるよな?」


 フロアの空気が少しだけ薄くなる。


 詰められている先輩は、何か言い返すわけでもなく、

「すみません」

とだけ言った。


 その声も、少し乾いていた。


 私は画面を見たまま、肩に力が入るのを感じた。


 こういうのが普通なのかどうか、まだ分からない。

 でも、気持ちのいいものじゃないことだけは、はっきり分かる。


 昼を過ぎても、仕事は減らなかった。


 書類の束。

 社内メール。

 差し戻し。

 追加の修正。

 外回りから戻った先輩が、冷えた顔のまま席につく。


 その先輩は夕方になってもまだ電話をしていた。

 咳をしていた。

 喉の奥に何か引っかかったみたいな咳だった。


「大丈夫ですか」


 思わず聞くと、先輩はパソコンから目を離さずに言った。


「風邪じゃないから平気」


 たぶん、平気ではなかった。


 でも、その言い方自体がもう、この会社の中ではひとつの正しさみたいになっていた。


 夕方、予定表には書かれていなかった作業が増えた。


「これ、今日中に頼む」


 上司が私の机にファイルを置く。


 紙の角が机に当たって、小さく鈍い音がした。


「今日中ですか」


 と聞き返した声が、自分でも少し幼く聞こえた。


 上司は首だけで頷く。


「今日中。必要な仕事だから」


 必要。


 その言葉を出されると、若い私はまだうまく反論できない。


 必要なら、やるしかない。

 必要なことから逃げるのは、未熟なことのように思える。


 でも、必要と急ぎは同じじゃないだろ、と心の中では思っている。


 夜になる。


 フロアの窓が鏡みたいになって、室内の蛍光灯だけが鈍く映っていた。


 空調の風は乾いている。

 冷えた弁当のプラスチック容器が、机の端でかすかに鳴る。

 コンビニのおにぎりの海苔は、もう少し湿っている。


 私はパソコンの前に座ったまま、それを食べた。


 20代の体はまだ動いた。


 寝不足でも、胃が重くても、手は止まらない。

 目の奥が少し痛いくらいで、作業は続けられる。


 だから余計に、会社はその若さを前提にしてくる。


 終電を逃した先輩が、タクシーで帰ったという話を聞く。

 休日なのに鳴った電話に出た課長の話も聞く。

 予定表にない残業は、もう誰も予定として扱っていない。


 それが少しずつ普通の顔をして、毎日の中へ入ってくる。


 私はそれに慣れたくなかった。


 でも、慣れなければ回らない気もしていた。


 その中途半端さが、一番疲れる。


 帰りの電車で、吊り革を握る手に力が入る。


 誰かの肩が少し当たるだけで、舌打ちしたくなる。

 広告の笑顔がうるさく見える。

 車内アナウンスの丁寧な声にまで、少し腹が立つ。


 家に帰る。


 スーツを脱ぐ。

 ネクタイを外す。

 シャツのボタンをひとつずつ外す。


 その途中で、ため息が出る。


 休日は寝るだけで終わることが増えた。

 友人との約束も、面倒になって断ることがある。

 起きても頭が重くて、気づけば夕方になっている。


 若いのに、どこかずっと摩耗している感じがあった。


 それでも、まだ怒れた。


 上司がいつも言う「みんな頑張ってるから」に、素直に頷けない。


 みんな頑張ってるのは分かる。

 でも、それで正当化されることばかりじゃないだろと思う。


 心の中で「いや、違うだろ」と返せる。


 まだ、その声が残っている。


 それがあるから余計にしんどいのかもしれなかった。


 朝礼でまた同じ言葉が繰り返される。


 成長。

 当事者意識。

 プロ意識。

 甘えを捨てろ。

 会社は家族。


 私はそのどれにも少しずつ苛立ちながら、少しずつ飲み込んでもいた。


 全部が間違っているとは言えない。


 頑張ること自体は、たぶん悪くない。

 責任感だって必要だ。

 受け身のままではだめだ、というのも分かる。


 だから、この言葉は効く。


 少しだけ正しいから、強い。


 怒りながらも従う。

 従いながらも嫌になる。


 この会社の中にいる限り、その往復がずっと続くのだと思う。


 深夜、帰宅して洗面所の鏡を見る。


 ネクタイはもう緩めていた。

 髪は少し潰れていて、目の下に薄い影がある。


 目が死んでいる、とまではまだ言えない。


 でも、削れているのは分かる。


 朝、コーヒーを飲みながら思っていた「今日はやるぞ」の熱とは別のものが、今の自分の中には残っている。


 疲労。

 重さ。

 乾いた苛立ち。


 それでも、胸の奥にいちばん強くあるのは、怒りだった。


 こんなの、おかしいだろ。


 声には出さない。


 出したところで何も変わらない気もする。


 でも、その一言が心の中に浮かぶうちは、まだ自分が自分である気がした。


 私はそのままベッドに倒れ込む。


 スプリングが少し軋む。

 カーテンの隙間から、外の街灯の白い光が細く差している。


 明日も会社へ行くのだと、もう分かっている。


 たぶん起きて、ネクタイを締めて、また同じ白い蛍光灯の下に座る。


 それでも、今はまだ思える。


 嫌だ。


 その“嫌だ”だけが、眠る前の胸の奥で、かろうじて熱を持っていた。



 朝のオフィスは、静かに整っていた。


 ガラス張りの会議室。

 薄いグレーの床。

 曇りのないデスク。

 壁際に並ぶ観葉植物の葉まで、きちんと管理されているように見える。


 白い光は昔よりやわらかいはずなのに、輪郭はむしろはっきりしていた。


 私はいつもより少し早く来ていた。


 もう若い頃みたいに、早く来ることで誰かに勝ちたいとは思っていない。

 ただ、始業前のこの静かな時間の方が、仕事を整えやすい。


 パソコンを立ち上げる。

 低い起動音。

 社内チャットの通知が、控えめに1つ鳴る。

 勤怠システムを開く。

 部下の出勤予定を確認する。

 今日の会議資料をもう一度見直す。


 どの動作にも無駄がない。


 昔みたいに、コーヒーを飲みながら「今日はやるぞ」と自分を持ち上げる必要もなくなった。


 もう自分は、この会社に必要だと思っている。


 それは驕りではなく、確認に近かった。


 私がいることで回るものがある。

 私が確認することで、止まらずに進むものがある。

 そういう場所まで来たのだと、自然に思っている。


 チャットにメッセージが入る。


『本日、体調が優れないため午前休をいただきます』


 若手からだった。


 短く、整った文。

 引き継ぎ事項も箇条書きで入っている。


 私はすぐに返す。


『承知しました。無理しないでください。午後の状況だけ分かったらまた共有をお願いします』


 送信してから、少しだけ文面を見直す。


 これでよかったと思う。


 甘やかしではない。

 でも、突き放してもいない。


 無理しないで。

 でも責任感は持とう。


 このくらいがちょうどいい。


 今の時代は、それが正しいと思っている。


 始業時間が近づくにつれて、社員が少しずつ入ってくる。


 椅子を引く音。

 ノートパソコンを開く音。

 プリンターの小さな作動音。

 誰かの「おはようございます」という穏やかな声。


 昔みたいに、誰かを怒鳴る声で空気が引き締まることはない。

 少なくとも、表ではもうない。


 その代わり、みんな自分で整えて動く。


 自分で考える。

 自分で気づく。

 自分で補う。


 それが成熟だと思っていた。


 朝のミーティングで、私は部下たちの前に立つ。


「無理はしなくていいです」


 最初にそう言う。


「でも、チームでやっている以上、責任感は持とう」


 誰も顔をしかめない。

 当たり前のこととして聞いている。


「自分で考えて動けるようになると、仕事は楽しくなるから」


 それも本気で言っていた。


 昔の自分なら、この言葉をどこかで疑ったかもしれない。

 でも今は、自分の口から出るそれに迷いがない。


「個人の都合も大事です。でも、チームの成果は最優先で考えてください」


 言葉だけ拾えば、少しきついのかもしれない。


 けれど、今の私はそれをきついとは思わない。


 組織で働く以上、それは自然な順番だ。

 個人の希望や感情は、いつだって少しだけ後ろに回る。

 それを理解できることが、大人になることだと思っている。


 昔の私は、それを理不尽だと感じていた。


 今は、必要なことだと思っている。


 会議のあと、別の部署との打ち合わせがある。


 ガラス張りの会議室の中では、資料がモニターにきれいに映されていた。

 売上推移。

 改善施策。

 稼働率。

 離職率。

 エンゲージメントスコア。


 言葉はどれも整っている。


 効率。

 最適化。

 健康経営。

 成長支援。

 組織貢献。


 昔のように、露骨な精神論は減った。

 減ったぶん、言葉はもっと正しく、もっと受け入れやすくなっている。


 私はその会議の中で、自分の意見を話す。


「今は個人の負荷だけを見るんじゃなくて、本人が前向きに働けているかも大事だと思います」


 頷く人がいる。


「会社があるからこそ、個人の成長機会が生まれるので」


 これも、本気だった。


 嘘ではない。

 若い頃の自分なら聞き流したかもしれない言葉を、今の私は自分の言葉として使っている。


「働けること自体に感謝しないといけないと思うんですよね」


 そこまで言った時も、私は自分を疑わなかった。


 働けること。

 任されること。

 誰かの役に立てること。


 それを嬉しいと思う。


 若い頃みたいに、「認められたい」より先に、「回したい」が来る。


 自分がどうしたいか、という問いは、もうあまり前に出てこない。


 昼を過ぎても、私は疲れを疲れとして受け取らない。


 肩が重いことはある。

 目が乾くこともある。

 帰りたいと思う日も、たぶんある。


 でも、それを中心には置かない。


 やるべきことがある。

 頼られている。

 任されている。


 そう考えると、身体の違和感はその後ろへ下がる。


 昔の私なら、こういう自分を少し怖いと思ったかもしれない。


 今は、むしろ誇らしい。


 家に帰るのは遅くなることが多い。


 それでも、以前みたいに「またか」とは思わない。


 スマートフォンに仕事の通知が来る。

 家の玄関で靴を脱いだあとも、反射みたいに画面を見る。


 妻が何か話しかけてくる。

 私は頷く。

 返事もする。


 でも、自分でも分かるくらい、その反応は平らだ。


「今日、帰り遅いと思ってた」


 そう言われても、私は自然にこう返す。


「ちょっと詰まってて。でも大丈夫」


 大丈夫、は本心だった。


 昔なら、同じ状況で苛立っていたはずだ。

 休日に仕事の連絡が来れば、舌打ちしたくなったはずだ。

 食事の途中でスマートフォンが震えれば、うんざりしたはずだ。


 今は、それを苦しいとは思わない。


 むしろ、必要とされている感じが少し嬉しい。


 頼られている。

 自分がいる意味がある。

 そう思う。


 そのことを、おかしいとは感じない。


 休日も、完全には仕事から離れない。


 朝、少し遅く起きて、食卓に着く。

 家の中は静かで、窓の外の光はやわらかい。


 それでも私は、コーヒーを飲む前にスマートフォンを開いてしまう。


 部下からの相談。

 取引先からの確認。

 来週の資料の修正。


 それに目を通している時、自分が休みを削られているとは思わない。


 先に確認しておけば月曜が楽になる。

 私が見ておけば、誰かが助かる。

 それでいい。


 ふとした瞬間に、昔の夜を思い出すことがある。


 終電前の駅。

 吊り革を握る手に入っていた力。

 スーツを脱ぎながら漏れたため息。


 鏡の前で、「こんなの、おかしいだろ」と思っていた自分。


 その記憶は、今も消えてはいない。


 ただ、浮かんだあとすぐに形が変わる。


 あれがあったから今がある。

 必要な経験だった。

 若かったから、視野が狭かった。

 未熟だったのだと思う。


 そうやって、昔の怒りまで今の言葉で処理してしまう。


 違和感は、一度だけ浮かんで、すぐ整えられる。


 夕方、社内動画が流れる。


 会議室のモニターではなく、各自のパソコンに配信される短いメッセージ動画だった。


『エンゲージメント向上により、個々の最適な成長を支援します』


 穏やかな声だった。


『組織と個人の一体化が、次の価値を生み出します』


 私はその言葉を、特に引っかかりなく聞いていた。


 机に置いた手は落ち着いている。

 視線もぶれない。

 胸の中にも、昔みたいな生々しい反発は起きない。


 それを成熟だと思っていた。


 怒鳴られない。

 無理を無理として押しつけられない。

 言葉は整っていて、配慮もある。


 だから、今の方が正しい。


 正しいのは分かっている。


 でも、20年前にあった疲れや怒りの生々しさは、今はもうない。


 苦しいと感じない。


 それが本当に救いなのかどうかは、もうあまり考えない。


 部下が資料を持って、私の席まで来る。


「この件、優先度どう見ればいいですか」


 私は資料に目を落とす。


 数字を確認する。

 日付を見る。

 必要な順番を頭の中で並べる。


 それから、穏やかな声で言う。


「会社のために、じゃない。自分の成長のためだよ」


 部下は少しだけ安心したように頷く。


「はい」


 その返事も穏やかだった。


 私は小さく笑う。


 自分でも、いい言い方をしたと思っている。


 正しい。

 優しい。

 前向きだ。


 でも、その言葉の中で、会社のためと自分の成長のためは、もうほとんど同じ意味になっていた。


 私はそのまま微笑んでいた。


 穏やかで、正しくて、整っている。


 だからこそ、何かがもう戻らないところまで来ている気がした。

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