9日目 機能停止する世界
――20XY年3月9日、東京/連邦首都/ニューヨーク
月曜の朝は、世界のどこでもだいたい似た顔をしている。
駅に向かう足が少しだけ速い。エレベーターの前で、誰もまだ他人に優しくない。コンビニのコーヒーマシンが一台止まるだけで列がゆがむ。そういう、小さい苛立ちの総和で週は始まる。
その朝、その苛立ちがほとんど見当たらなかった。
急いでも仕方がないと、全員がどこかで分かっていたからだ。
*
午前七時四十分、東京。
東京証券取引所の建物の前には、報道陣がすでに集まり始めていた。月曜の朝にしては、人の動きが妙に遅い。カメラマンは三脚を立てている。記者は端末を見ている。警備員は立っている。みんな仕事をしているのに、始業前の空気がない。
八時十二分。
JPXの短い発表が各社に流れた。現物株式の取引は開始しない。再開時期は未定。秩序ある価格形成が困難であるため。必要な市場機能の維持を優先する。
言葉は平板だった。
平板な言葉ほど、テレビで強い。
駅前の大型ビジョンにそのニュースが出た時、通勤の列が一瞬だけ止まった。
立ち止まって見たのは投資家だけではない。NISAを始めたばかりの会社員も、親に勧められて投信を積み立てていた看護師も、資産運用なんて言葉に興味のなかった大学生も見た。
市場が閉まる。
それ自体の意味を正確に説明できる人は多くない。だが、普段は止まらないものが止まると、人はそれだけで嫌な想像をする。
日本橋の小さな証券会社で、朝の点呼が中途半端な形で終わった。
支店長はスーツの上着を脱がないまま、フロアを見渡す。
「顧客からの電話は取ってください。売買注文は受けない。相談だけ受ける。分からないことは分からないで統一します」
若い営業が手を上げた。
「“分からない”って、そのまま言うんですか」
「そのまま言う」
「でも、それだと怒られます」
「今日は、怒られる方がましだ」
支店長は言った。
「余計な確信を売るな。そういう日に見える」
電話はすぐ鳴り始めた。
退職金を運用している六十代の男性。会社の持ち株会に入っている三十代。子どもの学資の一部を投信に入れていた母親。質問は全部違うようで、だいたい同じだった。
持っていて大丈夫ですか。
売れないんですか。
何が起きてるんですか。
生活は大丈夫なんですか。
営業たちはそれぞれの言葉で答えたが、会話の終わりは似ていった。現金が今日必要でなければ慌てないでください。決済は動いています。預金も保険もいきなり消えません。食料と薬をいつもより少しだけ多めに確保してください。明日のことは、また明日話しましょう。
市場のプロがしている仕事というより、区役所の窓口に近かった。
*
午前八時五分、練馬区。
開店前のスーパーに列ができていた。
暴動ではない。押し合いもない。年寄りが前にいる。子ども連れもいる。自転車を押した人もいる。みんな、いつもより十分だけ早く来た。十分が積み重なると列になる。
青果担当の宮下は、搬入口で納品の台車を数えながら顔をしかめた。
牛乳が少ない。卵も少ない。水は予定の七割。レトルト食品はある。米はある。パンは読めない。物流センターが混乱しているわけではなかった。ただ、昨日の売れ方がおかしいせいで、普段の割り付けが全部ずれている。
「店長、ミネラルウォーター、二箱制限でいいですか」
「一箱で」
店長は即答した。
「米も一袋。紙おむつも一つ。揉めたら俺を呼んで」
「また今日も動画撮られますよ」
「撮らせとけ」
自動ドアの向こうで、客が店内をのぞいている。
九時ちょうどに開ける。いつもなら、それで終わりだ。今日はそこからが長い。
開店した瞬間、人が早足になった。走りはしない。そこにまだ恥が残っている。ただ、カートを押す手がみんな少し硬い。ペットボトルの棚で腕が交差する。棚前で立ち止まって成分表示を読む人は、ほとんどいない。
価値の崩壊だとか文明の序列だとか、そういう言葉を知らない人の方が多い。
それでも水からなくなるのは、人類の賢さでもあり、貧しさでもあった。
惣菜コーナーで、若い母親がスマホを耳に当てていた。
「だから、仕事休めないのは分かるって。ううん、責めてない。とりあえず水は買う。あとカセットボンベあったら買う。薬は昨日の分で足りる。……違う、パニックじゃないの。念のため」
言いながら、彼女は豆腐もかごに入れた。
豆腐は念のためではなく、今夜の味噌汁のためだろう。そういう混ざり方が、いちばん現実だった。
レジ待ちの列で、前の老人が振り向いた。
「お嬢ちゃん、トイレットペーパーはあっちだよ」
「あ、ありがとうございます」
「前もこういうのあったからねえ」
老人は言った。
「人は同じことする」
コロナ禍の買い占めを言っているのだと分かった。母親は笑った。笑ったが、手はかごの取っ手から離れなかった。
*
午前八時三十分、首相官邸。
鴨下真帆は、コピー用紙の束を抱えて廊下を小走りしていた。
エレベーターを待つのが惜しくて階段を使い、二階で一度立ち止まる。息を整える時間はない。資料は新しいのが来るたび古くなる。三時間前の“候補”が、もう午前の空気に合っていない。
文化庁のリストは一度差し戻した。経産省の“社会実装力パッケージ”も、言い方ごと直させている。外務省は礼式の表を作り始めていた。歓迎文の順番、座席、同時通訳の待機、国旗の配置。真帆はその案を見て、赤ペンで大きく線を引いた。国旗の高さを揃えるかどうかを考える相手ではない。
だが、そういうことを考える人たちが必要なのも分かっていた。考えないと国家は国家のふりができない。
執務室脇の会議室には、朝から同じ顔が揃っていた。
城崎首相、官房長官、外相、財務相、経産相、文科相、内閣法制局長官、数人の実務者。昨日より人数は少ない。必要な人だけに絞った結果、逆に逃げ場がなくなっている。
「まず確認します」
城崎が言った。
「日本単独で何かを提示する話ではありません。人類全体の問題です。ただ、だからといって何も用意しないのは論外です」
外務省の局長が頷く。
「米側は引き続き、技術と制度の両方の提案を用意しているとのことです」
「両方ですか」
城崎は資料から目を上げた。
声は平らだったが、部屋の何人かはそれだけで背筋を伸ばした。
「技術リストが主です」
局長は言った。
「それに加えて、人類文化の共有という項目も増やしたと」
「増やした」
城崎は繰り返した。
「後から」
誰も返事をしない。
その沈黙で十分だった。
真帆は手元の資料に目を落とした。昨夜遅く、ワシントンから回ってきた要旨には、エネルギー、材料、医療、推進、AI、食料生産、気候工学、長寿命化技術など、分類だけで十数項目が並んでいた。まとめた人間の努力は分かる。徹夜もしただろう。だが読む側に伝わるのは努力ではない。
買い物リストだった。
しかも、自分よりずっと強い相手の家に行く前の。
「官邸側の整理を出します」
真帆の上司が合図した。
彼女は資料を配り、前に出た。視線が集まる。慣れない。三日前まで、ここまで前に立つ仕事ではなかった。
「“何を見せるか”ではなく、“どういう相手として会うか”の整理です」
紙を一枚めくる音が重なる。
「技術の交換を主軸にすると、対話の形式が最初から破綻します。相手は、少なくとも現時点では、こちらの技術的価値をほとんど認めていない。こちらが技術を求めるほど、非対称だけが強く出ます」
経産省の審議官がすぐに反応した。
「しかし、非対称なのは事実です。そこから目をそらしても仕方がない」
「目をそらす話ではありません」
真帆は言った。
「主題にしない、という話です」
「同じでは」
「違います」
少しだけ語気が強くなった。
自分でも分かった。まずい、と思ったが止まらなかった。
「向こうが持っていてこちらが持っていないものを数え始めた瞬間、こちらが何者かの説明が全部“不足の一覧”になります。そうなると、会う意味そのものが薄くなる」
城崎がそこで口を挟んだ。
「続けて」
助かったのか、追い込まれたのか、一瞬分からなかった。真帆は息を整える。
「交流と言うなら、技術の優劣以外の軸が必要です。文化、歴史、感情の表現、政治的失敗も含めた制度の試行錯誤、老いとケア、災害への対応、都市の雑音。そういうものを、“上手に見える形”ではなく、できるだけ加工を減らした形で出すべきだと考えます」
文科相が眉を動かした。
「失敗も含めるのですか」
「含めないと、たぶんすぐばれます」
真帆は答えた。
「きれいな文化紹介だけを出したら、観光広報になります」
その言い方で、何人かの顔が少しだけ曇った。関係省庁の資料がまさにそうだったからだ。
城崎は面白がるような顔はしなかった。ただ、机の上のペンを横に置き直した。
「私は賛成です」
短く言う。
「日本を売り込むのではない。人間社会の一つとして会う。その方がまだ筋が通る」
外相が慎重に言った。
「ただ、各国がそれぞれ自国の“生の姿”を出し始めると、統一性がなくなります。国際協調のメッセージがばらつく恐れが」
「ばらつくでしょうね」
城崎は言った。
「でも、人類が一枚岩だという嘘を最初に出す方がまずい」
その場にいた誰もが、その通りだと思った顔をしたわけではない。だが反対も出なかった。
みんな、ここ二日で、壮大な建前がやけに壊れやすいことを学び始めていた。
*
午前九時三十分、連邦首都
ニューヨーク証券取引所は開かなかった。
ベルは鳴らない。フロアは動いているが、主役のいない舞台みたいに見える。テレビはそれを何度も映した。市場が止まる映像というのは派手ではない。シャッターが閉まるわけでも、炎が上がるわけでもない。ただ、いつも通りに見える建物から、意味だけが抜ける。
大統領府西棟でも、その映像が流れていた。
来訪まで二十四時間を切ると、警備は人数より角度の仕事になった。
州兵、連邦保安当局、大統領警護局、ワシントン市警。誰がどこを塞ぐかより、どこから何が飛ぶかの方が問題になる。
歓迎派と拒絶派は、だいたい同じフェンスへ集まる。
祈る人間と叫ぶ人間は、だいたい同じ広場へ来る。
その国で、百パーセントの安全は建築できない。
図面には、立入禁止区域より先に射線が引かれていた。
屋上、水塔、駐車場、遠距離から覗ける窓、河川側の抜け、報道用足場。
誰も口にはしないが、全員が同じことを考えている。
彼女が来る時、人間の側で最も人間らしい失敗は、たぶん銃から始まる。
大統領執務室の机の上に、百七十三項目のリストがあった。
厚手の紙。分類番号。優先順位。短い説明文。推定便益。軍民両用の区分。起草したスタッフは、たぶんこの数日でできる限りまともな仕事をしたのだと思う。
リードはそれを見ていた。座っている時間がいつもより長い。誰かが入ってきても、すぐには紙から目を上げない。
「国防総省からです」
首席補佐官が言った。
「歓迎動線の見直し案。記者の配置。観測機器の再点検。念のための生物学的防護――」
「意味がない」
リードは紙を置かないまま言った。
「かもしれません」
補佐官は訂正しなかった。
「それでも、やらないわけにはいきません」
「それは分かってる」
リードはそこで顔を上げた。
疲れて見えた。だが弱って見せる種類の男ではない。疲れている時ほど、声はむしろ整う。
「州知事からの要請は」
「州兵の待機継続。生活物資輸送の優先レーン設定。学校閉鎖の判断基準の統一。宗教集会とデモの管理。主にその四つです」
「学校は」
「州ごとです」
補佐官が言う。
「ただ、今日だけで自主休校がかなり増えています」
リードは頷いた。
学校が閉まる。市場が閉まる。軍が閉じられる。衛星が眠る。国家は残っている。だが国家の“いつもの顔”がひとつずつ剥がれていく。
それでも彼は、別の紙に手を伸ばした。技術リストの要約版。四ページを一ページに縮めたものだ。
「これを持っていく」
補佐官は黙った。
安全保障担当補佐官のレイノルズが、扉のそばから言う。
「持っていくこと自体は止めません」
「止めないのか」
「はい。ただ、それが主文書だと受け取られないようにしたい」
「何が違う」
「それを最初に出した瞬間、こちらが欲しい側だと固定されます」
リードは少し笑った。
「実際、欲しいだろう」
「欲しいです」
レイノルズは言った。
「ただ、欲しいと見せることと、飢えて見せることは違います」
執務室が静かになった。
人を怒らせるぎりぎりの言い方だった。だが怒鳴り返されても撤回しない顔をしている。
リードは一分近く何も言わなかった。窓の外には、刈り込まれた芝がある。そこへ七日目に降りてくる。相手はそれをもう決めている。
「君は何を出す」
レイノルズは用意していた紙を机に置いた。
表紙に大きな題名はない。箇条書きが少しあるだけだ。
language.
music.
grief.
care.
cities.
conflict and law.
faith.
children.
「ふざけてるのか」
「違います」
「児童書クラブじゃないんだぞ」
「承知しています」
レイノルズは言った。
「でも、向こうが欲しがっているのが“文明の内部”なら、たぶんこの辺りです。技術は結果です。制度も結果です。その前にあるものを見せないと、交換にならない」
「交換」
「向こうの言葉を使うなら、交流です」
リードは紙を手に取った。薄い。薄すぎる。百七十三項目の方はずっしりしている。薄い紙の方が弱く見える。政治ではだいたいそうだ。
だが、たまに、軽い紙の方が本体のことがある。
*
午前十時二十分、埼玉県戸田市。
物流センターの仕分けラインは動いていた。
ベルトコンベアは回る。バーコードは読める。トラックの位置情報も取れる。システム障害ではない。そこが厄介だった。
止まっているのは人の判断の方だ。
「この便、前倒しにして」
現場責任者が言った。
「水と紙類を優先。常温食品はその次」
「ドラッグの方からも増便要請来てます」
「受けろ」
「受けたらスーパー便が遅れます」
「じゃあコンビニの深夜便を削る」
「削ると本部がうるさいです」
「うるさくさせとけ」
責任者の杉本は端末を叩きながら、昨日から同じことを繰り返していた。最適化ソフトは平時には賢い。需要予測、車両配置、積載率、ドライバー拘束時間。何年も積み上げた数字の都合で世界を走らせている。
だが予測が壊れると、ソフトは急に物分かりの悪い新人になる。
昨日の売れ方を異常値として弾くか、そのまま学習させるか。今日の増便を一時対応とみなすか、新しい傾向とみなすか。画面は候補をいくつも出すが、最後に押すのは人だ。その人が今、みんな怖がっている。
「本部から会議呼びますか」
若い社員が言う。
杉本は即答した。
「呼ばない」
「でも責任が」
「責任を分けるための会議やってる暇がない」
彼はラミネートされた避難経路図の裏に、手書きで配送順位を書き始めた。
一位、水。
二位、乳児用と高齢者用。
三位、医薬。
四位、主食。
五位、他。
若い社員がそれを見て、少し安心した顔をした。システムより雑だ。雑だが、見れば分かる。人は混乱すると、分かるものに寄る。
「センター長、テレビ局から取材が」
「断れ」
「SNSで“物流止まる”って流れてます」
「まだ止まってない」
杉本は言った。
「止めるな」
彼はその日、昼までに二十回以上同じ言葉を口にした。
止めるな。
世界のあちこちで、同じ種類の命令が飛んでいた。半分は、システムに対してではなく、自分自身に向けたものだった。
*
午前十一時、官邸。
真帆の机の上には、各省から上がり直した第二案が積まれていた。
少しだけ良くなっている。少しだけだ。パンフレット臭さは減ったが、今度は逆に真面目なレポートになりすぎていた。文化庁は“生活に溶け込んだ美意識”という言い方に変え、厚労省は“超高齢社会におけるケアの制度と実践”と題を改めた。経産省は“社会実装力”を引っ込めた代わりに、“故障しながらも運用される社会インフラ”という苦しそうな言葉を持ってきた。
悪くない。
悪くないが、やはりまだ“出し物”だ。
真帆は端末の端に表示されたニュースを見た。
学校の臨時休校。地方銀行の問い合わせ急増。ドラッグストアの棚の空き。宗教団体の祈祷会。アニメ配信サイトで訪問者少女タグが急増。物流現場の混乱。どれも小さい。小さいが、全部が同じ方向へ少しずつ傾いている。
破局というほどではない。
それがいちばんまずいのかもしれなかった。破局なら人は腹をくくる。半端な停止は、人をじわじわ摩耗させる。
「鴨下さん」
官房副長官補が呼んだ。
「総理が五分で入る。資料、三枚に絞れる?」
「三枚」
「三枚。多いと読まれない」
真帆は頷いて、紙を抜き始めた。
一枚目には、何を持って会うかではなく、何を主題にしないかを書く。技術の要求を前に出さない。優越の誇示をしない。人類統一の演技をしない。
二枚目には、見せるもの。文化ではなく生活。制度ではなく、その制度が必要になった背景。成功より、直してきた履歴。
三枚目には、質問の案。あなたたちはなぜ交流を求めるのか。政治指導者を重要ではないと判断した理由は何か。技術を渡さないという判断基準は何か。あなたたちにとって“対等”とは何を指すのか。
最後の行を書いた時、少しだけ手が止まった。
対等。
書いてしまうと、嫌な単語だった。
ないものをわざわざ確認する感じがする。
城崎が入ってくる。
資料を受け取り、立ったまま読み始めた。真帆は視線を落とした。自分の文章を誰かが読んでいる時間は、いくつになっても苦手だ。
「これで行きましょう」
読み終えた城崎は、すぐ言った。
「各省資料の分厚い版は後ろにつける。前に出すのはこの三枚だけでいい」
外務省側から小さく異論が出た。
「簡潔すぎませんか」
「簡潔でいいんです」
城崎は答えた。
「相手は、たぶんこちらの厚い資料を読みこなせる。でも、読みこなせる相手に向かって厚くするのは、だいたいこちらが自分を落ち着かせたいだけです」
その言葉に、真帆は少しだけ救われた。
昨日から机の下に沈んでいた違和感が、やっと言語になった。分厚い資料は準備の証拠になる。証拠になるが、それ以上ではないことがある。
*
午後一時十五分、ニューヨーク。
マンハッタンの薬局では、鎮痛剤の棚より先に哺乳瓶の洗浄液が薄くなっていた。
理由は誰にも分からない。誰かがSNSで書いたのかもしれない。衛生に敏感になった人が増えたのかもしれない。赤ん坊のいる家は、先に動く。理由はその程度で十分だった。
店員は棚を埋めながら、レジ横のモニターを見た。
そこでは“なぜ市場閉鎖が起きたのか”を専門家が説明している。専門家は落ち着いている。チャートも出る。歴史的な前例も引かれる。だが画面の下には、別の速報が常に流れていた。大学の一部授業をオンラインへ。欧州数都市で抗議デモ。ワシントンに各国使節団が集結。訪問者への歓迎か拒絶かで世論分裂。
全部ほんとうだ。
全部ほんとうだが、レジに立っている人間が知りたいのは、今日の粉ミルクが明日も買えるかどうかだ。
レジ列の最後尾で、スーツ姿の男が電話していた。
「いや、オフィスには行ってる。行ってるけど、やることは少ない。市場閉まってるから。うん。いや、クビって話じゃない。まだ。……まだって言うなって? 分かった、言わない」
その“まだ”が、店内の何人かの耳に残った。
*
午後二時、大統領府西棟。
拡大会議には、いつもより分野の散らばった人間が集められていた。軍、外交、情報、経済に加えて、言語学者、文化人類学者、音楽学者、感染症の専門家、倫理学者。必要かどうか最後まで揉めた顔ぶれだ。
レイノルズが場を仕切る。
「前提を置きます。相手は軍事的に圧倒的優位。技術的にも優位。政治指導者を重要視していない可能性が高い。一方で、交流という単語を使っている。ここから先、何を聞き、何を見せるかを詰めたい」
将軍が先に口を開いた。
「何を聞くべきかなら、脅威評価だ。来訪の範囲。目的。追加個体の有無。兵器化可能技術の管理方針」
感染症の専門家が続く。
「生物学的相互作用の確認も不可欠です。空気、接触、微生物。たとえ相手に悪意がなくても、交差暴露の危険はあります」
「相手はその程度の問題は把握しているはずだ」
CIA側の高官が言う。
「こちらの細かい安全確認を侮辱と受け取るリスクもある」
「侮辱より感染の方が困る」
専門家は引かない。
議論はすぐに縦に割れた。
安全保障の人間は、知ることを優先する。文化系の人間は、聞き方を問題にする。医療系は接触の条件から入りたい。広報側は映像の印象を気にしている。誰も間違っていない。だからまとまらない。
そこで、後方にいた初老の言語学者が手を挙げた。
誰も彼の名前をよく知らない。政府の常連ではなく、大学から急に呼ばれた人間だった。
「一つだけ」
声が小さく、部屋が静まるまで少し時間がかかった。
「こちらはずっと、何を得られるかで話しています。たぶん、それがまずい」
レイノルズが視線で促す。
「交流という言葉は便利ですが、雑です」
学者は言った。
「観光客も使うし、国際機関も使う。姉妹都市も使うし、学術協定にも使う。けれど、本当に交流が成立する時は、相手を道具として使うつもりが少し下がる。今の私たちは、相手を巨大な資源として見すぎています」
「そりゃ資源だろう」
経済担当が言った。
「彼女の文明が持っているものは、現実にそうだ」
「持っているものは、です」
学者は言い直した。
「でも、彼女が“資源そのもの”であるかは別です」
リードは黙って聞いていた。
珍しいほど口を挟まない。
「もう一つ」
学者は言った。
「対等性がないから交流できない、と考えたくなる。実際その通りかもしれない。ただ、対等性にはいくつか種類があります。軍事的な対等性。技術的な対等性。政治的な対等性。たぶん全部ない。でも、感情や物語の内部に入る時の対等性は、別にあり得る」
「意味が曖昧だ」
将軍が言う。
「ええ、曖昧です」
学者は認めた。
「ただ、向こうが政治指導者を重要視していないというなら、むしろその曖昧な方しか残らない。国家同士の形式ではなく、生き物として何を面白がり、何を嫌がり、何を弔い、どうやって子どもを育てるか。そこなら、上下はあっても、完全な無意味ではないかもしれない」
部屋は静かだった。
納得したというより、反論しづらい種類の話だった。
リードがそこで初めて口を開く。
「つまり、我々は」
彼は言った。
「金も武器も技術も持っていくな、と」
「持っていくなとは言っていません」
言語学者は答えた。
「それを中心に据えるな、という話です」
「中心」
リードはその単語を繰り返し、机上の一ページ資料と、自分の四ページ資料を見比べた。
中心。政治では、中心をどこに置くかで負け方が変わる。
*
午後三時四十分、東京。
真帆は一度だけ官邸の外に出た。
取材対応ではない。コピー機の熱気と人の匂いで気分が悪くなって、五分だけ空気を替えに出た。三月の風はまだ少し冷たい。冷たいが、体に入ると頭が戻る。
正門前には報道陣がいる。歩道の向こうには野次馬もいる。スマホを構える人、ただ立っている人、誰かと通話している人。デモではない。集合でもない。目的の薄い人だかりだった。
その端の方で、小学生ぐらいの男の子がスケッチブックを膝に乗せていた。母親らしい人が隣にいる。何をしているのかと思ったら、白い翼の少女を描いていた。
真帆は二秒ほど見て、目をそらした。
いま一番見たくないものの一つだった。
男の子が母親に聞く。
「ほんとに来るの」
「来るって言ってるね」
「敵なの」
「分かんない」
「じゃあ、なんでみんな怖いの」
母親はすぐには答えなかった。
言葉を探しているのが分かる。真帆は歩きながら、それを聞いてしまっている自分が嫌だった。
母親はようやく言う。
「強すぎる人が来ると、怖いの」
男の子は少し考えた。
「学校の六年生みたいな?」
「……もっと」
母親は苦笑した。
「もっと、すごく」
それでだいたい伝わったらしく、男の子はまた絵に戻った。
真帆は官邸の中へ戻りながら、その会話が妙に残った。
強すぎる人。
大人の会議ではもっと複雑な言い方をしている。主権の再編。非対称性。文明間接触の初期プロトコル。どれも間違っていない。間違っていないが、さっきの説明の方がだいぶ近い。
*
午後五時、大統領府。
夕方になっても、執務室の机の上から紙は減らなかった。
リストの項目数だけは減っている。百七十三が九十六になり、九十六が四十二になり、四十二が十七になった。削るたびに、何かを失った気がする。だが減らさないと、人間の側の欲が見えすぎる。
リードは十七項目版を閉じた。
「ゼロにはできない」
誰に言うでもなく言った。
レイノルズが答える。
「ゼロにする必要はないと思います」
「そうか」
「はい。ただ、それを“交換条件”として持ち出すのは危険です」
リードは椅子にもたれた。
「私は、ディールのない世界で生きたことがない」
レイノルズは何も言わない。
それを慰めるのは違うし、訂正するのも違う。
「相手が何かを欲しがっている。こちらにも何かがある。そこを繋ぐ。ずっとそれだった」
「今回は、あるかもしれません」
レイノルズは慎重に言った。
「ただ、繋ぐ場所が物ではないだけで」
「言葉遊びに聞こえるな」
「私もそう思います」
リードは机上のもう一枚の紙を見た。
language.
music.
grief.
care.
cities.
conflict and law.
faith.
children.
相変わらず薄い。しかも、そのどれも大統領令では動かせない種類のものだった。
「子ども、というのは何だ」
「次世代、教育、育て方、という意味です」
「相手はガキみたいな見た目をしてる」
「だからではありません」
リードは鼻で笑ったが、完全には否定しなかった。
窓の外では、報道ヘリの音が遠くで回っている。軍の音ではない。報道の音だ。時代が変わる時に一番しぶといのは、だいたいカメラだ。
「歓迎式典はやらない」
彼は言った。
「分かりました」
「国賓待遇も要らない」
「各国がどう受け取るかは別ですが」
「別でいい。並べるな。余計な旗も減らせ」
「はい」
「ただし、みっともなくはするな」
「もちろんです」
レイノルズはメモを取った。
その指示は矛盾しているようで、意外と明確だった。国家としての形は残す。だが形で押し切ろうとしない。たぶん、それしかない。
その夜、リードはもう一度だけ短い映像声明を出した。前日のような大げさな演説ではない。二分半。明日、予定通り来訪があれば受け入れること。市民は大統領府周辺の規制に従うこと。武装した民兵も、歓迎派の私設集会も、歴史の主役になるつもりで近づくなということ。いちばん嫌われる文言だけを残した、実務の声明だった。
声明の後、大統領府周辺のホテルでは窓際の部屋から先に埋まり、ネットでは「明日、誰かが撃つ」「いや誰も撃てない」の賭けみたいな言葉が流れた。警備側は笑わなかった。笑える話ではない。来訪の前日とは、国家だけでなく、ひとりの妄想にも時間が残っている日だからだ。
リードは少ししてから、十七項目版の紙を引き寄せた。
上から五つに線を引く。
無限エネルギー。超光速推進。超高強度材料。根治医療。気候制御。
残るのはもっと細かいもの、あるいは聞き方次第で逃げ道があるものばかりになる。
自分で削って、自分で嫌そうな顔をした。
「これは」
彼は言った。
「弱く見えるな」
「強く見せる必要がありますか」
レイノルズが訊く。
返事はすぐにはなかった。
その数秒で十分だった。
*
午後六時二十五分、東京。
官邸の記者会見室では、紙の束よりも、短い原稿の方が恐れられていた。
長い原稿なら、読み切ればいい。短い原稿は、その行間を記者に読まれる。
城崎は会見の直前まで、最後の一文を迷っていた。
“平静な対応をお願いします”
ありきたりだ。
“必要な物資は確保されています”
言い切るには怖い。
“政府は万全の体制です”
この一週間で一番言ってはいけない種類の嘘だ。
結局、選んだのは別の言い方だった。
「買い急がないでください」
会見場に入って最初に、それを言った。
「生活に必要な機能は維持されています。決済、医療、物流、公共交通。部分的な混乱はありますが、政府としてはそこを最優先で守ります。一方で、何が起きているのかを、政府が完全に理解していると申し上げることはできません」
記者席が一瞬だけざわつく。
分からないと言った。首相が。そこだけ切り取ればニュースになる。
城崎は続けた。
「分からないことを分かったふりで埋めると、かえって社会が壊れます。今は、分かっている範囲を正確に共有し、生活側を守ることを優先します」
質問は厳しかった。
市場閉鎖は経済敗北ではないか。米国への追随ではないか。訪問者に対して日本は何を用意しているのか。安全保障上の対処は。宗教団体や過激派の動きは。パニック買いへの対応は。学校は。
城崎は、答えられることだけ答えた。答えられないことは答えなかった。その分、記者の顔は不満そうになった。だが、会見を見ていた真帆には、久しぶりにちゃんとした言葉に見えた。
国家が弱い時は、だいたい雄弁になる。
今日はそうではなかった。
*
午後八時、連邦首都
日が落ちても、大統領府の窓はまだ明るかった。
最終の打ち合わせが続いている。歓迎導線。映像公開の範囲。科学チームの待機位置。緊急医療班の距離。宗教者の同席可否。各国との中継形式。決めることはまだ多い。だが、決めても意味があるのか分からない項目ばかりが残っている。
それでも決める。
決めることで、人間は自分の仕事を続けられる。
会議がいったん切れたあと、リードは一人になった。
机の上には二つの紙がある。十七項目版。八語版。どちらも半端だ。どちらもこれだけでは足りない。
彼はポケットから、昼にしまった一枚を出した。最初の百七十三項目版から、誰かが抜き出してくれた要約だ。角が少し折れている。
しばらく見てから、ゴミ箱の方へ手を動かし、途中で止めた。
捨てるのも違う気がした。
扉がノックされる。
入ってきたのは統合参謀本部議長のウォーカー将軍だった。
「呼んだか」
リードが言う。
「いえ。秘書官が、まだ起きているなら見せたいものがあると」
将軍はタブレットを差し出した。
SNSの切り抜き動画だった。どこかの小学校の教室。授業は中止になり、代わりに担任が子どもたちへ紙を配っている。自由に書いていい、という声。子どもたちは“来る人へ”手紙を書き始める。
ようこそ。
どこから来たの。
地球の食べ物で何が好き。
ぼくは野球が好き。
ママが最近ずっとニュース見てる。
こわいなら、こわいって言っていいよ。
字のうまい子も、下手な子もいた。絵もある。翼がやたら大きい。
リードは最後まで黙って見た。
動画が終わる。
「誰が送った」
「教育省から上がってきたものです。使えるかどうかは別として」
「使える、とは」
「リストの話ではなく」
将軍は少し言いよどんだ。
「何を見せるか、という話で」
リードはタブレットを返さなかった。
画面の静止した教室を見ている。軍人がこんなものを持ってくるのか、と一瞬だけ思って、それももう古い感覚だと分かった。
軍は止められた。市場も止められた。残るのは、そういうものかもしれなかった。
「子どもか」
「少なくとも、彼らは取引しようとしていません」
将軍は言った。
お世辞にも上手い台詞ではなかった。だが執務室では、むしろその不器用さが効いた。
リードはようやくタブレットを机に置いた。
「交流には」
彼は言いかけ、止まる。
将軍は待った。
催促しない。軍人は沈黙を待てる。
「交流には、対等性が必要だと思っていた」
リードは言った。
「少なくとも、私はそういう世界でやってきた。相手にこちらを必要とさせる。それがないなら、会話は成立しない」
「はい」
「でも、違う種類の対等性があるのかもしれないな」
将軍は返事を急がなかった。
大統領自身がその言葉を自分のものにするまで、少し時間が要る。
「弱さを出すって話じゃない」
リードは続けた。
「媚びるのとも違う。だが、欲しい物のリストを最初に出すのは、たぶん違う」
「そう思います」
「思う、か」
「はい」
リードは十七項目版を裏返した。
白い面が上になる。しばらくそれを見てから、ペンを取った。
大きな字で三行だけ書く。
We came to hear.
We came to show who we are.
We ask what exchange means to you.
英語としてうまいかはどうでもよかった。
スタッフに直させればもっと綺麗になる。だが綺麗にした瞬間、別の紙になる気がした。
窓の外で、報道ヘリがまた旋回した。
執務室の時計は八時四十三分を指している。東京は火曜の朝だ。こちらはまだ月曜の夜。世界が一つの出来事を中心に回っている時でも、時差だけはそのまま残る。
*
午後十時十分、東京。
真帆が官邸を出ると、空気は朝より冷えていた。
歩道の人は減っている。報道陣も少し入れ替わった。コンビニの棚にはまだ水が残っていたが、昼より少ない。タクシー乗り場には列がある。列はいつも通りだ。ただ、みんなスマホを見すぎている。
家へ帰る途中、彼女は近所のドラッグストアに寄った。
歯磨き粉と洗剤を買うつもりだったのに、店内に入ると水の棚を見てしまう。自分でも嫌になる。残りの本数を数えたあとで、買わずに離れた。
レジには、絆創膏とベビーフードと栄養ゼリーを持った人が並んでいる。終末ではない。終末ではないから、こういう買い方になる。
帰宅して、靴を脱ぎ、ようやくスマホの個人メッセージを開く。
母からだった。
水、ある?
お米まだあるなら無理に買わなくていいよ
それだけだった。
返信も短くした。
ある。大丈夫。そっちは?
すぐ返ってくる。
こっちも大丈夫
テレビ見すぎないようにね
真帆は、少しだけ笑った。
見すぎているのはお互い様だろうと思ったが、打たなかった。キッチンで水を沸かし、インスタントのスープを入れる。静かだ。外から救急車の音が一度だけ通る。いつもの音だった。
テーブルの上には、今日使った三枚資料の控えがある。
何を主題にしないか。
何を見せるか。
何を訊くか。
彼女は三枚目を見返した。
最後の問いに、赤字で追加が入っている。総理の手書きだった。
“あなたたちは、なぜわざわざ一人で来るのか”
真帆はその一行を見て、少し背筋が寒くなった。
そうだ。そこをまだ誰もまともに考えていない。
一人で来られるから来る、で終わる話なのか。大規模な使節団を不要と判断した理由は、単なる安全保障上の自信なのか。それとも、もっと別の価値観があるのか。
考えようとして、やめた。
今日はもう頭が働かない。
窓を開けると、東京の夜気が入る。
遠くで電車の音がした。インフラはまだ生きている。物流も、病院も、コンビニも、たぶん明日の朝までは持つ。世界は技術的には動いている。
ただ、人間の側の前提が、少しずつ止まっている。
価格が止まる。
命令が止まる。
説明が止まる。
それでも、レジは打たれるし、電車は来るし、母親は子どもに水を買う。将軍は子どもの手紙の動画を大統領に持っていく。首相は“分からない”と言う。
機能停止という言葉は、だいたい全部が止まる時に使う。
でも本当に怖いのは、全部は止まらない時だと、その日になって分かった。
真帆は窓を閉め、机の上の紙を裏返した。
明日も使う。
使わない方がいい日が来るのかどうかは、まだ分からない。




