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10日間の問い  作者: ライカの三日月
本編 10日間の問い
7/9

7日目 科学界の絶望





――20XY年3月7日、筑波/ジュネーブ/マウナケア/チリ


 分からない、という言葉には、場所によって値段が違う。

 役所では高い。市場ではもっと高い。テレビでは、ほとんど禁句に近い。

 科学の世界ではどうかというと、建前の上ではいちばん安いはずだった。分からなければ分からないと言う。そこから始める。そういうルールでやってきたはずだった。

 ところが土曜日の世間は、その建前を待ってくれなかった。ネットはカルダシェフ・スケールで騒ぎ、投資番組は文明段階を値札に変え、新聞の文化面は「過去のファーストコンタクト作品総ざらい」を組んだ。尺度も物語も、雑な方が早く広がる。

 科学者たちはその雑さを嫌った。嫌ったが、笑って捨てるほど余裕もなかった。文明差を語る共通語が乏しすぎるから、古い尺度でも使われる。しかも、あの来訪者の身体が“本来の種の姿”ではなく“接触用に調整された形態”かもしれないという仮説まで出始めると、エネルギー消費の尺度だけではますます話が足りなくなる。


 ただ、そのルールは、論文の締切や研究費の申請書や記者会見の壇上では、案外すぐに痩せる。

 土曜日の朝、そのことを、世界中の研究者が嫌でも思い出すことになった。


     *


 午前五時四十八分。

 筑波宇宙センターの会議棟は、平日の顔を半分だけ作ったまま止まっていた。自動ドアは動く。蛍光灯も点く。空調も生きている。だが、土曜日の建物にあるはずの緩さがなかった。警備員の歩く速さが、もう違う。


 鴨下真帆は、入館証を二度かざした。

 一度目で通らず、二度目で通った。機械のせいなのか、自分の手が少し震えていたのか、分からない。こういう時、人間はたいてい機械のせいにしたがる。真帆もそうした。


 会議室の前には、紙コップのコーヒーが十数個並んでいた。誰かがコンビニでまとめて買ってきたらしい。銘柄がばらばらで、砂糖入りと無糖とカフェラテが混ざっている。国家的危機の補給は、そういう雑さで運ばれる。


「寝てない顔ですね」


 背後から言われて、真帆は振り向いた。

 国立天文台から来た志村涼介が、首から赤い入館証を提げて立っていた。三十代の終わり、髪は短い。背広は着ているが似合っていない。似合っていないことを本人も知っていて、そのままにしている顔だった。


「そっちも」


「こっちはいつもこうです」


「便利な言い訳ですね」


「科学者はだいたい便利ですよ。寝癖でも個性になるし」


 真帆は少しだけ笑った。

 それで終わった。笑いは続かなかった。


 会議室の中では、すでに六面の大型スクリーンが立ち上がっていた。中央が筑波。左上がジュネーブのCERN。右上がマウナケア。左下がチリ、アタカマ。右下がダルムシュタット。残りの一面は資料投影用で、現時点では白いままだった。

 国旗は出していない。組織ロゴも最小限だ。昨夜の城崎の指示がそこにも反映されていた。国家紹介の場ではなく、観測の場にする。言うのは簡単だが、画面の作り方ひとつにまで口を出す必要がある。


 真帆は末席の端末を開いた。

 議題案は昨夜とほぼ同じだった。


 一、観測事実の共有。

 二、既存理論との不整合の整理。

 三、命名の保留。

 四、政治部門への中間報告の線引き。

 五、対外発表文案。


 五が増えていた。

 真帆は舌で奥歯を押した。予想はしていた。していたが、早い。


「もう発表文いるんですか」


 横から志村が画面をのぞきこんだ。


「いるみたいです」


「まだ始まってもないのに」


「始まる前から欲しがるのが、こっちの仕事です」


「最悪ですね」


「知ってます」


 言ってから真帆は、少しだけ助かった気がした。仕事の悪口は、事情説明の短縮になる。


 スクリーンの一つで接続ランプが緑に変わった。ジュネーブ。広い階段状のホールが映る。青灰色の座席。中央通路。前方の長机。CERNの主催側が用意した緊急会議場らしい。巨大施設というものは、無駄に広い。無駄に広いから、誰かが深刻な顔で歩いていても少し遠く見える。


 中央の席に、デイヴィッド・チェンが座った。

 カリフォルニア工科大学の理論物理学者。いまは客員扱いでCERNに滞在している。細い黒縁眼鏡。襟元の少しよれたシャツ。肩に力が入っていないように見えるのに、見ているこちらまで背筋が固くなる顔をしていた。


 真帆は昨夜、名前だけ覚えた。論文までは読めていない。読んでも分かる気がしない。


 他の画面も順に埋まっていく。マウナケアの観測室は窓の外がまだ暗い。アタカマは逆に白み始めている。ダルムシュタットではESAの運用担当がヘッドセットを直していた。筑波の室内は、どの画面よりも生活感がない。日本の会議室は、非常時ほど平らになる。


 午前六時ちょうど。

 議長役の老年の女性がジュネーブの画面に現れた。CERN理事会の科学顧問、エレーヌ・ロシュ。肩書は長いが、見た目は、書類を早く終わらせたい学校の教頭に近い。


「始めます」


 その一言で、咳払いがいくつか止まった。


「本会合は、三月一日の全地球同時通信以後に収集された観測事実の照合と、暫定的な理論整理のために招集されました。政治的評価、軍事的評価、宗教的評価は本会合の主題ではありません。もっとも、各国政府がそれを欲していることは承知しています」


 少し間があって、彼女は続けた。


「だからこそ、今日は欲を抑えてください。言えることだけ言う。分からないことは分からないと残す。まずそこから始めます」


 うまい演説ではなかった。うまくない方がよかった。


     *


 最初の報告は、マウナケアからだった。


 ハワイの画面に映った観測主任は、日焼けした頬をしていた。背景には、観測室の窓に映る暗い空がある。彼は、冗談を言わないタイプの声で説明した。


「一日未明以降、複数の光学・赤外観測装置に、同一方向からの位相不整合が持続的に記録されています。対象方位はM31、アンドロメダ銀河中心から南西に二・三度ずれた領域。誤差は十分の一度以内。大気揺らぎ、局所機器誤作動、既知の人工衛星起源、全て除外済みです」


 画面が資料投影に切り替わる。

 山のようなグラフではなかった。細い線が何本か、ほとんど重なったまま斜めに走っているだけだ。素人が見れば、どこに異常があるのか分からない。真帆にも分からない。


 だが、分かる人間には分かるらしかった。

 筑波の室内で、誰かが小さく息を吸った。


「比較対象として、同時刻の別方向観測を右に示します」


 右の線は、もっときれいだった。


「要するに何が違うんですか」


 真帆の後方で誰かが小声で言った。研究者ではない、官邸から来た連絡要員だろう。気持ちは分かる。


 志村が視線を画面から外さないまま、小さく答えた。


「雑音の入り方が、空じゃなくて、測り方そのものに噛んでる」


「測り方そのもの」


「はい。望遠鏡が下手なんじゃない。望遠鏡が前提にしてる“届き方”が少しおかしい」


 真帆はそれ以上聞かなかった。聞いても、今の自分には翻訳できない気がした。


 次はアタカマだった。ALMAの主任科学者が、六十六基のアンテナ群から取ったデータを出す。位相ずれ。到来時刻の揺らぎ。帯域を変えても残る奇妙な相関。乾いた高地の朝の光が、ガラス越しに淡く入っている。


「通常の電磁波源として解釈した場合、この信号は説明不能です。というより、電磁波として扱う時点で、かなり多くを捨てています」


「捨てている、とは」


 ロシュが聞く。


「到来しているのは、波というより、座標系の癖です」


 何人かが顔をしかめた。

 抽象的すぎる言い方は、科学者どうしでも嫌われる。だが、彼はその嫌われ方に慣れている顔をしていた。


「言い換えます。こちらに届いた何かが、我々の観測装置を通ることで初めて波のように見えている可能性があります。観測対象が光っているのではなく、観測する空間の側が、そこを向くと少し歪む」


 マウナケアの主任がうなずいた。筑波の志村も、机の上の紙に何か書いた。


 ダルムシュタットからは、ESAの深宇宙通信網で取った時刻基準の異常が示された。複数局の原子時計に、同一パターンの微小なズレが発生している。ただし、壊れてはいない。再校正も可能だ。だが、一度ずれた事実が消えない。


「重要なのは、ズレの形です」


 ESAの担当官が言う。


「通常のノイズなら、局ごとに違う。今回は違わない。場所が違って、機材が違って、補正方法も違うのに、同じ表情でずれる。時計が狂ったというより、“同時”の方が動いたように見えます」


 その文に、会議室が少しだけざわついた。

 科学者のざわつきは大きな音にならない。椅子の布が擦れる。ペンが置かれる。マイクの赤ランプがいくつか点く。それだけで空気が変わる。


 ロシュが前のめりになった。


「デイヴィッド」


 ジュネーブの中央席で、チェンが顎を上げた。


「ここまでの報告に対する理論整理を」


 彼はすぐには話さなかった。紙をめくりもしない。正面の画面を一度見て、右の画面を見て、それから、自分の前の机に置かれた薄いノートを閉じた。

 最初から閉じた方がよかったと、そういう仕草だった。


「整理できていません」


 場が静まる。


「正確に言うと、整理の仕方が三通りあります。一つ目は、全部を観測上の見かけとして扱う方法。二つ目は、新しい媒質または新しい相互作用を導入する方法。三つ目は、時空の記述そのものを修正する方法です」


 彼はそこで止まり、薄く息を吐いた。


「一つ目は、昨日までなら有力でした。今日のデータで、かなり苦しくなった」


 チェンの声は平坦だった。平坦だが、諦めているわけではない。嫌な結果を、嫌だと思いながら机に並べている声だった。


「見かけであるなら、見かけを成立させる局所メカニズムが必要です。各観測装置、各時刻系、各防衛システムに、それぞれ別経路から介入した何かが要る。ですが、介入の痕跡が薄すぎる。しかも同期が良すぎる。ハッキング、内部犯行、未知の電磁妨害、いずれも説明に必要な手数が多すぎます。説明が現象より太る」


 真帆はその文をノートに打ち込んだ。説明が現象より太る。

 使えそうな文だと思ったが、総理会見に載せたら叱られそうでもあった。


「二つ目。新しい粒子、新しい場、新しい媒質。これは理論物理学者がもっとも好むやり方です。私も長くそうしてきました。観測に合わない部分が出たら、足す。上書きではなく継ぎ足しで済ませる。賢いやり方です。たいていそれで前に進める」


 少しだけ笑いが起きた。自虐だと伝わる程度の薄い笑いだった。


「ただ、今回は、足す量が多すぎる」


 彼はスクリーンの一枚を指した。


「二百五十万光年先から、十日で到来すると予告された移動。全世界の軍事システムの、物理損傷なしの同時無効化。観測方向に依存する時刻基準の偏り。これらを一つの新粒子や一つの新場で済ませるのは、かなり無理があります。できます。紙の上では。ですが、その紙はたぶん、我々のためのものです。現象のためではない」


 今度は誰も笑わなかった。


「三つ目」


 ロシュが促す。


 チェンはうなずいた。


「三つ目は、いちばん面白くない。面白くない上に、腹が立つ」


 その言い方で、何人かの肩がほんの少し緩んだ。


「我々が前提にしている時空の切り方、因果の置き方、情報の運び方。それが、局所近似としてしか正しくない可能性です。ニュートン力学が日常では正しいのと同じ意味で、相対論も量子論も、日常と恒星間のあいだのある範囲では正しい。だが、文明が扱う工学のスケールが変わると、土台の方が見えてくる。そういう可能性」


「それは“間違っている”という意味ですか」


 アタカマから誰かが聞いた。


「いいえ」


 チェンは即答した。


「その言い方は雑です。間違っていた、ではなく、足りていなかった、が近い。ニュートンが間違っていたわけではない。狭かっただけです。我々もたぶん、狭い」


 マウナケアの画面で、誰かが額を押さえた。

 筑波の後方では、官邸側の人間が誰かに短いメッセージを送っている。もう政治部門は、この会議から答えだけを抜き出したがっているはずだ。


「どの程度、狭いんですか」


 今度は志村がマイクを入れた。


「一センチですか、一キロですか、それとも文明単位ですか」


 いい質問だと、真帆にも分かった。

 チェンは志村の名前表示を一度見て、答えた。


「現時点では、文明単位としか言えません」


 その瞬間、筑波の会議室で誰かが小さく悪態をついた。マイクは拾わなかった。


 文明単位。

 便利で、最悪な言葉だった。


     「カルダシェフは見出しには向いてる」

 チェンは言った。

「だが、相手が何を重視して発達したかは、あの尺度ではほとんど分からない。エネルギーを持っていることと、どういう文明かは別問題だ」


 誰かが画面の少女を指した。

「あの身体も同じですか」


「同じだ」

 チェンは答えた。

「天然の平均個体だと決めつける理由はない。接触のために調整した形態かもしれない。対話相手に与える印象まで設計できる文明なら、見た目は生物学だけの問題じゃなくなる」


「つまり」


「翼があるから宗教的、幼く見えるから未成熟、美しいから平和的。そういう読みは、全部こちら側の癖だということだ」


 会議室の何人かが嫌な顔をした。

 嫌なのは、その通りだからだった。


 午前七時二十分。

 最初の休憩が入った。


 真帆は廊下に出た。長机に置かれたコーヒーはすでにぬるい。サンドイッチの包みは何個か開いていたが、食べかけが残っている。危機の朝の食事は、きれいに終わらない。


 自販機の前に、志村と、CERNから筑波に来ている加速器研究者の中谷がいた。中谷は四十代半ばで、声だけ大きいタイプだった。今日はその大きい声が助かる。


「文明単位って、何だよ」


 中谷が缶コーヒーを取りながら言う。


「学会で言ったら叩かれますよ、あんなの」


「学会じゃないからじゃないですか」


 志村が言う。


「便利な逃げ方だな」


「中谷さんだって、今週は加速器じゃなくて文明の話してるでしょう」


「してるよ。してるから腹立つんだろ」


 真帆は紙コップを持ったまま二人の横に立った。


「すみません。官邸向けに一つ確認したいんですが」


「もう来た」


 中谷が嫌そうな顔をした。


「要するに、現代物理学は間違っていた、でいいのかって、たぶんあとで聞かれます」


「最悪の要約だな」


「知ってます」


「間違ってた、じゃなくて」


 志村が言う。


「いま使ってる地図が、世界地図じゃなくて市街地図だった、くらいです」


「それ、伝わりますか」


「伝わらないでしょうね」


「じゃあ使えない」


 真帆が言うと、二人とも少しだけ笑った。


 笑ってから、三人とも黙った。

 廊下の先で、誰かが電話越しに英語で怒鳴っている。記者だろうか、上司だろうか、どちらでも同じような声になる。


「LHCは」


 真帆がふと思いついて聞いた。


「こういう時、役に立たないんですか」


 中谷が缶を開ける。


「立つよ。立つけど、違う」


「違う」


「大きい機械があると、何でも何とかしてくれそうに見えるんだよ。あれ、そういう機械じゃない。分からないものに名前をつける前の、条件を狭める機械だ。宇宙人が来るのを止める機械でも、呼ぶ機械でも、時空をひっくり返す機械でもない」


 彼は一口飲んだ。


「でも、そういう勘違いも含めて、現代だよな」


 真帆はその文を覚えた。

 言い換えれば、巨大施設への信仰だ。大きいもの、速いもの、高いもの、投資額の桁が一つ違うものに、答えまで入っている気がする。そういう気分は官邸にもある。真帆にも少しある。


 自分のスマホが震えた。

 官邸のグループチャットだった。


《中間整理を至急。総理レク八時十分。三行で》


 三行。

 真帆は空を見たくなったが、廊下の天井しかなかった。


     *


 八時過ぎ、会議は再開された。


 今度は理論班の討論だった。休憩前までの報告は、観測の人間が比較的静かに並べた。ここからは、並べられた事実に、人間の癖が混ざる。


 まず、量子情報の研究者が「超光速通信とは限らない」と言った。次に、宇宙論の研究者が「そもそも通信という比喩が誤っている」と返した。数理物理の人間が「因果律を破っていると断言するのは早い」と挟み、別の誰かが「早いが、遅くもない」と言った。


 会議は、だんだん学会に似てきた。

 真帆には少し安心だった。人間は、どうでもいい細部で揉め始めると、少しだけいつもの顔になる。


「では、移動予告について」


 ロシュが議題を絞った。


「彼女は、地球時間において十日間で大統領府を訪問すると言った。現在、その予告はまだ履行前だ。にもかかわらず、観測の側はアンドロメダ方向に異常を見ている。これをどう繋ぐか」


 ジュネーブの後方席で、若い研究者が手を挙げた。名前表示はナディア・エルハキム。


「“来る”のではなく、“もう来ていて、こちらの時間でまだ見えていない”可能性があります」


 会議室の何人かが顔を上げた。


「説明して」


 ロシュが言う。


「地球側の十日間が、彼女側の移動時間とは限らないという意味です。彼女がどの座標系を使っているか分からない。もし到着条件そのものを操作できるなら、出発と到着の間を埋める量を、私たちの意味での速度で表現すること自体が誤りです」


「要するに」


 中谷が筑波から言った。


「“どれくらい速いか”って質問が、もうこっちの都合なんだな」


「そうです」


 ナディアがうなずく。


「速さという量は、空間と時間が先に安定していることを前提にします。そこが揺れているなら、速さを聞くのは順番が逆です」


 真帆は、そのやり取りに奇妙な既視感を覚えた。

 日本政府はこの数日、ずっと同じことをしていた。脅威度、意図、要求、抑止、交渉条件。既存の棚にラベルを貼って、そこへ入れようとする。科学者は科学者で、粒子、場、波、座標、因果に入れようとする。

 違う世界の人間に見えて、やっていることは案外似ている。


 入れ物の方を疑うのは、いつも遅い。


「では、無効化された防衛システムについて」


 ロシュが言った。


「工学的にはどう解釈する」


 ここで中谷がマイクを入れた。


「“壊れていないのに使えない”ってのが、いちばん嫌なんです」


 彼の声はやや荒かったが、通った。


「回路は生きてる。部品も焼けてない。ログも残ってる。なのにpermission deferred.だの、authorization unavailable.だの、各国で似たような戻り方をしてる。人間のセキュリティ設計思想に寄りすぎてるんです、見た目が」


「つまり、人為的に見せていると」


「見せている、か、こっちが勝手にそう読んでるかです」


 中谷は机を指で二回叩いた。


「システムにとって“使える”って、結局は、周囲の物理条件が想定範囲にあることなんですよ。極端な話、重力定数が急に変わったら、ソフトは壊れてなくても兵器は当たらない。今回はそこまで単純じゃないにしても、“工学が前提にしてる世界”の方を少しだけずらされたら、機械は部品そのままで役に立たなくなる」


 それは、真帆にも分かる形の説明だった。

 現実の方が規格から外れた。そういうことだ。


「その“少しだけ”が、どの程度かを測れますか」


 ロシュ。


「だから今、みんなで死ぬほど測ってるんです」


 中谷は言った。少し言いすぎたと思ったのか、すぐに口を閉じた。

 だが、誰も咎めなかった。


     *


 八時十分ちょうど、真帆は一度だけ会議室を抜けた。

 官邸とのオンライン接続。城崎への中間レクだ。


 画面の向こうの執務室は、土曜の朝なのに、すでに書類が積み上がっていた。城崎は椅子に深く座っていない。深く座ると、そのまま疲れが見えてしまうからだろう。


「三行でお願いします」


 彼女はそう言った。

 無茶だと思ったが、真帆は昨夜から何度も無茶をやっている。


「一つ目」


 真帆はノートを見た。


「複数の観測機関が、アンドロメダ方向に共通の異常を確認しました。機器故障や通常の電磁波源では説明しにくい、というのが現時点の一致です」


「二つ目」


「現在の物理学が直ちに無効になるわけではありませんが、説明範囲の外にある現象が生じている可能性が高い、という整理です」


「三つ目」


 真帆は一瞬だけ迷った。


「科学側は、まだ名前をつけたくない状態です」


 城崎は少しだけ目を細めた。


「それは、良いことですか」


「たぶん、良いことです」


「たぶん」


「無理に言い切り始めるよりは、です」


 城崎はうなずいた。


「分かりました。政治側も、少なくとも今日の午前中は、命名を急がない方向でいきます」


 その言い方に、真帆は少し救われた。

 少なくとも今日の午前中。長い約束はしない。政治家のそういう現実的な短さは、たまにありがたい。


「総理」


 真帆は言った。


「はい」


「科学側、けっこう、へこんでます」


 城崎はすぐには返さなかった。意外な顔もしない。


「でしょうね」


「ただ、壊れたって感じではないです」


「では」


「自分たちの使っていた物差しが、急に短いと分かった感じです」


 城崎は、その比喩にはうなずかなかった。気に入らなかったのかもしれない。


「短いなら、継ぎ足せばいい」


 彼女はそう言って接続を切った。


 真帆は数秒、黒くなった画面を見ていた。

 継ぎ足せばいい。

 政治家の言葉だ。乱暴で、役に立つ時もある。


     *


 九時を過ぎると、会議は少し汚れてきた。

 悪い意味での汚れだ。記者対応が入り、各国政府から追加質問が飛び、研究所の広報部門が“表現の統一”を求め始めた。


 ジュネーブの会場後方で、広報担当らしい男が紙を持ってロシュに耳打ちした。彼女は一度だけ表情を崩し、マイクを切って短く何か言い返した。

 筑波にも同じ類いのメールが来ていた。


《“現代物理学の敗北”という表現は避けたい》

《市場への影響に配慮願いたい》

《“未知の可能性”で統一できないか》


 真帆は、その最後の文を見て、舌打ちしそうになった。

 未知の可能性。何も言っていないのと大差ないくせに、前向きな顔だけしている語だ。こういう時に便利な語ほど、あとで腐る。


 会議室の前方では、チェンが別の資料を出していた。白板に近い簡単な図だ。光円錐を少し歪めたような絵。直線が曲がり、曲がったものがまた直線に見えるような、見ていて落ち着かない図だった。


「ここから先は比喩です」


 彼は先に断った。


「正しい式ではない。正しいかもしれない考え方です」


 真帆は少し身を乗り出した。式より比喩の方が、今はありがたい。


「我々はこれまで、宇宙を、一定の規則で舗装された道路のようなものだと思ってきた。速度制限もある。一方通行もある。通れない場所もある。非常に広いが、基本的には道路だ。ところが、もし上位の文明が、その道路の管理側にいるならどうなるか」


 中谷が小さく鼻を鳴らした。道路という比喩は、工学の人間には陳腐かもしれない。


「彼らは速く走っているのではないかもしれない。道路そのものの敷き方を、一時的に変えているだけかもしれない。こちらからは違法な速度に見える。しかし彼らにとっては、道の工事だ」


「その比喩だと」


 ナディアが言う。


「相対論は間違っていない。道路交通法が適用される区域では、今も正しい」


「そう」


 チェンがうなずく。


「ただ、宇宙全体がその区域だと思っていたのが、思い上がりだった可能性がある」


 思い上がり。

 その語で、空気が少し変わった。

 科学の世界では、間違いは許される。思い上がりは、あまり許されない。しかも、今回の相手は、こちらを嘲笑ってすらいない。そこがいちばん効く。


「デイヴィッド」


 ロシュが声を落とした。


「“思い上がり”は記録に残さない方がいい」


 彼は一度だけ、口元だけで笑った。


「そうですね」


 会議場のどこかで、乾いた笑いが起きた。

 分かっている。だが、消したところで、消えない種類の文だった。


     *


 昼前、CERN側から追加提案が出た。

 緊急実験の実施。LHCそのものではなく、付随する高精度時計系と検出器群、それに地下空間の環境安定性を使って、観測方向依存の微小なズレを測り直す。やること自体は地味だ。だが、人類が持っている中で最も精密な測り方の一つを、その日限りで別目的に転用する意味は大きい。


「ビームタイムを切れますか」


 ロシュが尋ねた。


 運用責任者が困った顔をした。


「切れます。ただ、通常計画への影響が」


「通常計画」


 チェンが繰り返した。


 その二語に、会議室の何人かが目を伏せた。

 通常計画。昨日まで、世界中の研究者がそれに従って動いていた。採択された提案書。割り当てられた時間。共同研究契約。査読。次の人事。次の大型予算。科学は自由探究だと口では言うが、日々はかなり細かい予約表で進んでいる。


 チェンはそれ以上責めなかった。


「影響は承知しています。ですが、たぶん今日は、通常計画の側が譲る日です」


 運用責任者は数秒黙り、それから頷いた。


「分かりました」


 真帆は、そのやり取りを見ながら思った。

 研究費も計画も締切も、全部なくなるわけではない。月曜になればまた戻るだろう。人類はそういう生き物だ。だが、一度だけでも、自分たちの予約表の方が現実に従う瞬間を見た。

 それは、少し良かった。


     *


 昼食は、会議室で配られた箱だった。冷めた鶏肉、米、ブロッコリー、漬物。筑波の机の上に並ぶと、国際危機対応食というより、研修会の弁当に見える。


 真帆は半分ほど食べて、止まった。

 スマホを見る。母親からまたメッセージが来ていた。


《昼、食べた?》


 返事はしなかった。写真でも送れば安心するのだろうが、冷めたブロッコリーの写真を送られても母は困るだろう。


 代わりに、会議室の端で一人で弁当を食べている中谷を見た。彼は箸でブロッコリーを刺しながら、ノートパソコンの画面をにらんでいる。人類の危機の時でも、ブロッコリーはブロッコリーの味しかしない。そういう事実は、案外ばかにできない。


 昼の後半、ジュネーブから、CERN地下実験の暫定値が送られてきた。

 期待された派手な結果は出なかった。空間が裂けたわけでもない。検出器が歌いだしたわけでもない。出たのは、またしても、微小なズレだった。


 だが、その微小が揃いすぎていた。


「地下環境、温度、磁場、振動、電源ノイズ、いずれでも説明不能」


 報告者が言う。


「観測方向との相関あり。ただし、方向そのものより、観測者の姿勢に近い依存性も見られます」


「姿勢?」


 ロシュ。


「装置がどちらを向いているかだけではなく、どう向いて測ろうとしているか、です」


「それは科学ではなく、呪いの話に近づいていませんか」


 誰かが言った。冗談半分だった。半分しか冗談ではなかった。


 チェンが首を振る。


「違います。観測は常に、観測者の手続き込みです。我々が普段、それを消せると思っているだけで」


 真帆は、そこだけ、はっきり分かった。

 人間は、見たものをそのまま見た気になりすぎる。

 政治も、科学も、たぶん同じだ。


     *


 午後二時三十分。

 会議は、いちばん悪い種類の疲れ方を始めた。誰も帰らない。だが、頭の中で、もう一人ずつ別の締切が鳴り始めている。


 ロシュのところには各国政府からの要請。マウナケアには地元コミュニティ対応。ALMAにはメディア取材の依頼。筑波には官邸、外務省、防衛省からそれぞれ別形式の照会。CERNには運用計画の調整。ダルムシュタットには通信網の正常業務。


 未知の宇宙現象は、既存の業務フローに遠慮してくれない。


 その時、ジュネーブの後方で、小さな言い争いが起きた。マイクは拾わないが、表情で分かる。若い研究者と広報担当だ。若い方が、何かの紙を受け取らずに押し返した。


 ロシュが気づき、マイクを切って短く指示した。

 数秒後、チェンが自分の席を立った。後方へ行く。画面の端で紙を一枚受け取り、読んだ。

 それから、前へ戻ってきた。


「共有します」


 彼は紙を机に置いた。


「複数の主要誌が、今回の観測について“現時点で利用可能なデータを速やかに投稿してほしい”と言ってきています。共同声明より先に、プレプリントを欲しがっている」


 会議室の何人かが目を閉じた。

 誰も驚いていない。そのこと自体がひどかった。


「もちろん、自然な反応です」


 チェンは続ける。


「キャリアがある。優先権がある。引用がある。人類史的現象の第一報になりたい人間がいる。責める気はありません。私だって、三日前なら同じことを考えた」


 彼はそこで言葉を切った。


「でも、今日は少し遅らせたい」


 静かな文だった。


「少なくとも、説明が観測より太らないうちは」


 真帆は、その文を二度打った。今度は消さなかった。


 ロシュが頷く。


「本会合としても、拙速な命名と拙速な理論固定は避けます。データは開く。ただし、勝ち筋の早取りはしない」


「守れますか、それ」


 誰かが聞いた。


「守れないかもしれない」


 ロシュは言った。


「でも、今日はそう言っておく日です」


 その通りだった。守れるかどうかは別として、最初に何を言うかは大事だ。


     *


 午後四時。

 会議は終盤に入り、ようやく一つの文が形になり始めた。


 現象は実在する可能性が高い。

 局所的な技術的説明だけでは不足する。

 既存理論の全面否定は早い。

 しかし、既存理論の外側を真面目に想定する段階に入った。

 命名は保留する。

 観測と測定を継続する。


 それだけだ。

 拍子抜けするほど少ない。だが、一日かけて得たのは、その少なさだった。


 真帆は、その文案を官邸向けに整えながら、少し腹が立っていた。こんなに長い時間、こんなに多くの人間が働いて、持ち帰るのが“保留”と“継続”だけなのか、と。

 腹が立ってから、少しして気づいた。

 たぶん、その腹立ちは、自分が現代の人間だからだ。会議には成果物が要る。危機には判断が要る。判断にはラベルが要る。ラベルがなければ前に進んでいない気になる。


 でも、本当に前に進む時は、案外、保留の方が近い。


 隣で志村が、紙の端に何かを書いていた。


「何ですか、それ」


「自分用のメモです」


 彼は見せた。


 “分からない、を保存する。”


「詩人みたいですね」


「いやですか」


「ちょっと」


「僕もそう思いました」


 そう言って、彼はその文の下に線を引き、横に小さく書き足した。


 “命名より先に測定。”


 今度の方が志村らしかった。


     *


 午後五時半、全体会合は一応の終了になった。

 正式な解散ではない。二十四時間体制の連絡網はそのまま残る。観測も止まらない。だが、画面の向こうの人間たちは少しずつ席を立ち始めた。マウナケアでは空が明るくなりきっている。アタカマでは逆に夕方へ向かう。ジュネーブのホールでは、ようやく人間の歩く音が会議の音に勝ち始めた。


 真帆は端末を閉じた。肩が重い。紙コップの底に残ったコーヒーは、もうほとんど水だ。


 その時、ジュネーブの画面で、チェンがまだ席に残っているのが見えた。誰かを待っている顔でもない。ただ、立つ理由を少し失っている顔だった。


 真帆は迷ったが、共通回線ではなく個別の接続を開いた。


「チェン先生」


 彼が顔を上げる。


「日本側の連絡担当です。鴨下といいます」


「知っています。昨日、名簿で見ました」


「名簿、役に立ちましたか」


「今日はあまり」


 少し間があって、彼は言った。


「すみません」


「いえ。こっちもだいたいそんな日です」


 真帆は言ってから、自分が何のために接続したのか少し忘れた。

 疲れていると、人間は用件から離れる。


「総理向けに、最後、一言だけほしいんです」


「一言」


「科学側は、今日をどう受け止めたか」


 チェンは椅子にもたれなかった。机の上のノートを一度見た。閉じたままだ。


「絶望、とは思っていません」


 彼はゆっくり言った。


「ただ」


 そこから先が少し長かった。


「ただ、自分たちが山頂だと思っていた場所が、稜線の途中だったと分かった日です。景色は悪くない。でも、登山地図は書き直しです」


 真帆は打ち込んだ。

 今度は、少しだけいい比喩だと思った。


「それ、使っていいですか」


「好きに」


「先生自身は」


 真帆は聞いた。


「平気なんですか」


 チェンは少しだけ笑った。

 朝から初めて、人間らしい笑いだった。


「平気ではないですね」


「ですよね」


「二十七年、同じ前提で考えてきたので」


 彼は手元のノートを開いた。そこには数式が少しだけあり、その下に、英語で短い文が書かれていた。


 Not wrong enough.


「何ですか、それ」


「自分への悪口です」


 真帆は吹き出しそうになって、やめた。


「でも」


 チェンは続けた。


「明日には、別のノートに書きます」


「何を」


「Wrong in a useful direction.」


 それは、少しうまい言い方だった。

 うますぎる気もした。けれど、今日の彼にはそのくらい許される気もした。


「じゃあ、今日はまだ」


「今日は、へこんでいい日です」


 チェンは言った。


「明日からまた測ればいい」


     *


 接続を切ったあと、真帆はしばらく席を立たなかった。

 会議室には、もう人が半分しか残っていない。ケーブルが床を這っている。紙コップの輪染み。ホワイトボードに消し残された矢印。誰かが忘れていったペン。文明の最前線と呼ぶには、ずいぶん散らかっていた。


 それでよかった。

 整いすぎている場所より、少し散らかった場所の方が、今日は信じられた。


 官邸向けの最終メモを書く。


《科学界は“敗北”ではなく“地図の書き直し”として受け止め始めています。既存理論の放棄ではなく、適用範囲の再評価が中心です。拙速な命名を避け、測定の継続を最優先とする、で本日合意しました》


 送信。


 数秒後、既読がついた。


 真帆は、ようやく立ち上がった。


     *


 外に出ると、夕方だった。

 筑波の空は薄く曇っている。駐車場には、急いで来た車が急いで停まったまま並んでいる。足元のアスファルトに、昼の名残の熱が少しだけ残っていた。


 志村が建物の壁にもたれて、スマホで何か読んでいた。


「帰らないんですか」


 真帆が聞く。


「帰ります」


 彼は画面を見たまま答える。


「帰る前に、世間がどこまで分かった気になってるか見てます」


「最悪の趣味ですね」


「おすすめはしません」


 彼は画面を見せた。

 SNSには、もう断言が溢れていた。


《相対論は終わった》

《量子論も完全崩壊》

《政府が真実を隠している》

《人類の科学は児戯》

《やはりスピリチュアルが正しかった》


 真帆は数秒で目をそらした。


「早いですね」


「みんな答えが好きなんですよ」


「科学者も」


「科学者も」


 志村はスマホをしまった。


「ただ、今日は珍しく、答えを遅らせる方に賭けた」


「勝てますか」


「分かりません」


「またそれですか」


「今日はその言葉が主役なんで」


 真帆はため息をついた。空を見る。

 アンドロメダ銀河はもちろん見えない。曇っているし、そもそも肉眼ではろくに見えない。見えないのに、そこにあることだけは、今日ほどはっきりしていたことがない。


「現代って」


 真帆は言いかけて、止めた。


「何ですか」


「いや」


 うまいことを言いそうな気がしたから、やめた。

 代わりに、別の言い方を探した。


「何でもすぐ、用途にしたがるじゃないですか」


「しますね」


「技術になるか、脅威になるか、予算になるか、産業になるか、票になるか。そうじゃない形で置いておくの、苦手ですよね」


 志村は少し考えてから、うなずいた。


「苦手です」


「今日、あの会議、ちょっとだけ違いましたよね」


「ちょっとだけ」


「はい」


「じゃあ、そこが大事なんじゃないですか」


 彼はそう言った。


「たぶん、文明って、答えを出す速さだけじゃなくて、分からないものを分からないまま置いておける時間の長さでも測れる」


 今度の文は、少し気取りすぎていた。本人もそう思ったのか、志村はすぐに顔をしかめた。


「今のは忘れてください」


「無理です」


「最悪だ」


 真帆は少しだけ笑った。

 今度は、少し長く続いた。


     *


 夜、ジュネーブ。


 会議が終わったあとも、CERNの地下では機械が動いていた。動いていること自体が、少し救いだった。巨大な装置は、人間の感情に付き合って止まったりしない。


 チェンは一人で長い通路を歩いた。白い壁。ところどころの警告表示。遠くから響く低い機械音。研究所の夜は、世界の終わりに似合わないほど事務的だ。


 ポケットの中に、昼の紙切れがまだ入っていた。主要誌からの連絡。プレプリントの打診。共同声明の草案。どれも現実だ。どれも消えない。文明が揺れても、メールは来る。


 彼は途中で立ち止まり、ノートを開いた。

 朝の文の下に、新しく一行書く。


 Assume less. Measure first.


 それだけだった。


 二十七年やってきて、最後にそこへ戻るのか、と自分でも思う。

 だが、他に始め方がない。


 通路の向こうで、若い研究者が二人、早口で何か議論していた。片方が身振りを大きくして、片方が首を振る。疲れているくせに、もう次の仮説の話をしている。

 チェンはそれを見て、少しだけ肩の力が抜けた。


 絶望している暇が、長くは続かない。

 科学者は、たいていそういう種類の人間だ。傷ついても、机に戻る。机に戻って、まず測る。そこからまた、世界を細かく切り直す。


 彼は通路の先へ歩き出した。

 今夜のうちに、また新しいデータが来る。マウナケアから。アタカマから。筑波から。もしかすると、明日には今日の整理すら古くなる。


 それでいい。

 古くなるものだけが、前に進んでいる。


     *


 同じ夜、東京。


 城崎は官邸の執務室で、真帆から上がってきた最終メモを読んでいた。

 《地図の書き直し》という文で、少しだけ手が止まる。

 政治家は地図を書き換える仕事だ。国境線ではなく、優先順位と予算配分と法律の運用で。だが、いま科学の側で起きているのは、そういう意味の地図ではない。地面の方がずれている。


 彼女は窓の外を見た。

 東京はいつも通り光っていた。高速道路。オフィスビル。住宅地。コンビニ。信号待ちの車列。

 人類の知の前提が揺らいだ夜でも、赤信号では車が止まる。

 そのことに、少しだけ救われる。


「短いなら、継ぎ足せばいい、か」


 昼に自分で言った文を、もう一度口の中で転がした。

 乱暴だ。だが、ゼロよりましだ。


 机の上には、翌日の経済関係会議の資料が置かれている。市場、資源、エネルギー、供給網。科学の会議が“保留”で終わった分だけ、今度は経済が“価格”で騒ぎ出すはずだった。


 分野が変わるたび、人類は同じ癖を繰り返す。

 名前を付ける。値段を付ける。序列を付ける。用途を付ける。

 たぶん明日もそうだ。


 それでも今日、どこかの地下と、どこかの山の上と、どこかの砂漠で、分からないものを急いで分かったことにしない人間たちがいた。

 その事実は、思ったより悪くなかった。


 城崎は資料を閉じた。

 外では、夜の東京がまだ動いている。

 遠い場所では、観測が続いている。

 空の向こうから来る何かは、まだ見えない。


 見えないまま、世界だけが先に形を変え始めていた。

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