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10日間の問い  作者: ライカの三日月
本編 10日間の問い
6/9

6日目 百七十三項目





――20XY年3月6日、連邦首都/ニューヨーク/東京/ジュネーブ


 金曜日は、たいてい先送りの匂いがする。

 解決しない問題を、週末の向こうへ押し出す日だ。会議は結論が出た顔をして終わる。市場は値札をつけたふりで閉まる。役所は月曜の説明文を仕込み、家庭はとりあえず二日分の食料を足す。

 だから、この一週間の金曜日も、最初は同じような顔をしていた。

 ただ、押し出そうとしている相手に値札がつかない。そこだけが決定的に違った。


     *


 午前六時五十八分、連邦首都


 西棟の小会議室には、徹夜明けの紙がきちんと並べられていた。

 きちんとしているのが、かえって不穏だった。人間は、分からないものを前にすると、せめて紙の角だけは揃えたがる。


 机の中央に置かれていたのは、厚い一束の資料だった。

 表紙にだけ大きく書かれている。


 Potential Areas of Exchange


 中身は百七十三項目。

 エネルギー。材料。医療。気候工学。推進。食料生産。老化抑制。軌道建設。AI安全性。言語解析。海水淡水化。核廃棄物処理。精神疾患治療。物流最適化。希少資源代替。量子計測。教育技術。その他。


 その他、が一番みっともなかった。

 思いつく限りを詰めた結果、最後に余白がなくなる時の欄だ。


 リードは資料を開く前に、表紙の厚みを指で弾いた。


「多いな」


 首席補佐官が答える。


「各省、主要企業、研究機関、軍、シンクタンクから吸い上げています。昨日の深夜版からさらに整理しました」


「整理してこれか」


「逆に、削ったものもかなりあります」


 リードは最初のページをめくった。

 短い説明文が並ぶ。どれももっともだ。もっともなものほど、こういう時は弱い。


「相手が欲しがるものの一覧じゃない」

 彼は言う。

「こっちが欲しいものの一覧だ」


「現段階では、それで構いません」

 経済担当補佐官が言った。

「交渉の入口としては」


「交渉」

 リードはそこで顔を上げた。

「まだその単語を使ってるのか」


 部屋が少しだけ止まる。


 国家安全保障担当補佐官のレイノルズが、静かな声で言った。


「他の単語に置き換えても、やることは似ます」


「似るのか?」


「似せようとはできます」


 うまい返事ではなかった。だが、うまい返事をしている段階でもない。


 リードは二ページ目、三ページ目とめくる。表情は大きく動かない。ただ、読んでいる速度が少しずつ落ちた。

 癌。発電。蓄電。推進。老化。水。肥料。教育。翻訳。素材。

 地球の欲望をまとめると、だいたいこうなる。


「見苦しいか」

 彼は急に聞いた。


 誰に向けた問いか分からなかった。だが全員、自分に向いた気がした。


「見苦しい、というより」

 レイノルズが言う。

「正直です」


「正直ならいいのか」


「少なくとも、立派ぶるよりはましです」


 リードは鼻で息をした。

 賛成なのか不満なのか、部屋の誰にも分からない。


「もっと短くしろ」

 彼は言った。

「百七十三は多すぎる。多すぎると、こっちが何者かまで薄くなる」


「どこまで絞りますか」


「知らない。だからお前たちが起きてるんだろ」


 それで会議は動き出した。眠気と苛立ちの混ざった速度で、項目が削られ、まとめられ、くっつけられる。

 若返りは長寿技術へ。エネルギー供給は発電と蓄電の統合へ。気候工学は後ろへ回され、軍民両用の匂いが強すぎるものには赤線が引かれる。

 削っているのに、だんだん人間の欲がむき出しになっていく。

 警備当局が最初に増やしたのは、戦車でも戦闘機でもなかった。

 単独犯の監視だった。


 国家が相手にできない相手ほど、個人は引き金を引きたがる。

 勝てるからではない。

 自分の形で敗北に傷を付けたいからだ。


 退役軍人の掲示板、終末論コミュニティ、加速主義者の小部屋、匿名の愛国アカウント、宗教めいた拒絶反応、逆に救世主視する連中。来訪日が近づくほど、歓迎と拒絶は同じ速さで先鋭化した。

 「あんな姿で来るのは挑発だ」

 「大統領府に降りるなら、国家として応じるべきだ」

 「誰かが止めるしかない」

 その種の言葉は、だいたい誰も責任を取らない場所から増える。


 だから金曜の夜の図面には、群衆動線と同じ太さで、銃弾の線が引かれていた。

 窓の外はまだ薄暗い。

 フェンスの向こうには、朝のテレビ中継の準備をするクルーがいる。世界が変わっても、朝番組は朝に始まる。


     *


 午前八時四十九分、ニューヨーク。


 市場は開いていた。

 開いていること自体が、もう一種の演技だった。


 ベルが鳴る。

 端末が立ち上がる。板が動く。数字が跳ねる。指数、先物、オプション、金利、為替、電力、保険。どこもかしこも、値段をつけるふりで忙しい。

 ただ、ふりだと分かるのは現場の人間だ。


 ミッドタウンのヘッジファンドで、若いアナリストが画面から顔を上げた。


「これ、何を織り込んでるんですか」


 上司のコールマンは、答える前にコーヒーを一口飲んだ。冷めている。今週のコーヒーはだいたいそうだ。


「過去」

 彼は言った。


「過去?」


「みんな、過去の世界でしか値段をつけられない。だから今やってるのは、未来の織り込みじゃなくて、過去の語彙で現在を殴ってるだけだ」


 アナリストは半分だけ理解した顔をした。

 半分でいい。この部屋で全部理解している人間がいたら、もっと嫌だ。


「エネルギー株は?」


「上がるものと下がるものが混ざる」


「半導体は」


「期待で上がる。恐怖で下がる。要するに、よく分からない時の値動きだ」


 大型モニターには、専門チャンネルの解説が流れていた。

 来訪者が技術を提供する可能性。しない可能性。無限エネルギー。物質変換。医療革命。資本主義の終わり。資本主義の再編。

 口のうまい人間ほど、よく喋る。


 コールマンはチャンネルを消した。


「こういう時に未来の話をする連中は、たいてい今のポジションから逃げたいだけだ」


 若いアナリストが苦笑する。


「でも、クライアントは未来を聞きたがります」


「知ってる」


 コールマンは端末に並ぶ価格を見た。

 金。少し上。原油。乱高下。防衛関連。一時高騰のあと失速。長寿関連バイオ。わけの分からない買い。SNS企業。ボラティリティ込みで上昇。大型テック。割れる。


 市場はいつも、賢い顔と馬鹿な顔を同時にする。今週は馬鹿な方が少し目立つだけだ。


 秘書がドアを叩いて入ってきた。


「大統領府の件、届いてます」


「何の」


「希望リストです。先方が持っていくべき“人類側の課題”について、民間からも短く意見を出してほしいと」


 コールマンは受け取って、一枚目だけ見た。

 笑いそうになって、やめた。


「民間から、ね」


「出しますか」


「出すよ。出さないと、出したい連中だけで埋まる」


 彼はメモ欄に、ためらいなく三つ書いた。


 希少性の制度化。

 勝者総取りの修正。

 技術差が政治と倫理を追い越す速度の管理。


 エネルギーも医療も老化も書かなかった。そこは誰でも書く。

 問題は、そのあとだ。手に入ったあと、誰が最初に使い、誰が後回しにされ、どんな顔でそれを正義と呼ぶか。


「変な提出になります」

 秘書が言う。


「今週、まともな提出なんてあるか」


 コールマンはそう言って、もう一度だけ板を見た。

 数字は走っている。走っているが、どれも今までほど威張っていない。市場は万能の顔をするのが仕事だ。その顔が崩れた時、残るのはただの人間の群れだ。


     *


 午前十時二十六分、首相官邸。


 城崎の前には、米側から共有された簡略版の項目表が置かれていた。

 百七十三からかなり削られている。それでも多い。十七でも多い気がした。


「よくできていますね」

 外務省の局長が言う。

「少なくとも、整理はされている」


「整理はされています」

 城崎は答えた。

「だから余計に、買い物リストに見える」


 部屋の誰も笑わない。

 侮辱ではなく、観察として正しかったからだ。


 真帆は昨夜から集めていた国内アーカイブの一次整理を横に広げた。看護、介護、被災地、給食、配送、水道、翻訳、保育、葬祭、家族介護、町工場、漁協、避難所の運営記録。どれも、外に見せる資料としては弱い。

 だが弱いからこそ、誤魔化しが効きにくい。


「日本側の素案を出します」

 真帆の上司が言った。

「技術要求型ではなく、生活世界提示型で」


 経産省の審議官が、すぐ反応する。


「それでは抽象的すぎませんか。相手が明らかに技術的優位にあるなら、こちらの実利を最大化する視点は必要でしょう」


「必要です」

 城崎は認めた。

「ただ、それを最初の文書の中心に置くと、こちらが何者かまで実利でしか説明できなくなる」


「国家は実利を扱うものです」


「国家だけで済む相手ならそうです」


 声は強くなかった。強くないのに、部屋の空気は少し締まる。


「相手は、医療技術の提供先でも投資先でもない。少なくとも現時点では」

 城崎は続ける。

「それなのに、こちらから先に“これをください、あれをください”だけを並べると、会う前から貧しくなる」


 真帆はメモを取りながら、そこで初めて、自分たちがやろうとしている作業の輪郭を少し掴んだ気がした。

 立派な文明紹介ではない。

 乞食にもならない。

 その中間を探している。


 会議の途中で、記録整理チームから短い動画が数本追加で上がってきた。

 小学校の給食配膳。透析の送迎調整。地方都市の水道局の夜勤。外国人住民向けに手書きで多言語掲示を作る市役所。自宅介護の合間にニュースを見る人。避難所名簿の更新。


 文化庁出身の官僚が言う。


「こういうのは、華がありません」


「華がないのがいいんです」

 真帆が言う。

 言ってから、少しだけ早口だったと気づいた。


「……すみません」


「いや、続けて」

 城崎が言う。


「相手が本当に“文化、記憶、孤独の扱い方”に関心があるなら、こっちの立派な展示より、こういう動いてる部分の方がましです。うまく作った瞬間に嘘っぽくなるので」


「嘘ではないでしょう」

 外務省の局長がやんわり言う。


「嘘じゃなくても、観光になります」


 部屋が少しだけ静まる。

 観光。嫌な言葉だが、よく刺さる。


 城崎はテーブルの上で指を組み直した。


「この方向で行きます」

 彼女は言った。

「要求は要求として別に持つ。だが最初の文書は、生活の記録と質問を中心にする。質問は、制度、ケア、老い、孤独、災害、教育、翻訳、宗教の共存。そこを軸に」


「宗教も入れますか」


「入れます」

 城崎は答えた。

「避けた時点で不自然です」


 真帆はその指示を打ち込みながら、木曜に見た無数の祈りの切り抜きを思い出した。あれも生活だ。綺麗かどうかとは別に、確かに地球の一部だった。


     *


 午後二時四十三分、ジュネーブ。


 CERNの緊急会議室では、週末の前だというのに人が増え続けていた。

 国旗は最小限。ロゴも小さい。コーヒーだけが異様に多い。世界が同じ問題で集まる時、たいがい最初に多くなるのはコーヒーだ。


 デイヴィッド・チェンは、机の上のノートを閉じたり開いたりしていた。

 書くことはある。式も仮説も罵倒も頭にある。だが、明日言うべき最初の一文だけが決まらない。


 エレーヌ・ロシュが背後から声をかける。


「眠ってない顔ね」


「褒め言葉なら受け取ります」


「違う。危険信号よ」


 彼女は隣に立ったまま、端末のログを見た。

 マウナケア、アタカマ、ESA、JAXA、国立天文台、理研、MIT、Caltech。送られてくるデータの量は充分だ。充分な量の分からなさが、いちばん面倒だった。


「政治部門は、何を欲しがってる?」

 チェンが聞く。


「名前」

 ロシュは即答した。

「なるべく短く、なるべく怖くなく、なるべく説明した感じのする名前」


 チェンは目を閉じた。


「最悪ですね」


「知ってる」


 彼女は少し間を置いてから続ける。


「それから、明日の会合で“何が間違っていたのか”をある程度言ってほしいそうよ」


「この四日で?」


「四日で」


 チェンはノートをもう一度閉じた。

 それでいい気がした。明日、ノートを開いたまま喋ると、きっと格好をつける。


「いちばん正直なのは」

 彼は言った。

「“現在の物理学は、まだこの現象を収める大きさを持っていない”です」


「記者会見向きじゃない」


「向いてないですね」


「でも、そこから始めるしかない?」


 チェンはしばらく黙った。

 会議室のガラスの向こうでは、技術スタッフが接続テストをしている。世界中の研究者が明日、同じ画面の前で黙る。その黙り方だけは、たぶん国際協調できる。


「ええ」

 彼は言った。

「足す理論の話を先にすると、自分たちの顔を立てるための工事が始まる。今やるべきなのは、どこで説明が痩せるかを全員で確認することです」


 ロシュはうなずいた。


「政治は嫌がる」


「でしょうね」


「市場も嫌がる」


「市場は、だいたい分からないことが嫌いです」


「宗教は?」


 チェンは少しだけ笑った。


「宗教は、分からないことを抱えるのは我々より上手いかもしれません」


 その笑いはすぐ消えた。

 明日、自分は何を失うのか。体面か、理論か、専門の棚か。まだ決めていない。決めていないのに、どれかは削れる気がしていた。


     *


 午後五時三十一分、ニューヨーク。


 市場は閉まった。

 終値がついた。ついたが、値が落ち着いた感じはまるでない。金曜の引けというより、週末に向かって数字を押し込めただけの顔だ。


 コールマンは社内メモの最後に一文だけ足した。


 “我々が再評価しているのは資産ではなく、希少性そのものかもしれない。”


 書いてから、少し嫌になった。うまく言いすぎている。

 彼はその一文を消して、代わりに短く書き直した。


 “値札の前提が揺れている。”


 そっちの方がまだましだった。


 窓の外では、いつも通り金曜の街が動いている。タクシー、配達員、観光客、帰宅を急ぐ人間。市場が閉じても夕食は来る。人類はそこがしぶとい。


     *


 午後八時十八分、首相官邸。


 金曜の夜の官邸には、週末へ逃げる感じが少しだけある。今日はなかった。

 城崎は、米側の簡略版リスト、日本側の生活アーカイブ案、明日の科学会議の議題、宗教界の声明整理を、同じ机の上で見ていた。並べると、全部別の国の書類みたいだ。だが、明日以降はこれを一つの物語として扱わなければならない。


「科学側は」

 彼女が聞く。


 文科省経由の連絡担当が答える。


「共同会合の冒頭で、観測事実の共有を優先。命名は保留。既存理論との不整合は、かなり大きいとの認識です」


「かなり、ですか」


「表現を抑えてそのくらいです」


 城崎は紙を置いた。


「いいですね」


「いい、ですか」

 官房長官が聞き返す。


「分からないのに分かった顔をするより」

 彼女は言った。

「その方がまだ信用できます」


 真帆はその言葉を聞きながら、どこかで少し救われた。

 政府は、専門家に答えを欲しがる。たいてい急いで欲しがる。今週はその欲しがり方が露骨だ。だからこそ、明日もし本当に“分からない”から始まるなら、そのこと自体に価値がある気がした。


「米側の項目表はどうします」

 外務省。


「受け取ります」

 城崎は言う。

「受け取って、別紙にします」


「別紙」


「欲望は欲望として持つ。恥じる必要はありません。でも、最初の顔にはしない」


 その線引きがうまくいくかは分からない。だが、少なくとも今夜はそれしかない。


「それから」

 城崎は続けた。

「アーカイブ班、今夜も動かしてください。土曜、日曜こそ生活の記録が必要です。市場も科学も派手になる。派手なものだけ残ると後で困る」


 真帆は頷いて、すぐに動いた。看護、介護、夜勤、配送、礼拝、買い出し、駅、学童、深夜の工場。地味なものほど散る。散る前に拾う。


 それは政府の仕事なのか、と三日前なら思ったかもしれない。今はもう分からない。分からないが、必要そうだった。


     *


 午後十一時十一分、連邦首都


 百七十三項目の原本は、最終的にかなり削られた。

 それでも、元の束は捨てられず、クリップで留めたまま大統領執務室の机の端に残された。

 人は、自分の欲望を完全には捨てられない。捨てられないから、端へ寄せる。


 リードは部屋に一人で、その束を見ていた。

 取り出すかもしれない。取り出さないかもしれない。そういう距離に置いてある。


 窓の外では、警備のライトが芝生を白くしている。遠くに報道陣のテント。もっと遠くに、まだ帰らない見物人。皆それぞれの理由でここにいる。

 国家元首に会いに来た人間より、来訪者を見に来た人間の方が多い夜だった。


 ドアがノックされる。

 レイノルズだった。


「将軍から」

 彼は短く言った。

「明日の科学会議、軍の観測ログもかなり開示していいと」


「いいのか」


「良くはありません」

 レイノルズは答えた。

「でも、抱え込んで説明できる範囲を超えています」


 リードはしばらく黙った。


「みんな急に正直になるな」


「正直になったというより」

 レイノルズは言った。

「正直じゃないコストが、今週は高いんです」


 それは大統領向きの台詞ではなかった。だが、今夜の部屋にはそういう台詞が合った。


「リストは」

 リードが机の紙を見たまま言う。

「まだ持っていく価値があると思うか」


 レイノルズは少しだけ考えた。


「全部はありません」


「全部は」


「ただ、何を欲しがるかは、その文明差とは別に、人間の自己紹介になります」


 リードは顔を上げた。

 その言い方は少し気に入ったらしい。


「自己紹介、か」


「ええ。みっともない自己紹介かもしれませんが」


「みっともないのは慣れてる」

 リードは言った。


 それで会話は終わった。


 レイノルズが出ていったあと、リードは紙束を一度だけ持ち上げた。重い。重いが、紙としては普通だ。重いのは中身の方だ。

 人類が、よりによって今、何を欲しがるのか。

 病気を治すこと。長く生きること。安く動くこと。燃やさずに回すこと。食うこと。壊れないこと。若さを保つこと。

 そこに芸術や思想や孤独の扱い方を足すと、少しだけ体裁が良くなる。

 だが土台は変わらない。


 窓の外の芝生は静かだった。

 その静けさの上に、数日後、あるいはもっと先に、誰かが降りてくる。

 その時、この紙が意味を持つかどうかは分からない。

 分からないが、捨てることもまだできない。


     *


 夜十一時五十七分、ジュネーブ。


 チェンは会議室の照明が半分落ちたあとも、一人だけ残っていた。

 白いスクリーンに、明日の議題が映っている。


 一、観測事実の共有。

 二、既存理論との不整合の整理。

 三、命名の保留。

 四、政治部門への中間報告の線引き。


 命名の保留。

 その一行だけが、今日は少し美徳に見えた。


 彼はノートの最後のページを開き、短く書いた。


 “足りないのはデータだけではない。器の方かもしれない。”


 それも少し気に入らなかった。気に入らないまま、ページを閉じる。


 金曜日が終わる。

 市場は閉じ、官邸は紙を増やし、大統領府は欲望を削りきれず、宗教は言葉を選び、インターネットは勝手に祈り方を増やした。

 その全部の上に、まだ名前の決まらない現象だけが残っている。


 明日、科学者たちはその前に座る。

 うまく説明するためではなく、どこから説明が痩せるのかを、世界中の前で一度きちんと見せるために。

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