5日目 実在する宗教
――20XY年3月5日、聖都/連邦首都/東京/テキサス
信じる、という動詞は、ふつう少し遠くに向けて使う。
見えないもの。まだ起きていないこと。証明しきれない善意。そういうものに向ける。だから、対象が急に実在し始めると、人は案外困る。
祈る相手が、こちらの画面に割り込んできて、時間指定で来訪予告までしている。そんな状況は、教義にも利用規約にもあまり載っていない。
木曜日は、その困り方が世界中でばらばらに表へ出た日だった。
*
午前六時四十分、聖都。
聖座市国の回廊は、朝の空気のわりに人が多かった。
神学校ではなく官庁の足音だ。布靴の気配より、革靴の返りが先に聞こえる。秘書官、広報、神学顧問、各地の司教協議会との連絡役。普段なら同じ時間に同じ場所へいない種類の人間が、同じ方向へ急いでいた。
アレクシウス十三世は、執務室の長机に三種類の紙を並べていた。
一つは、各国から届いた照会。
一つは、教会内の見解メモ。
もう一つは、昨日から急増した一般信徒の質問の抜粋だった。
“これは天使ですか”
“悪魔が美しく現れることはありますか”
“宇宙人にも魂はありますか”
“子どもが彼女の絵ばかり描いていますが、止めるべきでしょうか”
“大統領府へ行くのに、なぜ教会へ来ないのですか”
最後の一文だけ、少し生々しかった。
神学というより嫉妬に近い。
枢機卿のモレッティが、眼鏡を外しながら言う。
「声明の草案ですが、“創造の広がりに対する謙虚さ”を軸に置く案と、“霊的判断の留保”を軸に置く案があります」
「悪魔認定は?」
教皇が聞く。
「米国の一部福音派が先に始めています」
「彼らに譲りましょう」
アレクシウス十三世は、紙を一枚裏返した。
軽蔑しているのではない。ただ、早すぎる断定にはたいがい別の動機が混じる。信仰そのものより、支持者を握る速度とか、放送枠とか、寄付金の流れとか、そういうものだ。
「“天使ではない”と言い切る必要もありません」
別の顧問司祭が言った。
「形態的に近似している以上、一般信徒はそう読みます」
「形が似ているから意味も同じだ、とは書けません」
教皇は言った。
「翼に引きずられすぎる」
彼はそこで、昨夜届いた写真の束に視線を落とした。
南米の巡礼地で、来訪者の姿を印刷した簡易の祈祷カードがすでに売られている。ポーランドの教区では、若者が彼女を“星の姉妹”と呼んで歌を作った。フィリピンの教会では、逆に“偶像崇拝の危険”を説く説教動画が急速に広がっている。
教会は普遍を名乗る。だが実際には、土地ごとの感情の寄せ木細工だ。普遍であることは、だいたい後で整える。
「人は」
アレクシウス十三世が言った。
「現れたものを、すぐ昔から知っていた棚へしまいたがる」
誰もすぐには返事をしなかった。
「今回もそうです。天使か悪魔か、救済か終末か、創造か冒涜か。棚に入れないと祈れない人が多い」
「しかし信徒には言葉が要ります」
モレッティが言う。
「要ります」
教皇は頷いた。
「だからこそ、安い言葉を配りたくない」
彼はペンを取り、紙の上段へ自分で一文だけ書いた。
“神の創造は、我々の想像を超えています。”
それで何かが解決するわけではない。
ただ、少なくとも、先に喧嘩腰で箱を選ぶ文よりはましだった。
「この一文から始めましょう」
彼は言った。
「そのあとに、判断の留保を書く。恐怖を煽らない。熱狂にも乗らない。会う前に礼拝対象へも、敵へも固定しない」
「中途半端だと批判されます」
「されるでしょうね」
教皇は言った。
「でも、中途半端なときに中途半端と書けない宗教は、たぶん長持ちしません」
秘書官が目を伏せてメモを取る。
言葉としては綺麗だった。綺麗すぎるので、本当は少し気に入らない。だが、今朝はこれくらいしかない。
*
同じ日、北京。
人民大会堂の外には、例年通りの赤い絨毯と、例年通りの記者の列があった。三月初旬の北京は、未来の話を国家がいちばん大きな声で語る季節だ。技術、自立、宇宙、AI、供給網、五カ年計画。どの言葉にも、国家が先に未来へ名前を付けるという自負がある。
だが今年、その未来は最初から少し遅れていた。
人工知能も、ロボティクスも、宇宙も、半導体も、全部まだ国家戦略の中心にある。あるのに、その上から別の中心が見えてしまった。
政府活動報告のどの頁にも技術がある。
その技術の頁をめくる人間が、今朝は全員、同じ映像を見ている。
国家は五カ年計画で未来を切る。
だが、十日後に来る相手は、その単位の外にいた。
午前九時十一分、テキサス州ダラス近郊。
メガチャーチの礼拝堂は、平日の朝なのにかなり埋まっていた。
終末論は平日集客に強い。しかも今回は、空想ではなく全員が同じ映像を見ている。主催者にしてみれば、材料として強すぎた。
テレビ伝道師ジェームズ・ホワイトは、ライトを浴びながら壇上に立っていた。背後の巨大スクリーンには、来訪者の静止画が大きく映し出されている。翼だけ少し明るく補正されていた。嫌な編集だった。嫌だが、よく効く。
「悪魔は」
彼はマイク越しに言う。
「いつだって、醜い姿では現れない」
客席が静まる。
静まり方に、期待が混じっていた。
「人間は、恐ろしいものを恐れる準備はできている。しかし、美しいものを恐れる準備はできていない。そこを突かれる」
拍手が起きる。
ホワイトは手を上げて、それを少しだけ止めた。止めた方が、次が強く聞こえる。
「彼女は、あなた方から武器を取り上げた。国家から誇りを取り上げた。軍から意味を取り上げた。今度は魂を取りに来る」
また拍手。
チャット欄にも、
amen
she is a deceiver
pray harder
my daughter says she is cute what do I do
と流れていく。
礼拝堂の後方で、運営担当の若い女性が同時視聴者数を見ていた。数字は伸びている。寄付ボタンの押下率も高い。広告枠の価値まで上がっている。彼女はそれを口に出さない。出した瞬間に、場が別の種類の下品さになるからだ。
説教が終わり、ホワイトが控室へ戻る。
スーツの襟を緩める前に、メディア担当が端末を差し出した。
「クリップ、伸びてます」
「どの部分だ」
「“軍から意味を取り上げた”のところです」
ホワイトは鼻で息をした。
嬉しいとも不快とも言い切れない。神の言葉より、言い切りの強い一文が伸びる。現代の礼拝には、その種の屈辱がいつも混じる。
「問い合わせも増えてます」
メディア担当が続ける。
「子どもが彼女の絵を部屋に貼っている、学校で来訪者の話ばかりしている、妻が“悪魔にしては礼儀正しすぎる”と言っている、など」
ホワイトは額に手を当てた。
日曜までなら、もっと簡単だった。敵だ、と言えばよかった。だが相手は、まだ誰も殺していない。略奪もしていない。しかも、見た目がよすぎた。
信仰が苦戦するのは、暴力の前だけではない。礼儀正しい異物の前でも、案外もろい。
「番組の後半では」
彼は言った。
「家庭向けに話す。子どもを叱るな、と」
担当が少し驚く。
「意外ですね」
「叱ると、余計そっちへ行く」
ホワイトは言った。
「今、相手に勝ってるのは外見だけじゃない。親より先に子どもの好奇心へ入ってる。それを力で止めたら、負け方が安くなる」
言ってから、自分で嫌な気分になった。
悪魔相手にマーケティングみたいな言い方をしている。
だが今朝のアメリカでは、宗教ですら市場の言葉から完全には逃げられなかった。
*
午前十一時五十八分、メンローパーク。
昨日の会議で作ったガイドライン案は、もう朝のうちに古くなっていた。
投稿の速度が早いのではない。現象の種類が増える速度が早い。
リナ・チェンは、画面に並んだ事例を順番に見た。
来訪者に関する祈祷文の共有。
来訪者を守護存在として描いたコミック。
来訪者の名を唱える瞑想会。
“彼女は子どもだけを救う”とする音声配布。
“接触の前に肉を断て”と説くグループ。
“接触日までに現金を捨てろ”という配信者。
削除すべきものと残すべきものの境目が、いつもより薄い。
「この“現金を捨てろ”は落とします」
担当者が言う。
「当然」
「でも、“来訪者へ祈る”は」
「残す」
チェンは答えた。
「祈るだけなら、既存宗教との差別化が難しい」
法務担当が顔をしかめる。
「“彼女は子どもだけを救う”は?」
「文脈次第。親に医療や教育をやめさせる方向なら落とす」
「“肉を断て”は」
「断つだけでは落とさない」
「では、どこからが危険なんですか」
担当者の声に、少し苛立ちが混じる。
分かる。線を引く仕事は、たいてい線の説明が嫌いだ。
「体と財布と家族」
チェンは言った。
「そこを壊し始めたら危険」
「それだと宗教そのものを敵に回します」
「別に宗教を裁くんじゃない」
彼女は言った。
「実在する宇宙人への帰依だろうが、株取引のコミュニティだろうが、美容サロンだろうが、同じです。人の体と財布と家族を削って、戻れないところまで持っていくなら止める」
会議室が一瞬だけ静まる。
人の営みを雑に言い切ると、たいてい本質に触る。
チェンは、別の画面に切り替えた。
そこには、世界各地の検索語の推移が出ている。
alien demon
angel visitor
how to prepare children
can they read minds
is body modification a sin
最後の検索語だけ、彼女は少し目を留めた。
身体。まだそこまで大きくはない。だが、宗教が動くときはたいてい身体に降りる。何を食べるか、何を着るか、どう眠るか、何をしてはいけないか。信じることは、だいたい行動の話になる。
問題は、彼女が“何者か”だけではなかった。
“なぜあの姿なのか”が、別の種類の不安を呼んでいた。
幼く見える。だが、幼児ではない。
美しい。だが、こちらの化粧や骨格の延長には見えない。
翼のようなものがある。だが、宗教画の天使とも違う。
偶像に見えるのに、偶像として処理しきれない。
宗教家はそこに意味を探した。
倫理学者は、保護欲を刺激する身体で外交を行うことの暴力性を言った。
ネットはもっと雑だった。かわいい、怖い、作為的だ、計算だ、いや対話用の調整だろう。
人類は、外見に理由があると知っている。
だからこそ、理由を持つ外見を前にすると、すぐに腹を立てる。
「教育向けの案内文を別で出して」
彼女は言った。
「うちがですか?」
「うちが、じゃない。誰かと組んで」
「政府?」
「政府は遅い」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。
しかし誰も否定しなかった。
「教師向け、保護者向け、子ども向け。三本でいい。“怖がらないから安全ではない”“分からないことは分からないでいい”“勝手に集まりへ連れていくな”。まずそのくらいで」
担当者がメモを取る。
巨大企業が、臨時の公衆衛生みたいな仕事を始めている。現代はよくそうなる。国家が遅れ、宗教が割れ、学校が困っているとき、真ん中に座るのが規約だったりする。
*
午後一時三十四分、東京都台東区。
浅草寺の脇道では、観光客の波が少しだけ乱れていた。
雷門の前で自撮りをしていた若者が、急に空を撮り始める。土産物屋の店先には、昨日までなかった色の小物が並ぶ。白い羽根、銀色の簪、青いガラス玉。浅草は昔から、神仏と土産物の距離が近い。そこへ宇宙まで入ってきただけだ。
境内の片隅で、僧侶の永井は観光案内ボランティアの老人に呼び止められた。
「先生、あれは仏さまなんですかね」
「仏さまなら、もう少し静かに来るでしょう」
永井は言った。
「じゃあ天使?」
「天使はうちの管轄じゃありません」
老人は笑った。笑ってから、少し真面目な顔になる。
「でも、みんな置き場に困ってますよ」
「そうでしょうね」
永井は、本堂へ向かう階段を見た。手を合わせる人はいつも通りいる。観光のついでに頭を下げる人もいる。受験前だからと賽銭を多めに入れる母親もいる。そこへ今週から、“来訪者が人類をどう見るかが不安なのでとりあえず祈る”という新しい種類の人間が混ざった。
祈願の内容が増えただけで、姿勢自体は前からある。
「信仰って」
老人が言う。
「結局、分からない時に来る場所なんでしょうか」
永井は少し考えた。
「分かったつもりの時にも来ますよ」
彼は答えた。
「ただ、その方がだいたい危ない」
境内の隅では、中学生くらいの少女が絵馬に何か書いていた。覗く気はなかったが、字が大きいので少し見えた。
“こわくしないでください”
主語がなかった。
誰に向けた祈りか、書いた本人も決めていないのだろう。それでいい、と永井は思った。宛先のはっきりしない祈りの方が、よほど人間らしい時がある。
*
午後二時五十分、連邦首都
国防総省の一室では、重武装の配置図に赤い修正線が増え続けていた。
増やす線ではなく、消す線だ。大統領府周辺の可視的な重装備をどこまで後退させるか。対空火器をどの角度まで下げるか。屋上のセンサー群をそのまま見せるか隠すか。
ウォーカーは、机に広げられた図面を見ながら、自分が軍人になってからこんな議論をした記憶がないと思った。
敵に見せる火力ではない。味方に見せる無力さの量を調整している。
「将軍」
若い大佐が言う。
「見た目の問題としては、重装備を前に出しすぎると挑発に映る可能性が」
「可能性」
ウォーカーは繰り返した。
「相手がこっちのSAMサイトの位置を知らない可能性の方が低いだろう」
大佐は黙る。
その通りだった。知られていない前提で武器を置く段階は、もう過ぎている。
「では、なぜ下げるんですか」
別の補佐官が聞く。
ウォーカーはすぐに答えなかった。窓の外の空は乾いている。三月のワシントンらしい、青くて冷たい空だ。その空のどこに対して、今の兵器が意味を持つのか。考えるほど、言葉が古くなる。
「儀式だからだ」
彼はやがて言った。
「国家は、意味が薄くなっても儀式をやめられない。全部外したら、それはそれで崩れる。だから残す。ただし、残している理由を現場で勘違いするな」
「現場にどう説明を」
「正直に言え。効くから置いているんじゃない。国家がまだ国家の顔をしているために置いている、と」
補佐官は嫌そうな顔をした。
部下に言いたい説明ではない。
「受けません」
「知ってる」
ウォーカーは言った。
「でも、今週は受ける説明の方が危ない」
*
午後三時二十七分、東京都江東区。
区立中学校の進路指導室に、保護者面談の声が漏れていた。
怒鳴り声ではない。怒鳴るほど確信がない時の、細い言い合いだ。
「どうせ世界が変わるのに、受験だけ今まで通り考えろっていうのは、ちょっと無理がありませんか」
母親が言う。
担任は目を閉じなかった。
閉じると負ける感じがする。
「無理がないとは言いません」
彼は答えた。
「ただ、今週の出来事で、来週の定期試験が消えるとは、現時点では言えません」
机の横では、中三の男子が来訪者のラフスケッチをノートの端に描いていた。手が慣れている。勉強よりそっちが得意なのが分かる。
「でも、先生」
彼が言う。
「みんな、今の仕事とか制度とか、全部そのまま続くって顔で喋ってるの、変じゃないですか」
担任はその質問が嫌いではなかった。
嫌いではないが、学校で好きになっていい種類の質問でもない。
「変だよ」
彼は言った。
「でも、変だから全部止める、はもっと危ない」
「なんで」
「止めると、人は空いた場所にすぐ変なものを入れるから」
男子は少し黙った。
説教っぽいと思ったかもしれない。実際、半分は説教だった。
「絵は上手いね」
担任がノートを見て言う。
「今それ言います?」
「言うよ。現実逃避じゃなくて、見たものをちゃんと拾ってる感じがするから」
母親が、少しだけ息をつく。
学校の先生に必要なのは、正解ではなく、こんなふうに変な角度から持ちこたえる力なのかもしれない。だが本人はたぶん、ただの場当たりだと思っている。
面談が終わり、担任は職員室へ戻った。机の上には、文科省経由で届いた注意喚起メモがある。
“来訪者をめぐる児童生徒の不安及び興奮に配慮し、断定的説明を避けること。”
よくできた文だ。よくできすぎていて、少し役に立たない。
断定を避けるのはいい。だが、子どもたちは断定がないとき、すぐ友達と動画へ走る。教師はその真ん中で、毎日四十五分単位の現実を回さなければならない。
担任は自分の手帳に、文科省の文ではなく、自分の言葉で一行だけ書いた。
“答えがないことを、今日は授業にする。”
*
午後六時四分、連邦首都
大統領府西棟では、警備配置図が二度目の修正を迎えていた。
増やす方向ではない。減らす方向だ。
統合参謀本部議長のウォーカーは、警備計画の説明を聞きながら、口を開かなかった。
説明している側は真面目だ。侵入経路、狙撃点、対空監視、化学防護、緊急避難導線。どれも、国家が国家であるために必要な仕事だ。
だが、必要であることと、意味があることは違う。
「将軍」
大統領補佐官が言う。
「重装備の視認性をどこまで落としますか」
「落とす?」
ウォーカーは聞き返した。
「群衆への印象です。歓迎行事ではありませんが、過度な武装は逆効果になり得る」
言い方が気に入らなかった。
逆効果。広報用の単語だ。
「印象の問題じゃない」
ウォーカーは言った。
「意味の問題だ。効かないものを効く顔で置くと、あとで傷が深くなる」
部屋が静まる。
将軍がそこまで言うのは珍しい。
「完全に外すわけにはいきません」
補佐官が言う。
「分かっている」
ウォーカーは図面の上に置かれた指を、少しだけ動かした。
南芝生。北庭。屋上。狙撃点。移動車列。地下退避。
全部、人間相手の図だ。
「続けてくれ」
彼は言った。
「必要なことはやる。ただし、誰の安心のためにやるのかは、紙に書いておいてくれ」
「安心?」
「現場の安心、記者の安心、大統領の安心、群衆の安心、国家儀礼としての安心。混ざると判断を間違える」
補佐官は黙ってうなずいた。
軍人が現実を認め始めると、言葉が少しだけ冷たくなる。その冷たさに、ウォーカー自身も慣れていた。
会議のあと、彼は窓際に立った。外では観光客みたいな格好の人間が、まだフェンスの向こうにいる。誰もここが、核の認証と戦略指揮の中心のひとつだとは思わない顔でスマホを向けている。
世界は、権力の場所を勝手に観光地に変えることがある。
それまでは、だいたい平和な時だった。今回はそうではない。そこが厄介だった。
*
午後九時四十二分、聖都。
アレクシウス十三世は、夜の声明文を読み返していた。
長くはない。長くすると、解釈の欲が文の中へ入り込む。
“我々は見たものに即座に名前を与えたがる。しかし、創造の全体は、我々の古い言葉より先に広がっている。恐怖と熱狂の両方から距離を取りなさい。祈りは、判断の代わりではないが、判断を急がせるものでもない。”
うまくまとまりすぎている。
それが少し嫌だった。
秘書官が、遠慮がちに言う。
「聖下、これで弱いと受け取られる向きもあるかもしれません」
「あるでしょう」
「もっと明確に、危険を警告すべきだと」
「危険です」
教皇は言った。
「だからこそ、危険の中身を勝手に埋めたくない」
彼は窓の外を見た。
広場にはまだ人がいる。記者、巡礼者、スマホを持った若者、祈っているふりをして配信している人間。全部いる。
「実在するものは、信仰にとって厄介です」
教皇は言った。
「神は実在する、と私たちは言う。しかしそれは、こういう意味での実在とは違う。画面を奪い、来訪時刻を指定し、軍事システムを止め、容姿で人を揺さぶる。そういう実在は、宗教の手を荒くする」
秘書官は返事をしなかった。
返事の要らない言葉だと分かっていた。
「だから、教会の仕事は少しだけ地味になる」
教皇は続けた。
「世界の一番派手な出来事の横で、安い断定を避ける。それだけです」
派手な時代ほど、地味な仕事は退屈に見える。だが、たぶんそこにしか残らないものもある。
*
午後十一時五十八分、東京。
真帆は、官邸の端末で各国の声明と配信切り抜きを並べて見ていた。
悪魔。天使。進化の先。人類の保護者。詐欺。高度な工学。精神汚染。終末の前触れ。全部ある。
矛盾しているのに、全部それなりに広がっている。
隣の席の職員が、疲れた顔で言った。
「結局、人は信じたいものを信じるって話ですかね」
「そういう言い方をすると」
真帆は画面を見たまま言った。
「なんか人間が急に雑になりますね」
「雑じゃない?」
「雑だけど、それだけじゃないです。たぶん、置き場所を探してるんだと思う」
「置き場所」
「この出来事を、自分の頭のどこに置くか。宗教の棚か、科学の棚か、娯楽の棚か、政治の棚か。棚が見つからない人は、とりあえず怖がるか笑うかする」
職員は少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、政府はどの棚ですか」
真帆は少しだけ笑った。
笑える質問ではないが、笑うしかない。
「まだ棚作ってる途中じゃないですか」
その答えはあまりに頼りなかった。
だが木曜の深夜の政府としては、たぶん正しかった。
画面の片隅では、どこかのライブ配信者が、来訪者のための“お迎え部屋”を作る動画を流していた。白い布、青い照明、星のステッカー、やたら大きいクッション。視聴者は喜んでいる。画面の向こうの誰も、その部屋に来ないと分かっているのに。
真帆はしばらく見てから、タブを閉じた。
この日、教義や規約と同じくらい伸びたのが、身体に関する雑な断定だった。あの姿は本来の種の姿なのか。対話のための衣装なのか。こちらを安心させるための擬態なのか。ある神学者は「受肉の問題に似ている」と言い、別の生物学者は「問題は似ていても、前提が違いすぎる」と怒った。
怒るのも無理はなかった。もしあの身体が選ばれた形なのだとしたら、人間は“自然”と呼んできたものの外側に、もう一つ別の選択の歴史があることになる。宗教者にとっても医療者にとっても、嫌でも考えざるを得ない話だった。
真帆はしばらく沈黙してから、共有端末のメモ欄へ一行だけ打ち込んだ。
“答えより先に棚を作りたがる反応そのものが、今回の資料になる。”
気の利いた文にしたくはなかった。だが、木曜までの世界を雑に要約すると、そのくらいしか残らない。
同じ頃、聖都では声明文が読み上げられ、テキサスでは説教の切り抜きがまだ伸び、メンローパークでは新しいガイドラインの文面が法務に戻されていた。どの現場も、自分たちが“本来の担当外”に踏み込まされている顔をしている。
それでも踏み込む。踏み込まないと、空いた場所をもっと乱暴なものが埋めるからだ。
木曜日が終わる。
人はまだ、祈り方も怖がり方も決めきれていない。
だが一つだけはっきりしたことがある。
相手が実在すると、信仰は消えない。むしろ増える。
増えるが、昔のままでは増えない。
祭壇の上だけでは足りないのだ。
いまの信仰は、通知欄とコメント欄と動画のサムネイルにも生える。




