4日目 ネオテニー効果
――20XY年3月4日、東京/連邦首都/ソウル/メンローパーク
恐怖は、長くは続かない。
長く続くのは、そのあとに残る癖の方だ。
画面を見る速さ。通知に触る親指の角度。空を見上げた時に、何かが降りてくる場所として想像してしまう頭の動き。人間はそういうものを、じわじわ体に入れる。
水曜日の朝、世界はもう、日曜日の世界ではなかった。
検索欄には、ようやく素人にも分かる単語が揃い始めていた。カルダシェフ・スケール。ネオテニー。接触プロトコル。ファーストコンタクト映画おすすめ。昨日までは陰謀論とミームが先行していたが、水曜になると、人は急に“知ってる顔”で怖がりたがる。
テレビと配信では、SF作家や映画監督のコメントが妙に重宝された。現実の責任を負っているわけではない人間ほど、未知の話を普段から仕事にしているからだ。だが当の本人たちは、だいたい困った顔をした。「侵略でも救済でもなく、観察と交流だけを言い残して、しかも十日後に来る相手」という筋は、既存の人気ジャンルにきれいには収まらない。
それでも世間は、尺度を欲しがった。だからカルダシェフ・スケールが流行る。Type IIだ、いやIIIだ、そもそもその物差しが古い、という言い争いが一日中続いた。雑な尺度ほど、共有しやすい。
*
午前七時十六分、東京。
山手線の車内は、いつも通り混んでいた。
押される。詰める。吊り革の前で肩が触れる。ドアのガラスに曇った息が薄く残る。いつもの通勤だ。だが、視線の落ちる先だけが違った。
ほとんどの乗客が、同じ顔を見ていた。
銀色の髪。
淡い目。
白い翼のようなもの。
ニュース映像の切り抜き。誰かが色味を整えた静止画。英語字幕を日本語に載せ替えたショート動画。正体不明の作曲者がつけたBGM。速すぎる解説。遅すぎる考察。
もう情報は足りていた。正確な情報ではない。量の方だ。
スーツ姿の男が、動画を三本続けて見たあと、ニュースアプリへ戻った。ニュースの見出しには、
《来訪者、大統領府訪問を予告》
《各国政府が接触準備を本格化》
《防衛・通信系の一部停止、復旧進む》
と並んでいた。
その下に、関連おすすめとして出ていたのは、
《もしも来訪者が新宿に降りたら》
《彼女の翼は空力的に成立するのか》
《一時間で描く来訪者メイク》
だった。
現実は、もう一段低い場所で加工され始めている。
午後には、タイムラインが勝手に文明の等級を貼り始めていた。
タイプII。タイプIII。いや、恒星系一つでは済まない。銀河規模だ。あの通信停止の仕方ならエネルギー利用は地球文明の桁ではない。
便利な尺度だった。
便利すぎる尺度は、たいてい先に流行る。
動画配信者はその図をそのまま使った。
教育系アカウントは、地球文明はまだ〇・七台だと得意げに解説した。
匿名掲示板では「じゃあ俺たちは村人Aか」という雑な書き込みが伸びた。
誰かが数式にしてしまえば、人は少しだけ落ち着く。
分からないものを、分かった感じの枠へ押し込めるからだ。
SF作家のコメント欄だけ、最初の半日ほど妙に静かだった。
現実が既存の物語に似ている時、人はまず安心する。
今回は、その安心があまりもたなかった。
似ているのは入口だけで、中身が違いすぎたからだ。
車両の隅で、高校生らしい二人組がスマホを見せ合っていた。
「この人、名前まだないの?」
「あるっぽいけど、政府の名前じゃなくてネットのやつ」
「なに」
「アンドロ」
「雑じゃない?」
「でも一発で分かるじゃん」
そう言って笑う。
笑い声は小さい。だが、日曜にあったあの息を呑む感じはもうない。怖がっていないわけではない。ただ、怖がるだけで三日過ごすのは、現代人には少し長い。
向かいの席では、年配の女性が孫らしい相手にメッセージを打っていた。
“学校いっていいの?”
“だいじょうぶらしいよ”
“あの子きれいね”
最後の一行だけ、妙にすっと打たれていた。
列車が池袋へ入る。
ホームの大型モニターでは、朝の情報番組のコメンテーターが深刻そうな顔で何かを言っている。字幕はもっと深刻そうだった。
ただ、その横に常設されている広告枠では、コスメ会社の春新作が流れていた。淡い青のアイシャドウ。白い光。目元の透明感。
意図して寄せたのか、偶然なのか、もう見分けがつかない。
通勤客の一人が、モニターを見上げてから、少しだけ嫌そうな顔をした。
広告が不謹慎だと思ったのか、ニュースが広告っぽいと思ったのか、自分でもよく分かっていない顔だった。
*
午前九時二分、ソウル。
サラ・キムは、スタジオの照明が点く前に、台本の余白へ小さく二つだけ書いた。
“可愛いは安全ではない”
“好意は理解ではない”
それで十分だった。
彼女はメディア研究者で、災害時の流言拡散と、視覚表象が不安をどう変形するかを専門にしている。三日前まで、地味な学問だった。地味な学問ほど、危機の後半で急に呼ばれる。
赤いランプが点く。
司会者が、やや興奮しすぎた声で言う。
「世界はなぜ、こんなに早く彼女の顔に慣れてしまったのでしょうか」
キムは一拍だけ置いた。
すぐ答えると、あらかじめ用意していたみたいに見える。実際、用意はしていた。だが、用意していたことを見せると、話は急に安くなる。
「慣れた、というより」
彼女は言った。
「脳が処理しやすい箱に、急いで入れたんだと思います」
「箱?」
「人間は、未知のものに会った時、そのまま受け取るのが苦手です。特に顔があるものには、すぐ意味をつけます。幼い、無害そう、美しい、手に負えない、支配的、病んでいる、そういう雑な箱です」
司会者がうなずく。理解したふりのうなずきだ。テレビでは、それで進む。
「彼女の場合、大きな目、小さな顔、細い手足、平滑な肌、左右対称に近い配置、淡い色。人間が“保護したくなる”“怖がりにくい”と判断する特徴がかなり多い」
「ネオテニー効果ですね」
「その言い方でもいいです」
キムは視線を少しだけ横へずらした。モニターに、来訪者の静止画が大きく出る。
画面の処理が上手すぎた。肌のトーンが整えられ、背景の宇宙が少しだけ暗くされている。テレビは、未知のものまで放送向けに丸める。
「ただ、誤解しないでほしいのは」
キムは言った。
「脳が“可愛い”側へ倒れたからといって、安全になったわけではないということです。人間は、好きになった対象に対しても、簡単に宗教を作るし、依存もするし、攻撃もします」
「攻撃も?」
「はい。好意は理解ではないからです。思い通りにならなかった瞬間に、嫌悪へ反転することは珍しくありません」
司会者が少し黙る。
言い方がテレビ向きではなかった。
「つまり、世界が落ち着いて見えるのは危険だと」
「落ち着いてはいません」
キムは答えた。
「恐怖の形が変わっただけです。日曜は軍事的な恐怖でした。いまは、意味づけを奪い合う恐怖になっている」
その瞬間、スタジオの奥でスタッフが一人、別の画面を指した。SNSのトレンド欄に、
#アンドロ
#名前をつけよう
#会いに行くって何
#怖くないのが怖い
が並んでいる。
司会者はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
笑っていいのか分からない時の、あの顔だった。
*
午前十時十五分、メンローパーク。
会議室の壁一面に、投稿数のグラフが出ていた。
上がり方が雑だった。なめらかに伸びていない。折れ、跳ね、数時間ごとに突き抜ける。人間の興奮が、そのまま線になっている。
リナ・チェンは、グラフより先に、画面右下の小さなカテゴリ名を見た。
fan art
remix
doctrine
pilgrimage
purification tips
off-grid commune
最後の二つだけ、嫌だった。
「報告を」
彼女は言う。
コンテンツ・インテグリティ担当の責任者が、資料を切り替えた。
「全プラットフォーム横断で、来訪者関連投稿はこの四十八時間で二十七倍です。通常のニュース消費、ジョーク、創作、考察、陰謀論、それぞれ増えていますが、いちばん早いのは帰依型コミュニティです」
「帰依型」
「崇拝、献身、献金、共同生活への勧誘、自傷行為の示唆を含む群です。宗教と断定できないものも多いですが、機能としてはほぼ同じです」
別の担当者が口を挟む。
「問題は、虚偽情報として落とせないことです。対象が実在する。しかも、本人が全世界の画面を掌握したのは事実です」
「本人」
チェンは繰り返した。
「便利な言い方ね」
「便宜上です」
「分かってる」
彼女は資料をめくった。
そこには、各国語で作られたコミュニティ名が並んでいた。
新星の園。
翼の保育室。
第三腕の姉妹たち。
アンジェラス2.0。
アンドロ会。
接触待機村。
悪趣味なものと、妙に真面目なものが混ざっている。人は、意味が足りない時ほど名札を量産する。
「削除基準を作って」
チェンは言った。
「何を軸に?」
「崇拝そのものじゃない」
彼女は即答した。
「子どもを巻き込むもの。医療や教育から人を引き剥がすもの。献金や労働の強制。自傷の指示。共同生活への隔離。まずそこ」
「宗教差別だと言われます」
「言わせとけばいい」
「しかし、既存宗教との整合が」
「既存宗教の整合なんて、いつだって後から作ってきたでしょう」
少し強くなりすぎたと思ったが、訂正はしなかった。
法務担当が慎重に言う。
「“宇宙的存在への礼拝”をどう分類するか、前例がありません」
「前例がないなら、人体と財布の方から守る」
チェンは言った。
「教義は後」
会議室が一瞬だけ静かになる。
会社が巨大になると、こういう瞬間が増える。誰かが、国家より先に国家っぽいことを言う。
「それから」
チェンは続けた。
「ファンアートは落とさない。二次創作も、皮肉も、ミームも。あれは今のところ、安全弁として機能してる」
「安全弁?」
「怖いものを、そのまま怖いままでは抱えられないから、人は加工するのよ」
彼女は自分の端末を指で二回叩いた。
そこに開いていたのは、幼稚園児が描いた来訪者の絵だった。頭だけ大きい。翼はチューリップみたいだ。足元には地球と、たぶん犬。
投稿文には、
“うちの子はもう怖がってません”
と書いてある。
チェンはその文が嫌だった。
子どもが怖がらないことを、大人が安心材料として使い始めるのは、だいたい早すぎる。
*
午後零時四十八分、連邦首都
大統領府別館の会議室には、ふだんなら同じテーブルに座らない人間が並んでいた。
スミソニアンの学芸員。大手配信会社の制作責任者。ゲーム会社のクリエイティブ・ディレクター。大リーグ機構の広報。ゴスペル歌手。ブロードウェイの演出家。公立図書館協会の代表。若者向け動画プラットフォームの政策担当。
国家が本当に困ると、急に“文化”を呼ぶ。しかも、いつもは少し見下している種類の文化まで。
会議の議題は雑だった。
来訪者に、人類は何を見せるべきか。
その雑さのせいで、逆に本音が早く出た。
「正直に言えば」
配信会社の責任者が言った。
「いま世界で起きていること自体が、すでに一つの文化反応です。政府があとから公式プログラムを作っても、追いつかない」
「追いつかないから何もしないのか」
補佐官が返す。
「そうじゃない」
図書館協会の代表が言った。
「ただ、“見せる”という発想が古いのかもしれない。相手が知りたがっているのが、完成品ではなく、人がどう記憶を持ち、どう語り継ぎ、どう揉めながら生きているかなら、こっちがやるべきなのは上演じゃなくて翻訳です」
大リーグ機構の広報が、半分冗談で手を挙げた。
「野球は翻訳になりますか」
「なるでしょう」
学芸員が即答した。
「ルールが恣意的で、時間の使い方が文化的で、統計と迷信が共存している。かなり人間的です」
笑いが小さく起きる。
その笑いを、補佐官は止めなかった。止めると会議がまた政府の顔に戻る。
「問題は」
若い動画プラットフォーム担当が言った。
「国家が見せたい人類と、人類が勝手に見せている人類の差です。たぶん、向こうは後者をもう見てる」
その一言で、部屋の何人かが黙った。
国家の準備会合で、国家の外側を指差されると、だいたいみんな少し嫌な顔になる。
補佐官はメモを取りながら、表情を動かさなかった。
「なら質問を変えます」
彼は言った。
「何を見せるべきか、ではなく。何を隠すと、人類が人類に見えなくなるか」
誰もすぐには答えなかった。
それは良い沈黙だった。
良い沈黙は、だいたい会議の予定時間を押す。
「午後までにガイドライン案を」
彼女は言った。
「文言はやわらかくていい。でも、やってることはやわらかくしないで」
担当者たちが散る。
会議室に残ったのは、グラフと、まだ何者でもない信仰の輪郭だった。
*
午後一時四十分、首相官邸。
鴨下真帆は、政府側の資料より先に、夜のうちに蓄積したネットの画面を見せられていた。
内閣官房の会議室にしては珍しく、資料の半分が紙ではない。スクリーンに、ファンアート、考察動画、切り抜き、宗教団体の声明、広告のバナー、ショート動画のサムネイルが並んでいる。
国家は、こういうものを前にすると急に弱そうに見える。
「整理します」
情報分析官が言う。
「大きく四つ。創作、考察、信仰、収益化です」
「収益化」
官房副長官補が眉を上げた。
「グッズ、広告、課金配信、来訪者関連のドメイン転売、接触セミナー、終末論コンテンツ、開運商材」
「早いな」
誰かが言った。
「早いです」
分析官は答えた。
「ただ、平時からずっとこの速度です」
真帆は、その“平時からずっと”という一言が妙に残った。
世界が変わっても、変わらない速度がある。むしろ、それがいちばん強い。
「問題は何ですか」
城崎が聞く。
「解釈の主導権です」
分析官が言う。
「政府が“来訪者”“対象個体”“接触予定存在”みたいな語を考えているあいだに、民間側ではもう“アンドロ”で固定しかけています」
会議室の何人かが微妙な顔をした。
安い。だが強い。たいていそういうものほど広がる。
「止められますか」
外務省の局長が聞く。
「止める意味が薄いかと」
真帆が言った。
自分で声を出してから、少し驚いた。予定していた発言ではない。
視線が集まる。
「……政府用語は政府用語で必要です。でも、一般の呼び名まで管理しようとすると、余計に負けると思います。名前を決めるのは、いちばん偉い場所じゃないです」
城崎が目だけで先を促した。
「それに、いま国民がやっているのは、不真面目ではなくて、処理です」
真帆は続けた。
「描く、名前をつける、笑う、勝手に二次創作する。怖いものを生活の大きさまで下げる作業です。そこを一律に軽薄だと切ると、政府の言葉が先に浮きます」
文科省の幹部が言う。
「ただ、学校現場では困っているようです。授業中に来訪者の話しかしない、進路相談で“どうせ宇宙人が来るのに勉強する意味あるんですか”と言われた、絵に翼を描き足す生徒が増えた、など」
「それは昔から、別の対象でも起きます」
城崎が言った。
「問題は、学校が答えを持っているふりをすることの方でしょう」
彼女はそこで、真帆の前に配られていた別の紙を手に取った。
候補者リスト。看護師、通訳、介護職、物理学者、司書、僧侶、自治体職員、被災地ボランティア経験者、映像翻訳者、保育士。三日前より少し増えたが、整理はまだ雑だ。
「このリストも同じですね」
城崎は紙を見たまま言う。
「国家代表を作るつもりで並べると、すぐ観光案内になる」
「では、どうしましょう」
「並べる順番を変える」
城崎は答えた。
「肩書の強さで並べない。役所がふだん後ろに置く仕事を前に出す」
真帆はそれをメモした。
看護。介護。翻訳。葬祭。被災地調整。学校給食。保育。水道。配送。
書いていくと、文化庁の資料よりずっと、社会の匂いがした。
そこで、会議室の隅にいた若い職員が、小さく手を挙げた。
「総理、ひとつ」
「はい」
「政府として、ニックネームを使うのは」
部屋が少しだけ和んだ。
深刻な会議で、たまにこういう雑な質問が必要になる。
「使いません」
城崎は言った。
「でも、国民が勝手に使うのを止める仕事もしません」
「その線で行きますか」
「名前を取り締まる政権に見えたら、負けです」
笑いが少しだけ出た。
少しだけで十分だった。
*
午後三時五十分、合衆国首都
大統領府北側のフェンスの外には、三日前より多くの人がいた。
抗議ではない。歓迎とも少し違う。観光とも言い切れない。人は、大きい出来事の近くへ来ると、とりあえず立つ。
売店のワゴンが二台出ていた。
片方はホットドッグ。もう片方は、急ごしらえのTシャツ。
WELCOME, WHATEVER YOU ARE
NO MISSILES, JUST VIBES
MARCH BELONGS TO HER
ひどい文句だった。
よく売れていた。
広報スタッフの一人が、その様子を窓から見て、嫌そうな顔をした。
「笑い事にしたいんでしょうね」
隣の補佐官が言う。
「そうしないと、平日の午後にここへ立っていられない」
「大統領は?」
「支持率の数字を見てる」
「上がってる?」
「質問が雑だな」
「雑になるでしょ、こんな週は」
数字は上がっても下がってもいた。大統領本人への支持はわずかに上がった。国家への信頼は落ちた。軍への期待は最初に上がり、すぐ下がった。教会は割れた。科学者への期待は伸びたが、その期待の中身はかなり雑だった。
“分かる人に何とかしてほしい”。
危機のとき、人はそうやって専門家を便利屋にする。
国家安全保障担当補佐官のレイノルズは、別室で世論分析の紙をめくっていた。
そこに書かれているのは、信頼、恐怖、期待、怒り、諦め、好奇心。数字になっていると扱いやすそうに見えるが、触ってみると全部ぬめっている。
「軍事的恐怖は鈍っています」
彼は会議で言った。
「いいことじゃないか」
別の補佐官が答える。
「短期的には」
レイノルズは言った。
「長期的にはまずい。恐怖が下がると、統制の言葉も効きにくくなる」
「じゃあ煽るのか」
「そう言ってない」
彼は資料を閉じた。
「ただ、相手が“怖い敵”でも“助けてくれる神”でもなく、“見たいもの”になり始めると、国家は真ん中を失う」
その言い方は少しだけ気取りすぎていた。レイノルズ自身もそう思った。だが、代わりの文がなかった。
リードはその場にはいなかった。
別室で、接触準備チームから上がってきた分野一覧を見ている。軍、科学、宗教、エンターテインメント、スポーツ、プラットフォーム、博物館、教育。国家が、自分の外にある権威をかき集め始めると、たいてい負けかけている。
彼は紙を机に置き、窓の外を見た。
フェンスの向こうにいる人間たちは、彼を見に来ているのではなかった。
それが少し気に入らない。
*
午後六時二十分、千葉県市川市。
小学校の学童では、宿題の時間があまり機能していなかった。
先生がプリントを配る。子どもたちは受け取る。受け取るが、書く前に喋る。
「先生、翼ってほんとに生えてるの」
「先生、宇宙って音ないんでしょ」
「先生、大統領府って何」
「先生、あの子、日本来るかな」
先生は三つまでは答えた。四つ目で少し詰まる。
「分からないけど、今のところアメリカに行くって言ってるね」
「なんでアメリカなの」
「そこは先生も気になる」
子どもたちが笑う。
笑ってから、また絵を描き始める。折り紙に、白い翼のついた人。地球の前で浮いている。ハートをつける子もいる。ミサイルを描く子はいない。
帰り際、一人の男児が母親に言った。
「ママ、あの子さ、人間じゃないのに、顔は人間にしてきたよね」
母親は靴を履かせながら、少しだけ驚いた。
「どうしてそう思うの」
「だって、怖い顔でもこれたじゃん」
子どもはそこで終わりにした。深い意味までは説明しない。
母親は答えに困って、頭を撫でる。
「そうかもね」
その返事が正しいのかどうかは分からない。
ただ、三日前の大人たちより、その子の方が少しだけ正確に見ている感じがした。
*
夜九時四十五分、官邸。
真帆は、一日の終わりに回ってきた海外世論のまとめを眺めていた。
各国で傾向は違う。宗教色が強い地域では天使だ悪魔だで割れている。アニメ文化の強い地域では、早くも人格や口調の二次創作が大量に発生している。米国では接触をショー化する動きへの嫌悪と、それを見たい欲望が同時に伸びている。南米では奇跡祈願の映像が出回り、欧州では哲学者の長文が誰にも読まれず、東アジアでは考察スレッドが無限に枝分かれしている。
世界は、まだひとつにもなっていないし、同じ方向にも向いていない。
ただひとつだけ共通しているのは、どの国でも、来訪者がすでに生活のサイズに縮め直され始めていることだった。
「怖さって」
真帆は小さく言った。
隣で資料を整えていた上司が顔を上げる。
「何」
「維持できないんですね。人って」
「維持できたら戦争がもっと少ないか、もっと多いか、どっちかだろうね」
雑な返事だった。
でも、その雑さが少しありがたかった。
会議室のモニターの端では、ニュース番組が、各国で広がる来訪者関連の創作物を紹介していた。司会者は苦笑いをしている。専門家は“社会的適応の一種”と説明している。画面の中の何人かは、本気でそう思っている。何人かは、そう言っておけば安全だと思っている。
*
午後八時九分、横浜。
駅前の商業ビルの上階にある雑貨店では、閉店前だというのに人が減らなかった。
目当ては春物の文房具でもアクセサリーでもない。来訪者モチーフの、非公式の何かだ。
銀色のリボン。青いアイライナー。白い羽根を模したヘアピン。三日でよくここまで間に合わせたものだと思う。デザインは露骨だが、法務の目をぎりぎりすり抜ける程度には曖昧でもある。
大学一年の由奈は、そのヘアピンを手に取ってから、少し考えて棚へ戻した。
欲しいわけではない。正確には、欲しいのかどうか自分でも分からない。
友人たちはもう、来訪者を怖いと言うより、文化祭の準備みたいな熱で話し始めている。動画を作る者、解説に回る者、反感を言語化して伸びる者。世界が変わるときですら、人は役割分担に逃げる。
スマホが震えた。父親からだ。
“遅い。ニュース見るなら帰ってから見ろ”
由奈は少し迷ってから、短く返した。
“見てるのはニュースじゃない”
それだけ送って、会計の列に並ぶ。結局、買ったのはヘアピンではなく、白い無地のノートだった。
何かを書きたかった。たぶん、うまく説明できないまま始まっているこの感じを、あとで自分のものとして残しておきたかったのだと思う。
レジの店員が、袋詰めをしながら言う。
「名前、もう決まりましたよね」
「何がですか」
「あの子。みんな、アンドロって呼んでるし」
由奈は曖昧に笑った。
政府も教会も大学も、まだ決めていないことがある。だが、街は街で先に決める。誰が責任を取るわけでもない場所ほど、名前は早い。
その時、外務省の共有端末に、短い連絡が入った。
米側の接触準備チームからだった。文化・倫理・社会分野の候補者に加え、ネット文化と大衆表象の分析者も欲しい。理由は書いていない。書かなくても分かる。
真帆は、その文を見てから、少しだけ息を吐いた。
ようやく追いついたのだ。国家が、三日前には軽薄だと思っていたものに。
「増えましたか」
上司が聞く。
「はい」
真帆は言った。
「画面の向こうで勝手に始まってることが、無視できなくなったみたいです」
彼女は候補者リストに、新しく一行足した。
メディア研究者。
コミュニティ・モデレーション実務者。
書いたあとで、もう一行追加する。
小学校教員。
冗談ではなかった。
*
夜十一時三分、連邦首都
大統領府の外では、まだ数十人が残っていた。
スマホを向ける。配信する。祈る。笑う。立ち尽くす。やっていることはばらばらなのに、どれも同じ形に見える夜だった。
西棟の一室で、レイノルズは最後のメモを書き終えた。
“来訪者は軍事的脅威としての恐怖を短時間で失い、視覚消費・信仰・娯楽・自己投影の対象へ移行しつつある。対処を誤れば、国家は安全保障より先に解釈競争で後手に回る。”
官僚文としては、少しきつい。
だが丸める気にはならなかった。
窓の外では、フェンス越しに若者たちが写真を撮っている。誰かが笑っている。誰かが空を見ている。
彼らはまだ、何も解決していない。何も知らない。
それでも日曜より、ずっとこの事態に参加している顔をしていた。
レイノルズはペンを置き、しばらく黙ってから、もう一枚の紙を引き寄せた。
見出しを書く。
“脅威ではなくなった時、どう統治するか”
嫌な見出しだった。
だが今夜のアメリカに必要なのは、たぶんそっちだった。
同じ頃、東京のどこかの中学生が、初めて描いた来訪者の絵に、ためらいなく“アンドロ”と書き込んでいた。
政府はまだ正式名称を決めていない。教会も定義を出していない。科学者は分類を保留している。
けれど、名前というものは、たいてい一番えらくない場所から決まる。
水曜日が終わるころには、世界の画面の下の方に、もうその呼び名が住み始めていた。




