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10日間の問い  作者: ライカの三日月
番外編:その後
30/32

その2 二年後、同じ場所の違う風景







二年というのは、地球では意外と長い。


前世で働いていた頃、入社二年目の後輩が「もう二年経ちました」と言うのを聞くたびに、私は、まだ二年しか経ってないのか、と思った。今は逆で、もう二年も経ってしまったのか、と思う。感覚の向きが、いつの間にか反対を向いていた。


数百年生きていると、二年は誤差になるはずなのに、ならなかった。


地球に関わった二年は、ほかのどの二年とも違う手触りをしていた。


*


移行センターの出発待合室。前回とほぼ同じ席、ほぼ同じ光の角度、ほぼ同じ温度。この文明は、同じ個体が同じ行動を繰り返す際、環境パラメータをできるだけ揃える設計になっている。懐かしさを利用した安定化。親切、と呼んでもいい。


違うのは、私の隣に置かれた荷物の量だった。


前回はほとんど手ぶらに近かった。外交儀礼規程に従った礼装と、最小限の身分証明デバイスだけ。今回は、小さな手提げに、地球で買いたいものを書いた紙のメモと、前回のコンビニで使い切れなかった小銭(共同圏の基準では明らかに持ち出し禁止レベルの「文化的遺物」扱いだったが、管理者に直談判して持たせてもらった)と、そして、共同統治層が「試験的に公認した」ちいさな記録端末。


「二度目は、一度目より恥ずかしいですよ」


見送りの面談官は、ちょっと笑っていた。前回と同じ個体。ただし、表情のレンジが二年で少し増えたらしい。


「どうしてですか」


「一度目は緊張でごまかせます。二度目は、前の自分の映像がすべて残っていますから」


言われて、待合室の壁に再生されていた地球ニュース圏の二年総括映像を見た。無音の設定にしてある。南芝生で紙袋を抱えた私。官邸の床に座り込んだ真帆さん。リード大統領の「君」。教皇の沈黙。コンビニに行きたいです、と言った直後の、私自身のちょっと困ったような顔。


全部、私だった。


「恥ずかしいです」と言った。


「その恥ずかしさは、地球側にとっては安心材料になります」と面談官は言った。「完璧に戻ってきた個体は、恐ろしい」


*


出発。


移動の所要感覚は、前回と同じ。ただ、目的地で最初に見せられた地球側の受け入れ書類の厚みが、前回の約三分の一になっていた。


二年前は、ホワイトハウスの南芝生を封鎖するために、郡・州・連邦・国際機関・宗教団体・報道協会・IT業界団体・市民団体まで含めた膨大な署名と調整記録が紙で提出された。紙で、と念を押されたのは、もしデジタル系統が再び無力化されたとき、紙だけが残るからだという、それ自体が怖い理由でだった。


今回は、紙は薄い。慣れた、ということだ。


慣れた、というのは、地球側が接触運用手順書を整備したということでもあるし、どこかで、恐怖の峠を越えたということでもある。


二年前、怖かったものが、少しだけ薄まっていた。


その薄まり方は、正確には二種類あった。ひとつは、制度化による薄まり。もうひとつは、風化による薄まり。前者は健康な鈍化で、後者は不健康な鈍化だった。


私はどちらを引き受けに来たのか、まだ自分でもよく分からないまま、降りた。


*


降りた先は、前回と同じ、ワシントンの南芝生ではなかった。


今回は、日本の羽田空港、特別受け入れターミナル。地球側との事前合議で決まった。


「二度目は、日本から」


城崎総理がそう言ったらしい、というのは、事前資料で読んだ。地球代表として米国一国に固定するのは不健全、というのが公式理由。非公式理由としては、「ポテトのときは米国だったから、今度はうちです」というのがあったと聞いている。非公式理由のほうが正しい気がした。


ターミナルには封鎖テープがなかった。


あったのは、案内板と、ロープと、制服の警備員と、そしてたぶん目に見えないところに配置された多くのプロだった。


二年前は、見えないものを見せないように隠していた。今回は、見えるものを見えるように出していた。


違いは、信頼ではない。「運用の習熟」と呼ぶのが正確だ。


*


到着口の向こう側で、城崎総理と真帆さんが待っていた。


真帆さんは、二年前より少しだけ痩せていた。髪を短く切っていて、耳の下のあたりでまっすぐ落ちるラインになっていた。銀色ではないけれど、光の当たり方で銀っぽく見える白髪が、前髪のほうに増えていた。


「ようこそ、日本へ」と真帆さんは言った。


前回は「ようこそ、地球へ」だった。


地球、から、日本、まで、彼女のなかで尺度が下がっていた。尺度が下がるのはたぶん、良い兆候だった。


「お久しぶりです」と私は言った。


「ニ年ぶりです」と彼女は言った。「正確には、一年十か月と三週間です」


「数えましたか」


「仕事です」


仕事、と言いながら、彼女はほんの少しだけ、目を逸らした。仕事、という言葉は、地球人にとってわりとよく嘘をつくための便利な言葉だった。前世の私もよく使った。


*


城崎総理は、二年前とほぼ同じ表情をしていた。


同じ、というのは、表情の種類が同じという意味ではなく、表情の使い方が同じという意味で。笑うときは目の奥が笑わず、困るときは口元が動かない。沈黙の長さで多くを語る。そういう系統の政治家。


「お変わりなく」と私は言った。


「お変わりなくあるように努めました」と彼は言った。「この二年は、そこが仕事でした」


「変わらないようにするのも、仕事なんですね」


「変わってしまえば、不安が増えます」


「変わらなければ、怒られます」


「両方です」


私たちは、二年前と同じ温度の敬語を交換した。敬語は、風化に強い。ちょっと古い言い回しを使うと、それだけで、これは制度化された儀礼だと双方に分かる。


*


移動中の車の中。


真帆さんが、ちいさな手帳を取り出した。


前回は分厚いバインダーだった。二年分、薄くなっていた。


「いくつか、確認です」と彼女は言った。「前回の約束、覚えていますか」


「コンビニに行きたい」


「そうです」


「あと、最新巻が出たら、と」


「漫画ですね」


「はい」


「手配済みです」と彼女は小さく頷いた。「全シリーズ、新刊含めて三点。旧刊との差分も簡単にまとめた紙を、付けておきました」


「……ありがとうございます」


「それから」と彼女は続けた。「あの銘柄のポテトですが、日本のほうが細いタイプに近い個体が手に入りましたので、両方用意しました。食べ比べ用です」


「食べ比べ」


「お望みでしたら」


「望みます」


望みます、と言ったとき、私はたぶん、前世の私の顔に戻っていた。前世で、後輩と一緒に会社の近くのマックで期間限定メニューを並べて食べた、あの顔に。




*


一方その頃、ワシントン。


リード大統領は、オフィスの窓から南芝生を見ていた。封鎖はされていない。芝生の上では、職員の家族向けイースターイベントの準備が進んでいた。ピンクと黄色の紙のウサギが、風で少し揺れていた。


「今日、到着した」と彼は、補佐官に短く言った。


「東京にです」と補佐官は答えた。


「知ってる」


「ワシントンには、来週です」


「知ってる」


「……何か、心配ですか」


リードは、少し考えてから首を振った。


「前回、俺は命令を出す側だった」と彼は言った。「今回は、迎え入れる側だ。違いに、まだ慣れてない」


補佐官は、控えめに笑った。


「慣れなくていいかもしれません」


「そうか」


「慣れてしまった国が、彼女を最初に失望させるかもしれませんから」


リードは、それには答えなかった。机の上に置いた、二年前に少女が渡した小さな四角い紙を、指でそっと撫でた。


紙は、印字が薄れていた。紙の風化は早い。


早いが、まだ、消えてはいなかった。




*


羽田から移動した先は、都心のホテルではなく、郊外の研修施設だった。人が住まなくなって久しい広い敷地を、接触運用のために日本政府が二年かけて整備した場所。宿舎、会議棟、ちいさな公園、遊歩道、屋内の娯楽室。生活に必要な機能がひと通りあり、かつ厳重な警備に覆われている。


なにより、コンビニがあった。


しかも本物の、日常営業をしている普通の店舗。


敷地のなかに、外から独立して、ある特定のチェーンの店舗がそのまま移築されていた。接触日のあいだだけ営業形態を一時的に「特別」にするが、それ以外の日は、施設職員向けに、本当にレジを通して品物を売っている。


「観光用ではありません」と真帆さんは言った。「ちゃんと、日常として稼働している店を、選びました」


「観光用のほうが、楽だった気もします」


「楽なものは、たぶん要らなかった」


「はい」


彼女は、ちいさく頷いた。私も、ちいさく頷き返した。そのちいさな頷きが、たぶん二年分の距離だった。


*


コンビニ。


自動ドアが、二年前と同じ音で開いた。


ピロロン、という高めの二音。電子音なのにどこかやわらかい。前世で何度も聞いた音。たぶん、あの音のために、私は生きていた日が何日かあった。


店員は、若い男性だった。緑と白のベストを着て、名札に「サトウ」と書いてある。本物の名字かどうかは知らないが、名札に書いてあるのだから、彼は今ここでは「サトウさん」だった。


「いらっしゃいませ」と彼は言った。


声がほんの少しだけ裏返った。


裏返ったけれど、続きは普通だった。


「お弁当、温めますか」


私は、あの、と言って、首を振った。


「まだ、決めていません」


「ごゆっくりどうぞ」


ごゆっくり、を、異星文明代表に向かって言える店員の心臓は、二年前より明らかに強くなっていた。


*


棚を、端から順に、ゆっくり見た。


おにぎりの棚。明太子、鮭、こんぶ、たらこ、ツナマヨ。前世と同じラインナップ。価格が少しだけ上がっていた。


パンの棚。メロンパン、クリームパン、焼きそばパン、ジャーマンドッグ、ハムマヨロール。このうち一つは、二年前より包装のビニールが薄くなっていた。プラスチック削減の動き、と後で真帆さんに聞いて納得した。


飲み物の棚。無糖炭酸水の種類が増えていた。緑茶の棚は、逆に少し減っていた。カフェインレスのコーナーが独立していた。そこには、二年前にはなかった「夜用ブレンド」というラベルがあった。


「夜用、ですか」と、後ろに立っていた真帆さんに聞いた。


「最近、流行りました」と彼女は言った。「みなさん、よく眠れない時期があったので」


よく眠れない時期。


それが具体的にいつだったのかは、聞かないことにした。だいたい、想像がついた。


*


お菓子の棚で、私はひとつの商品の前で足を止めた。


スナック菓子のパッケージの角に、ちいさなシルエットが印刷されていた。白い髪の、ちいさな女の子。背中に白っぽい翼のようなもの。片手にフライドポテトのような棒状のもの。もう片方の手に、本のようなもの。


「アンドロちゃんのおやつタイム」と商品名にあった。


コラボ商品、という小さな文字。


「……許可しました?」と私は真帆さんに聞いた。


「共同圏側は肖像権の扱いが複雑で、二年かけて話し合った結果、地球側の表現文化を尊重して、キャラクター化は黙認、収益の一部を国際難民基金に拠出するという妥協で落ち着きました」


「そんなに頑張って議論したんですか、これのために」


「これのために、というより、これ以外のためにも同じ議論が必要でした」


「ほかにも、いっぱいあるんですね」


「およそ、千二百点です」


千二百。


共同圏の規程の数字と同じだった。偶然か、それとも、地球側が意識して揃えたのか、どちらかは分からなかった。どちらだとしても、皮肉だと思った。


*


レジで、おにぎり二個、炭酸水、夜用ブレンドのティーバッグ一箱、そしてさっきの「アンドロちゃんのおやつタイム」を、ひとつだけ選んで出した。


「こちら、袋ご利用ですか」


「お願いします」


「3円いただきます」


「……はい」


3円。


レジ袋の有料化は、たしか私が前世で死ぬ前からすでに導入されていた。今もまだ続いていた。人類は、この程度の制度は風化させない。自分がやると決めた小さな不便は、驚くほどしつこく続く。大きな戦争より、長い。


「1853円のお返し、147円でございます」


サトウさんは、硬貨を私の手のひらに乗せた。


手のひらの上で、硬貨はちょっと冷たくて、ちょっと重かった。


その重さのなかに、二年前の、まだ来られていなかった私が、泡のように一度だけ浮かんで、消えた。




*


都内のテレビ局、夕方のニュース。


キャスターが、原稿に目を落とさずに言った。


「アンドロメダ文明の使節が、本日、日本に到着いたしました。到着にあたっては、前回と異なり、大規模な封鎖や警報の発令は行われていません。また、主要金融市場にも目立った影響は見られませんでした」


画面の下のテロップ。


『二度目の訪問、日常のなかへ』


中継スタジオ。コメンテーター四人。政治評論家、宗教学者、経済評論家、そして若いサブカル系ライター。


政治評論家「やはり、外交的には日本側の得点と言ってよいでしょう。米国一極ではない、という絵柄を世界に示せた」


宗教学者「教皇庁は昨日、短いメッセージを出しました。『再会は、必ずしも理解を深めるとは限らない。しかしそれは悪いことではない』と」


経済評論家「市場の反応は驚くほど薄い。サーキットブレーカーの準備はされましたが、発動せず。むしろ、関連銘柄が期待先行で軽く上振れた程度です」


サブカル系ライター「コンビニの映像、観ました? あれ、もう完全に『聖地巡礼』のフォーマットでした。国が、キャラクターの訪問先として、ひとつのロケーションを用意している」


政治評論家「……それを政治が言ってはいけない」


サブカル系ライター「でも、事実です」


キャスターが、そこで一度、深く息を吸った。


「二年前、私はこのスタジオで、手が震えていました」と彼は、原稿から離れて言った。「今日はもう、震えていません。それが、良いことなのか、悪いことなのか、まだ私には分かりません」


四人のコメンテーターは、少しだけ黙った。


そのあと、番組は普通に天気予報に移った。明日の関東地方は、晴れのち曇り。




*


研修施設の宿舎の、私の部屋。


窓の外は、桜の時期には少し早い、まだ枝ばかりの木。


机の上に、買ってきたものを並べた。


おにぎり二個。炭酸水。夜用ブレンドのティーバッグ。アンドロちゃんのおやつタイム。


そして、真帆さんが手配してくれた、漫画の新刊。


前世で追いかけていたシリーズの、続刊。


表紙を見たとき、私は、呼吸の仕方を少し忘れた。


主人公は、二年分、年を取っていた。絵柄も、少しだけ大人びていた。キャラクターの配置が、前世で私が死んだときの巻から、自然に地続きで続いていた。


つまり、私が死んだあとも、世界は、ちゃんと続いていたのだった。


当たり前のことなのに、その当たり前を、こうやって、紙の厚みとして手に持てるのが、ものすごく変だった。


裏表紙をめくると、作者コメントがあった。


「いつも応援ありがとうございます。最近、遠くの星から応援してくれている方もいるらしい、と聞きました。本当なら、ちょっと嬉しいです。でも、近くの読者も、遠くの読者も、私にとっては同じです。その巻をひらいてくれる、その瞬間だけが、読者と私を同じ場所にいさせてくれます」


私は、そのコメントを二回読んだ。


二回読んでから、ページを閉じた。


涙が出そうになったけれど、前回の「ポテトで泣く」を繰り返すのはさすがに芸がないので、代わりに、おにぎりの海苔の封を開ける作業に移った。明太子。よく握れていた。前世のあの時間のおにぎりと、同じくらいに。




*


三日後、ワシントン。


ホワイトハウス南芝生。


芝生は、二年前に焼けた箇所の補植が完了して、もう跡はほとんど分からなくなっていた。風は、春にしては少し冷たい。


私は、前と同じくらいの歩幅で、同じくらいの速度で、同じくらいの緊張のなさで、芝生に降りた。


ただし、段差は、前回よりほんの少しだけ、気をつけて降りた。二年前に、ここでよろけて、紙袋を支えたのを、世界中が覚えていた。二度目でもよろけると、記憶のフォーマットが確定してしまう。それはちょっと恥ずかしいから、今回は、普通に降りた。


普通に降りたことが、逆に地球側をほっとさせたらしい、と後で聞いた。


前回の接触直後に起きた二発の銃撃は、今回は起きなかった。警備が強固だったからでもあるし、二年のあいだに、あの種の行動を取る個体を動機の段階で拾い上げる仕組みが、地球側でいくつか整備されたからでもある。完全ではないが、ゼロではないところまで来ていた。


風化しきっていない、ということだった。


*


リード大統領は、二年前より、少しだけ老けていた。


髪のグレーが増え、首筋のあたりに、前回にはなかった疲労の陰があった。選挙をひとつ挟んで、二期目に入っていた。その選挙戦は、歴史に残るだろうと言われるくらい、アンドロメダ接触の扱いを巡って激しかった。相手陣営は、初期対応を「屈辱的な宥和政策」と呼び、リード陣営は、それを「文明の成人試験」と呼んだ。勝ったのは後者だった。が、僅差だった。


僅差、というのは、地球政治の健康を示す指標でもある。


全員が同じ方向を向く政治のほうが、本当は怖かった。


「また会えたな」と彼は言った。


二年前は「ようこそ」だった。


「戻ってきました」と私は言った。


「ただいま、という意味か」


「……そういう意味の言葉を、私はあまり持っていません」


「じゃあ、今ので十分だ」


彼は手を差し出した。二年前のように、短く、形式的に握手した。


握手の長さは、ほとんど変わらなかった。


違うのは、握手したあとに、彼がほんの一瞬だけ、握った手を離さずに、少し付け足したことだ。


「うちの孫が、きみのファンだ」


「……は」


「六歳だ。保育園で、絵を描いた。きみがポテトを食べている絵だ」


「……お気を付けください、大統領。公人の肉親情報は、セキュリティ上」


「もう公開されてる。先月、孫本人が、園庭の外の取材カメラに、得意気に見せた」


「…………」


「家族は、ときどき国家機密より強い」


彼は、そこで初めて、少し笑った。



*


会見は、前回より短かった。


前回は、全世界同時中継の重みで、三時間かかった。


今回は、一時間半で終わった。


短くて済んだのは、事前のプロトコルが整っていたから、というのもあるし、質問の数が、そもそも少なかったから、というのもあった。二年で、「聞くべき問い」は、ずいぶんと整理されていた。聞いても答えが返ってこないと分かっている問いは、人間のほうから尋ねなくなる。それを知的成熟と呼ぶか、諦めと呼ぶかは、見方による。


私としては、たぶん、両方だと思った。


そのうえで、ちいさく新しい質問がひとつだけ、あった。


若い記者だった。たぶん、二年前は学生だった世代。


「あなたにとって、二年前と今と、地球で変わったと思うものを、ひとつだけ挙げるとしたら、何ですか」


私は、少し考えた。


「コンビニの、炭酸水の棚が、長くなりました」


会場が、一瞬、止まった。


それから、笑いと、困惑と、どっちだろう、という反応が、半分ずつ混じった空気になった。


「それは……良い変化ですか、悪い変化ですか」


「分かりません」と私は言った。「分かりませんが、棚が長くなるくらいで続いていける文明は、まだ、わりと健康だと思います」


その回答は、翌日、世界中の新聞の見出しに断片として引用された。「炭酸水の棚の長さで、文明の健康を測る異星人」というふうに。意図はちょっと違ったけれど、伝わり方としては、わりと正確だった。




*


聖都、バチカン。


教皇アレクシウス十三世は、二年前より、さらに少しだけ、白かった。


肌ではなく、祭服の選び方が、白い面積の多いものに変わっていた。健康上の理由でも、流行でもなく、神学的判断でもなかった。「二年前、世界が暗かったから、少しだけ明るい布を選んだ」と、あとで側近が一人だけ、こっそり記者に漏らした。漏らしたのは、たぶんわざとだった。


彼は、ローマでは私と会わなかった。直接会談を見送ったのは、政治的な理由ではなく、彼の言葉を借りれば、「会わないことを選べるほどには、両者とも、成熟した」からだった。


その代わりに、彼は短いメッセージを、全世界に向けて出した。


「再会は、理解を深めるとは限らない。深まらない理解を、それでも続けて持ち続けることが、たぶん信仰にいちばん近い」


メッセージを聞いたとき、私は研修施設の窓の外の、まだ咲かない桜の枝を見ていた。


深まらない理解。


それでも続ける。


私は、その言葉を、小さく口のなかで繰り返した。


口のなかで繰り返す、という動作は、前世の私もよくやっていた。上司に理不尽なことを言われたあと、飲み会で聞き流したひどい話のあと、電車に揺られて一人で帰る夜の、改札の前で。


今も、同じだった。身体の作りは変わっても、癖は、ほとんど変わらなかった。




*


CERN、ジュネーブ。


ロシュ議長と、チェン博士。


二年前、科学界の「絶望」という言葉が使われた夜から、彼らは二年分、老けていた。ロシュはさらに白くなり、チェンはずいぶん痩せていた。科学者の老化の速度は、政治家のそれとは別の時間軸で動いていた。


二年のあいだに、彼らは、私の文明から降りてきた観測事実のうち、ほんの一部を、地球側の既存理論の枠外に置いて、保留したまま扱う、という新しい作法を定着させた。それを「観測留保領域」と呼ぶことになっていた。教科書に一行だけ、注として載った。それ以上のことは、まだ書かれていなかった。


「書けないんです」とチェンは、短いやりとりのなかで私に言った。「書けないけれど、書けないまま、ちゃんと書き続けています」


「それは、矛盾ですか」


「矛盾です。でも、科学史は、わりといつもそうでした」


ロシュは笑って、こう付け足した。


「二年前、私たちは絶望と呼んだ。今は、観測留保領域と呼んでいる。言葉は長くなった。気分は、少し軽くなった」


「どうしてでしょう」


「たぶん、名前をつけると、朝食を食べる気になるからです」


「…………」


「朝食を食べられる科学者は、生きのびる」


それは、科学の勝利ではなかった。生活の勝利だった。私は、それがちょっと羨ましく、ちょっと可笑しく、ちょっと誇らしかった。地球人が前世の私の仲間だった、というただそれだけの理由で。




*


研修施設に戻った日の夜。


真帆さんが、部屋のドアをノックした。


「少し、お話、いいですか」


「どうぞ」


彼女は、前回と違って、椅子に腰を下ろしてから、しばらく黙った。


黙ったあと、ゆっくり言った。


「この二年で、私の周りでいくつか、動きがありました」


「はい」


「母が亡くなりました。去年の冬です」


「……お悔やみ申し上げます」


「ありがとうございます。急でした。想像していたのと、ちょっと違う終わり方でした」


「そうですか」


「それから、結婚しました」


「……おめでとうございます」


「去年の夏です。相手は、官邸で働いている人です」


「私、知っている方ですか」


「ちょっとだけ。あなたが二年前、官邸の地下会議室で会ったとき、通訳の横に立っていた、眼鏡の背の高い男性です」


「……ぼんやり覚えています」


「ぼんやりで大丈夫です。向こうは、あの日のあなたの一言一言を、全部鮮明に覚えていますから、バランスが取れます」


彼女は、そこで初めて少し、声だけで笑った。目は笑っていなかったけれど、たぶん、目は、笑わない方向の感情をまだ抱えていた。


「それから、私は、官邸を辞めることにしました」


「……えっ」


「今年の夏に。もう一度、本を書く仕事に戻ります」


「……失礼ですが、それは、私の接触と、関係がありますか」


「あります」と彼女は言った。「関係があるから、辞めます。あなたと話したあの二週間が、私には重すぎて、今の仕事を続けながら抱えきれないところまで来ました」


「……すみません」


「謝らないでください。悪いのは、あなたではありません」


「悪い人が、いますか」


「いません。ただ、重さがあるだけです。重さがあるときに、悪い人を探すのは、人類の悪い癖です」


私は、黙った。


彼女は、小さく首を振った。


「辞めて、書きます。あなたのことも、あなたの二年前の言葉も、書きます。書いて、誰かに読ませます。それが、私の、たぶん、次の二年です」


「読みたいです」


「あなたに読まれるために書くわけではありません」と彼女は言った。「でも、結果的にあなたにも読まれるように、書きます」


「……違いがありますか」


「あります。前者は、弱くて、崩れる。後者は、たぶん、もう少しだけ持ちます」




*


その夜、部屋の机の前で、私はちいさな記録端末を開いた。


共同圏側の公認端末。私の側の記録を、後日提出するためのもの。記録は、共同統治層の倫理レビューにかけられ、未来の他文明接触のケースに反映される。


つまり、私がこの二日間で見たことは、たぶん数百年後、別の誰かの夜を、ちょっとだけ楽にする。そういう仕組みになっている。


私は、入力欄に、まず次のように書いた。


>二年後の地球を、初回接触時と比較する:


そこまで書いて、手が止まった。


比較、という言葉は、便利だが、冷たかった。


前世のエクセルみたいだった。列A、列B、差分、備考。そうやって人間を、文明を、整えて処理する。


私は、その書き出しをそっと消した。


代わりに、こう書いた。


>コンビニの炭酸水の棚が、長くなっていた。


>3円、という金額で、袋が有料のままだった。


>漫画の続刊に、知らないキャラクターが三人増えていた。


>大統領の孫が、保育園でポテトを食べる私の絵を描いていた。


>真帆さんは、辞める。


>教皇は、少しだけ白い祭服を選んだ。


>科学者たちは、朝食を食べている。


そこまで書いてから、私は、最後に一行だけ、付け足した。


>――変わったものと変わらなかったものを、分けて記述しないように。


>それらは、ひとつの風景のなかに、一緒に、ある。


端末は、素直にそれを受け取って、送信待機表示に切り替わった。


私は、送信を、まだ、押さなかった。




*


東京に戻る日の朝。


真帆さんが、空港まで同行してくれた。研修施設の出口から、車で静かに移動した。途中で、環状道路の渋滞があった。普通の、朝の渋滞。車線変更しづらい、いらいらするやつ。


「すみません、この時間は、いつもこうで」と真帆さんが謝った。


「大丈夫です」と私は言った。「渋滞は、たぶん、どの星でも同じ構造だと思います」


「同じですか」


「物理的な輸送量と、輸送インフラの容量の差です。差があれば、どこでも詰まります」


「身も蓋もない説明ですね」


「社会の真実は、だいたい身も蓋もないです」


彼女は、ちょっと笑った。


そのあと、静かな声で言った。


「次に来るのは、いつですか」


「分かりません」


「共同圏の規則ですか」


「規則、というよりは、タイミングです。今回の再訪は、二年という区切りで、地球側のリクエストに応じる形で設定されました。次のタイミングは、まだ、たぶん、誰も決めていません」


「そうですか」


「……来なくても、地球は大丈夫ですか」


私は、自分で聞いておいて、質問の形が失礼だったかな、と思った。真帆さんは、窓の外を見たまま、数秒のあいだ、考えた。


そして、答えた。


「大丈夫です」


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない日も、あります」と彼女は言った。「でも、そういう日も、大丈夫じゃないまま、大丈夫の顔をして、働いて、ご飯を食べます。それで十分です」


「十分」


「はい」


「……地球人は、意外と、頑丈ですね」


「意外と、です」と彼女は言った。「自分が頑丈だと気づいていないところが、たぶん、頑丈の正体です」




*


出発ターミナル。


真帆さんは、保安検査の手前で、立ち止まった。


ここから先は、一般のターミナルから隔離された、接触者用の通路。外から見えるのは、ガラス越しの姿だけ。


「元気で」と彼女は言った。


ちょっと間があって、付け加えた。


「といっても、あなたに対して『元気で』って、かなり失礼な気もしますけど」


「いえ」と私は言った。「元気ではないときもあります」


「そう、ですか」


「数百年生きていても、元気ではない夜は、ちゃんと、あります」




「だから、『元気で』は、いい言葉です」


彼女は、すこしだけ、笑った。


私もすこしだけ、笑った。


それから、お互いに、手を振った。


前世の、会社の同僚が退職するときの、ちょっと気まずい手の振り方を、二人で同時にしてしまった。たぶん、地球の職場文化では、よくあるほうの別れ方だった。




*


移動中の、船内。


窓の外は、地球の自転に合わせて、青と白の縞がゆっくりと流れていた。


私は、共同圏の公認端末を取り出した。


昨夜書いた記録が、送信待機のまま、残っていた。


私は、最後の一行を読み直した。


>――変わったものと変わらなかったものを、分けて記述しないように。


>それらは、ひとつの風景のなかに、一緒に、ある。


もう一度読んで、もう一度、小さく頷いた。


送信ボタンに、指を置いた。


置いたけれど、すぐには押さなかった。


かわりに、手前に、ひとつ、文を足した。


>この記録を読む誰かへ。


>もしあなたが、これから、どこかの文明に降りていく個体であれば、


>最初の訪問では、たぶん、多くのことを理解できません。


>二度目の訪問でも、たぶん、多くのことを理解できません。


>でも、二度目には、ひとつだけ、一度目にはなかったものがあります。


>それは、「前回の自分の映像」です。


>それが残っているあいだだけ、


>あなたはその文明に、少しだけ、戻る資格を持ち続けます。


>資格、というのは、たぶん、尊大な言葉です。


>口実、くらいに読み替えてくれて、かまいません。


>――アンドロ(地球名)/識別記号 略


書き終えて、私は、送信ボタンを押した。


ちいさな音がして、記録は、共同圏のどこか遠い格納層へ、消えていった。


消えた瞬間、私は、ちょっとだけ泣いた。


ちょっとだけ、だ。


鼻の奥が、一瞬しみた、という程度だった。


それでも、前世から数えて、たぶん数千回目くらいの、同じ形の涙だった。エクセルの列Aと列Bと、備考欄と、ひとりで書いた自分宛ての覚え書きと、同じ場所に、ずっとある涙。


その涙は、たぶん、どの文明でも名前をもらえない種類の涙だった。


名前をもらえない涙が、ちゃんとあるからこそ、名前をつけた言葉が、やっとちゃんと機能する。


そういうものだと、私は、二年ぶりの地球旅行で、ひとつだけ、新しく理解した。




*


東京・研修施設跡地。


彼女が帰ったあと、施設のコンビニは、通常営業に戻った。


翌朝も、翌々朝も、レジのサトウさんは、普通にお弁当を温め、普通にレジ袋を3円で売り、普通に「いらっしゃいませ」と言った。


ただ、レジの横の、ちいさな掲示板に、一枚だけ、張り紙が増えていた。


『当店は、先日の特別来訪者のご利用を賜りました。ご来店いただいた皆さまの、いつものお買い物の延長線上に、そうした日がありました。ありがとうございました』


掲示を書いたのは、店長だった。文面は、本部からの指示で作ったものではなく、店長が夜勤明けに自分で書いて、店長自身が貼った。貼った紙は、少し曲がっていた。誰も直さなかった。


曲がったまま、その張り紙は、一年くらい、そこに貼られていることになる。


一年経つと、端が少し黄色くなり、ときどき、お客さんが写真を撮っていくようになる。


それでもしばらくのあいだ、張り紙は、貼られたままになる。


貼られている限り、誰かが、時々、立ち止まって、読み直す。


読み直す人のなかには、二年前、市場の暴落で眠れなかった人もいる。二年前、家族に怒ったことを後悔している人もいる。二年前、職場で泣いた人もいる。二年前、生まれたばかりで、何も覚えていない人もいる。


彼らは、張り紙の前で、それぞれ違うことを思い出す。


それが、地球の、この二年後の風景だった。



*


少し後、共同圏の管理者会議。


三体の管理者が、ちいさな円卓を囲んでいた。赤/青/金。


赤「記録、受領した」


青「分析は始まっている」


金「倫理的評価は」


赤「初回より、健康」


青「初回より、長く残る」


金「風化、と、制度化、と、習慣化、と、固定化。四つの速度が、観測された」


赤「四つとも、完全には一致していない」


青「文明は、そうやって、少しずつずれる」


金「ずれる、ということは、まだ動いているということだ」


赤「次の訪問は、いつが適切か」


青「具体的な時期は、推奨しない」


金「推奨しないのは、推奨するほどの自信がないからか」


青「推奨すると、それは観光の時刻表になる」


赤「時刻表は、文明の生気を吸う」


金「では、次は、未定のまま置く」


赤「同意」


青「同意」


金「――ひとつだけ、記録に残す」


赤「何を」


金「この二年、地球は、自分たちが頑丈であることに、ほとんど気づいていない」


青「気づかせるべきか」


金「いや。気づかせなくてよい」


赤「理由は」


金「気づいた頑丈さは、硬くなる」


青「硬くなると、折れる」


金「我々は、折れない文明を、見たことがない」


赤「確かに」


青「……記録する」


三体は、それぞれちいさく頷いた。


円卓の上のちいさなランプが、三色それぞれの明度でゆっくりと点滅し、そのあと、静かに一点だけ残って、消えた。




*


二年後の、地球のどこか。


春。


研修施設の敷地の端。誰もいない午後。


白くも黒くもない、普通の一羽の鳥が、桜のまだ咲かない枝に、ふわりと止まった。


止まって、首をかしげて、辺りを見渡して、一拍だけ、待った。


それから、ちいさく鳴いて、飛び去った。


鳥は、アンドロメダのことを知らない。


鳥は、コンビニの炭酸水の棚の長さも知らない。


鳥は、真帆さんが本を書くことも、リード大統領の孫が保育園で絵を描いたことも、教皇が祭服の色を少し変えたことも、知らない。


鳥は、ただ、桜の枝が、去年とだいたい同じ場所にあることを、身体で覚えていた。


同じ場所の、違う風景を、ひとつの景色として引き受ける役目は、鳥ではなく、人間と、数百年生きる元地球人のほうにあった。


それが、たぶん、私たちの、ちょっと損な、ちょっと得な、この星での持ち場だった。

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