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10日間の問い  作者: ライカの三日月
本編 10日間の問い
3/9

3日目 東京、午前五時





――20XY年3月3日、東京/市ヶ谷/連邦首都


 主権という言葉は、平時だとやけに紙っぽい。

 白書、答弁、教科書、判例要旨。そういう場所にはいる。だが、駅の改札やコンビニのレジにまでは、ふつう出てこない。だから、多くの人間はそれを、自分の生活より一段高い棚の言葉だと思っている。

 けれど、誰かに一度さわられると話が変わる。

 その朝、東京では、主権がようやく生活の方へ降りてきていた。


 午前五時。

 首相官邸の地下に近い会議室は、夜を越えた人間の顔で埋まっていた。眠い顔ではない。眠気を通り過ぎて、皮膚だけが起きているような顔だ。壁のスクリーンには、白地に黒い文字で、復旧済み、限定復旧、未確認、切り分け中と並んでいる。よく見る行政用語だった。よく見慣れているのに、今日だけは全部の字が軽かった。


 城崎は席に着いたまま資料をめくっていた。

 紙は増えている。昨日より厚い。厚いくせに、決定的なことはどこにも書いていない。

 しかも、机の上は白紙ではなかった。

 中東向けの防空資産、ウクライナ支援、海上輸送の保険、同盟国との負担分担。どの紙にも、前の危機の指紋が残っている。

 国家は、新しい非常事態をいつも焼け跡の上で迎える。

 前の火事が消えてから次が来ることは、ほとんどない。


 いま各国が焦っているのは、未知の来訪そのものだけではなかった。

 その十日後までに、何をどこへ回すのか。

 弾薬、防空、衛星、首脳動静、空域、外交儀礼、電力、港、保険。

 世界はすでに複数の戦争と複数の赤字の上で動いていた。

 そこへ、別の序列の話が上から落ちてきた。

「防空指揮系統」


 内閣危機管理監が答える。


「一部回復。ただし、真正性の担保が取れていません」


「真正性」


「はい。戻ったように見える機能についても、外部から同じように止められる可能性を否定できない。要するに、動いていても信用しきれません」


 城崎はうなずいた。

 壊れていないのに信用できない。いちばん悪いやつだ、とだけ思う。


「海自」


「火器管制は限定復旧。航空自衛隊も同様です。警戒監視は継続中ですが、迎撃判断を前提に組んでいた手順は、かなりの部分で意味を失っています」


「米軍との連携は」


「ホットラインは通じます。情報共有も断続的に回復しました。ただ、向こうも似た状態です」


 誰かがペンを落とした。

 小さな音だったのに、部屋の何人かがそちらを見る。今朝はそういう朝だった。大きい音より、小さい音の方が気になる。


 城崎は資料を置いた。


「官房長官」


「はい」


「現段階で、これは武力攻撃事態ですか」


 問いは法制局の方へ滑っていった。長官は眼鏡を押し上げ、言いにくいことを言う人間の顔になった。


「現行法の定義では、直ちにそうとは言えません」


「理由を」


「相手は明確に軍事的意図を否定しています。人的被害、物的破壊、占領意思、要求事項、いずれも現時点で確認されていない。防衛システムへの介入は重大ですが、武力行使と認定するには要件が足りません」


「足りない」


「はい」


 城崎は、机の木目を一度だけ見た。

 そこに答えが書いてあるわけではない。ただ、誰かの顔を見ながらだと余計な表情がつきそうだった。


「では逆に聞きます」

 彼女は顔を上げた。

「いま日本は、自国の空について、自分で説明できますか」


 誰もすぐには答えなかった。


 空。

 その一語で、法律の文言より先に、みんな同じ景色を思い浮かべた。迎撃の可否ではない。いつ何が入り、何が止まり、誰が止めたのかを、自分の言葉で言えるかどうか。


 法制局長官が慎重に言う。


「完全には、できません」


「それを、どう国民に説明しますか」


 また沈黙。


 城崎は、そこで少し声を落とした。


「侵略ではない、と言って落ち着かせるのは必要です。でも、それで国家が無傷だと言うつもりはありません。ミサイルが飛んでこなかったから無傷、ではないでしょう」


 危機管理監が手元の資料に目を落とす。誰もその言葉を否定しなかった。


 官房長官が口を開く。


「官邸としては、午前九時に一度、国民向けの説明を出すべきです。流言が増えています。昨夜から“在日米軍が極秘裏に交戦した”“北海道上空に艦隊が出た”“皇居が避難した”という類いの投稿が」


「打ち消しは必要です」

 城崎は言った。

「ただ、“平常通りです”は使わないでください」


「では、どういう表現を」


「生活は守る。物流も医療も学校も止めない。そこは言う。でも、異常が起きていないような顔はしない。国の言葉が先に嘘っぽくなると、後が持たない」


 広報担当の参事官が、急いでメモを取る。政府の文章から、平常通り、万全、冷静な対応、遺憾、そういった便利な語を抜く作業は、たいてい骨が折れる。


 会議室の扉が静かに開き、若い職員が一枚のメモを官房長官に渡した。彼は読み、少しだけ眉を寄せる。


「大統領府からです」


 部屋の空気が変わった。


「読む」


「本日中に、各国から“文化・倫理・社会実践”分野の候補者を出してほしいとのことです。先方の関心項目に対応する準備会合を、三月四日に米側主導で行いたい、と」


「候補者」


 城崎は繰り返した。

 昨日の“主催”に続いて、今日の“候補者”だった。呼び方が先に出来ると、物事はその器の形に寄っていく。


「人類代表のオーディションですか」


 誰かが小さく言った。冗談のつもりだったが、部屋の誰も笑わない。


「米側に返してください」

 城崎は言う。

「連携はする。ただし、一国が主催して各国が出し物を持ち寄る形にはしない。日本館を出すつもりはない、と」


「表現が強いかと」


「強くて結構です」


 言い終えると、喉が少し乾いた。昨夜からコーヒーばかりで、水が足りていない。だがこの場でそれを気にする人間はいない。


「それから」

 城崎は続けた。

「候補者のリストは作る。ただし、最初から肩書で固めない。学者と宗教者と文化人だけで済ませると、こちらの自己紹介が綺麗すぎる」


 文化庁出身の参事官が、昨日の会議に続いて顔を上げた。


「どの層まで含めますか」


「政府が普段、代表にしない人まで」


「具体的には」


「看護師、介護職、教師、被災地の自治体職員、通訳、保育士、葬祭の仕事をしている人、現場で外国人と毎日話している人」


 言いながら、城崎自身もそれが“普通の候補者像”ではないと分かっていた。だが普通の候補者だけを並べたら、たぶん、いつもの国家紹介映像になる。


「国宝は」

 経産省から来ていた審議官が、半分だけ本気で聞いた。


「国宝は逃げません」


 何人かが息だけで笑った。

 そのくらいの笑いは、部屋に必要だった。


     *


 同じ頃、市ヶ谷では、壁一面のモニターが青白く光っていた。

 航空総隊司令部の一室。徹夜の制服組は、昨日から同じ画面を見続けている。レーダーの点、飛行計画、IFF、通信ログ、手順書の更新履歴。知っているものが並んでいるのに、全部少しずつ遠い。


「もし敵なら、まだ楽でしたね」


 若い三佐がモニターから目を離さずに言った。


 隣の一佐が顔を上げる。


「どういう意味だ」


「敵なら、手順があります。交戦規定も報告経路もある。向こうが“安全のために止めました。9日後に行きます”って言ってくる相手だと、どの引き出しを開ければいいか分からない」


 一佐は紙コップの冷えたコーヒーを飲んだ。ぬるくもない。もうただの黒い水だ。


「ハッキングだと思いたいか」


「そっちの方が、まだ人間です」


「人間でも困るがな」


「はい。でも、人間なら腹の中を想像できます。金か、威信か、牽制か、実験か。今回はそれがない」


 一佐は返事をしなかった。

 机の上の端末には、昨夜から繰り返している復旧試験のログが並んでいる。ある系統は戻る。ある系統は戻らない。戻ったように見えて、突然、操作権限が“外部待機状態”に変わる。画面に出る文言だけは異様に丁寧だった。


 permission deferred.

 safety override maintained.


 英語でそう表示されるたび、部屋の空気が少し悪くなる。

 壊されていない。怒鳴られてもいない。なのに、使わせてもらえていない感じだけが残る。


「隊員家族向けの説明は、どうしますか」


 若い三佐が言った。

「昨夜から問い合わせが増えています。戦争なのか、そうでないなら夫は何をしているのか、子どもを学校に行かせていいのか」


 一佐は頭をかいた。


「正直に言うしかない。“戦争とは言えない。だが正常でもない”」


「それで納得しますか」


「しないだろうな」


 少し間を置いてから、彼は言った。

「でも、いま無理に納得させようとすると、あとで持たない」


 隣室では、防衛省の背広組が米軍との調整メモを作っていた。協力、連携、抑止、同盟の信頼性。必要な言葉は全部入っている。全部入っているのに、足りない。

 自分の空が自分のものだと説明できない朝に、同盟の意味は急に変わる。

 強い味方がいる、ではない。強い味方も同じように止められていた、という事実の方が前へ出てくる。


 若い三佐のスマホが震えた。妻からだった。

 彼は一瞬だけ躊躇ってから出る。


「もしもし」


『ニュース見た。これ、戦争?』


「……違う」


『じゃあ何なの』


 彼は口を開き、閉じた。

 部屋では別の隊員がケーブルを差し替えている。モニターの中では線が戻り、また消える。


「まだ分からない」


『分からないって言われるのが一番いやなんだけど』


「ごめん」


『謝ってほしいんじゃないの。今日、保育園、どうするかって聞いてるの』


 彼は目を閉じた。

 こういう時に国家安全保障は急に狭くなる。空と宇宙と同盟の話をしていた人間が、五秒後には子どもの送り迎えの段取りで詰まる。


「行かせていい」

 彼は言った。

「少なくとも、いまのところ」


『ほんとに?』


「ほんとに、って言えるほどじゃない。でも、家に閉じ込める理由もない」


 相手は少し黙った。

 その沈黙の方が、責められるよりきつかった。


『分かった。あとでまた連絡する』


 通話が切れる。

 彼はスマホを伏せ、また画面を見る。

 国を守る仕事をしているはずなのに、さっきの会話では、国の輪郭がほとんど役に立たなかった。


     *


 午前六時半。

 官邸一階のコンビニは、いつもより客が多かった。夜勤明けの警備員、寝ぐせの残った職員、報道各社の若手、運転手。誰も大声では話さない。声を潜めているわけでもないのに、自然と小さくなる。


 内閣官房の政策スタッフ、鴨下真帆は、缶コーヒーとおにぎりを二つ持ってレジに並んでいた。昨夜から文化・社会分野の候補者リスト取りまとめ役に急に回されている。どうして自分なのか、まだ納得していない。大学で比較文学をやっていたことと、英語がそこそこ書けることが、宇宙由来の危機管理にどう繋がるのか、説明された覚えもない。


 前に並んでいた報道記者が、新聞の一面を広げたまま会計していた。

 翼のある少女の静止画。どの紙面も同じだ。大見出しだけが違う。


 来訪者。

 接触。

 宣告。

 9日後の地球。


 紙面のセンスには差があったが、どれも少しだけ興奮しすぎている。

 世界の転換点というのは、記者にとっては当たり日だ。そこに腹が立つ気持ちも、真帆には少しあった。


「ポイントカードありますか」


 店員が言う。

 いつもの声だった。

 真帆はカードを出しながら、一瞬だけほっとした。宇宙から来る何かがいても、店員はポイントカードを聞く。そのしぶとさに救われる。


 イートインの小さなカウンターで缶を開けると、スマホが震えた。各省からの一次回答が流れ込み始めている。


 文科省。世界に共有可能な知的資産案。

 文化庁。優先候補一覧。

 経産省。日本の社会実装力に関する資料。

 厚労省。超高齢社会の課題と制度設計。

 国交省。都市交通・防災・インフラ保全。

 農水省。食文化及び発酵技術。


 タイトルだけで胃が重くなった。

 添付を開く前から、だいたい分かる。みんな自分の省の言葉で世界を切り取る。危機でもそこは変わらない。


 一番早く来た文化庁のファイルを開く。

 国宝建造物、能楽、歌舞伎、浮世絵、マンガ、アニメ、ゲーム、和食、茶道、華道。

 よく出来ていた。悪い意味で、よく出来ていた。


 次に厚労省。

 介護保険制度、地域包括ケア、終末期医療、孤独死対策、自殺対策、ヤングケアラー支援。

 こっちは逆に、暗すぎた。


 経産省はもっと露骨だった。

 新幹線定時運行率、製造業品質管理、ロボティクス、トイレ、コンビニ、物流最適化。


 真帆はスマホを伏せた。

 全部うそではない。そこが余計につらい。うそではないが、並べた瞬間にパンフレットになる。


 隣で朝食をとっていた警備員二人が、小さな声で話している。


「結局、来るんでしょ」


「来るんだろうな」


「どこに?」


「大統領府って言ってた」


「日本は関係ないのかな」


「関係なくはないだろ。でも、見に行くのは向こうだろうな」


 その会話が、真帆には妙に刺さった。

 日本は関係ないのかな。

 そんなはずはない。そんなはずはないのに、大統領府が指定された時点で、世界はだいぶそちらの舞台装置に乗っている。


 彼女は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。

 上へ戻る前に、自分用のメモを一本だけ打つ。


 見せるものを集める前に、見せたくないものの一覧が要る。


 打ってから、少しだけ気が楽になった。

 誰かに言われたわけではない。だが、いま必要なのはたぶんそっちだと思った。


     *


 午前八時十分。

 総理執務室の隣の小部屋に、関係閣僚と主要省庁の幹部が集め直された。さっきより人数は少ない。少ない方が言いにくいことは増える。


 城崎は、各省から上がってきた候補一覧の抜粋を黙って見ていた。

 読みながら、腹が立つというより、気の毒になる。みんな自分の持ち場で真面目に考えている。真面目に考えると、どうしても自分の棚の商品が前に出る。


「経産省」


「はい」


「この“社会実装力パッケージ”という言葉、やめてください」


 審議官が背筋を伸ばす。


「実装力を整理したつもりですが」


「整理されすぎています」


「しかし、相手が高位文明であれば、社会制度との接続可能性を示す必要が」


「必要なのは分かります」

 城崎は遮った。

「でも、これをそのまま出したら、日本はコンビニとトイレと時間厳守の国です、で終わるでしょう」


 審議官は口をつぐんだ。

 不満そうではない。ただ、直し方が分からない顔だ。


「文化庁」


「はい」


「国宝は重要です。でも、国宝だけで人間は生活していません」


「承知しております」


「厚労省」


「はい」


「逆に、こっちは苦しみだけが前へ出すぎています。日本の紹介で、孤独死と介護崩壊を最初の札にする必要はない」


「現実ではあります」


「現実です」

 城崎は言った。

「だから外すなとは言いません。ただ、見せ方の問題です」


 参事官たちの視線が行き来する。結局どうすればいいのか。そういう顔が並ぶ。


 城崎は資料を閉じた。


「ひとつ、方針を変えます」


 部屋が静かになる。


「“日本が誇るもの”を先に選ぶのをやめましょう」


 誰かが息を吸う音がした。


「誇るな、という意味ではありません。ただ、いまそれをやると、全部観光になります。向こうが来る理由が何であれ、こっちが最初にやることが観光案内だと、感じが悪い」


「では、何を軸に」

 外務省の局長が聞く。


「日本が何に困っていて、何を手放せず、何を残そうとしているか。それで整理してください」


「抽象的です」


「分かっています」


 城崎はそこで、水を一口飲んだ。

 冷えていない。だが、喉に落ちる感じだけで十分だった。


「具体例を出します。被災地の記録。高齢者介護の現場。子どもの給食。通訳の仕事。看取り。災害の避難所運営。外国人労働者を受け入れている町工場。宗教者の弔い。あと、学校」


「学校」


「はい。毎日同じ時間に子どもが来て、帰って、給食を食べて、いじめもあって、行けない子もいて、それでも明日また開く場所です。そういうものの方が、たぶん国宝より先に文明の癖が出る」


 官房長官が少しだけ首をかしげた。


「かなり広い」


「広いです。でも、最初から狭くしても仕方がない」


 文化庁出身の参事官が、手元のノートを見ながら言う。


「“代表作品”ではなく、“代表的な関係”を出す、という理解でよろしいでしょうか」


 城崎はその言い方を少し考え、うなずいた。


「その方が近いです」


「人と人の関係、人と死の関係、人と時間の関係、人と他者の関係」


「全部は要りません」

 城崎は言った。

「でも、そういう並べ方ならまだ嘘が少ない」


 メモを取る音が広がる。

 ようやく、会議が紙の生成ではなく、考える方へ半歩だけ戻ってきた感じがした。


「米側には」

 外務省局長が言う。

「候補者リストの提出をどう返しますか」


「出します。ただし肩書順では出さない。職種も混ぜて出す。学者の隣に看護師がいていい」


「プロトコル上、整理が」


「整理しないでください」


 城崎の声は強くなかった。だが、部屋ではそれで十分だった。


「相手が本当に見たいのが、文化や倫理や孤独の扱い方なら、こちらが先に階級表を作る必要はないでしょう」


 官房長官が小さく笑った。


「米側は嫌がります」


「でしょうね」


「それでも」


「それでもです」


     *


 午前九時ちょうど。

 官邸の記者会見室は、いつもより机が多く、ケーブルが多く、人も多かった。国内各社だけでなく、海外メディアもかなり入っている。翻訳ブースのランプが点き、同時通訳の声が少し遅れて流れる。


 城崎は冒頭原稿を一枚だけ持って入った。三分で終わる量しかない。長く話しても、いまは薄くなるだけだ。


「本日未明より確認されている各種システム障害および通信障害について、政府としての現時点の認識を申し上げます」


 フラッシュが光る。


「第一に、現時点で、国民の生命・身体に直接の被害をもたらす攻撃事象は確認していません。物流、医療、電力、水道、通信の基幹部分は維持されており、生活に必要な機能は継続しています」


 ここまでは必要だ。

 国は、生活を守るとまず言わなければいけない。


「第二に、しかしながら、我が国の防衛・監視・指揮に関わる一部システムに対し、重大な外部介入があったことも事実です。現段階で法的評価を確定することは困難ですが、軽微な出来事ではありません」


 記者たちの顔が少し上がった。

 官邸の言葉としては珍しく、曖昧に逃げていない。


「第三に、政府は米国その他の関係国と連携しつつ対応します。ただし、本件をいずれか一国の主催事業として扱うことは適切でないと考えています。人類全体に関わる事柄である以上、開かれた形での対応を求めてまいります」


 ざわめきが走る。

 そこは予定稿より少し強かった。官房長官は横で表情を変えなかったが、あとで何か言われるだろうな、と真帆は端で思った。


 質疑に入る。


「総理、これは侵略ではないという認識ですか」


「現時点では、一般に想定される武力攻撃や占領行為とは異なります」


「では、日本の主権は侵害されていないと」


「そうは申しません」


 城崎は即答した。


「武力攻撃の定義に当たるかどうかと、国家の判断能力が外から一時的に止められたことの重さは、別の問題です。そこを混同しないでください」


 会見室が少しだけ静かになる。

 良い答えかどうかは分からない。ただ、あとで切り取られても意味が残る言い方ではあった。


「米国が接触の中心になることに、日本は不満があるのですか」


「不満という言い方は正確ではありません」


「では」


「指定された場所が大統領府である以上、米国の役割は大きい。ただし、それをもって米国が自動的に“人類代表”になることはない。そこは区別して考えています」


 別の記者が手を挙げる。


「日本として何を相手に示すつもりですか。アニメですか、平和憲法ですか、被爆の経験ですか」


 その問いに、会見室の後方で何人かが少しだけ身を乗り出した。たぶん見出しが取りやすいからだ。


 城崎は数秒だけ黙った。


「まだ決めていません」

 彼女は言った。

「そして、急いで一つに決めるつもりもありません。国を代表するものを、政府が一日で一本に決めてしまうのは、あまり感じのよいことではない」


 小さな笑いが起き、すぐに消えた。


「ただ」

 城崎は続ける。

「綺麗なものだけを差し出すつもりもない。苦しみだけを見せるつもりもない。私たちが何を大事にし、何に失敗し、何をまだ手放せないのか。その全体に近づけるようにしたいと考えています」


 会見が終わると、海外メディアの速報が一斉に出た。

 東京は、侵略ではないが無傷でもないと言った。

 その文言は、ワシントンやブリュッセルやソウルやキャンベラで、それぞれ別の読み方をされた。

 日本が米国に釘を刺した、と読む者もいれば、日本が法的評価を保留した、と読む者もいた。

 城崎自身は、そのどちらにも乗る気はなかった。ただ、今日これ以上、国の言葉を軽くしたくなかっただけだ。


     *


 正午前、大統領府との映像会議が始まった。

 こちらは官邸の会議室。向こうは西棟の小会議室。画面の中の顔はどれも疲れているが、疲れ方の種類が違う。向こうはまだ主催側の顔を保とうとしている。こちらは保ちたくないものまで保たされている感じがある。


「総理」

 米側の首席補佐官が言う。

「本件の性質上、訪問先となる大統領府に一定の運営責任が生じます。そのため、三月十日の接触については、米国が中心となって場を整える必要があります」


「理解しています」

 城崎は答えた。

「ただ、場を整えることと、意味づけを独占することは別です」


 向こうが少しだけ黙る。


「独占する意図はありません」


「なら結構です」


 官僚的にはかなりきつい返しだが、今日は回りくどくしても仕方がない。


「日本としての提案は三つです」

 城崎は続けた。

「第一に、接触の映像と言語情報は、可能な限り各国に同時共有すること。第二に、準備会合の参加者は、国家順や肩書順で序列化しないこと。第三に、科学データについては早期に国際共同解析へ移すこと」


 米側の国家安全保障担当補佐官が口を挟む。


「三番目は、機微情報の扱いがあります」


「あります」

 城崎はうなずいた。

「だからこそ、出す部分と出さない部分を早く決める必要がある。各国が自国だけで抱えると、政治が先に解釈を始めます」


 向こうの画面で、誰かがメモを回した。


「二点目ですが」

 首席補佐官が言う。

「参加者に一定の整理は必要です。混乱を避けるためにも」


「混乱は避けられません」


 城崎は言った。

「避けられないものを、形式だけで避けた顔にする方がまずい。肩書が高い順に並べるのは、こちらが安心したいだけでしょう」


 通訳越しでも、その言い方の硬さは残った。


 画面の向こうで一瞬だけ空気が止まる。

 だが意外にも、リード自身がそこに割って入った。


「その意見は分かる」


 部屋の全員が少しだけ画面を見る。


「昨日の会議でも似た話が出た。順番をつけると全部こちらの都合になる」


 彼はそう言って、机の上の紙を指先で叩いた。

 眠れていない顔だったが、声は妙に通った。


「だが混乱はする。混乱したら、誰が仕切る」


「仕切るのではなく、残すべきです」

 城崎は答えた。

「人類が自分たちをどう選び損ねるかも含めて」


 通訳がそのまま英語に乗せた瞬間、真帆は少し背筋が冷えた。言いすぎではないかと思ったからだ。

 だが画面の向こうのリードは、意外にも笑った。


「それはずいぶん正直だ」


「正直でないと、あとでもっと面倒になります」


「そうかもしれない」


 結論は出なかった。

 だが、米側は日本の三提案を“検討事項”として残した。外交の現場でその言い方は、半分負け、半分前進くらいの意味を持つ。


 会議終了後、外務省の局長が息を吐く。


「総理、かなり踏み込みました」


「分かっています」


「同盟管理上は」


「同盟管理だけしている場合じゃないでしょう」


 その返答に、誰も続けなかった。


     *


 午後一時半。

 東京の街は、見た目だけなら普通の火曜日だった。

 満員電車。コンビニの新商品ポスター。大学の休講掲示。工事現場の誘導員。病院の待合番号。保育園のお昼寝。そういうものが全部動いている。


 だからこそ、不気味だった。

 大きな危機ほど、街はすぐには大きく変わらない。あとから振り返って、あの日もラーメン屋は開いていたな、とか、郵便が届いていたな、とか、そういう記憶で人は混乱する。


 NHKでは解説委員が、朝の会見を何度も切り分けていた。

 民放では、コメンテーターが“日本のソフトパワーが試される局面”と言っていた。別の局では、“アニメと禅は通用するのか”という見出しが出ていた。

 真帆は執務室のテレビを消したくなった。消しても別の画面がつくだけなので、やめた。


 彼女の元には、さっきの会見を受けて、民間からの提案も流れ込み始めていた。


 被爆体験の語り部を出すべきだ。

 いや、被害者の物語だけで国家を語るな。

 アニメ監督を呼べ。

 いや、そんな場合か。

 コンビニ店員を出せ。

 介護職だろう。

 相撲だ。

 弁当だ。

 地方の祭りだ。

 学校給食だ。

 離島医療だ。

 漫画家より配達員だ。


 全部もっともらしい。全部うるさい。

 真帆はその中から、妙に引っかかった短いメールを一つだけフラグした。差出人は、石川県の自治体職員だった。


 “見せるものではありませんが、能登の避難所記録ならあります。役に立たないかもしれませんが、必要なら送れます。”


 うまく書いていない文だった。

 だから残った。


     *


 午後三時、官邸では候補者整理の第二会議が始まった。

 今度は、学者、宗教者、文化人、現場職の候補が一つの表に押し込まれている。年齢も肩書もばらばらだ。並びが悪い。だから少しだけ安心できる。


 外務省の担当者が言う。


「米側は、“対話可能性”の観点から、一定の言語運用能力を重視したいとのことです」


「当然です」

 城崎は答える。

「でも、それだけで絞ると、英語が上手な人だけの会になります」


「通訳を前提にすると、会話の速度が」


「遅くていいでしょう」


 珍しく即答だった。


「むしろ遅い方がいい。今週は、早い人がだいたい先に間違えている」


 少しだけ、部屋の空気がほぐれる。


 候補が読み上げられる。

 東大の比較宗教学者。被災地の図書館司書。終末期ケアの看護師。翻訳家。能楽師。中学校教員。在日外国人支援のNPOスタッフ。小規模工場の経営者。宇宙物理学者。牧師。僧侶。保育士。ろう通訳者。


 並べると変だ。

 変でいい、と城崎は思った。


「一点」

 官房長官が言う。

「被爆者の証言についてはどう整理しますか。国際的にも象徴性が高い」


「入れます」

 城崎は答えた。

「ただし、“平和を語る役”として固定しない。あの経験を、国家の便利な象徴に戻すのは違う」


「分かりました」


「それと、介護職を外さないでください」


 誰かが少し驚いた顔をする。


「理由を伺っても」


「理由は簡単です」

 城崎は言った。

「どんなに技術が進んでも、人間が最後に他人へ何をするかは、ああいう場所に一番出るからです」


 会議の記録係が、少しだけ書く手を止めてから、また動かした。

 総理の発言としては拾いにくい。だが拾わないわけにもいかない。


 真帆はその横で、候補者名簿の余白に小さく打ち込んだ。


 “選ぶ”より、“何を選べなかったか”を残す。


 それはもう、候補者リストというより、敗北の記録に近かった。

 だが今のところ、それがいちばんましに思えた。


     *


 夕方、防衛省から追加報告が入った。

 停止していた一部の早期警戒機能が戻った。戻ったが、誰も拍手しない。明日また止まるかもしれないからだ。

 機械が回復することと、主権が回復することは違う。その区別が、今日はよく見えた。


 城崎は執務机で短いメモを読み、ペンで二箇所だけ線を引いた。


 “システムの機能回復は確認できるが、主権的統制の完全回復を意味しない。”


 官邸の文としては固い。だが、その固さが必要だった。


 窓の外はもう暗くなり始めている。東京タワーの赤が遠くでにじんでいた。夜になると、都市はだいたい綺麗に見える。綺麗に見える時ほど、中身は散らかっている。


 そこへ、文科省経由で一通の緊急連絡が来た。

 国立天文台、JAXA、理研、東大宇宙線研を含む国内観測チームが、海外主要機関との共同会議を至急開きたい。観測データの解釈が、各国単独では限界に来ている。


 城崎は、文面の後半を二度読んだ。


 “従来理論の枠内での整理が困難。現象記述の共有を優先しない限り、政治判断が科学記述を先行して固定化する懸念がある。”


 いい文章ではない。だが意味は分かる。

 政治が先に名前を付けるな、ということだ。


「官房長官」


「はい」


「科学側の国際会議、明日中に開いてください。会場は筑波でもどこでもいい。オンライン併用。可能な限り開く」


「データ公開範囲は」


「防衛上どうしても外せないものだけ外す。あとは出す」


「かなり大胆です」


「ここで抱え込んで、何が増えますか」


 官房長官は少し黙り、うなずいた。


「分かりました」


「名前を付けるのは、観測の後です」


 自分で言ってから、城崎はその文が少し気に入らなかった。うまくまとまりすぎている。だが撤回するほどでもない。


 真帆は、すぐに各所へ連絡を回し始めた。筑波、三鷹、相模原、ハワイ、チリ、欧州。今度の会議は候補者整理より分かりやすい。分からないことを分からないまま出す会議だ。その方がまだ誠実だった。


     *


 夜九時前。

 官邸の一角に、簡易のアーカイブ班が作られた。大げさな名前ではない。記録整理チーム。やることは単純だ。今週の国内の動きを、政府の都合だけでなく、生活の側からも拾って残す。


 真帆はその担当にも半分足を突っ込まされていた。

 送られてくる映像や写真は雑多だった。避難訓練を通常通り行った小学校。透析患者の移送計画を確認する病院。外国人技能実習生向けに多言語掲示を作る町工場。昼の給食。夜勤の介護士が利用者の体位を変える場面。能登の避難所で更新され続ける名簿。商店街の防犯カメラ。寺の掲示板。スーパーの米売り場。保育園の連絡帳。


 国の紹介資料としては、どれも弱い。

 弱いが、目を離しにくかった。


 介護施設から送られてきた短い動画で、ベッドの上の老人がテレビを見ていた。画面には昼の総理会見の再放送。老人は細い声で言う。


『きれいな子だねえ』


 隣の介護士が、作業の手を止めずに答える。


『そうですね』


 それだけで動画は終わる。

 解説もない。意見もない。落ちもない。

 真帆は、なぜかその動画を消せなかった。


 国とは何か、文明とは何か、そういう大きい問いに比べると、あまりにも小さい。小さいのに、今日一日見たどの有識者コメントより残った。


     *


 午後十時半。

 最後の打ち合わせが終わり、人が少なくなった会議室で、城崎は今日集まった候補一覧と、記録チームの一次報告を並べていた。

 国宝もある。被爆証言もある。介護現場もある。学校給食もある。能登の記録もある。全部並べると散漫だ。だが、散漫であること自体が、たぶん文明の本当の顔だった。


 官房長官が入ってくる。


「米側から返答です」


「どうぞ」


「映像同時共有については前向き。参加者の序列化回避については“運営上の必要に応じて整理する”。科学データ共同解析については、明日の専門家会合で詰める、と」


「予想通りですね」


「ええ」


 彼は少し間を置いてから、続けた。


「総理、今日の会見、海外ではかなり反応がありました。“侵略ではないが無傷でもない”という言い方が、そのまま引用されています」


「便利な文ではあります」


「便利に使われるでしょう」


「でしょうね」


 城崎は椅子にもたれた。

 体がようやく疲れを思い出してきた感じがある。朝からずっと、頭の方が先に走っていた。


「ただ」

 官房長官が言う。

「正直すぎる、という批判も来ています。国民を不安にさせると」


「不安にさせたでしょう」

 城崎は言った。

「でも、不安がないように見せる仕事ではないはずです」


「はい」


「いま日本に必要なのは、安心の演出じゃない。自分たちが何を失い、何をまだ持っているか、言葉にすることです」


 官房長官はそれ以上何も言わなかった。

 彼も、たぶん同じことを思っていた。ただ、政府の口から出すには重い文だった。


 窓の外では、深夜に近づいた東京がまだ動いている。終電を逃した人間、夜勤へ向かう人間、配送トラック、救急車。国家の大問題が起きている時でも、都市は別の理由で動き続ける。その無神経さが、今日は少しありがたい。


「守る、って」


 城崎がぽつりと言った。

 独り言のつもりだったが、官房長官は聞こえる位置にいた。


「迎撃だけじゃないんでしょうね」


 彼は返事を急がなかった。


「そうだと思います」


 城崎は机の上の候補一覧に手を置いた。

 看護師。司書。通訳。教師。被爆者。物理学者。介護職。能楽師。町工場の経営者。僧侶。

 あまりにもばらばらだ。だから、まだましだった。


「日本館はやめましょう」


「はい」


「展示じゃなくて、窓にする」


 官房長官は少しだけ考え、うなずいた。


「その方が伝わるかもしれません」


「伝わらないかもしれない」


「ええ」


「でも、そっちで行きます」


 方針が決まった、というほど綺麗な瞬間ではなかった。


 その日、各省から上がる紙には、別の戦争の名残もべったり付いていた。湾岸では合衆国軍の作戦が続き、欧州では防空資材と弾薬の在庫表がまだ東欧向けで埋まっている。空域、輸送、衛星、保険、備蓄。来訪まであと七日という数字は、哲学ではなく実務の欄にも食い込んでいた。

 誰かが「なぜ十日も猶予を与える」と言い、別の誰かが「十日しか、だろう」と返した。上から見れば同じかもしれないが、下で準備する側には違う。七日後と書かれた紙は、会議室の空気をすぐに硬くする。未来の話ではなく、今週の話になるからだ。

 ただ、これ以上うまい言い方がなかった。


     *


 夜十一時四十分。

 筑波へ向かう公用車の中で、真帆はノートパソコンを膝に置いていた。明朝の国際科学会議の接続確認。資料の整理。参加者一覧の仮配置。ハワイ、チリ、欧州、アメリカ、国内各機関。世界中の研究者が、明日、同じ画面を見ることになる。


 車窓の外は暗い。高速道路の照明が等間隔で流れていく。

 スマホには、母親から短いメッセージが入っていた。


 “ニュース見た。あんたの仕事、関係あるの?”


 真帆は少し考えてから返した。


 “ある。たぶん。でも何をしてるかは、まだうまく言えない。”


 すぐに返事が来る。


 “ちゃんと食べなさい。”


 それだけで、少し笑った。

 さっきまで机の上で転がしていた大きい言葉が、急に全部うるさく感じた。


 助手席の秘書官が振り返る。


「何か」


「いえ」


 真帆は首を振った。

 笑いの理由を説明するほどのものではない。


 ノートパソコンの画面には、明日の議題案が出ている。


 一、観測事実の共有。

 二、既存理論との不整合の整理。

 三、命名の保留。

 四、政治部門への中間報告の線引き。


 命名の保留。

 その一行が妙によかった。

 分からないものに、まだ分からないと言っていい場所が残っている。

 それだけで、少し救われる。


 車列は夜の常磐道を北へ走る。

 東京ではまだ明かりが点いている。ワシントンでは昼が続いている。聖都では祈りの時間が終わりかけている。市ヶ谷では誰かがまたpermission deferred.の表示を見ている。


 高速道路の向こうに、筑波の研究施設の明かりが小さく見えた。

 今夜のうちに、世界中の研究者が同じ数式の前で黙ることになる。

 名前はまだ付かない。

 付けられないまま、会議だけは始まる。


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