1話 転生先はレベル3文明でした
以降の各話は少女側の視点です。
最初に思い出すのは、死んだ瞬間ではない。
冷蔵庫の中に、豆腐が一丁残っていたことだ。
どうせ今日も帰りは遅いし、賞味期限はまだ二日あるから、明日に回そう。そう思った。たしかにそう思った。そのあとで、駅前の横断歩道を渡って、白いライトが近くて、変に明るいなと思って、たぶん終わった。
死ぬ時って、もっと人生を思い出すものだと思っていた。親のこととか、初恋とか、取り返しのつかなかった失敗とか、そういう立派なやつだ。実際には、豆腐だった。あと、洗濯物。部屋干しのまま出てきてしまったシャツ。電気消したっけ、みたいなこと。玄関に置きっぱなしの段ボール。再配達の依頼をしないまま三日経った不在票。コンビニでもらった割り箸の袋をあふれるほどためこんでしまった引き出し。スマホに来ていた、既読をつけないままのLINEが七件。人間は最後まで人間らしいのか、それとも私がそういう規模の小さい人間だっただけなのかは分からない。
たぶん、両方だ。
そういう、どうでもいい引き継ぎ事項が、死ぬ瞬間の頭の中を占める。大事な人の顔も浮かばないまま、スーパーのレシートみたいなものだけが、きれいに残る。
二十五歳、独身、都内勤務、残業月六十時間、家賃更新料ためておくのを忘れていた。それが私の履歴書の、最後の一行だった。
気づいた時、私は透明な水の中みたいな場所にいた。
水ではない。沈んでもいない。肺は苦しくないし、上下の感覚がない。体があるのかどうかも、すぐには分からなかった。遠くで何かが光っている。星に見えたけれど、近づいてくると文字だった。文字に見えたけれど、意味を読もうとすると色になった。色だと思うと、今度は声になった。
ようこそ、という感じのもの。
感じのもの、としか言えない。言葉ではなかった。にもかかわらず、歓迎されているのだけは分かった。歓迎というより、確認済み。回収済み。保護済み。そういう処理の終了通知みたいな、乾いた優しさがあった。
会社で、退職手続きが終わったあとに人事から届くメールに似ていた。「お疲れさまでした」。中身は事務的で、でも誰かの善意の痕跡だけがかすかに残っている、あの感じ。
そのとき私は、自分が死んだことを理解した。
死後の世界か、とまず思ったのは、信心深かったからではない。逆だ。そういうものを信じていない人間ほど、目の前に説明のつかない環境が出ると、とりあえず死後を疑う。現実の外側に出た、という結論がいちばん手っ取り早いからだ。
それから、誰かが私の名前を呼んだ。
地球で使っていた名前だった。
フルネームで呼ばれた。姓と名のあいだに、役所の担当者が入れる、あの丁寧な空白があった。
私は泣いた。
なぜ泣いたのかは、あとから考えてもよく分からない。死んだからかもしれない。名前がそのままだったからかもしれない。あるいは、死んだくせに手続きが続いている感じが、あまりにも役所っぽくて安心したのかもしれない。
私が泣くほど安心するのは、だいたいその種類の優しさに対してだった。抱きしめられるよりも、番号札をきちんと呼ばれたときの方が、泣きそうになる人間。私はそういう人間だった。
光の膜みたいなものが開いて、その向こうに人型が立っていた。
人型、といっても、当時の私はそれを人だと思ったからそう表現しているだけで、厳密には違う。輪郭があり、顔らしき面があり、腕のように見えるものが二本ある。けれど肌は金属にも水にも見えるし、目の位置にある二つの暗い点は、こちらを見ているようで、内部の何か別の計測をしているようでもあった。
その存在は、私に向かってゆっくりと片手を上げた。
挨拶だった。
私は反射で頭を下げた。
それを見て、相手が少しだけ困った気配を出した。
それが、今の文明でいうところの、最初の友好的接触だった。
*
あとで知ったことだが、私は「転生」したわけではなかった。
少なくとも、この文明の語彙ではそう言わない。
彼らは、死の瞬間に散逸した情報のうち、一定条件を満たすパターンを回収し、再構成し、連続性を保ったまま別の基盤へ載せ替える。魂という曖昧な言葉も、脳コピーという残酷な言い方も、どちらも嫌っていた。彼らにとってそれは、宗教ではなく公衆衛生と市民権のあいだにある行政手続きだった。
行政手続き。
そう聞いて、私は少しだけ気が楽になった。
不老不死の超文明に来ても、結局それが役所なら、人間がやることはたぶんそんなに変わらない。番号札を取って、説明を受けて、確認にサインして、制度の中へ入る。
制度があるところは、まだ世界として信用できる。
もちろん、手続きの内容はまるで違った。
まず私は、別の身体を与えられた。
最初は自分の体があったかどうかも分からないような、曖昧な仮設の器だった。輪郭だけの人型。触ると、自分の手がそこにあるのは分かるのに、皮膚の抵抗が薄い。鏡を見ると、顔がある。あるのに細部が定まらない。寝不足のときにコンビニのガラスへ映った自分みたいに、解像度だけが低い。
案内役は、私にそれを「移行用の身体」と説明した。
移行用。
その言葉が出た瞬間、私は理解した。ここでは身体も、免許証とか仮住まいみたいなものなのだ。正式なものが決まるまでの便宜的な器。つまり私は、死んでなお書類待ちの状態にいた。
嫌いじゃないな、と思った。
嫌いじゃないと思ってしまった時点で、たぶん私はこの世界に適応する素質があった。
移行センターは広かった。広いという言い方が正しいのか分からないが、少なくとも私の感覚ではそうだった。壁も天井もはっきりしない。空間の奥行きが、見た目より多い。向こうの部屋まで百メートルあるように見えて、歩くと二十歩で着く。逆に、すぐそこにあるように見えた窓までが、やたら遠いこともある。距離そのものが、地球の人間用には作られていない感じがした。
案内役が、待合区画、と呼ばれる場所に私を連れて行った。
地球の病院の待合とも、役所の待合とも、ほんの少しずつ違う。椅子が並んでいるのではなく、座るための凹みが床そのものに生えている。座ると、凹みが私の体に合わせてやんわり形を変える。背もたれの高さも、膝の角度も、全部こちらに合わせて調整される。
三人掛けの病院ベンチに見知らぬ老人の肘があたるストレスが、この文明には、ない。
それだけで、私はまた泣きそうになった。
待合区画には、私のほかに、いくつかの存在がいた。
ひとりは、ぼんやり光る円柱だった。案内役の説明によれば、それが彼ないし彼女の「移行用の身体」らしい。別の一体は、四本脚で、首が長く、目がたぶん七つあった。さらに別の一体は、限りなく人間に近い形をしていたが、関節の曲がる方向が、あきらかに、私の常識とは違っていた。
みんな、順番待ちをしていた。
みんな、どこか疲れていた。
死んで、回収されて、説明を受けて、自分の所属を選ばされる。その過程に必要なエネルギーの総量は、種族が違っても、たぶんそんなに変わらない。疲労の質感は、銀河をまたいでも似通う。
私の隣に座っていた存在は、七つ目の、首の長い個体だった。
視線を感じた。
正確にはどこから感じたのかは分からない。七つ目のうち、どれが私を見ていたのかも判別できない。でも、その個体は、なんとなく私に話しかけた、というよりも「空気を出した」。意味に補正がかかって、耳の奥に柔らかい声として翻訳された。
「初めて?」
私は頷いた。
「私も、今回で、二回目」
二回目、という概念が、まず飲み込めなかった。死んで回収されるのに回数があるらしい。そんなことを考えている顔を察したのか、その存在は、ほんのわずかに、笑うような波を出した。
「前の文明が、終わった。だから、こっちへ、二度目の引っ越し」
「……引っ越し」
「そう。前よりは、ましな部屋に、当たるといい」
前よりましな部屋に当たるといい。
私の人生で一番よく聞いた祈りを、他銀河の首長い生き物から、言い直された気がした。
待合区画に静かなチャイムが鳴って、その個体が、ゆっくりと首を持ち上げて立ち上がった。
立ち去り際、七つの目のうち、一つだけがこちらを振り返った。
「あなたは、まだ、地球を、終えてない」
私は、返事ができなかった。
終えていない、という言葉が、何の比喩なのか、そのときの私には分からなかった。
ただ、そう言われて、心のどこかが少しだけ冷えた。
冷えたのを、見られたくなくて、私は姿勢を正した。
どこの銀河でも、こういうとき、姿勢を正す癖が残っているらしい。
*
待合区画を抜けて、私は説明室へ通された。
そこで私は、説明を受けた。
地球人だった頃の常識で言えば、どれもおかしい。
事故死したこと。回収が行われたこと。連続性が保たれたと判断されたこと。居住資格が仮発行されること。教育期間があること。身体の選択権があること。時間の感じ方が今後大きく変わること。寿命の概念が地球と一致しないこと。生殖が義務でも中心でもないこと。所属共同体を後から選べること。仕事が生存のためではなく関心のためであること。
説明が進むほど、私はだんだん笑えてきた。
あまりにも、何もかもが自分の人生と関係なさすぎた。
関係なさすぎて、逆に関係があった。会社員だった頃の私は、制度が人生の形を決めるのを身にしみて知っていた。配属が人生を決める。給与テーブルが恋愛を決める。通勤時間が睡眠を決める。住む駅が友達の数を決める。結婚のタイミングが親の機嫌を決める。年末調整の書類の出し忘れが、十二月の気分を決める。人間は自由だと言われても、実際には書式と締切の中でしか生きられない。
それがここでは、桁が違うだけだった。
桁が違う。けれど、構造は分かる。
私はそのことに、妙な安心を覚えた。
たぶん私は、世界が優しいことより、世界が手続きで動いていることの方に安心する人間だったのだと思う。
説明の最後に、担当官は私に、一枚の薄い板のようなものを差し出した。
質問票だった。
「あなたは、どのように呼ばれたいか」
「あなたは、いまの形が快適か」
「あなたは、前世のどこを、覚えていたいか」
前世のどこを、覚えていたいか。
私は、長く息を止めた。
覚えていたいか、ではなく、覚えていなくてもいいか、でもなく、どこを、と聞いていた。
覚えていたい場所。
真っ先に浮かんだのは、冷蔵庫だった。
あの豆腐の入っていた冷蔵庫。誰が開けるでもなく、たぶんとっくに誰かが片付けた、あの一丁の豆腐。
そういう場所を覚えていたい、と書いたら、担当官はきっと首を捻るだろうと思った。
でも、私は正直に、そう書いた。
書きながら、少しだけ、泣いた。
豆腐のことで泣く新規市民を、この文明が過去に何人処理したか、私は知らない。
*
最初の百年は、教育に近かった。
百年、と今の私は書くけれど、地球の百年と同じではない。この文明には休眠、並列学習、記憶の枝分かれ、体感時間の編集がある。だから「百年生きた」と言っても、地球人が想像するような、同じ一人が一日二十四時間を百年ぶん積み上げた感じではない。
それでも百年は百年だ。
長い。
長かったし、そのあいだ私はずっと、根っこでは場違いだった。
向こうの子どもたちは、私よりよほど器用だった。そもそも「子どもたち」という言い方が危うい。外見が若い個体もいれば、老年に見える個体もいたが、地位と外見と学習段階が全然一致しない。ひどいときには、どう見ても七十代の老人みたいな見た目の相手が、教育コースの初等段階にいて、逆に小学生くらいの外見の相手が行政監査を片手間でやっていた。
最初は混乱した。
次に、どうでもよくなった。
人間は順応する生き物だ。順応というか、諦める。説明のつかない秩序の中に長くいると、「そういうもの」として処理できるようになる。通勤電車もそうだ。毎朝あんなに人間が詰め込まれているのは明らかにおかしいのに、半年で慣れる。文明はたぶん、だいたいそういう諦めの積層で出来ている。
私が覚えたのは、まず言語だった。
もちろん向こうには、翻訳技術がある。あるどころか、意味伝達そのものを補正する環境が整っている。だから、正確に言えば私が学ばなくても日常生活は送れた。
でも私は学んだ。
元地球人の癖だと思う。よそへ行ったら、まず言葉を覚えないと怒られる。怒られなくても、迷惑をかける。そう思っていた。会社でも、部署が変わればまず用語を覚える。言語が分からないと、人間は「悪意はないが使えない奴」になる。私はそれが怖かった。
怖かった、という感覚が残っているのが、大事だった。
この文明では、生存のために怯える必要はほとんどない。飢えない。病気は大抵どうにかなる。住む場所で命の格差が決定的になることも少ない。少なくとも、地球にいた頃の私に比べればそうだった。
でも私は怯える癖を持って来てしまった。
場に合っているか。変なことを言っていないか。相手を不快にしていないか。知らない暗黙のルールを踏んでいないか。そういう小さな恐怖が、文明をまたいでも消えなかった。
飲み会で上司のコップが空になるのを、会話の途中でも見ている癖。
エレベーターのボタンを押したあと、自分が降りる階の次の人を優先する癖。
改札で後ろの人にICの残高不足を見られたくない癖。
LINEの既読がつくタイミングを、相手の生活時間に合わせて調整する癖。
この文明には、そのどれもが存在しない。
存在しないのに、私の中には残っていた。
だから、私は長生きしたわりに、すごく立派な存在にはならなかった。
知識は増えた。身体の扱いにも慣れた。地球人だった頃なら神にしか見えない技術も、日用品として使うようになった。けれど人格の中心にあるのは、たぶんずっと同じだった。
怒られたくない。迷惑をかけたくない。変な人だと思われたくない。
そのくせ、趣味では変なことをしたい。
最悪の組み合わせである。
*
百年のあいだに、身体は何度か変えた。
最初は、地球人に近い形にしてもらっていた。愛着があったというより、単に他の形を選ぶ勇気がなかった。新しい身体を選ぶのは、着たことのない服をネットで買うのに似ている。返品できるとは分かっていても、ためらう。
二十年ほどで、そのためらいに飽きた。
私はある時期、円柱の形で半年過ごしたし、触手の多い形で一年暮らした。別の時期には、明らかにヒトではない造形の頭部で、街を歩いた。どの形にも利点があり、不便があった。不便があることが、逆に生きている実感になった。
完璧すぎる身体は、たぶん、退屈だ。
百年目に近づくころ、私はまた元地球人に近い形に戻っていた。
戻した理由は、よくわからない。
あえて言うなら、その形の方が、独り言を言ったときに、しっくり来たからだ。
「疲れたな」
「腹減ったな」
「寒いな」
これらの言葉は、地球の身体で言うと、ちゃんと意味があった。別の身体では、同じ言葉でも響かなかった。
人間は、自分の弱さに合わせて言葉を作った生き物なのだと、その頃に気づいた。
*
この文明では、趣味の規模が大きい。
地球人が趣味で盆栽や模型や鉱石集めをするように、彼らは小惑星帯の色相分布に凝り、恒星風の詩的分類に没頭し、絶滅済み形態の復元ファッションを楽しみ、存在しなかった歴史線の料理を再現する。
私は最初、それを見て頭がおかしいと思った。
次に、自分も普通に混ざった。
人間は余裕ができると、意味のないことを真面目に始める。たぶんそれが文明の健全さだ。意味のあることしか許されない社会は、だいたいろくでもない。
私がはまったのは、外縁観測だった。
外縁、といってもアンドロメダ銀河の外縁。さらに言えば、外縁から外を眺める趣味。地球でいうベランダ園芸とか双眼鏡の延長みたいなものだが、見ているスケールが違うだけだ。
私はそれを、誰にも誇れないくらい地味な趣味だと思っていた。
銀河共同体にはもっと派手な娯楽がいくらでもある。意識同期の演奏。実在しない海で泳ぐ休日。恒星規模のシミュレーション劇場。重力の味を楽しむ料理会。どう考えても、他銀河の古い腕を眺める趣味は地味だった。
でも好きだった。
遠いものが好きなのだと思う。手の届かないものではなく、遠いだけのもの。理屈があれば届くかもしれない距離。見ているだけで少し落ち着くもの。地球にいた頃から、私はそういうものが好きだった。夜行バスの窓から見える工業地帯の灯りとか、終電で通る川とか、旅行サイトの地図とか。行きたい、ではなく、ただ眺めていたい場所。
たぶん私は、行けない場所に安心していた。
行けると、責任が発生するからだ。
外縁観測の趣味も、その延長だった。
外縁観測のコミュニティは、思いのほか、存在していた。規模は小さい。銀河共同体の全市民のうち、たぶん〇・〇一パーセントにも満たない程度の、ひそやかな集まり。ログを共有し、フィルタの組み合わせを自慢し合い、誰かが珍しい散開星団を見つけると、控えめに祝う。
私はそこで、顔だけは知っている何人かを得た。
顔だけは、というのは正しくない。この文明の交流は、顔に依存しない。名札のような、識別子のような、それでいて雰囲気を帯びた何か。それを通じて、私は何人かの趣味仲間と、ゆるやかに繋がっていた。
あるとき、私はログ共有の集いで、ひとりにこう言われた。
「地味ですね、あなたの観測記録」
私は、笑ってしまった。
「知っています」
「いえ、褒めているんです」
その個体――私のイメージでは、丸い、小さな、羽のようなもの――は、少し間を置いてから、こう続けた。
「派手な景色ばかり見ていると、見ることを、忘れる」
私は、その言葉を、しばらく忘れなかった。
地球にいた頃、私はいろんな景色を消費してきた気がする。写真を撮って、SNSに上げて、反応を見て、忘れる。見た、と記録することは覚えていても、見たこと自体は、あまり覚えていない。
外縁観測の趣味は、反応を見るための趣味ではなかった。
誰にも褒められなくていい。いいね、がつかなくていい。
それが、こんなに気楽なことだと、私は百年かけて、ようやく思い出しつつあった。
*
ある日、私はその観測窓で、天の川銀河を見ていた。
正確には、天の川銀河の一部を、いくつものフィルタと補助を通して見ていた。地球人が肉眼で空を見るのとは違う。けれど、最後に見える像には、ちゃんと「見る」感じが残してある。便利さだけを求める文明でも、感傷のための不便は、保存される。
だから私は、その青白い腕の中に、ひどく懐かしいものを見つけた。
最初は地球だと分からなかった。
分からなかったのに、気づいた瞬間にそれだと分かった。
長すぎる時間をここで過ごしすぎたせいだろうか。いつの間にか、地球については次第に意識的に考えないようになっていた。
いや、違う。
意識的に、考えないようにしていたのではなくて、考えないことの方が、こちらでの生活に馴染むのに楽だったのだ。
死んだ場所を、忘れる。そうしなければ、新しい場所では生きていけない。
それは、失恋にも、転職にも、引っ越しにも、たぶん共通する防御反応だった。文明をまたいでも、同じだった。
けれど、観測窓の青い像を見た瞬間、私の防御は、きれいに外れた。
実家へ帰る電車の車窓から、まだ最寄り駅でもないのに見覚えのある看板を見つけた時に近い。理屈ではなく、生活の記憶が先に反応する。
確かにあれは私のふるさとだ。
私は観測窓の前で、しばらく動けなかった。
青い星。
そんなまとめ方は、雑すぎる。地球は青い星だという。教科書みたいな言い方だ。けれどそのときの私にとっては、本当にそれしか言えなかった。青くて、遠くて、二度と行かないはずだった場所。
死んで終わった場所。
私は、笑ってしまった。
まさか、と思ったからだ。まさか見つかると思っていなかった。いや、文明的には見つけられるに決まっている。勝手にここは異世界だと思っていた。いや、思い込もうとしていた。でも、感情の方が追いつかなかった。地球は私にとって、もっと完全に喪失されたものだった。お盆に帰省しないまま疎遠になった町とか、閉店した定食屋とか、もうなくなっていると思っていたゲームセンターとか、そういう種類の喪失。きっとそれは、優れているとか劣っているとか、そういうのではないやつ。
そこに、ある。
残っている。
もし、今が私の生きていた時代の続きなら――
人がいて、たぶんまだコンビニも電車も期末試験も確定申告もある。推し活疲れをしている人も、家賃更新の通知に溜息をついている人も、部屋干しのシャツの匂いを気にしている人も、冷蔵庫の豆腐の賞味期限をちょっと超えさせてしまう人も、たくさん、いる。
私は、その日いちにち、妙に落ち着かなかった。
観測記録を閉じても、何度も開き直した。拡大して、また戻した。意味のない確認をした。地球人だった頃の記憶は、完全ではない。抜けもある。曖昧なところもある。けれど、曖昧な分だけ、余計に懐かしかった。
里帰り、という言葉が最初に浮かんだ。
それくらい軽い言葉でなければ、私はその欲求を持てなかったと思う。
故郷の確認。ちょっと見に行く。向こうにとっては大事件でも、こっちにとっては半ば旅行。そう思ってしまった時点で、私はたぶん間違っていた。
でも、その間違い方は、いかにも私だった。
*
その夜、私は観測仲間の集いに、いつもより早く顔を出した。
集いといっても、物理的に集まるわけではない。識別子ごとの気配が、ゆるやかな共有空間に浮かび、音や光や、ちょっとした揺らぎで交流する。地球でいえば、常時接続のオンライン飲み会に近い。ただし、アルコールの代わりに、場の温度そのものが、少しだけ甘くなる。
誰かが言った。
「最近、あなた、静かですね」
識別子の雰囲気で、それが例の丸い羽のような個体だと分かった。
私は、少し迷ってから答えた。
「天の川銀河の中に、見覚えのある星があって」
「見覚え、とは」
「私のふるさとです」
空間に、ほんの少し、間が空いた。
この集いでは、私が元地球人であることを、全員が知っていた。珍しいといえば珍しいが、この共同体に元他銀河市民はそれなりにいる。私の場合は、そのうちで比較的「最近」に来た方だった。百年前、というのが最近に入る文明。
別の識別子が言った。
「見つかって、よかった」
別のひとつが、控えめに続けた。
「行くんですか」
私は、答えに詰まった。
集いのゆるやかな温度が、ほんの少し、こちらを気遣う方向に傾いた。
「……考えてる、だけです」
「それは、よいと思う」
「ただ、気をつけて」
「気をつけて、って、何にですか」
「あなたが、思っているよりも、あなたは、向こうにとって、大きい」
私は、笑おうとして、笑えなかった。
大きい。
地球にいた頃の私は、自分が小さいことに慣れきっていた。
歩いても、街は変わらない。働いても、世界は変わらない。怒っても、会社は変わらない。泣いても、終電は待ってくれない。
そういう小ささを抱いたまま、私はこちらへ来た。
大きい、と言われて、まず浮かんだのは拒否だった。
いや、そんなわけがない。私はただ、地味な観測趣味の人間で、ちょっと里帰りしたいだけで、たまたま、転生した文明の水準が向こうより少し高かっただけで。
少し、高かっただけで。
「少し」ではない。
集いの中で、誰かが、そう言葉にしなかった言葉の気配を、私ははっきり感じた。
「気をつけて」
もう一度、別の識別子がそう言った。
その日、私は早めに集いを抜けて、自分の住区へ戻った。
戻ってから、なかなか眠れなかった。
眠る必要の少ない身体ではあったけれど、それでも私は、地球人だった頃の習慣で、寝る時間をわざわざ確保していた。布団のようなものに包まれて、部屋の照明を落として、横になる時間。それが、私をいちばん私でいさせてくれる姿勢だった。
その夜、目を閉じると、部屋干しのシャツの匂いが、勝手に蘇ってきた。
ぜんぶ乾く前に出勤して、帰ったら湿った匂いが部屋に満ちていたあのシャツ。週末に洗い直そうと思っていたのに、結局洗わないまま出勤した月曜日の、あの不快感。
不快だったのに、なぜか、その匂いが、今は優しかった。
生きていたんだ、私は、あのとき。
それを思い出すのに、銀河をひとつ越えなければならなかった。
*
もちろん、地球へ行くには申請が必要だった。
何でもそうだ。文明がどれだけ上に行っても、境界をまたぐには申請が要る。届出のない自由は、だいたい誰かの迷惑になる。
私は申請の書式を開いて、しばらく固まった。
項目が、多かった。
想定利用目的。
観察対象との関係性。
文明間接触リスク。
形態選択理由。
記録公開範囲。
接触後の文化的影響評価。
非対称性に関する自己認識。
経済系への波及想定。
宗教系への波及想定。
情報体系への波及想定。
被接触文明における、既存制度の破壊可能性。
接触後の撤退手順。
関係回復を断念する場合の、最低限の残留情報。
自己の精神的耐久度。
途中から、完全に面接だった。
地球の役所でマイナンバー関連の手続きをしていたときより、何倍も精神が削られた。
私は椅子にもたれて天井を見た。天井はなかった。ないのに、見上げると上があるように設計されている。そういう気遣いが腹立たしいくらい丁寧な世界だった。
「里帰りしたい」は、申請理由として弱いかな。
弱いに決まっている。
他銀河の知的生命体との接触だ。書類の重さとしては、たぶん外交、研究、保護観察、倫理審査、その全部にまたがる。そこへ「ちょっと懐かしくなったので」は、どう考えても軽い。
でも、本当の理由が、それだった。
ここで立派なことを書こうとすると、私は嘘をつく。
文化交流の意義とか、辺境文明の観察価値とか、前世世界との再接続に伴う知見とか、いくらでもそれらしい言葉は出せる。出せるのが嫌だった。
私は昔から、書類を書く時だけ急に賢そうなことを言う癖がある。履歴書とか志望動機とか、そういうやつだ。あとで読むと大抵寒い。「御社の理念に共感し」と書いたあの夜、本当は夜行バスの空席を調べていたのを、私は覚えている。
だから私は、なるべく正直に書いた。
旧居住文明に個人的関心がある。
観察と確認を希望する。
文化的接触を試みたい。
動機の一部に、私的な懐旧が含まれる。
懐旧、という言い方がすでに少し取り繕っていた。里帰りしたい、でよかったかもしれない。よくなかったかもしれない。私はそうやっていつも、中途半端に誠実で、中途半端に格好をつける。
経済系への波及想定、の欄で、私は少し手を止めた。
地球の経済がどうなっているかを、私は、あまりにも知らなかった。
知っていたのは、百年以上前の、ぎりぎり生きていた時代の、ぎりぎり末端の記憶だった。
家賃。奨学金の返済。交通費。昼食代。残業手当の上限。ボーナスの税引き後。
それらの数字は、私にとってはとても生々しかったが、文明全体の経済を語るには、あまりに局所的だった。
結局、私はその欄に、こう書いた。
「予測困難。ただし、波及はゼロではない」
書いたあとで、私は自分の書いた一文に、少しだけ寒気を覚えた。
ゼロではない。
その言い方は、百年以上前の私が、新卒で配属された部署で、リスク評価の書類に書かされた言葉に似ていた。
ゼロではない、は、便利な言葉だった。書いた側は逃げられる。読んだ側は、備えることしかできない。
申請を送る前、最後の確認欄にこうあった。
**非対称性を理解していますか。**
私は、そこで少しだけ手が止まった。
理解しているつもりだった。向こうは地球で、こちらはアンドロメダの共同圏だ。技術差も時間差も認識差もある。向こうにとっては、私は人ではなく、災害に近いかもしれない。
つもりだった。
その“つもり”がどれほど薄いかを、私はまだ知らなかった。
送信ボタンは、妙に小さかった。
大事件ほど送信ボタンが普通なのは、文明共通なのかもしれない。
私はそのことに少しだけ慰められながら、押した。
その瞬間、私はただの趣味人から、別のものになりかけていた。
なりかけていたけれど、本人だけが、それを理解していなかった。
*
承認は、思ったより遅かった。
遅いといっても、地球時間の数週間だ。こちらでは、手続きとして普通の範囲。だが私には妙に長く感じられた。待っているあいだ、私は何度も申請書の控えを読み返した。誤字がないか確認し、余計な一文が寒くないか見直し、送ったあとで削れないことを思い出して頭を抱えた。
こういうところが、何百年経っても治らない。
私は高度文明の市民で、死後回収を経験し、複数の身体を使い、相対論を日用品として扱う社会にいて、それでも送信後の文面を読み返して悶える。人間の核みたいなものは、たぶん思ったほど進歩しない。
承認通知が来たのは、静かな朝だった。
朝といっても、太陽はなかった。私の住区の照明周期が、そう設定されていただけだ。窓の向こうには人工海があり、その向こうに浮いている都市の縁が、薄い青に変わっていた。
通知は簡潔だった。
**一次承認。面談を設定します。**
私はその場で深呼吸をした。体が今どのくらい酸素を必要とする仕様か知らないのに、深呼吸をした。前世の癖は便利だ。意味がなくても落ち着く動作を、身体が覚えている。
面談、という言葉で、急に逃げたくなった。
書類は相手の顔が見えないから何とかなった。面談は駄目だ。相手の反応が返ってくる。私は昔から、面接というものが苦手だった。就活も異動面談も人事評価も、全部嫌いだった。相手が「いや別に責めてないですよ」という顔で、こちらの人生の方向を決めてくる感じが、耐えられない。
だからそのときの私は、他銀河文明との接触より、面談の方を、怖がっていた。
どうかしている。
けれど、どうかしているのが、私だ。
*
面談の日、私は三回、服を変えた。
服、というのも正確ではない。この文明では衣服と身体拡張の境界が曖昧だ。にもかかわらず私は、元地球人らしく「ちゃんとした見た目」を作ろうとしていた。真面目すぎず、軽すぎず、威圧的でなく、でも幼く見えないやつ。地球の面接でも、一番困る条件だ。
鏡の前で自分の輪郭を見ながら、私は思った。
何百年生きても、結局こうなのか。
たぶん、こうなのだ。
寿命が長くても、文明が高くても、人は急に別人にはならない。強くなるというより、癖が長持ちするだけだ。私の小市民性は、死をまたいでも保存されてしまった。いや、保存どころか、長寿命社会で発酵したぶん、少し面倒くさい味になっていた。
面談室へ向かう途中、人工海の上を風が渡った。
匂いはない。匂いの設計を切っていたからだ。私は、そこへ自分で少しだけ塩の気配を足した。前世の記憶の中の海に近づけるために。
そんなことをするくらいには、私はまだ地球を引きずっていた。
引きずっていたし、そのことを、恥ずかしいとも少し思っていた。
*
面談官は、二体いた。
片方は、雰囲気としては地球で言う中年の女性に近かった。もう片方は、性別の手がかりが完全に欠けていて、私の身体感覚では、ただの「上官らしい上官」という印象しかなかった。どちらもおそらく、私が生まれるより前からこの文明で、倫理審査と接触管理の経験を積んでいる。
二体はそれぞれ、記録用の「気配」をひとつずつ開いた。
私はこの文明に来て百年目にして、ようやく、その気配の意味を正しく読めるようになっていた。
気配は、議事録に近い。話している内容を、勝手に整理して残してくれる。だから面談者は、話に集中すればいい。
とても合理的で、だからこそ、地球の面接を思い出して、胃がしぼんだ。
中年女性に近い方が、先に口火を切った。
「申請、拝見しました」
「……よろしくお願いします」
「懐旧、という言葉を、使っていましたね」
「はい」
「最初の書き方の方が、正確だと思います」
最初の書き方。
私は少し考えてから、気づいた。
下書きの段階で、一度、私は「里帰り」と書いて、消していた。面談官は、下書き履歴まで見ているらしかった。地球の役所にも、そういう怖さはある。出したものと、出す前に書いて消したものが、両方残っている世界。
「……里帰り、では、弱いと思ったので」
「申請の重さと、動機の強さは、違います」
彼女は、淡々とそう続けた。
「重さに合わせて動機を太らせると、動機の方が、嘘になる」
私は何も言えなかった。
面接で、こんなふうに叱られたことは、地球でも、こちらでも、なかった気がした。
ただ、その叱り方は、どこか、優しかった。
上官らしい上官の方が、口を開いた。
「一つ、確認を」
「はい」
「あなたは、まだ、地球を、終えていない」
待合区画で聞いた言葉と、完全に同じ言い回しだった。
私は息を呑んだ。
「……どう、いう意味ですか」
「そのままの意味です」
彼は、ゆっくりと続けた。
「死を、通過しているのに、あなたは、地球を、生活として、終えていない。冷蔵庫のこと、洗濯物のこと、近所のこと、それらが、まだ、あなたの中で『明日やる』になっている」
私は、そのとき、本当に、少しだけ泣いた。
死んでもう百年以上が経っているのに、私は「明日やる」を抱えたままだったのだ。
それを指摘されて、叱られるよりも、当てられて泣きそうになる。そういう子どもみたいな反応が、何百年経っても、私の中に残っていた。
上官は、叱ろうとしていたわけではなかった。
「あなたを地球に行かせるのは、簡単です」
彼は、そう続けた。
「難しいのは、あなたの動機を、地球側に、誤解させないことです」
誤解。
その言葉に、私は少しだけ引っかかった。
「……誤解、しますか。向こうは」
「します。ほぼ確実に」
中年女性に近い面談官が、淡々と補足した。
「地球の現在の通信網・金融網・軍事網の水準では、あなたのような存在の訪問は、ほぼ例外なく、『文明の危機』として処理されます」
「……里帰りでも、ですか」
「里帰りでも、です」
彼女は、そこで、ほんの少しだけ、口元の形を緩めた。
笑った、と言うには遠いけれど、表情の端が、こちらへ少しだけ寄った。
「あなたが軽い気持ちでいることは、向こうには、届きません。むしろ、軽ければ軽いほど、向こうは、重く受け取ります」
「なぜ、ですか」
「文明が未成熟な段階では、未知の接触を『軽い意図でやってくる』という想定が、一番、怖いからです。悪意よりも、無邪気が怖い」
無邪気が怖い。
私は、その一言を、しばらく反芻した。
会社員だった頃、私は、悪意のある上司より、無邪気な上司の方が怖かった。
悪意のある上司は、対策が立てられる。
無邪気な上司は、悪気がないまま、こちらの人生の端っこを踏んづける。
文明の規模でも、きっと同じなのだと、そのときに分かった。
*
面談の最後に、上官の方が、一枚の確認事項を差し出した。
確認事項には、こう書かれていた。
**あなたは、地球側が、あなたを、どれほど重く受け取るかを、承知したうえで、それでもなお、接触を希望しますか。**
私は、しばらく考えた。
帰りたい、と最初に思ったのは、観測窓で青い腕を見つけた、あの夜だった。
里帰り、という軽い言葉でないと、自分の中に持てなかった欲求だった。
その欲求は、今も、消えていなかった。
消えていなかったけれど、少しだけ、形が変わっていた。
軽い気持ちのまま行っていい、と思う自分。
向こうにとっては軽く済まない、と気づいた自分。
その二つが、胸の中に、並んで座っていた。
私は、確認欄に、長いあいだかけて、こう書いた。
「承知します。ただし、向こうが重く受け取ることを、私は、軽くしようとしません。向こうの反応は、向こうのものです。私は、私の動機の軽さを、嘘にすることで帳尻を合わせません」
書いたあと、少し、寒くなった。
こういう書き方を、私はやっぱりどこかで覚えていた。退職願や、長い始末書や、誰かへの謝罪文で磨かれた文体。
上官は、それを読んで、小さく頷いた。
「わかりました」
「……通りますか」
「通します」
「ありがとうございます」
「礼は、帰ってきたあとで、してください」
彼はそう言って、一枚の許可証の気配を、こちらへ渡した。
中年女性に近い面談官が、最後に、ひとこと付け足した。
「あなたは、向こうで、『少女』と呼ばれる形を、選びますか」
私は、少し驚いた。
「……なぜ、そう聞くんですか」
「過去、同じ状況で、同じ選択をした市民が、多かったからです」
「……地球の、どこの文化にも、属さない形にしたい、と思っていました」
「では、そうしてください」
「はい」
「ただし、覚えておいてください」
彼女は、最後にこう言った。
「あなたが、どんな形を選んでも、地球側は、そこに、自分たちの記憶の『少女』を、勝手に重ねます」
*
面談室を出ると、人工海の光は、さらに青が濃くなっていた。
私は、許可証の気配を、胸のあたりに感じながら、ゆっくり歩いた。
歩きながら、これから地球で、どの形を選ぶか、どの服を着るか、どんなふうに現れるか、頭の中で考え始めた。
考えながら、笑ってしまった。
地球への初訪問を、面接帰りの人間みたいな気分で計画している。
私はやっぱり、何百年経っても、私だった。
自分の住区に戻って、私は観測記録を、ひさしぶりに開いた。
青い腕。
見覚えのある、あの星。
そこに、いつも通り、地球はあった。
いつも通り、という言い方は、きっと向こうの人たちには怒られる。向こうは向こうで、毎日必死に回している世界だ。ニュースがあり、雇用があり、家賃があり、天気予報があり、受験があり、朝のラッシュがあり、誰かの誕生日があり、誰かの通夜がある。いつも通りの中で、いつも通り疲れて、いつも通り一日が終わる。
それを「いつも通り」と呼んでしまえるほど、私は、向こうから離れていた。
申請書には書けなかったことを、私は観測記録の余白に、自分用のメモとして書き足した。
「豆腐と、部屋干しと、推しと、家賃更新料のある星」
そう書いて、少し笑った。
ふざけているようで、たぶん、これが一番、正確な自己紹介だった。
地球は、私にとって、理論ではなく、家事の延長だった。
ずっと昔、やり残した家事の延長が、そのままふるさとになった。
*
地球では、まだ夜だった。
私が見ている観測像は、向こうの時間の少し前のものだ。それでも、光の明滅のパターンから、だいたいの都市の状態は分かる。灯りがついたまま落ちない窓の多い街。深夜番組の時間帯に入ったスタジオ。閉店準備に入っているコンビニ。二十四時間診療の病院の、外来窓口の小さな光。
その光たちのどれもが、誰かの明日やるを抱えていた。
誰かの部屋干しのシャツ。
誰かの冷蔵庫の、半分残っている牛乳。
誰かの、まだ送っていない、日曜の夜のLINE。
誰かの、書かなきゃと思いながら、何日も書けないままの始末書。
私は、そのひとつひとつを、勝手に想像した。
勝手に、なのが問題だった。
私の想像は、百年以上前の、私の明日やるの延長線上にあるだけだった。
今の向こうが、本当に抱えている明日やるは、きっと、もっと別の色をしている。
それでも、私は、彼らに、会いに行くつもりだった。
彼らにとっては、来るべきものが来たという意味で、重い。
私にとっては、軽い。軽いというより、どうしても軽くしないと、持てない。
その軽さが、向こうの重さと、正面から噛み合わない夜のことを、私はまだ、知らなかった。
*
次の休眠期を挟む前に、私は最後の準備をした。
形を、決めた。
地球のどの文化にも、特別には属さない形。地球人の目には、ほどよく見覚えがあり、ほどよく見覚えのない形。たぶん、銀の髪がいい。目の色は、季節によって少し揺れるくらい。
身長は、誰とも一対一で並んだときに、どちらかが屈むことになるような、極端な高さや低さにしない。声は、少し低めの方が、通りがいいだろう。あまり幼すぎない方が、話を聞いてもらえるはず。
決めながら、自分が「少女」と呼ばれる形に、自然と寄っていっていることに、気づいた。
気づいたけれど、修正しなかった。
面談官の言葉を、思い出した。
「あなたが、どんな形を選んでも、地球側は、そこに、自分たちの記憶の『少女』を、勝手に重ねます」
それなら、こちらから、少女の方へ、少し寄ってしまってもいいのかもしれない。
向こうの想像の範囲の中に、すこしだけ降りていった方が、受け取る側は、ましだろう。
そう思った。
そう思った時点で、私はもう、ただの観測者でも、ただの元地球人でもなくなっていた。
なりかけていたのに、本人だけがまだ、それを理解していなかった。
里帰り、と呼べる種類の旅は、たぶん、もう終わっていた。
終わっていたのに、私は最後まで、自分の旅を、里帰りと呼びたがっていた。
そうして、私は、地球へ行く準備を、ほんとうに始めた。
その“ただそれだけ”が、あとでどれほど多くの人間を眠れなくさせるか、この時の私はまだ、本当に分かっていなかった。
アンドロちゃんはポンコツです(前世から)




