6日目 祭り
――20XY年3月12日、連邦首都/東京/聖都/ネットワーク空間
木曜日は、いつもだいたい中途半端だ。
月曜の勢いは消え、火曜の言い訳も使い切り、水曜まで持っていた「まだ週の途中です」という薄い盾も穴だらけになる。金曜のような終わり方の雰囲気もない。だから、木曜に起きることは妙に生々しい。祝祭でも災害でもなく、仕事の続きの顔をしたまま、人は崩れる。
少女が来る前日の木曜は、まさにそういう一日だった。
世界は、前夜の顔をしていた。
祭りの前に似ていた。
処刑の前にも少し似ていた。
国際会議の前にも、ライブの前にも、台風上陸の前にも似ている。要するに、人間が「明日には何か決定的なことが起きる」と知っている時にしか出ない空気だった。誰もが今日をやり過ごしたいのに、今日をやり過ごすほど明日が近づく。その単純な事実だけで、都市は十分に疲れる。
*
午前六時十八分、連邦首都。
ペンシルベニア通り沿いの金属バリケードには、まだ夜の冷えが残っていた。警備当局が徹夜で設置したフェンスは昨日の時点で二重になり、今朝までに三重へ増えている。内側には連邦保安局、外側には市警、そのさらに外側に州兵。数で言えば過剰だった。意味で言えばほとんど儀式だった。
制服の男たち自身が、そのことを知っていた。
「見える位置から下げろ」
統制線の端で、シークレットサービス上がりの現場責任者が言った。
「重機関銃も。ランチャーも。カメラに入る角度から消せ」
「完全に外しますか」
「外さない」
責任者は短く答えた。
「見せないだけだ」
部下は頷きかけて、少しだけ顔をしかめた。
「見せない意味があるんですか」
「ある」
「相手には見えてるかもしれません」
「相手のためじゃない。こっちのためだ」
それ以上の説明はなかった。だが十分だった。
ホワイトハウスの周辺は、この二日で奇妙な変化を起こしていた。最初は戦争の顔をしようとした。車両、警戒線、対狙撃の配置、電波監視、非常搬送ルート、緊急避難導線。軍と警備は、本能的にそういう語彙でしか危機へ触れられない。
けれど、少女が「撃つ必要を先に奪う」側の存在だと理解されるにつれ、重武装は安心より滑稽を生むようになった。迎撃できないものを迎撃する構えは、強さではなく未練に見える。武装そのものより、その未練が国家の威厳を傷つける。だから金曜前日のワシントンでは、銃や装甲車はなくなっていないのに、風景からだけ少しずつ消されていた。
視界から退いた火器は、政治の化粧に近かった。
フェンスの向こうでは、すでに人が眠っていた。寝袋を広げた若者。段ボールを敷いた家族連れ。白い布を肩からかけた集団。十字架を持った男たち。耳の先を尖らせるメイクをした高校生。三脚と配信機材を抱えた連中。祈りと商売と観光と抗議が、まだ朝も来ていない通りで混ざり始めている。
都市は、異常事態を数時間で露店のある形へ変える。
コーヒースタンドは開店時刻を二時間繰り上げ、屋台は“Welcome Andro”と殴り書きした紙を貼り、偽物の羽根を売る業者がすでにいた。警備担当官は腹を立て、広報担当は規制の文言を考え、売っている側は悪びれない。大事件の前日に物を売るのは、戦争の時代から続く人類の古い商売だった。
若い州兵の一人が、白い羽根飾りを見て小さく舌打ちした。
「遊園地かよ」
隣の年長兵が、フェンス越しに群衆を見たまま言う。
「遊園地でも葬式でも、人は集まる時は同じ顔になる」
「明日、本当に来るんですか」
「来るだろ」
「何でそんなふうに言えるんです」
「言えるんじゃない。来ると思って立ってないと、ここにいる意味がない」
若い兵は口を閉じた。
意味。そこがもう怪しい。州兵の任務は州の治安維持であって、銀河文明の観察会の前夜整理ではない。だが命令書にはいつも、現実が置かれた後で意味が書き足される。現場の人間はそれを読むふりをして、最後は体で納得するしかない。
*
午前七時三十四分。大統領府西館。
首席補佐官のマーティン・ヘイルは、会議室へ入る前から胃の痛い顔をしていた。胃が痛いだけならまだ良い。彼のような職業では、胃の痛みはしばしば正常の証明になる。怖いのは、胃がもう何も感じなくなってからだ。
扉を開けると、いつもの顔ぶれがいつもより少しだけ痩せて見えた。国防長官、統合参謀本部議長、国家安全保障担当補佐官、報道局長、シークレットサービス長官、数人の将軍。世界が変わってからまだ一週間も経っていないのに、全員が半年分は年を取ったような目をしている。
部屋の中央には三つの資料束が置かれていた。
警備計画。
外交儀礼案。
要求候補一覧。
グラント・リードは最後に入ってきた。睡眠は取っている。取れているように見せることも仕事の一部だと知っている顔だった。だが、彼の歩き方には昨日までより少しだけ重さがあった。威圧ではなく、物理的な重さだ。人間は、本当に持てないものを持たされた時、肩より先に靴音が変わる。
「始めろ」
彼は座る前に言った。
最初は警備計画だった。南芝生の配置、招待列席者の座席順、退避ルート、医療班、群衆動線、空域制限、通信遮断手順、狙撃対処。狙撃対処という言い方に、誰かが小さく顔をしかめた。言葉だけが古いということは、時々、内容より残酷だ。
「 visible presence は最低限に」
シークレットサービス長官が言う。
「装甲車両は裏へ。カウンタースナイパーは線上から外す。重火器はすべてカメラの死角へ」
「死角」
リードが復唱した。
「相手に死角があると思うか」
「ありません」
長官は答える。
「ですが視聴者にはあります」
そこで一度、全員が黙った。
視聴者。国民。世界。味方。敵。支持層。歴史。いま何に向けて配置を調整しているのか、主語が一つに定まらない。
国防長官が口を開く。
「少なくとも軍としては、迎撃準備を完全に解いたようには見せられません」
「見せる必要があるか」
リードが聞く。
「抑止のために」
「誰に」
短い問いだった。
あまりに短くて、誰もすぐには返せない。
国防長官は言い直した。
「国内向けです」
「安心のため?」
「そうです」
「安心は武器を見せれば出るのか」
「武器を見せない不安もあります」
「今の相手に対して?」
「今の相手に対してではない」
国防長官の額に、珍しく薄い汗が浮いた。
「国家がまだ国家として振る舞っているという確認のためです」
リードは椅子へ座った。椅子の肘掛けへ片手を置き、数秒だけ何も言わなかった。
「つまり儀式だな」
「……はい」
「だったら儀式としてやれ」
彼は言った。
「勝てるふりの儀式じゃない。取り乱していないふりの儀式だ」
それは、会議室にいた軍人たちへは少しきつい言い方だった。だが誰も反論しなかった。実際その通りだったからだ。今並べられる武装の意味は、戦術ではない。心理と政治のための配置だけだった。
次は外交儀礼案。赤絨毯の長さ、歓迎文言、国歌を演奏するかどうか、儀仗兵を置くか、国旗の本数、会談場所の候補、同席者の人数。ここまで来ると、地球の文明はかなり滑稽だった。軍が無意味になった後でも、人類はまだ布の色と椅子の位置で自分の格を維持しようとする。
「国歌はやめろ」
リードが言う。
「どの国のだ」
報道局長がメモを止めた。
「合衆国のです」
「彼女は来賓か」
「公式には」
「公式には何だ」
局長は言葉を探し、見つからなかった。
「……来訪者です」
「それに国歌をぶつけてどうする。歓迎か。威嚇か。どっちにも見えないことをやるな」
報道局長は静かに訂正した。
「儀仗兵は」
「置く」
これは国防長官が即答した。
「実戦ではなくても、国家の代表動作として必要です」
「棒立ちの若者を並べる意味があるのか」
「意味というより、順番です」
それには、リードも少しだけ黙った。順番。国家には順番がある。席次、礼砲、握手、写真、署名、会見。順番があるから事故が減る。順番があるから、人は内容が壊れていても形式だけで数分持ちこたえられる。
「分かった」
彼は言った。
「だが人数は減らせ。彼女に見せるためじゃない。彼らを見世物にしないためだ」
その言い方に、統合参謀本部議長が少しだけ目を上げた。軍人を守る時だけ、リードの言い方は急に静かになる。そこがこの大統領の、一般にはあまり知られていない癖だった。
最後に、要求候補一覧が残った。
紙の厚さだけで、それが一番みっともなかった。医療技術。老化抑制。エネルギー。食料増産。気候制御。癌治療。希少疾患。核廃棄物処理。量子通信。超光速航法。小惑星採掘。資源合成。翻訳技術。災害予知。寿命延長。不妊治療。義肢。再生医療。認知症。飢餓対策。反重力。事実上の願い事リストだった。
そこには国家も企業も宗教も個人も全部入っていた。人類が何に困っているかの見本市としては、むしろよくできていた。
リードは最初の一枚をめくり、二枚目を見て、三枚目で止めた。
「これを誰が作った」
誰もすぐに名乗らなかった。名乗っても意味がない種類の問いだと分かっている。
「提案は各省庁、民間、有識者会議、同盟国側からも……」
国家安全保障担当補佐官が曖昧にまとめた。
「全員だな」
「そうです」
「全員が、何か欲しい」
「はい」
部屋にいた全員が、それを否定できなかった。欲しくないわけがない。不老不死でも、無尽蔵エネルギーでも、あらゆる病気を治す手段でも、国家が自分で差し出していない弱さを一気に埋める何かでも。人類はずっと、神に祈る時と同じ声色で技術へ願いを投げてきた。相手が本物に見えた瞬間、それが紙になるのは当然だった。
リードは紙束を閉じた。
「ゴミ箱を」
誰かが一瞬、冗談だと思った。
彼は冗談の顔をしていなかった。
秘書が小さな金属製の屑籠を持ってくる。リードは要求候補一覧をまとめて持ち上げ、そのまま落とした。紙が箱の中で鈍い音を立てる。
会議室の空気が固まった。
「今のは象徴だ」
彼は言った。
「だから一枚だけ残しておく、みたいな小賢しいこともするな」
国防長官が口を開きかけ、閉じた。報道局長が息を止め、また動かした。首席補佐官のヘイルだけが、顔色を変えずにゴミ箱を見ていた。
「欲しいものがあるのは分かる。全員ある。俺にもある」
リードは続けた。
「だが、会う前から願い事を書いて持っていくのは、貧しいだけじゃない。自分で自分を小さく売るやり方だ」
それは、この一週間の彼の発言の中でいちばん本音に近かった。
部屋の誰も、それを立派だとは思わなかった。立派に見えるのは簡単だ。実際には、怖くて書けなかっただけかもしれないし、書いて相手に軽蔑されるのを恐れただけかもしれない。それでも構わなかった。国家元首の判断は、時々、気高さではなく羞恥で支えられる。
「じゃあ何を持って行くんです」
報道局長が問う。
リードは少しだけ視線をずらした。
「何も」
「何も持たずに?」
「会う」
「それは答えになっていません」
「それ以外の答えが、今あるように見えるか」
局長は口を閉じた。
会う。それだけ。国家が持つべきカードを一枚も持たず、会うために芝生を刈り、椅子を並べ、フェンスを立て、武器を隠し、カメラを設置する。人類史の中でもかなり屈辱的で、かなり正しい準備だった。
*
午前九時五分。東京。
総理府中枢庁舎の地下は、夜の続きの匂いをしていた。コーヒー、紙、インク、眠気、除菌アルコール、カーペットに染み込んだ古い空調の匂い。真帆は二日連続で同じジャケットを着ていることに朝になってから気づいたが、誰もそんなものを見ていない。
見ていないし、見ていても言わない。非常時の礼儀とは、互いの崩れ方へ無駄な光を当てないことだ。
部屋の中央には、昨日まで集めた“生活記録”が電子化されて並んでいた。給食、介護、独居高齢者の見守り、夜間救急、学校の保健室、災害時避難所、地方交通の維持、保育現場の連絡帳、障害者支援の送迎記録、公共料金の猶予相談、自治体のクレーム対応。人類の提出物と呼ぶにはあまりに地味で、だからこそ人類らしい束だった。
城崎は、その一覧を静かに見ていた。
「説明文は」
「第一案がこちらです」
真帆がタブレットを差し出す。
冒頭はこうだった。
これは我々が誇るものではなく、我々がやめていないものの記録です。
城崎は一読して、目を細めた。
「いい」
「技術要求は入れていません」
「入れない方がいいでしょう」
「それでも省庁からは別紙で出したいという圧があります」
「出したいなら、出したい理由を書かせてください」
真帆は少しだけ笑いそうになった。
「理由、ですか」
「ええ。人は、要求より理由の方で自分を晒します」
城崎は言った。
「何が欲しいかより、どうしてそれを欲しがるのかの方が、たぶん見られる」
彼女は昨夜ほとんど眠っていないはずなのに、声だけは妙に安定していた。疲れている時ほど、城崎は言葉を絞る。その代わり、短い言葉がいちいち重くなる。
「総理は、明日ワシントンへ」
木原が聞いた。
部屋がわずかに固まる。誰もが同じことを考えていたが、先に口へ出したのは彼女だった。
「行きません」
城崎は答えた。
「呼ばれていないし、行くことで“人類代表”を演じる気もない」
「しかし日本としての存在感が」
「存在感は国旗の本数で出すものじゃありません」
そこは少しだけきつい言い方になった。
「向こうが来る理由は、序列をつけるためじゃなく観察のためだと言っている。なら、こちらがやるべきは順番に割り込むことではなく、観察に耐える形で生活を出すことです」
木原は黙った。
反論はできる。国家としてはあまりに慎ましい。大国に接触機会を独占される構図を黙って飲むことになる。だが、その反論を最後まで押し切るだけの自信を持てる者は、今の部屋にはいなかった。
真帆が静かに言う。
「だったら、メッセージだけ送りますか」
「送る」
城崎は頷く。
「歓迎でも迎合でもないやつを」
「難しいですね」
「難しい方が、いまは普通です」
彼女は窓のない壁を見ていた。政治家が壁を見るときは、たいてい自分の顔より大きな何かを考えている時だ。だが今の城崎は、国家や文明より先に、明日ちゃんと給食が出るか、介護現場の夜勤が持つか、そういう低い高さを考えているように見えた。
それは真帆にとって、少し救いだった。
高い話をする人間ばかりの危機は長持ちしない。低い話をする人間が残っている限り、国家は完全には壊れにくい。
別室では、内閣法制局と外務省が「相手を国家として扱うか否か」の整理にまだ時間を使っていた。条約主体か。国際法人格か。戦時法の適用は。領空通過に当たるのか。国家は、どうしても名札を用意したがる。名札がないと、責任の通り道が作れないからだ。
真帆は、その議論を少し離れた席で聞きながら、名札の仕事も必要だと思った。必要だが、それだけでは足りない。相手が名札より先にこちらの生活へ興味を持っていると言う以上、法律の外へ手を伸ばす役所が要る。
彼女は昨日のまま開いていたファイルを閉じ、新しいタイトルを打つ。
来訪前夜の人類提出物に関する要旨。
タイトルだけで、少し気が遠くなる。だが遠くなっていても、手は動く。非常時に人間を救うのは立派な思想ではなく、だいたい手の方だ。
*
午前十時二十分。聖都。
アレクシウス十三世は執務室の窓を少しだけ開け、春の手前の冷たい空気を入れた。閉じ切った部屋で神学の話をし続けると、人はたいてい言葉を発酵させすぎる。外気はそれを止める。
机の前には三つの文案があった。
来訪前日の祈り。
信者向け短声明。
各国首脳向け非公開書簡。
どれもまだ、行儀が良すぎた。
「“十三日の金曜日”への反応が増えています」
報道官が言う。
「オカルト系と終末論系の接続が早い」
「当然でしょう」
アレクシウスは紙から目を上げない。
「人は偶然の一致を好みます。とくに、自分が怖がる準備を前からしていた時ほど」
「否定しますか」
「しません」
彼は即答した。
「否定すると、その言葉が宣伝になる」
報道官はメモを取る。
生命倫理顧問が別の資料を差し出した。
「明日の接触後を見越して、遺伝子相談窓口の問い合わせがさらに増えています。特に“人間の身体が時代遅れになるのか”という表現が急増しています」
アレクシウスは眉を寄せた。
「時代遅れ」
「はい」
「身体へ時代という語をかぶせると、だいたい良いことになりません」
彼は資料を閉じる。
「我々は明日、宇宙人に会う前に、まず自分たちの市場語と会うことになりますね」
その表現に、部屋の全員が少し黙った。神学顧問が苦い顔で笑う。
「市場語は、悪魔より現代的です」
「ええ」
アレクシウスは言った。
「しかもこちらは、祓えない」
彼は信者向け短声明の一文を自分で消した。
神の計画を恐れるな。
その一文は、いかにも教皇らしかったが、今は安すぎた。誰もまだ計画を見ていない。計画という語を持ち出した時点で、人は理解したふりを始める。
代わりに、彼はこう書いた。
明日、我々は意味を急がない。
意味を急がないまま立ち会うことも、信仰の一形態である。
報道官が困った顔をした。
「伝わりにくいですね」
「でしょうね」
アレクシウスは紙を置いた。
「ですが、分かりやすい言葉が全部真実とは限らない日です」
それは教皇の言葉というより、自分へ向けた牽制だった。彼自身だって、できるなら綺麗な意味を一つ用意したかった。創造の多様性でも、謙遜の試練でも、隣人愛の拡張でも、何でもいい。だが、用意した瞬間に嘘になる気配がある。
だから彼は、この前夜だけは、言葉を少し貧しくしておくことにした。
*
午後一時十一分。連邦首都、記者会見室裏。
大統領報道官のエレナ・ショウは、鏡の前で自分の顔を一秒だけ見て、すぐに視線を外した。自分の顔色を見始めると、仕事が遅れる。化粧の乗りより原稿の乗りの方が先だ。
彼女の手元には、短い声明案があった。長い演説はやめた。前日になっても、国家はまだ何をどう言うべきか分かっていない。分かっていないのに長く話すと、たいていは嘘か飾りになる。だから今回は四分。四分で、何も約束しすぎないことが目標だった。
技術要求はしない。
軍事的反応は避ける。
来訪者の安全と市民の安全の両方を守る。
観察される側であることへの言及は避ける。
“友好”と“歓迎”の差を曖昧にしない。
その程度の線引きだけで、言葉はすぐに詰まる。
「“welcome”を使うか」
彼女は補佐官に聞いた。
「使わない方が安全です」
「“receive”は」
「冷たすぎる」
「“meet”」
「それが一番ましです」
彼女は頷いた。
会う。
たったそれだけの動詞に、国家の残り全部を押し込むしかない前夜がある。史上最強の軍事国家の報道文としては、かなり情けない。だが情けない語しか残っていない時、人類はたいてい少しだけ誠実になる。
リハーサルのためにプロンプターへ文を流す。画面の中で、“tomorrow”の文字だけが妙に大きく見えた。明日。人は、遠い未来より明日の方が怖い。未来ならまだ比喩にできるが、明日は時間割の隣へ入ってくる。
会見室の外では、すでに各国メディアの記者が列を作っていた。何人かは、同僚と話す代わりに自分の配信へ向かって喋っている。現代の報道は、出来事を説明する前に、自分がその近くにいる事実を放送しなければならない。
エレナはそれを責めなかった。近くにいないと不安だから、近くにいる証拠が必要になる。人間の行動原理としては単純だ。
「あと三分」
スタッフが言う。
彼女は原稿の最後の一文を見直した。
We will meet without panic, and without pretending to understand more than we do.
私たちは、パニックなく、そして自分たちが理解している以上のことを理解しているふりもせず、会う。
悪くない。少しだけ賢く見えすぎる。だがこれ以上削ると、ただの空気になる。
彼女は立ち上がった。
明日のための言葉は、だいたい前日に作るには遅すぎる。だが前日より早く作ると、たいてい現実からずれる。そういう意味では、いまが一番まともな時刻なのかもしれなかった。
*
午後三時四十六分。連邦首都近郊、安ホテル。
若い男は、チェックインカウンターへ偽名を書いた。手が少しだけ震えたが、受付係は気づかない。いや、気づいていても気づかない顔をしただけかもしれない。この一週間、首都圏の安ホテルは変な客で満ちていた。歓迎集会、抗議集会、祈祷会、動画配信、記念撮影、現地観察。全員がそれらしい理由を持っていて、その半分は本音ではない。
男のダッフルバッグは軽すぎず重すぎず、空港の保安検査を通らない種類のものではなかった。今の時代、危険なのは重さではない。重さに対して、人がどういう顔をしているかだ。
「一泊ですか」
受付が聞く。
「はい」
「明日の延長は難しいですよ。満室なので」
「大丈夫です」
男は短く答えた。
大丈夫。そういう時の声だけは落ち着いていた。落ち着いているから、余計に危ないこともある。
エレベーターの中で、彼は自分の顔を見なかった。鏡へ映る自分を見ると、途中でやめる理由が増える。やめる理由が増えるのを恐れている時点で、本当はやめたいのかもしれない。だが人は、その曖昧さへ神の名前や祖国の名前や死者の名前を貼ることで、引き返す道を塞ぐ。
部屋へ入ると、テレビはデフォルトでニュースチャンネルになっていた。白い服を着た若者たち、抗議プラカード、露店、フェンス、警備線。画面の下には“Arrival Eve”という文字が踊っている。前夜さえ商品名になる。
男はテレビの音を消し、バッグを床へ置いた。
中身を出すわけではない。
まだ出さない。
その“まだ”があるうちは、自分は自由だと彼は思いたかった。思いたかったが、もう半分くらいは自由ではないことも分かっていた。
*
午後五時二分。東都。
官邸の地下会議室では、提出物の最終圧縮がようやく終わりに近づいていた。翻訳の揺れを潰し、個人情報をさらに削り、しかし削りすぎて生活の実感が消えないように残す。霞が関の人間がいちばん苦手な仕事の一つだった。官僚はたいてい、削り方に長けている。例外や感情や恥ずかしさを削る。だが今回必要なのは、文明の恥ずかしさまで含めて残すことだった。
真帆は、介護日誌の匿名化の最後の行で手を止めた。
二時十一分、手を握ると落ち着く。
この一文だけ、妙に削れなかった。個人情報ではない。だが個別性が強すぎる。いかにも誰かの人生に触れている感じが出すぎて、国家資料に置くには柔らかい。
「残してください」
城崎が横から言った。
真帆は驚いて顔を上げた。
「柔らかすぎませんか」
「柔らかい方がいい」
「国家として」
「国家として柔らかいのは、たぶん珍しいだけで間違いじゃない」
城崎は資料の束へ手を置いた。
「明日、向こうがもし本当に見るなら、制度だけじゃなく、制度が人の手へ降りた時に何が起きるかも見るはずです」
「手を握ると落ち着く、まで?」
「そこまで」
真帆は小さく頷いた。
たぶん、この総理は本当にそこまで見せるつもりなのだ。国家の体面より、生活の稚拙さと粘りを出す。立派な戦略ではないかもしれないが、少なくとも嘘ではない。
「メッセージ文は」
「書きました」
城崎は短い紙を差し出した。
そこには、驚くほど普通の文しかなかった。
ようこそ、ではない。
歓迎する、でもない。
我々は、理解より先に生活を続けている。
その一文だけが、中央に置かれていた。
「これだけですか」
「これ以上はたぶん飾りです」
真帆は紙を見つめた。足りない気もする。だが足りないくらいの方が、今の人類にはふさわしいのかもしれない。
彼女はその文のファイル名を保存した。
説明不足の歓迎。
冗談半分で付けた名だったが、あとで変えなかった。誰もが今、説明不足のまま何かへ手を伸ばしている。
*
午後六時二十七分。連邦首都、会見室。
リードはプロンプターを見なかった。
見ない方が良い時がある。短い声明ほど、読み上げると空っぽに聞こえる。
ライトが点き、カメラが回る。赤いランプが、現代における礼砲みたいに見えた。銃声の代わりに、配信開始を知らせる小さな光。
「明日、我々は会います」
彼は最初にそう言った。
挨拶より先に本題へ入る。いま挨拶を長くすると、国民はその長さだけ不安になる。
「パニックの必要はありません。買い占め、暴力、誤情報、宗教的狂騒、便乗商法、そのどれも明日の助けにはならない」
報道官のエレナは、横でその語順を聞きながら、少しだけ眉を動かした。便乗商法まで入れたのは原稿になかった。だが削るにはもう遅い。
「我々は相手を理解していません。理解していないという事実から始めます。理解していない時に最悪なのは、理解したふりをすることです」
そこはほぼ原稿通りだった。
「我々は明日、要求書を持っていきません」
部屋の空気がわずかに揺れた。事前配布稿にはなかった一文だ。
エレナが一瞬だけ呼吸を止める。
「少なくとも、最初の会話を願い事で始めるつもりはない」
それは大統領としてはかなり危ない言い方だった。病気の家族を持つ者、不老を夢想する者、エネルギー危機に怯える者、全部から「なぜ頼まない」と言われうる。だが、言ってしまった方が、たぶん彼には楽だった。
「我々は観察される側かもしれない。だが、観察される側であることと、尊厳を失うことは同じではない」
そこだけは、少し上手すぎた。エレナは思った。けれど上手すぎる一文も、前夜の政治には必要だ。人は明日の現実より先に、今夜の言葉で眠る。
「明日、私は会います。そしてそのあと、見たものを話します」
彼は最後を短く切った。
「それまでは、勝手な勝利も、勝手な終末も宣言しないでください」
声明は三分半だった。長すぎず、短すぎず、少し足りない。
ちょうど良かった。
会見の直後、支持者の一部は「強い」と言い、別の一部は「弱い」と言った。批判者の一部は「ようやく正直」と言い、別の一部は「願い事を封じた」と怒った。ネットは十秒で切り抜きを作り、二十分で文脈を捨て、二時間で別の怒りへ移った。
エレナは会見室を出たあと、壁にもたれて一度だけ目を閉じた。
「要求書を持っていきません、ね」
補佐官が苦笑する。
「怒られます」
「でしょうね」
彼女は答えた。
「でもあれ、たぶん本当だから」
本当のことはよく燃える。特に、希望の顔をしていない本当は。
*
午後七時五十二分。連邦首都の南部、教会裏の駐車場。
終末論の説教会が、予定より長く続いていた。夜風はまだ冷たい。臨時に並べられた折り畳み椅子の半分は埋まり、残りの半分は配信機材とクーラーボックスが占領している。祈りと撮影は、いまや同じ準備物を必要とする。
若い牧師が手を上げる。
「恐れるな、とは言わない」
その言い方に、会衆の方が少しだけ真面目になる。恐れるな、と断言される方が人は安心する。だから逆に、恐れると言われた時の方が耳を傾ける。
「恐れているなら、まず自分が何を守りたいのかを言葉にしろ」
牧師は続けた。
「国か。家族か。魂か。誇りか。習慣か。自分の職か。若さか。神の像としての人間か。そこを曖昧にしたまま戦うな」
男は後ろの列でそれを聞いていた。家族ではない。少なくとも最初ではない。国でもない。魂という言葉にはまだ少しだけ乗れる。だが、いちばん近いのは誇りだった。人間の誇り。もっと小さく言えば、自分のままでいられる感じ。そこが奪われるくらいなら、何かをした方がいい。そういう種類の焦りだ。
牧師は最後に、首都へ行く連中へこう言った。
「祈りのためなら、武器はいらない」
それで拍手が起きた。
男は拍手しなかった。
しなかったが、その一文を本当だとも思えなかった。祈りのために武器がいらないのは、祈りだけで足りる相手に向かう時だ。足りないならどうする。そこから先は、教会は責任を取らない。
会衆が散り始める。男は最後まで椅子に残った。
残った人間は、だいたい帰る前に一度だけ自分の背中を押す理由を探す。神の言葉でも、群衆の熱でも、怒りでも、羞恥でも何でもいい。背中を押す理由が見つかれば、人は自分で決めたと思える。
その夜、彼はまだ決めていなかった。
決めていないことが、一番危ない。
*
午後九時十九分。東都のワンルーム。
紗英はモニターを前に座り、今日だけで三回目の配信準備画面を閉じた。話すことはある。いくらでもある。世界は祭りみたいになっているし、彼女のフォロワーは“前夜特番”を求めている。白い服のコーデ紹介でも、ファンアート紹介でも、政府提出物のまとめでも、宗教界の反応解説でも、何かしらやれば数字は取れる。
でも、配信を始めると、どうしても「見物」の側へ流れていく気がした。
見物。怖いものでも、かわいいものでも、見やすい形へ整えて流すこと。
紗英はそれを今週ずっとやってきたし、まだ完全にはやめられない。やめたら生活が減る。通知も案件も伸びも止まる。人類の歴史的転換点であっても、インフルエンサーの固定費は待ってくれない。
彼女は代わりに、明日首都へ行く若者たちのインタビュー動画を編集していた。会いたい。怖い。守りたい。拒みたい。神だと思う。悪魔だと思う。よく分からないけど現場にいたい。言っていることはばらばらなのに、全員の声の底に同じ焦りがある。歴史のそばにいないと、自分の人生が取り残されるかもしれない、という焦りだ。
「それ、別に今始まったことじゃないよな」
紗英は独り言を言った。
震災の時も、デモの時も、戦争の時も、ライブの抽選の時も、人は“そこにいた”証拠を欲しがる。現代の参加とは、現場にいることと、その現場にいる自分を記録することの二重構造だ。
彼女は動画の最後に、白い布を肩にかけた若い女の子の言葉を残した。
「何持ってるかじゃなくて、どう生きてるかを見られるんだと思う」
それは、動画としては弱い。切り抜きにもならない。だが、今日はそれを残したかった。
投稿ボタンを押す前に、彼女は説明欄へ一行だけ足した。
明日はかわいいだけでは終わらないかもしれない。
上手い文ではない。だから残した。
*
午後十時四十二分。大統領府、私室前の小部屋。
リードは一人で座っていた。机の上には、捨てたはずの要求リストの一部が誰かの手で救出され、きちんと整えられて置き直されている。国家というのは便利だ。トップが感情でゴミ箱へ投げたものでも、下が理性で拾って戻す。善でも悪でもなく、それが組織の体温だ。
彼はリストを見下ろし、指で一行だけなぞった。
Alzheimer’s.
認知症。
そこだけは、簡単に捨てられなかった。
別の紙には、がん、ALS、希少疾患、小児難病。どれも、政治家の票ではなく、個人の祈りの形をしている。国家が要求しなくても、誰かは心の中で必ず頼む。いや、頼まない方が不自然だ。
彼は紙をめくり、今度は核廃棄物処理とエネルギー問題の行で止まった。政治の問題だ。科学の問題だ。票になる。票にならない。人類はいつも、救ってほしいものと誇りたいものを別々の棚に置く。今回のリストは、その棚が全部ひっくり返った感じに近い。
扉が軽く叩かれ、ヘイルが入ってきた。
「まだ起きていたのか」
「あなたもです」
ヘイルは机の上の紙を見た。
「捨てたと思っていました」
「拾われた」
「国家ですから」
「知ってる」
リードは紙を閉じた。
「俺が明日、あれを出したらどう見える」
「弱く」
「正直に言うな」
「今夜はその方がいいかと思って」
ヘイルは壁際に立ったまま続けた。
「でも、弱いことと間違っていることは同じじゃありません」
「慰めか」
「現状報告です」
リードは少しだけ笑った。今週はじめて、笑いが顔の筋肉へ届いた感じがした。
「国のトップが、交渉カードなしで会いに行く」
彼は言った。
「歴史の教科書にどう書かれる」
「たぶん、最初の会話だったと」
「会話にならなかったら」
「その場合も、最初の会話未遂です」
リードはその言い方を少し気に入った。未遂。人類は今週ずっと未遂ばかりだ。理解未遂、迎撃未遂、宗教的解釈未遂、価格発見未遂。だったら会話未遂でも、連続性としては悪くない。
「日本から何か来てるな」
彼は別のファイルを指した。
ヘイルが頷く。
「要求ではなく、生活記録だそうです。給食、介護、学校、自治体。説明文は短い」
「読んだか」
「ええ」
「どう思った」
ヘイルは少し考えた。
「ずるいと思いました」
「ずるい?」
「こちらが大国の顔で芝居しようとしている時に、もっと低いところの現実を先に出してくる。国家間競争のルールを半歩ずらしている」
それはヘイルとしては珍しく感情が乗った言い方だった。リードは面白そうに目を上げる。
「いい意味で?」
「いまはまだ判断できません」
「分からない、か」
「分からないのが一番まともな反応だと、今週ずっと学んでいます」
リードは椅子の背へ体を預けた。
「明日、俺が最初に言うべきことは何だ」
「原稿ならいくつもあります」
「そうじゃない」
ヘイルは答えを急がなかった。急がない補佐官は珍しい。だが今週だけは、即答の価値が下がっている。
「ようこそ、では軽い」
「歓迎します、ではへりくだりすぎる」
「我々はあなたを知りたい、は少し狙いすぎです」
ヘイルは机の上の日本の説明文を見た。
「たぶん、明日も少し足りない方がいい」
「足りない?」
「説明しすぎない方が、相手の観察を邪魔しない」
リードは黙った。
それは政治家にはつらい答えだ。政治はたいてい、足りない言葉を嫌う。相手に補われる余地を残すと、支持率に負ける。だが今回は、支持率で測ると全部がおかしくなる。
「分かった」
彼はようやく言った。
「少し足りないままで会おう」
ヘイルはそれに答えなかった。答える種類の言葉ではなかった。
*
午後十一時五十七分。連邦首都、南芝生を見下ろす窓辺。
庭師が最後の確認に出ていた。夜露の付き方、照明の当たり具合、踏み荒らされた場所の有無。彼にとって芝生は芝生で、歴史の舞台というのは他人が後から貼る言葉に過ぎない。
だが今夜の芝は、さすがに少し違って見えた。
カメラ台が組まれ、椅子が並べられ、見えない位置へ武装が隠され、見える位置だけが妙に静かに整えられている。国家の顔というのは、結局こういう手入れの総量なのかもしれないと、彼は思った。危機の時ほど、草の端が揃えられる。
遠くでは、まだ群衆がざわめいている。歌のようなもの。祈りのようなもの。抗議のようなもの。全部が混ざると、都市は海の音に少し似る。
庭師は腰を伸ばし、暗い空を見た。
見えるはずのないものを、人は前夜になるとつい探す。
星は少ない。雲も薄い。何もない。
それでも、明日にはそこから来る。
彼は肩をすくめ、作業手袋を引っ張り直した。
やることは残っている。草を整え、ホースを片づけ、朝まで人が転ばないよう確認する。銀河文明の来訪前夜にしては、小さすぎる仕事だ。だが小さい仕事しか現実に触れられない時もある。
木曜の終わりは、世界中で少しずつ時差を持って訪れた。東の国ではもう金曜だ。西の国ではまだ前夜だ。地球はいつも通り自転している。宇宙の階層が変わっても、自転だけは急にやめない。
ネットでは“前夜祭”というタグが伸びていた。別の場所では“最後の木曜日”が伸びていた。宗教系の配信者は黙示録を語り、経済番組は閉じた市場を語り、学校の先生は明日の休校判断を家族会議で決め、病院は平常より厚い当直表を作り、警察は群衆導線を見直し、地方の給食センターでは明日の味噌汁の準備が始まっていた。
人類はこの前夜、結局ばらばらのことをしていた。
ばらばらのことをしているのに、全部が同じ明日へ向いている。
それが祭りに似ている理由であり、祭りと決定的に違う理由でもあった。祭りにはたいてい、何を祝うのかがある。今回の前夜には、それがまだない。
だから、この木曜にいちばん正直だったのは、たぶん祝祭でも絶望でもなく、準備の音だった。
フェンスを運ぶ音。
プリンターの音。
ミシンの音。
大鍋の沸く音。
配信の待機音。
トラックのバック音。
銃を隠すために金属が擦れる音。
それぞれが勝手な理由で鳴っているのに、全部が同じ前夜を支えていた。
木曜日は終わる。
だが、前夜はまだ終わらない。
前夜というのは、日付ではなく、人間の側の速度だ。
明日になった瞬間に消えるものではない。むしろ、明日になってからの方が濃くなることもある。
そして木曜の最後、世界でいちばんみっともなくて、いちばんまともだったのは、国家元首が交渉カードを一枚も持たずに会いに行くという事実そのものだった。
大国の顔はまだある。
軍の制服も、教会の言葉も、市場の名残も、ネットの熱狂も、全部まだある。
あるのに、その全部が一度ずつ薄くなっている。
その薄くなったものを着たまま、人類は明日、芝生の上へ立つ。
勝つためではない。
救われるためでもない。
会うためだけに。
それは文明としてはあまりに頼りない。
だが、たぶん最初の会話というものは、そういう頼りなさからしか始まらない。
*
午前十一時四十分。連邦首都、交通統制センター。
巨大モニターに映るのは、戦闘でも株価でもなく、人の流れだった。地下鉄の入場者数、路線ごとの混雑率、臨時閉鎖した出口、バスの迂回、トイレの設置場所、救急搬送車が詰まりやすい交差点。都市が本気で何かを迎える時、最後にものを言うのはだいたい道路とトイレだ。
市の危機対策担当者が画面を指す。
「南側は午前七時で飽和。北側へ誘導したい」
「北は宗教系の集会申請が三本入ってます」
「許可したのか」
「却下すると別の広場へ散ります」
「散る方が面倒だな」
会議の質が、国家安全保障ではなく夏祭りの実行委員会に近づいている。だが、そういう時ほど人は変に真面目になる。弾道ミサイルより屋外トイレの方が、現場の秩序には効く。
交通局の女が、疲れた顔で資料をめくる。
「地下鉄は始発から増便です。問題は帰りより行きです。朝から『最初の瞬間を見たい』客が集中する」
「最初の瞬間って何だよ」
消防局の男が吐き捨てる。
「空から降りてくる瞬間でしょう」
「それを見たいからって押し寄せるのか」
「押し寄せるでしょうね」
誰も反論しない。人は歴史の瞬間を、自分のレンズ越しに持ち帰りたがる。教科書へ載る出来事も、いまはまず個人の端末の中で起きる。
市長補佐官が静かに言う。
「問題は、帰りの足を確保することです」
皆の視線が彼へ向く。
「どれだけ非日常でも、終わったあと人は帰る。帰れると思っているから集まる」
その通りだった。帰れるという前提が、群衆を文明側へつなぎ止める最後の糸になる。終末論者もアイドルファンも観光客も、心のどこかで帰りの電車を計算している。
統制センターの隅で若い職員が、露店営業許可の一覧を見ながら呟いた。
「こんな日にまで、ケバブとコーヒーの申請が出るんですね」
「こんな日だからだよ」
上司が言う。
「人類は、世界の終わりにも温かいものを飲む」
その一文だけが、ひどく正しかった。
*
午後零時五十六分。連邦首都、大学病院地下。
救急部のブリーフィングルームでは、ホワイトボードに三つの文字が太く書かれていた。
圧死。
脱水。
錯乱。
宇宙人来訪前夜の医療計画としては、妙に地味だった。
部長医師のロザリオは、その地味さに少しだけ救われていた。派手な危機は軍と政治の仕事になる。病院へ来るのは、結局いつも人混みと暑さと不安に負けた身体だ。
「銃創は」
若いレジデントが聞く。
「想定しますか」
「想定はする」
ロザリオは答える。
「でも優先順位は下げるな。倒れるのは、だいたい撃たれた人より、待っていた人だ」
病院の会議では、英雄譚が一番役に立たない。必要なのは、水、ベッド、搬送経路、夜勤明けを何人引き止めるか、精神科当直をどう増やすか、外国語対応の回線を何本増やすかだ。
看護師長が言う。
「小児対応も増やします。子ども連れが多い」
「なぜ連れてくる」
「見せたいからでしょう」
誰かがため息をつく。
見せたい。聞かせたい。歴史に立ち会わせたい。そういう親の気持ちは否定しにくい。だが、否定しにくいものほど救急には厄介だ。
ロザリオは名札を外し、机へ置いた。
「明日、ここへ運ばれてくる人の大半は、宇宙人にやられた人じゃない」
彼は言った。
「人間にやられるわけでもない。人間が人間であることにやられる」
暑さ、群衆、不安、パニック、薬の切れ、睡眠不足、酒、宗教的興奮、過換気。救急医はだいたい、人類学者より先に人間を下から見ている。
「だから準備する」
彼は続けた。
「明日の主役は芝生の上だろうが、倒れるのはだいたい別の場所だ」
会議が終わると、医療スタッフたちは無駄口を叩かず散った。無言の方が疲労を節約できる時間帯がある。廊下の自販機の前で、若い看護師がペットボトルの水を二本買い、一本を同僚へ押しつけた。
「祭りじゃないのに」
「祭りみたいなもんだよ」
「祭りならまだ分かる」
「分からない祭りの方がきつい」
二人はそこで会話を切った。病院は、言葉を続けるより歩く方が正しい場所だ。
*
午後二時三十三分。連邦首都郊外、統合司令通信室。
将軍たちの会議は、ここへ来てようやく静かになっていた。諦めたからではない。諦めるという語には感情が残る。今の軍に必要なのは、感情を減らした手順だった。
壁一面のディスプレイには、南芝生周辺の三次元モデルが出ている。建物の高さ、射線、風、監視位置、退避ルート。そこへ、赤い点と青い点がいくつも重ねられている。赤は脅威想定、青は対処要員。だが、会議室の全員が知っていた。赤よりもっと外側に、点にもならない存在が一人いる。そこを図へ載せられない以上、この図面はいつまでも半分だけだ。
「対狙撃班は五組」
「多すぎる」
「足りません」
「誰に対して足りないんだ」
議長が吐き捨てる。
若い大佐が答える。
「相手にではなく、こちら側にです」
空気が少しだけ止まる。
彼は続けた。
「国家が撃てない相手を前にすると、撃ちたがるのはいつも個人です」
会議室には、その言葉へ反論できる者がいなかった。戦争は国家で始まり、銃声は個人で飛ぶ。とくに、国家が屈辱を飲み込んだ時ほど。
「重火器を見せない件は」
老将軍の一人が言う。
「今でも納得していない」
「分かっています」
大佐は答える。
「ですが、明日こちらが見せるべきは火力ではなく規律です」
「規律で弾は止まらない」
「火力でも止まらない相手です」
老将軍は黙った。怒っていない。怒る体力が尽きている。
机の端で、別の将官が低く言う。
「若い連中が一番つらいのは、無力ではない。無力の見せ方を調整させられることだ」
それは、会議室の誰もが思っていたことだった。軍が本当に嫌うのは負けではなく、負けの広報だ。今週の軍はずっと、それをやらされている。
大佐は最後に、図面の端へ新しい注記を入れた。
見える武装は減らす。見えない線を増やす。
それは戦術書の文ではない。負けを上品にする手順書の文だ。だが、明日の世界では、その上品さもまた任務の一部だった。
*
午後八時九分。連邦首都中心部、露店の裏。
黒いマジックで“FRIDAY 13 / FIRST CONTACT”と書かれたTシャツが、箱から次々出されていた。売っているのは大学を休んできた兄弟だ。ふだんはスポーツイベントの露店を回っている。今回は規模が違う。だがやることは同じだ。目立つ単語を並べ、黒地に白で刷り、群衆が自分で意味を着られるようにする。
「神罰系と歓迎系、どっちが出る?」
弟が聞く。
「歓迎」
兄が即答する。
「でも神罰も持っとけ。夜になると増える」
その読みは半分当たっていた。昼は記念品が売れ、夜は祈祷用の白布と十字架が動く。都市の気分は、日が落ちると少しだけ宗教へ寄る。
通りの向こうでは、若い女の子たちが羽根付きのカチューシャを付けて写真を撮っていた。別の角では、中年の男たちが携帯拡声器で悔い改めを叫んでいる。さらにその向こうでは、真顔の警官がフェンスの接合部を点検している。
兄は一度だけ手を止めた。
「全部、同じ日ってすごいな」
「何が」
「かわいいって言ってるやつと、終末って言ってるやつと、警備してるやつと、俺らが」
弟は笑った。
「金になる日はだいたいそうだろ」
その通りかもしれない。世界が壊れそうな日に金が動くのは、資本主義が冷たいからではない。人が冷えたままだと立っていられないから、温かい飲み物と、肩へかける布と、意味のある気分を買う。
露店のラジオでは、大統領の夕方声明の再放送が流れていた。要求書は持っていかない。最初の会話を願い事で始めない。兄はその一節を聞いて、少しだけ顔をしかめた。
「それ、客には受けないだろうな」
「でも本当っぽい」
弟が言う。
「本当っぽいのも、たまに売れる」
兄は笑って、次のTシャツを広げた。真実も虚飾も、前夜にはどちらも商品棚へ並ぶ。
*
午後九時四十六分。東都、郊外の団地。
小学六年の娘は、明日の朝早く起こしてほしいと言ってから寝た。ニュースを生で見たいからだ。母親は曖昧に頷いたが、起こすつもりは半分しかなかった。子どもへ見せるべきものと、まだ見せない方がいいものの境目は、たいてい出来事の前には分からない。
台所では、麦茶のポットが冷蔵庫に入り、弁当箱が乾ききらないまま伏せて置かれている。父親はスマホで会社の連絡網を見ていた。明日は在宅勤務推奨、だが緊急呼び出しの可能性あり。物流系の会社なので、世界がどれだけ宇宙の話をしていても、朝にはトラックを出す。
「明日、学校あるの」
妻が聞く。
「一応」
「一応って何」
「朝の状況で判断って」
「それ、判断してないってことじゃん」
そう言われるとその通りだった。だが、現代の組織は本当に分からない時、たいてい“朝の状況で判断”と書く。判断を先送りしているのではなく、本当に朝まで分からないからだ。
居間のテレビでは、連邦首都のフェンス前の中継が流れていた。白い布、プラカード、祈りの輪、屋台、ライト。娘は寝る前に「あれ楽しそう」と言った。母親は叱る気になれなかった。楽しそうに見えてしまうこと自体が、たぶん人間の弱さの一部だからだ。
「要求書、持っていかないんだって」
父親がテレビを見たまま言う。
「よく分かんないね」
「分かんないよ」
妻は食器を拭きながら答える。
「でも、向こうが何でもできるなら、こっちが何お願いしたって、みっともない感じはある」
「みっともない、か」
「だって、子どもじゃないんだから」
その言い方に、父親は少し笑った。子どもじゃないから願い事をしない、という理屈も変だ。大人だって願う。むしろ大人の方が、病気と老いと金と親の介護で、ずっと具体的に願う。
ただ、願うのと、国家の顔で紙にするのとは別だ。そこだけは何となく分かる。
寝室の方から、娘の寝返りの音がした。明日、起こすかどうか。夫婦は結局、その小さな判断をまだ保留したままだった。
世界の前夜に、家庭はよく保留でできている。
*
午後十一時二十五分。聖都、礼拝堂。
アレクシウス十三世は、誰もいない礼拝堂の最後列で立ち止まった。教皇が最後列に立つ必要はない。必要はないが、必要のないことをする方が、たまに祈りへ近い。
正面の小さな明かりだけが揺れている。石の床は昼の熱をもう失っていた。
彼は今夜だけで三本の文書に署名した。信者向け短声明、各国首脳向け書簡、青年層への補足文。どれも書いた瞬間に古くなる感じがした。だが、古くなるから書かないという理屈を採ると、言葉の仕事はすぐ終わる。
「明日、我々は意味を急がない」
彼は自分の書いた文を頭の中で繰り返した。
伝わりにくい。遅い。ニュース向きではない。だが、それでも遅い言葉を残すしかない日がある。
祭りは意味を早くする。
黙示録も意味を早くする。
信仰まで意味を急ぎ始めると、人は現実より先に物語へひざまずく。
彼はそれを避けたかった。避けられないとしても、少なくとも遅らせたかった。
木のベンチへ腰を下ろすと、年齢が少しだけ足に出た。疲れは平等だ。教皇にも、州兵にも、給食センターの所長にも、露店の若者にも出る。銀河文明の階層差より、その疲れの方がいまは少し信じられる。
彼は短く祈った。
明日、言葉より先に人を守ってください。
その祈りは神学としては雑だった。だが雑な祈りの方が、たまに現実へ触れる。
礼拝堂を出る時、側近が小声で伝えた。
「米国内の一部宗教ネットワークが、明日現地で“浄化の行動”を呼びかけています」
アレクシウスは立ち止まり、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
浄化。人間がその語を使う時、だいたい他人の血が近い。
「書簡を追加します」
彼は言った。
「神の名で先に暴力を正当化するな、と」
「今から間に合いますか」
「間に合わなくても書く」
その返答だけは、疲れていなかった。
*
午後十一時五十九分。連邦首都近郊、安ホテルの一室。
若い男は、分解した金属をベッドの上へ並べていた。テレビの音は消したまま、字幕だけが流れている。大統領の声明の切り抜き。現地の群衆。白い布。祈り。歓迎。屋台。笑顔。あの顔の一つひとつが、彼には自分の怒りを薄める道具に見えた。
怖いから近づく。強いからかわいいと思い込む。撃てない相手だから、せめて愛玩物の顔を貼る。そういう卑しさへ、自分だけは荷担しない。彼は今、そういう物語の中へ自分を置いていた。
部品を一つつなぎ、また外す。手順は知っている。知っているが、手が少しだけ汗ばむ。決めていない者の汗だった。
スマートフォンの通知欄には、牧師の説教の切り抜きが残っている。
祈りのためなら、武器はいらない。
男はその一文を、二度見て、閉じた。
それで祈りが足りるなら、誰もここまで来ない。
彼はそう思った。思ったが、その瞬間、自分が祈りの不足ではなく、自分の不足を埋めようとしているのではないかという考えが、一瞬だけよぎった。
彼は考えるのをやめた。
考え続けると、途中で人間へ戻る。
人間へ戻ると、引き金は重くなる。
窓の外で、遠くの歓声のようなものが上がった。前夜祭。そんな名前がニュースで使われていた。彼はその語をひどく憎んだ。祭りではない。少なくとも自分にとっては。
だが憎しみもまた、人を祭りへ参加させる手段の一つだった。
時刻が変わる。
金曜日が始まった。
男はまだ、最終的な決意を言葉にしなかった。言葉にしないままの方が、行動だけが残る。残るから危ない。




