4日目・5日目 ネオテニー効果
――20XY年3月10日、東京/連邦首都/聖都/ネットワーク空間
火曜日の朝、世界は少しだけ慣れていた。
慣れたと言っても、理解したわけではない。人間は、本当に理解したことより先に、繰り返し見たものへ身体を慣らす。高熱が続くと、三十九度が平熱みたいな顔をし始めるのと同じだ。街が動いている。信号が変わる。電車が来る。学校は半分開いて、半分閉じ、半分という割合では到底説明できない形で再開され、店は営業時間を短くし、病院は外来を絞り、役所は問い合わせ窓口を増やし、警察は増やした問い合わせ窓口の分だけ現場の人間を減らした。国家は壊れた時、必ずしも停止しない。むしろ、動きながら壊れる。
その方が厄介だった。
午前五時四十分、東京。
総理府中枢庁舎の地下は、もう曜日で人を区別していなかった。月曜の夜から居座っている人間と、火曜の始業で来た人間と、二時間だけ帰ってまた戻ってきた人間が、同じ紙を別々の顔で読んでいた。
真帆は、壁際の長机に置かれたコーヒーを一口だけ飲み、すぐに紙コップを置いた。温度はあった。味がなかった。胃だけが、いちいち生きていることを主張する。
正面のスクリーンには、各国のトレンド分析と、国内世論の推移、プラットフォーム各社から吸い上げた速報値が並んでいた。恐怖、不安、備蓄、逃避、祈り、株、戦争。最初の三日間を支配していた言葉が、今朝は一段ずれていた。
アンドロ。
その四文字が、一位になっている。
誰が言い始めたのかは特定できなかった。たぶん誰でもない。誰でもないものほど、現代では早い。匿名掲示板の一レスか、切り抜き動画のサムネイルか、ファンアートに付いたハッシュタグか、海外のティーンが打った短いコメントか。そのどこかから出てきた音が、数時間で人類共通の愛称になった。
アンドロ。
アンドロメダの略称であり、android の残響でもあり、どこかで子どものあだ名みたいにも響く。
真帆は、その短さが気に入らなかった。
短い名前は、近づくために使われる。近づきすぎると、人は相手を理解した気になる。
「夜中の伸びが異常です」
情報班の若い職員が言った。まだ二十代の顔だが、この四日で十年分は疲れて見える。
「投稿量、画像生成、二次創作、ファンコミュニティ、寄付、祈祷会、模倣美容、全部上がっています。拒絶系も増えていますが、勢いは明らかに歓迎と崇拝の側です」
「崇拝」
真帆が復唱すると、職員は少し言い淀んだ。
「言葉として強すぎるなら、熱狂でも」
「強すぎません」
真帆はスクリーンを見たまま言った。
「弱く言う方が危ない」
別画面に切り替わる。
十代の少女たちが、尖った耳に見えるメイクのやり方を配信している。大型量販店の前には、銀色のウィッグと青いカラーコンタクトを買いに来た列ができている。手作りの白い羽根を背負って踊る動画がある。アンドロ語録と銘打って、「よく眠ることを推奨します」「装飾された声明文は不要です」の文字がパステル色の画像に乗っている。祈りとミームと広告が、同じ画面幅に収まっていた。
怖いのは、そこに悪意がほとんどないことだった。
人は心から救われたい時にも、心から面白がっている時にも、似たような手つきで画像を共有する。
「未成年の模倣行為が増えています」
別の担当者が言う。
「家庭用接着剤による耳介延長まがいの事故が、昨夜から五十件。海外の動画を真似た自傷も」
「医療広告は」
「美容外科、遺伝子相談、海外サプリ、違法個人輸入、全部連結しています」
「止められない?」
「止めています。ただ、止めるほど増える」
それはそうだろうと真帆は思った。禁止は拡散の別名になる。特に、理由がまだきれいに説明できない時は。
城崎が入ってきたのは、その報告の途中だった。
睡眠を取っていない顔だったが、眠っていないことを顔で主張しないタイプの人間はいる。彼女はいつもより少し遅く歩き、席に座る前にスクリーンを一周見た。
「今朝は何が一番まずいですか」
誰もすぐには答えなかった。まずいものが多すぎる時、人は逆に序列を作れない。
真帆が口を開く。
「恐怖が、対処可能な形に移っていません」
「どういう意味」
「逃げる、備える、怒る、売る、買う、祈る。そのどれかに落ちるなら、まだ行政語に翻訳できます」
「今は?」
「愛玩です」
部屋が一拍だけ静まった。
言いすぎたかもしれない、と真帆は思った。だが撤回しなかった。
「保護欲、模倣、近接願望、所有願望。相手を理解不能な上位存在として怖がるより、理解できるサイズへ下ろして抱き込み始めています。『アンドロ』の浸透速度は、その指標です」
城崎は椅子に座りながら短く息を吐いた。
「嫌な言い方だけど、正確ね」
「はい」
「拒絶の側は」
「米国の一部福音派、国内の終末論コミュニティ、反技術系、過激保守、過激リベラル、いろいろです。ただ、いまネット上で勝っているのは、拒絶ではなく接近です」
「接近」
「“うちの子に似てる”“会ってみたい”“悪意がないならかわいい”“人類の方が醜い”」
真帆は資料を一枚めくった。
「一番厄介なのは、その混ざり方です。反省と崇拝が、もう区別されていない」
城崎は何秒か黙り、言った。
「こちらが出すものを決めましょう」
昨日から何度も出ていた話題だ。何を準備するか。何を“人類の側の提出物”とみなすか。相手は明言している。取引ではない。救済でもない。観察と交流。文化、物語、倫理、記憶の持ち方、孤独の扱い方。そこに資源や兵器や半導体プロセスを積んでも、たぶん退屈される。
しかし国家は、退屈されると分かっていても、自分が持っていると信じてきた札を一度は並べたがる。
防衛技術。宇宙開発。精密機械。アニメ、漫画、ゲーム。国宝。茶道。能。寺社。和食。全部候補に上がって、全部、どこかできれいすぎた。
きれいすぎるものは、国家が自分を見せる時にまず出す。だから逆に、いまは危ない。
相手が見に来るのは、国のショーケースではなく、文明の癖かもしれないのだから。
「昨日の続きです」
真帆が資料束を前へ滑らせる。
「文科、厚保、農政、地方行政、アーカイブ機構、介護現場、給食、保育、災害記録、葬送、家計簿、レシピ、交換日記、相談窓口、匿名掲示板の保存ログ」
経産と外務の担当が、少し嫌そうな顔をした。嫌なのは分かる。華がない。国家の威信を背負う資料の顔ではない。
「もっと“日本を代表するもの”を前面に出した方がよいのでは」
経産側の男が言う。
「せっかくなら、こちらの技術力や文化の高度さを」
「高度さ」
城崎がその語を拾う。
「いま誰に見せる高度さですか」
男は言葉を切った。
「相手が地球の技術に驚く可能性は、限りなく低い。驚かない相手に、高度さを示しても自己慰撫にしかならない」
城崎は資料を一枚手に取った。そこには、地方の公立中学校の給食献立写真が並んでいた。魚の煮付け、みそ汁、牛乳、ひじき、白飯。別のページには、介護施設の夜勤記録。何時何分、体位交換。何時何分、トイレ介助。何時何分、不穏訴え。何時何分、お茶。何時何分、眠れず見回り。
「私は、これの方がいいと思う」
そう言うと、部屋の空気が少しだけずれた。賛成ではない。だが否定もしきれない。
「国宝を出すのは簡単です。きれいだから。歴史があるから。意味を説明しやすいから。でも本当に見せるべきなのは、たぶん、こういうものです」
給食写真と介護記録の束を軽く持ち上げる。
「私たちが毎日、どうやって他人を食べさせ、寝かせ、洗って、看取っているか。どこで揉めて、どこで手を抜いて、どこだけは手を抜けないと思っているか」
木原がゆっくりと頷いた。
「文明の提出物としては、そっちの方が誠実かもしれません」
「誠実である必要がある?」
防衛側の人間が問う。
「好かれるためではなく」
「好かれるためではないです」
城崎は即答した。
「誤解されたくないからです」
その言葉は、部屋の大半に届いた。少なくとも、届いた顔をしていた。
誤解されたくない。国家がそんな言い方をするのは、たいてい負けている時だ。だが、負けている時にしか出てこない正確さもある。
*
午前七時十八分、埼玉県内の県立高校。
体育館は使われていなかった。避難所として開けておけという通達が出たためだが、避難してくる人間はまだ少ない。人間は、壊れかけた日常を、最後まで日常のまま使おうとする。
二年三組の教室では、朝のホームルームが始まる前から、教卓の周りに人が集まっていた。先生が来る前に話しておくべきことがある時、人はたいてい輪になる。
「見た?」
「新しい画像?」
「違う、あの補足のやつ。三万年前のファッション」
「ファッションっていうか身体改造文化でしょ」
「同じじゃん」
「違うって。流行ってたのが遺伝して今の姿らしい」
「それもう種族じゃん」
「でも元は遊びみたいなもんだったんでしょ」
話している当人たちも、意味が取れていなかった。だが言葉だけは回る。回りながら形を変える。誰かが拾いやすい形になっていく。
教室の後ろで、紗英がスマホを見ていた。夜のうちに描いたイラストに、二万いいねが付いている。白い翼のある少女が、コンビニの前で肉まんを食べている絵だ。自分でもふざけていると思った。けれど投稿した。怖かったからだ。怖い時、人は縮尺を変える。宇宙から来るものを、コンビニの前へ下ろす。
「また伸びてる」
隣の友達が言った。
「すご」
「別に」
紗英はそう返したが、胸のあたりが少し熱い。承認の熱だと分かっていた。分かっていても、消えない。
「タグ、何付けた?」
「#アンドロ #会えるならこれくらい普通でいて みたいな」
「気持ち悪」
「言い方」
「いや、でも分かる。怖いもん。普通でいてほしい」
その言葉が、紗英には少しだけ嫌だった。
普通でいてほしい。
それは祈りに聞こえるし、命令にも聞こえる。自分が理解できる範囲に収まってくれという願いだ。けれど人は、それを悪いことだと思わない。思えない。相手が宇宙人でも、好きになる時の手つきは同じだから。
先生が入ってきた。まだ三十代前半、ここ数日で一気に四十に見えるようになった顔。
「席つけ」
いつもより少し低い声で言って、教壇に資料を置いた。
「連絡がいくつかある。まず、SNSに上げる内容について学校として注意喚起が来てる」
教室がざわつく。
「『アンドロ』関連の創作、画像、模倣行為、呼びかけ、校内での衣装着用は禁止。特に自分の身体を傷つける形の模倣は厳禁」
「はいはい」
前の席の男子が小さく言った。
「先生も検索したんだ」
「してないわけないだろ」
先生は疲れた顔で返した。こういう返し方をする教師は、まだ生徒を人間だと思っている。
「あと、週末の登校は未定。家庭によってはオンライン切り替え。親と話せ。言っとくけど、先生も分かってない」
最後の一言に、妙な安堵が生まれた。分かってない。大人も分かってない。そこが少しだけ救いになることがある。
だが次の瞬間、教室後方の男子がスマホを掲げた。
「先生、トレンド見ました?」
「今はやめろ」
「いや、やばいですって。『会いに行けるなら行く』って集会の呼びかけ、もう十万人」
先生が一歩で奪いに行く。だが画面は見えてしまう。ホワイトハウス周辺集合、和平の花を持とう、白い服で来よう、宇宙人へ歓迎を示そう。別のタグでは、迎撃の志願者が募られている。排斥と歓迎が、フォントの違いくらいしか差のない画像で流れていた。
紗英は自分の絵の通知欄を閉じた。
急に、自分の描いた絵が遠く見えた。あれはまだ室内の遊びだった。外へ出て、群衆になって、手を振り、あるいは石を投げる段階は、別の温度だ。
*
午前九時二分、連邦首都。
大統領府西棟の会議室では、数字がもう数字の顔をしていなかった。世論調査、検索トレンド、交通規制案、州兵配置案、違法集会監視、各国代表団の出席可否、宗教団体の声明、広告市場の急変、パニック買いの分布、港湾の荷待ち時間。全部が、同じ壁面に押し込まれている。
リードは昨夜のままのネクタイを締め直しもせず、画面を見ていた。
「名前が付いたのか」
「はい」
レイノルズが言う。
「アンドロ。世界的に定着しています」
「気に入らん」
「私もです」
「なぜだ」
「近すぎます」
リードは目を細めた。
「近すぎる?」
「敵か、神か、玩具か。そのどれかにすると人は落ち着けます。今は三つが混ざっている。そこへ愛称が付くと、一番厄介です。理解した気になる」
リードは少しだけ笑いそうな顔をした。笑わなかった。彼はこの数日で、人間が最も危ない時に最も親しみやすい名前を付けることを学びつつあった。
「歓迎集会は」
「主催が細かく分かれすぎています。どれか一つを止めても別名で湧く」
「拒絶側は」
「もっと散っています。単独犯の兆候監視を強化中」
ウォーカー将軍が机を軽く叩いた。
「武器を並べる必要がある」
「分かってる」
リードは言った。
「意味はないが、意味がないことに意味がある」
部屋の誰も否定しなかった。軍が分かっていて無意味な重武装をする時、それは戦術ではなく儀式だ。国民の安心のための儀式。国家がまだ国家のふりをできるという確認の儀式。勝てる見込みがなくても、隊列だけは組む。
彼は別の紙を取った。
「提出物の候補?」
「はい。各国が“何を見せるか”を調整しています。日本は生活記録に振れています」
「生活記録?」
「給食、介護、災害対応、家計、匿名相談、家庭内の記録」
リードは少しだけ目を上げた。
「賢い」
「そうですか」
「少なくとも、半導体や核融合の資料よりはな」
彼は言ってから、椅子にもたれた。羨ましかったのかもしれない。合衆国が出すとしたら、たぶん最初に並ぶのはもっと大きくて、もっと見栄のあるものになる。映画、ジャズ、公民権運動、アポロ、インターネット、憲法、ハンバーガー、企業家精神。どれも間違っていない。だがどれも、相手の視線の高さが分からない時には少し危うい。
「うちは」
彼は言った。
「生活を出せるか」
誰もすぐには答えなかった。
アメリカは生活を持っている。もちろん持っている。だが国家が自分で見せる時、生活の泥臭さを前に出すことに慣れていない。誇りはたいてい、もっと乾いた場所に置かれる。
レイノルズが別の資料を出す。
「もう一つ。広告市場とプラットフォームの問題です。『アンドロ』関連は規制しても増え、放置すると政治・宗教・商業が混線します」
「すでにしてるだろ」
「ええ。ですが、昨日までの危機情報とは違います。これは単なるフェイク対策や暴力扇動対策ではない。信仰とファンダムと投機と自己改造欲が、一つのハッシュタグに入っています」
リードは黙った。
それはつまり、現代が一番得意な統合の仕方だった。全部を一つの市場にする。宗教も、身体も、孤独も、政治も。
向こうが「取引ではない」と言った時、本当に拒否されたのは何だったのか。たぶん技術ではない。自分たちの得意な変換機そのものだった。
*
午前十時十七分、サン・ラザロ通り近くの小さな教会。
神父は昨日から、同じ質問を四十八回受けていた。
あれは悪魔ですか。
答えは四十八回とも少しずつ違い、核心だけ同じだった。分かりません。分からないとしか言えません。分からないまま人を傷つけないでください。
しかし、人は「分からない」を答えとして受け取らない。特に祈る場所へ来た人間は、分からないものに名前をもらいに来る。
火曜日の午前、教会の外には二列の人間がいた。一列は祈りたい人間。もう一列は撮りたい人間。後者の方が静かで、前者の方が声が大きい。
神父は入口で立ち止まり、スマホを見ている若い女に言った。
「中では撮影をやめてください」
「でも記録なんで」
「あなたのための記録になってしまいます」
女は意味が分からない顔をした。意味が分からないのは当然だった。現代では、記録はだいたい自分のために行われる。記録しているという行為自体が、自分がそこにいたことの証明になる。
中の長椅子では、老夫婦が手を握っていた。高校生くらいの子が一人で座っている。スーツ姿の男が、仕事の途中で寄ったような顔をしている。宗教は、世界が壊れた時に人を集める。だが同時に、人を分けもする。
昨日、聖座が出した声明は慎重だった。異なる身体そのものを悪と見なさない。だが市場がそれに値札を付ける危険や、親が子に過剰な未来を課す危険を忘れるな。賢明な文章だと神父は思う。賢明すぎて、拡散には負ける。
拡散に勝つのはいつも、賢明さより断言だ。
悪魔だ。
天使だ。
神の試練だ。
新しい時代だ。
人は、複雑な文章を読み終える前に、短い言葉へ走る。
*
午前十一時三十分、都内の中堅プラットフォーム企業。
危機対策室には、警察OBも、法務も、広告営業も、コンテンツモデレーション責任者もいた。普段なら絶対に同じ机に座らない顔ぶれが座る時、その会社はだいたい本当に困っている。
「基準がない」
責任者が言った。
「暴力扇動なら落とせます。自傷教唆も落とせます。詐欺広告も止められます。問題は、それ以外です」
スクリーンには投稿例が並ぶ。
アンドロのファンアート。祈りの詩。会いに行こうという呼びかけ。白い服と羽根を自作する方法。尖った耳を作るメイク。家族写真の子どもの横にアンドロを合成した画像。「あなたは悪意がないから好き」と書かれた短文。終末論と救済論を混ぜた説教。違法な遺伝子編集サービスへの誘導。寄付先不明の宗教集会。どれも少しずつ違い、どれも一列に並ぶと似ていた。
「信仰は規制対象にしにくい」
法務が言う。
「信仰じゃなくても同じです」
営業が疲れた顔で返した。
「ファンダムも、悲しみも、応援も、今の広告モデルでは全部“エンゲージメント”です」
その言い方に、一瞬だけ全員が黙る。
エンゲージメント。
数年前まで前向きな単語だった。いまは、何にでも付く油みたいに聞こえる。
「全部止めるわけにはいかない」
「止めたら他所へ流れるだけです」
「流れた先で事件が起きたら?」
「起きます」
「起きるの前提で話すな」
「前提です」
若いモデレーターの女が言った。入社三年目、昨日から二十四時間のうち十八時間をここで過ごしている。
「だって、誰かは必ず、近づきたい。似たくなる。触りたくなる。信じたくなる。嫌いたくなる。どれも人間の側の普通です。普通だから多い。多いから全部は止められない」
彼女は自分の言葉に自分で少し驚いた顔をした。会社の会議室で“普通”という語を使うとき、人はだいたい少し遅れて恥ずかしくなる。
「じゃあ何を優先する」
責任者が問う。
「身体を傷つけるもの」
女は即答した。
「未成年の模倣。違法医療。個人情報晒し。集団自殺めいた集会。あと、“本当に会いに行ける”と誤認させる煽り」
「崇拝系のファンアートは」
「残すしかありません」
「本当に?」
「本当にです。消した瞬間、検閲された信仰になる」
誰も反論しなかった。もう皆、学び始めている。現代では、禁止は信念を強くすることがある。理由が十分に共有される前なら、なおさらだ。
*
午後一時九分、東京。
総理府中枢庁舎の地上階では、記者会見の準備が始まっていた。だが今はまだ表に出さない。表へ出す文は、できるだけ短く、できるだけ穴を残さず、しかし嘘をつかないようにしなければならない。その条件は、大雨の中で障子を張るようなものだった。
真帆は補佐官室で、提出物候補の一覧を見直していた。日本だけが選ぶわけではない。各国がそれぞれ、相手に何を見せるかを考えている。それでも、日本として何を差し出すかは日本が決めるしかない。
技術の表は、全部脇へどけた。
国宝級の映像は、量を絞った。
代わりに積んだのは、生活だ。
給食の配膳の動線。介護記録。保育園の連絡帳。震災避難所の名簿から削れる個人情報の線引き。匿名掲示板の人生相談ログ。小さな町工場の工程表。コンビニの夜勤マニュアル。家庭で作られた弁当の写真。奨学金の返済相談。町内会の回覧板。孤独死を見つけた時の自治体対応。ごみ出しの曜日を巡る苦情。保護猫の譲渡条件。高齢者見守りのアプリ通知。学校でのいじめ相談の記録。
くだらないと言えばくだらない。
尊いと言えば安い。
だが、文明はだいたい、こういうものの上に乗っている。
「本当にこれでいくんですか」
若い官僚が言った。責めてはいない。ただ、戸惑っている。
「もっと、ほかに見せるべきものがあるのでは」
「あるわよ」
真帆は答えた。
「山ほどある。だけど今それを出すと、私たちは“誇れるものだけでできた国です”と自己紹介することになる」
「それの何が」
「嘘ではないけど、半分しか本当じゃない」
真帆は介護記録の束を軽く叩いた。
「人間は、立派な文化だけで生きてない。むしろ、こっちの方がよく生きてる」
官僚はしばらく黙ってから言った。
「相手がこれを理解すると思いますか」
「分からない」
「分からないのに」
「分からないから」
その返答に、男は小さく頷いた。納得したというより、ここで止まっても意味がないと理解した顔だった。
部屋の隅で、城崎が別の紙を読んでいた。米側からの共有メモ。歓迎集会と抗議集会が同時拡大。周辺ホテルのキャンセルと予約が同時増加。航空券の値段が乱高下。白い服の売り上げ急増。宗教団体の祈祷会。美容関連検索の爆発。単独犯リスク上昇。
「人類の提出物を選びながら、人類の恥も増えていくわね」
彼女は紙から目を離さずに言った。
「恥を出さない方法はありません」
真帆が答える。
「なら、隠すより配分です」
城崎は紙を置いた。
「配分」
「どれだけ隠して、どれだけ見せるかじゃない。どれが私たちにとって恥で、どれが私たちにとって普通か、その配分です。向こうが見たいのはたぶん、そこです」
「その言い方、好きじゃないわ」
「私もです」
「でもたぶん、正しい」
城崎は椅子を引き、資料の山へ近づいた。
給食。介護。災害。相談。子育て。看取り。労働。彼女はその束を見ながら、自分が政治家になる前に信じていた国家の顔を思い出そうとした。安全保障。成長戦略。国際秩序。国家像。どれも必要だ。今も必要だ。だが国家の底は、もっと低い位置にある。
誰にご飯を食べさせるか。
誰を先に避難させるか。
誰の苦情を後回しにするか。
夜中の三時に、誰が誰の体を起こして水を飲ませるか。
そこへ戻っていく時、政治は急に格好悪くなる。格好悪くなるが、本当になる。
*
午後三時二十二分、銀座。
美容クリニックの受付では、予約電話が途切れなかった。若い女だけではない。中年の男、親子連れ、海外からの問い合わせ、匿名のメール。耳の形成。虹彩。銀髪。骨格。背中の埋込装置。年齢感の調整。全部、本当に来る。
院長の森崎は、昼からもう十七回同じ説明をしていた。
「できません」
「近いことも」
「しません」
「相談だけでも」
「今は受けません」
電話を切るたびに、次が鳴る。
スタッフの顔が目に見えて痩せていく。医療が、患者を治す前に社会の欲望の排水溝みたいになる瞬間がある。今日はその日だった。
受付の若い看護師が言う。
「院長、テレビです」
待合室の大型画面。昼の情報番組で、専門家が笑顔で“身体改変の未来”を語っている。まだ早い。森崎はそう思った。早すぎる。だがメディアは、分からないものを分からないまま置いておくことができない。必ず図表を出す。五年後、十年後、二十年後。未来予測の形にすると、不安が少しだけ手に持てるからだ。
「止めてもらえませんかね」
看護師が冗談半分で言う。
「無理だよ」
森崎は答える。
「止めたらもっと来る」
言って、自分でも嫌な気分になった。何でも、止めたらもっと来る。抑制が反転する。今週、人類はそのことばかり学んでいる。
外では、尖った耳の若者二人が写真を撮っていた。まだ仮装の範囲だ。だが仮装は、時々、本気の手前にある。
*
午後五時十一分、連邦首都。
大統領府では、歓迎演説の草稿と、警備計画と、最悪時の声明文が同じ机に並んでいた。順番の悪い葬式みたいだとレイノルズは思ったが、口には出さない。
「大統領、こちらを」
補佐官が草稿を差し出す。
リードは目を通す。合衆国は恐れない。合衆国は対話の意志を持つ。自由はあらゆる文明に通じる価値である。秩序、尊厳、歴史、責任。
悪くない。悪くないが、古い。
古い文章が悪いとは限らない。だが、古い文章が古く見える相手の前では、急に薄くなる。
「だめだな」
彼は言った。
「どこが」
「俺たちが自分に向かって喋ってる」
部屋が静まる。
「これを聞いて落ち着くのは、たぶん俺たちだけだ」
ウォーカー将軍が腕を組んだ。
「では何を言う」
リードは机の上の別の紙を見る。日本の共有メモ。生活記録。給食。介護。災害。匿名相談。彼はその方向が少し羨ましかった。
「まだ分からないと言うしかないかもしれない」
そう口にすると、首席補佐官が露骨に嫌な顔をした。
「国家元首が」
「知ってる」
「“分からない”で支持率は守れません」
「支持率の話をしてる場合か」
「してるから困ってるんです」
言い切った後で、部屋が一瞬だけ止まる。誰も彼を責めない。責められない種類の本音だった。国家危機の最中でも、政権は政権の時間から完全には逃げられない。
リードは立ち上がり、窓際へ行った。白い建物。柵。芝。警備。遠くに群衆。全部、地球の政治がまだ続いている印だ。だがもう、その政治が主役ではない。
「一つだけはっきりしてる」
彼は振り返らずに言う。
「取引はできない。少なくとも、こっちが得意な意味では」
誰も何も言わない。
「なら、人間の方を出すしかない」
自分で言って、自分が一番驚いている顔になった。人間の方を出す。国家元首の言葉としては変だ。曖昧だ。曖昧だが、今はそれしかなかった。
*
午後七時四十四分、東京郊外の団地。
夕食のテーブルで、小四の娘が言った。
「会いに行きたい」
母親の箸が止まる。
「どこに」
「アンドロに」
「ダメ」
「なんで」
父親が先に答えた。
「遠い」
「飛行機あるじゃん」
「今そういう話じゃない」
味噌汁が少し冷めている。スーパーの惣菜のコロッケ。千切りキャベツ。白飯。いつもの火曜日だ。子どもはそれを裏切るように、平気で世界の終わりの話を食卓へ持ってくる。
「悪い人じゃないんでしょ」
娘が言う。
「分からない」
母親が答えた。
「でも“よく眠れ”って言ってたよ」
「それも、分からない」
「じゃあなんでみんな怒ってるの」
父親が少し詰まる。
「怒ってる人ばかりじゃない」
「好きな人もいるよ」
「いるね」
「ママは?」
母親はコロッケを箸で半分に切った。中から湯気が少しだけ出る。普通の湯気だった。
「怖い」
「でも嫌いじゃない?」
その質問に、母親は答えられなかった。
子どもは時々、言葉の順序を飛ばす。怖いの後に何が来るかを、大人ほど決めつけない。
父親が助け船を出す。
「会えるかどうかも分からないし、会えたとしても、行っちゃだめな場所はある」
「なんで大統領府なの」
「たぶん、そういう場所だから」
「そういうって?」
「……偉い人の家」
娘は少し考えてから言った。
「じゃあ学校来ればいいのに」
その一言で、食卓の空気が変わった。
学校来ればいいのに。
給食を食べて、掃除して、六時間目の終わりに眠そうな顔をして、みんなで体育館に集まって、校長の長い話を聞いて、上履きのままトイレへ行って怒られて、保健室で寝て、帰りに友達とコンビニ寄って、明日ねと言う。そういう場所へ来ればいいのに。
母親は少し笑いそうになって、笑わなかった。
「来たら困るよ」
「なんで」
「大変だから」
「でも大統領府も大変じゃん」
父親が咳払いをした。正しい。
大統領府も大変だ。むしろそちらの方が大変だろう。だが“偉い場所で大変”なのと、“生活の場所へ来て大変”なのは、違う種類の怖さがある。
娘はご飯を一口食べて言った。
「給食の方がいいのに」
母親はその時、昼に流れていたニュースを思い出した。日本政府が「生活の記録」を交流準備に含めるらしい、という未確認情報。もしそれが本当なら、少しだけ安心する。国家が変な見栄より、子どもの言うことに近い方向へ曲がってくれているからだ。
*
午後九時三分、ネットワーク空間。
“アンドロ祭り”というタグが立った時、それを最初に止めようとしたのは、ごく少数の古参ユーザーだった。軽すぎる、冗談にするな、現実を見ろ。その忠告は一時間で流れた。祭りは、止めようとする声を燃料にする。
タグの中では、あらゆるものが混ざっていた。ファンアート、考察、宗教、陰謀論、願望、朗読、ASMR、料理動画、手作り羽根、アンドロ風メイク、白い服のコーディネート、祈りのライブ配信、合成音声で読ませた彼女の台詞集、宇宙人へ見せたい地球飯の投稿、介護現場の写真、給食自慢、保育士の一日、消防士の仮眠室。カオスだった。だが単なる混沌ではない。人類が“提出したい自分”を勝手に持ち寄り始めていた。
あるユーザーが、祖母の介護日誌を匿名化して載せた。朝六時起床、薬、排泄介助、朝食、拒薬、再度声かけ、午前の散歩、昼食、昼寝、夕方不穏。そこへ一万件近い反応が付く。尊い、つらい、うちも同じ、見せたい、これが人類、いや勝手に晒すな。全部正しいようで、全部少しずつ違う。
別のユーザーは、小学校給食の写真を並べた。海外からの返信が付く。ミルク? 毎日? 栄養管理? なぜこんなに配膳が整っている? それに日本の保護者が答える。いや、地域差がある。完璧じゃない。残す子もいる。牛乳が嫌いな子もいる。貧困の問題もある。
真実が、宣伝より少し遅れて混ざり始める。
それは悪くない兆候だと、どこかの社会学者が書き込み、引用の果てに殴られていた。
夜のうちに、アンドロに手紙を書こうという運動が広がった。恋文も、謝罪も、質問もある。「人類を嫌いにならないでください」「うちの犬を見てほしい」「どうして大統領府なの」「私たちは取引以外のものをまだ持っていると思う?」「戦争を止められますか」「止めないでください、あなたが止めたら私たちは何も学ばない気もする」「会うのが怖いです」「会いたいです」
矛盾した文が、同じタグの下に並ぶ。
文明はだいたい、そういう時に一番よく見える。
*
3月11日、水曜日。午前零時十六分、東京。
庁舎地下の会議室では、日付が変わる瞬間を見ていた人間はほとんどいなかった。見ていたところで何かが変わるわけでもない。変わるのは時計だけで、しかし時計だけが人を持たせることもある。
真帆は、机の端に積まれた“提出物候補”の最終仮組みを見た。
一、食べること。給食、弁当、レシピ、配膳、栄養管理、孤食。
二、老いること。介護、見守り、失禁、夜勤、看取り。
三、育てること。連絡帳、予防接種、発熱、保育、いじめ相談。
四、逃げること。避難所、名簿、配給、安否確認、仮設住宅。
五、話すこと。匿名相談、交換日記、掲示板、遺書未満のメモ。
六、壊れたあとも続けること。コンビニ、ごみ収集、配送、町工場、夜勤。
立派ではない。
立派ではないから、いい。
「これでいきます」
真帆が言うと、城崎は頷いた。
「表の文だけ変えましょう」
「どこを」
「“提出物”はやめる」
城崎は言った。
「提出だと、採点されるために出す感じがする」
「では」
「“持参記録”」
「固い」
「そうね」
少し考えてから、彼女は笑いそうになって言った。
「“人類の生活記録”でいいか」
真帆も少しだけ口元が緩んだ。
大きな出来事の中心で、文言だけがやけに小さい。だが、たいてい本当に重要な文は、そういうふうに決まる。
木原が新しい速報を持って入ってくる。
「米側、歓迎演説のトーンを調整中です。強い言葉を削っています」
「削れるのね」
城崎が言う。
「削らざるを得ないという顔です」
「なら少し安心」
真帆はそう言ったが、安心とは違うものだった。相手が強い言葉を削る時、それは平和になったのではなく、通じる言葉が減ったということでもある。
「ネットは」
城崎が訊く。
「相変わらずです」
木原は資料を渡した。
「“アンドロ祭り”が海外でも派生。歓迎集会の準備、模倣美容、宗教集会、ライブ配信機材搬入。あと、思ったより多いのが“生活を見せよう”系です」
真帆が顔を上げる。
「本当に?」
「給食、介護、家族の夕飯、ペット、通勤電車、失恋の話、祖父母の写真。みんな勝手に何かを見せたがっている」
城崎はしばらく黙った。
「分かりやすいものより、そっちの方が少し救いね」
「なぜですか」
「神や敵に向かっては、人はだいたいポーズを作る。生活を見せる時は、少しだけ手を抜くから」
その言い方は、この数日で一番彼女らしかった。
*
午前六時五十二分、札幌の老人ホーム。
夜勤明けの介護士が、仮眠室でスマホを見ていた。アンドロの画像。歓迎集会の動画。遠い国の大統領府の芝生。白い服の群衆。コメント欄に「人類を見に来るならこれ見て」が並ぶ。給食、介護、日記、食卓、夜勤。
介護士は笑いそうになった。
見せるならこれ見て。たしかに、昨日の入浴介助の方が、よほど地球だった。入れ歯をなくしたと騒ぐ人、もう亡くなった夫の名前を呼ぶ人、夜中に帰ると言って上着を探す人、同じ質問を六回する人、朝になったら急に静かになる人。
あの宇宙人が、これを見てどう思うのかは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、もし本当に観察したいなら、偉い建物よりこっちの方が面白いだろうということだった。
彼女はスマホを閉じ、仮眠室の電気を消した。十分だけ寝るつもりだった。十分だけでも、人は少し戻る。世界がどうなっていても、眠気だけは民主的だ。
*
午前九時四十五分、連邦首都。
リードは新しい草稿を読んでいた。前の版より短い。勝利も、自由も、歴史も、少し削ってある。代わりに増えたのは、“知りたい”という語だった。
知りたい。
国家が外交文書で使うには、少し幼い言葉だ。だが幼い言葉しか残らない時がある。
「これでいくかもしれない」
彼が言うと、首席補佐官が微妙な顔をした。
「弱く見えます」
「そうだろうな」
「支持層は」
「支持層の話をするなら、もっと強い言葉を並べたっていい」
「では」
「たぶん、それで満足するのは一日だ」
彼は窓の外を見た。白い服の群衆が増えている。遠くには、拒絶を叫ぶ少人数の固まりもある。歓迎と拒絶。どちらも、自分が歴史の正しい側にいると思っている顔をしている。
「向こうはたぶん、強い言葉に飽きている」
彼はぼそりと言った。
「それは」
レイノルズが言いかける。
「推測だ」
「ええ」
「だが、いま俺たちにあるのは推測だけだ」
部屋の中に誰も笑わない種類の静けさが落ちた。
*
午後一時十三分、東京。
記者会見場に立った城崎は、予定原稿を半分だけ見た。全部読むと、国家は楽をする。楽をした国家の言葉は、だいたい一週間後に古くなる。
「本日、政府は、来訪予定の相手に対する準備の一環として、技術や兵器ではなく、人類の生活記録を含む資料群を整理する方針を確認しました」
記者席が少しざわつく。分かる。地味すぎる。見出し映えがしない。
「給食、介護、災害対応、相談記録、地域の生活、家族の記録。そうしたものです」
フラッシュが光る。
「それに何の意味があるのか、というご質問はあると思います」
彼女は真正面を見た。
「私たちは、国家として立派なものだけでできているわけではありません。むしろ、日々の食事、老いへの対応、弱い立場の人の扱い、匿名の相談をどう受け止めるか、そうした泥臭い判断の集積が社会を作っています。相手が“観察と交流”を目的とすると言うなら、そこを隠すべきではないと判断しました」
会見後、その映像は思いのほか広く拡散した。
支持も、嘲笑も、困惑も、全部付いた。給食が人類代表? 介護日誌を宇宙人に? わけが分からない。いや分かる。そういうものだろう。日本は変なところで正しい。そんなコメントが並ぶ。
真帆は会見映像の数字を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。完勝ではない。だが少なくとも、政治が珍しく見栄より先に生活へ降りた。その事実は残る。
*
夕方、空はどこの国でもたいして変わらなかった。
色の差はある。湿度も違う。建物の高さも違う。だが、それでも、人が見上げるという行為はどこでも似る。見上げたところで、肉眼では何も分からない。分からないのに見上げる。見上げるしかないからだ。
火曜と水曜の二日間で、恐怖は別の顔になった。
崇拝、模倣、商売、祈り、保護欲、自己嫌悪、開き直り。全部が混ざった。
人類はまだ、彼女を理解していない。
その代わり、自分たちの反応の仕方だけは、少しずつ見せ始めていた。
偉い建物で会う前に、すでに各家庭の食卓や、学校の教室や、介護施設の夜勤室で、提出は始まっていたのかもしれない。
自分たちが何を大事だと思っているかの提出。
何を恥だと思い、何を普通だと思い、何を見せたくて、何を隠したいかの提出。
文明はたぶん、博物館より先に、そういうところで読まれる。
水曜日の夜、真帆は庁舎の窓のない廊下を歩きながら、スマホに一瞬だけ目を落とした。通知欄の一番上に、見覚えのない投稿が流れてきた。
小学校の給食の写真。
横に短い文。
「会うなら、まずこれ食べてからにして」
少しだけ笑いそうになった。笑わなかった。
でも、その言い方は嫌いではなかった。
*
午後二時四十六分、テキサス州ヒルカントリー。
古い礼拝堂の駐車場は、平日の午後なのに埋まりかけていた。集まっているのは高齢者だけではない。三十代の夫婦、軍帰りの男、ホームスクーリングの母親たち、地元議員、陰謀論に足をかけた若者。火曜日の午後にここへ来られる人間だけが来ている、という偏りがすでにあった。
牧師は壇上で、いつもより少しだけ声を張っていた。
「美しい姿で現れるものに、何度騙されてきたか」
聖書が高く持ち上がる。
「翼、光、穏やかな声。そういうものは証明にならない」
前の列の女が泣いている。後ろでは配信カメラが回っている。礼拝と切り抜きは、もう互いに邪魔をしない。神を語る手つきと、再生数を気にする手つきが同じになって久しい。
「彼女は、あなたがたの恐れに優しい言葉を与えた。だが優しさは真実の証拠ではない。人を眠らせる言葉は、いつでも正しく聞こえる」
会衆が応答する。
アーメン。
その声の中に、安心が混じっている。断言されることへの安心だ。
礼拝の最後に、若い男が牧師へ近づいた。
「先生、十三日は行くべきでしょうか」
「どこへ」
「首都へ。祈りのために」
牧師は男の顔を見た。まだ幼さが残る、腹を決めきっていない顔。
「祈りのためなら、どこにいてもできる」
そう答えたが、男が本当に聞きたかったのは別だと分かっていた。行っていいか。行って、何かをしていいか。そういう許可だ。
牧師はその許可を与えなかった。
だが、与えないことと止められることは同じではない。人は、自分で引いた引き金に、後から神の名前を貼る。
*
午後四時八分、聖都。
教皇アレクシウス十三世の執務室では、午後の光が机の端だけを照らしていた。古い街では、どれだけ世界が騒いでも、窓から入る光だけは昔の速度で入ってくる。
神学顧問、生命倫理顧問、報道官、外交担当。机の上には、米国福音派の説教要旨、日本政府の会見要約、各国から届いた問い合わせ、若年層の自己改造願望に関する報告が積まれている。
「“アンドロ”」
報道官が嫌そうにその語を読んだ。
「愛称が先に定着しています」
「人は恐れるものに名前を付ける」
アレクシウスが言う。
「昔からそうです」
「今回は、愛玩名です」
報道官は言い換えた。
「保護欲を呼ぶ短さです」
教皇は少し考えた。
「保護欲は、恐怖より扱いにくい」
部屋が静まる。
「恐怖は距離を取る。保護欲は近づく」
彼は続けた。
「近づく方が、魂にも身体にも、時々は危険です」
生命倫理顧問が資料を差し出した。
「未成年の模倣行為。遺伝子相談への問い合わせ急増。とくに“生まれてくる子に古い身体を与えたくない”という表現が増えています」
アレクシウスは、その一文で目を止めた。
古い身体。
嫌な語だった。差別の予感を、未来形で含んでいる。
「声明を足します」
彼は言った。
「身体の差異そのものを悪と見ないという前の立場は維持する。そのうえで、比較によって人間の尊厳を削る市場語を拒否する」
外交担当が慎重に問う。
「相手の身体文化を批判しないまま、こちらの市場を批判する形になります」
「ええ」
「政治的には」
「政治的だからやるのではありません」
アレクシウスは紙の上で指を止めた。
「子どもが自分の耳を嫌い始める速度の方が、国際政治より速いからです」
その言い方に、全員が少しだけ目を伏せた。
教皇庁の文書が、そんな速度に勝てるかは分からない。だが遅いから書かない、という理屈を採ると、言葉を持つ仕事はすぐに終わる。
*
午後六時五十七分、地方都市の市役所。
危機対策会議の部屋には、生活感だけが溜まっていた。ペットボトルの水、コンビニのおにぎり、延長コード、プリンターのインク臭。国家危機と言っても、末端ではいつもこういう匂いになる。
総務課長、防災担当、福祉担当、教育委員会、給食センター所長、地域包括支援センターの主任。真帆たちが選んだ“生活記録”の方針が、地方にまで下りてきた。
「給食の記録を選ぶなら、何を出すんですか」
教育委員会の男が訊く。
「献立だけでは弱い」
「弱いって」
「立派すぎると逆にだめです」
福祉の女が言った。
「立派じゃないものを出すんでしょ、今回は」
その通りだった。市役所の人間は、国の高い言葉を現場の低さへ翻訳することに慣れている。
「食物アレルギー対応の記録も入れましょう」
給食センター所長が言う。
「代替食、誤配防止、保護者への連絡」
「介護側は」
地域包括の主任が手帳を開く。
「独居高齢者の見守り、認知症行方不明、夜間の緊急搬送、家族と施設のあいだで揉めた記録。きれいじゃないですけど」
「きれいじゃない方がいい」
総務課長が珍しく即答した。
「きれいな市役所の資料なら、毎年作ってる。どうせ今見せるなら、何に困ってて、どこでうまくいかなくて、それでもどこまでは続けてるかだ」
その結論は、誰にも異論がなかった。地方行政は、誇れるものより続いているものを知っている。道路が崩れても、雨が降っても、クレームが来ても、ごみは集める。学校は何とか開ける。独居老人へ電話する。きれいではないが、これを失うと都市は都市でなくなる。
会議の最後、若い職員がぽつりと言った。
「でも、なんであの子は、そんなもの見たいんですかね」
誰も答えなかった。
答えられないが、考えないわけにもいかない問いだった。
福祉の女が最後に言う。
「見たいんじゃなくて、そこに一番出るんじゃないの。私たちが」
その言葉が一番静かで、一番重かった。
*
午後十時三十三分、都内のワンルーム。
紗英はベッドの上で膝を抱え、タブレットを見ていた。昨日上げた絵の通知はまだ増えている。フォロワーも増えた。企業案件を匂わせる連絡も来ていた。耳飾りのPR、白いワンピース、カラーコンタクト。現代は何でもすぐ商売になる。自分でもそれを嫌悪していたはずなのに、通知欄を閉じられない。
その時、別の投稿が目に入る。地方の介護士が上げた夜勤日誌。匿名化された短い記録。二時十分、トイレ介助。二時二十八分、水分摂取。三時零三分、帰宅願望。三時十一分、手を握ると落ち着く。紗英はそれを、なぜか最後まで読んだ。
派手ではない。映えない。絵にもならない。だが、目が離れなかった。
彼女はふと、自分の絵のコメント欄を開く。かわいい、会いたい、守りたい、絶対いい子、天使、ママみ、妹み、尊い。そういう言葉が並んでいる。怖かった。怖いのはコメントした人ではなく、自分も少しだけ分かってしまうことだ。
守りたい。
何を。
どこから。
自分たちより圧倒的に強い相手を。
その矛盾に、人はすぐ慣れる。慣れると、もっと近づく。
紗英は新しい下書きを開いた。今度は、宇宙人の少女を描かなかった。夜勤の介護士の手だけを描いた。見たこともない手を、想像で描く。皺の位置が分からない。だが、何かが昨日と違っていた。
怖がるだけでも、可愛いと言うだけでも足りない。そんな感じが、初めて少しだけした。
*
3月11日、水曜日、午後十一時五十八分。
真帆は庁舎の資料室で一人、最後の整理をしていた。生活記録の束は、もう一つの国のように見えた。正式な国名も、国歌も、国境もない。だが、食べる、老いる、育てる、逃げる、眠れない、相談する、看取る。それらの記録だけで一つの文明圏が見える。
机の上に並んだ給食の写真を見て、彼女は少しだけ笑いそうになった。牛乳を嫌っている子のメモまで入っている。そこまで見せるのかと思う。だが、そこまで見せるから、たぶん本当になる。
スマホが一度だけ震えた。海外記者からの問い合わせ。どうして日本は国宝ではなく給食を選んだのか。
真帆は返信しなかった。
言葉にするとすぐ安くなる種類の判断がある。
それでも、明日には言葉にしなければならない。
彼女は資料の上へ薄く手を置いた。
人類の提出物。
いや、そんな大げさなものではないのかもしれない。自分たちがまだ続けていることの記録。大きなものに見下ろされた後でも、なお人間がやめていない手仕事の記録。
窓のない部屋で、日付が変わる。
あと二日。
祭りは、まだ終わらない。
むしろ今が本番の手前だった。恐怖が一度かわいい顔をして、そのあとで何を壊すのか。まだ誰も、ちゃんとは知らない。
*
3月11日、水曜日、午後四時二十八分、都内のテレビ局。
報道フロアでは、普段なら混ざらない部署の人間が同じ机へ資料を持ち寄っていた。政治、社会、経済、国際、カルチャー、医療。全部が“アンドロ案件”になると、専門の境界だけが先に無意味になる。
「六時台、何で引っ張る」
デスクが訊く。
「歓迎集会」
「もう飽きた」
「飽きてないですよ」
若いディレクターが言う。
「むしろ今がピークです。十代の模倣、地方の祈祷会、遺伝子相談、全部つながってる」
「つながってるように見せるのが仕事だろ」
「それ、今いちばん危ない言い方です」
場が少しだけ止まる。
経済部の女が助けるように言った。
「日本政府の“生活記録”方針、あれを軸にしましょう。市場でも宗教でもなく、生活の側へ落とす」
「地味だ」
「地味です。でも、あの子をどう呼ぶかより、こっちの方が後に残る」
制作卓の後ろでは、巨大モニターに視聴率の見込みが出ている。歓迎集会は数字を取る。白い服の群衆も、尖った耳の若者も、遠くの偉い建物も、テレビ映えする。給食や介護日誌はしない。
しないが、しないからこそ今やる価値があるのかもしれない。そんな顔を、ベテランの一人が珍しくしていた。
「街でコメント拾うなら」
彼が言う。
「会いたいです、怖いです、守りたいです、の三本で切るな。給食センターと介護施設も回れ。子どもと年寄りの方が、この話、早く生活に落ちる」
それは、テレビ局としては少しだけ立派すぎる判断だった。
だから別のデスクがすぐ現実を戻す。
「でも白い羽根の集団は一応押さえろ」
全員が小さく笑った。笑うしかない。現代は、立派な判断と絵になる判断を、結局どちらも必要とする。
*
午後七時十二分、神奈川県内の給食センター。
調理場は、宇宙人と無関係な音で満ちていた。大鍋、湯気、金属のぶつかる音、エプロンの擦れる音、アレルギー対応の確認。明日の献立は鶏肉の照り焼き、野菜の和え物、豆腐のみそ汁、牛乳。いつも通りだ。いつも通りに見せるための確認だけが増えている。
「本当に送るんですか、写真」
若い調理員が訊いた。
「送るらしいよ」
所長が答える。
「国の方から依頼が来た。配膳の流れ、検温記録、異物混入対応、残食率、食育の掲示物」
「そんなもん見て、何が分かるんですかね」
「分からない」
所長は即答した。
「でも、こっちだって毎日、見ても分からないもん相手にしてるだろ」
「何を」
「食べるってこと」
若い調理員は少し笑った。笑ったが、分からない顔のままだ。
所長は大鍋の前で立ち止まった。
「同じ献立でも、全部食べる子と半分残す子がいる。好き嫌いもある。家で朝飯食ってる子と食ってない子がいる。牛乳一本で助かる子もいれば、無理な子もいる。食べるってだけで、生活の差が全部出る」
彼は白衣の袖をまくり直した。
「もし観察したいってんなら、たぶん、ここは悪くない」
湯気が上がる。人参の匂い。だしの匂い。遠い銀河の話が、湯気の高さまで降りてくる時、人は少しだけ正直になる。
*
午後十一時三十九分、連邦首都近郊の安ホテル。
歓迎集会のために前乗りしてきた若者たちが、ロビーで白い布を切っていた。旗ではない。羽根でもない。ただ肩からかけるだけの、意味の薄い布だ。意味の薄いものを身につけると、群衆は少しだけ自分の感情を預けやすくなる。
「本当に会えるかな」
「分かんない。でもいた方がいい気がする」
「何のために」
「分かんないけど」
彼らは笑った。笑いながら、不安を飲み込む。
そのホテルのテレビでは、どこかの国の首相が給食の写真について説明していた。ロビーの誰も真面目には聞いていない。だが聞いていない形で、耳には入る。
食べること。老いること。育てること。そういう言葉は、いちばん遠い場所へ行く前夜ほど妙に効く。
若者の一人が、切った白布を肩に当てながら言った。
「なんかさ、結局、向こうが見たいのって、こういうのかもな」
「こういうの?」
「何持ってるかじゃなくて、どう生きてるか」
誰も上手には返さなかった。
上手に返せない話ほど、たぶん残る。
水曜はまだ終わらない。
だが終わらないまま、人類の側だけが少しずつ答えを書き始めていた。
その答えが正しいかどうかは、まだ誰にも分からない。
ただ、空欄ではなくなった。
それだけで少し違う。




