最終日 真実
――20XY年3月10日、東京/ケンブリッジ/聖都/連邦首都
身体は自分のものだ、と人はよく言う。
だいたい正しい。だが、どこまでが「自分のもの」なのかと訊かれると、急に話が怪しくなる。髪を染めるのは自由だと言える。鼻を高くするのは人によって賛否が割れる。生まれてくる前の子の形まで変える話になると、自由より先に別の単語が出てくる。制度、倫理、神、優生、医療、安全性。そういう単語だ。
火曜日の朝、地球はその境目をまとめて踏まれた。
*
午前五時六分、東京。
官邸地下の会議室では、夜がそのまま机に座っていた。
蛍光灯が白い。コーヒーが冷めている。資料の角だけが妙に立って見える。真帆は三時間前に一度だけ洗面所へ行き、顔を洗った。その一度で何かが回復するわけではない。ただ、目の縁が少し冷える。それだけで戻ってきた。
壁のスクリーンが一斉に切り替わったのは、各省からの状況報告が二巡目に入ったところだった。
警告音は鳴らない。
もう、鳴らないことに誰も驚かない。
「来ました」
情報班の若い職員が言った。声が裏返りそうになって、ぎりぎりで戻る。
白地に黒い文字。
映像ではない。見た目だけなら、どこかの省庁が夜中に差し込んできた事務連絡に見えた。そこが嫌だった。世界が壊れるたびに現代的な画面になるのは、何度見ても気分が悪い。
上段には短い文が並んでいた。
追加情報を共有します。
前回の通信後、地球上で多くの質問が観測されました。
理解の補助のため、補足します。
真帆は椅子から少し前に身を乗り出した。
文字は日本語になっている。隣の端末では英語、中国語、アラビア語、フランス語でも同じ文面が出ているらしかった。誰の訳文でもない。だから細部まで嫌に均一だ。
厚労省の審議官が読み上げる。
「外見について。身体的特徴――銀色の毛髪、水色の虹彩、耳の形状、背部の飛行器官、骨格比率について説明します。これらは私の文明において約三万年前に流行した身体改造技術の結果です」
そこで一度、部屋が止まった。
読み上げた本人が止まったのではない。空気が先に止まった。
何人かが文字を見直す。聞き間違いではないかと確認する時の、あの短い沈黙だった。
「続けます」
声が少し低くなる。
「当時、身体は芸術的および文化的アイデンティティの表現媒体として広く改変されていました。現在でも、その時代に改変を受けた系統は形質を継承しています。地球上の特定のサブカルチャーとの視覚的類似は偶然の一致です」
誰かが咳払いをした。
笑いそうになったのか、単に喉が荒れていたのか、真帆には分からなかった。たぶん両方だった。
だが文面はそこで終わらなかった。
「補足二。地球では身体改変を複数のカテゴリーに分けているようですが、観測上、それらは連続しています。装飾、治療、能力補助、老化抑制、生殖選択、行動制御、社会的適応のための改変は、区分の仕方が異なるだけで、相互に隣接しています」
今度は、誰も咳払いをしなかった。
「補足三。私たちの文明でも、当初から全員が改変を支持したわけではありません。宗教的反対、階層化、出生時選別、軍事利用、規制の失敗が発生しました。対処には長い時間がかかりました」
最後の一行だけ、妙に短かった。
「ご安心ください。私は今回、その技術を提供する予定はありません」
木原が低く言った。
「予定はない、か」
誰に向けた言葉でもない。
城崎は何も言わず、画面を見ていた。椅子にもたれてはいない。前に出てもいない。身体の位置だけで、まだ考えていることが分かった。
法制局長官が先に口を開いた。
「これは、遺伝子改変に関する情報と見てよろしいですか」
「少なくとも、そう読めます」
厚労省。
「生殖細胞系列を含む可能性が高い。形質の継承とありますので」
「飛行器官というのは」
防衛省の制服組が、どう訊けばいいのか決めきれない顔で言う。
「本当に飛べると考えるべきでしょうか」
「その問いは今朝の本筋ではないと思います」
城崎が言った。
「飛べるかどうかは、たぶん向こうにとって枝です。問題は、身体そのものをどこまで文化として扱っているかでしょう」
文化。
その単語がこの部屋に入るのは珍しい。入るたびに、だいたい居心地が悪くなる。
真帆は画面の続きを追った。
補足文はさらに細かかった。改変の時代には反改変の共同体も存在したこと。自然出生系統を守る運動が暴力化したこと。美容と軍事が最初に癒着したこと。規制当局が富裕層の越境医療に追いつけなかったこと。改変の自由を掲げる側が、結局は親と市場に子どもの身体を預けたこと。
読んでいくと、宇宙人の話というより、嫌な未来予測を圧縮した報告書に見えた。
「誰が書いても同じ結論になるな」
経産省の審議官がぼそっと言った。
「金のあるやつから先に綺麗になって、強くなって、長生きして、正義の名前だけ後から付く」
誰も否定しなかった。
真帆は、否定しない速さにぞっとした。みんな、最初からそれを知っていたみたいだった。
城崎が手元のメモを裏返した。
「整理します」
声は乾いている。
「第一に、相手は自分たちの身体改変を恥じていない。隠してもいない。むしろ、こちらの反応を観測した上で補足してきた。第二に、技術提供はしないと明言した。第三に、問題は技術の詳細ではなく、それが社会と宗教と階層に何をしたかだと向こう自身が書いている」
そこで一度、部屋を見た。
「つまり、こちらが問われているのは“欲しいです”か“気持ち悪いです”かではありません。人間が、自分の身体をどう扱ってきたか。そこです」
真帆はペンを持ったまま止まった。
首相の言い方はいつもより平たい。平たい時ほど、線が太い。
「今日中に、日本側の質問案を作ります」
城崎は続けた。
「技術要求は入れない。入れた瞬間に全部痩せる。聞くべきなのは、法と階層と親子と宗教の方です」
外相が確認する。
「各国にも共有を?」
「共有する。ただし、採用するかは各国に任せる」
「ばらつきます」
「でしょうね」
城崎は言った。
「人類がこの件で一致しているふりをするのは、たぶんもう無理です」
真帆はその場で配布用のメモを修正し始めた。
見出しを変える。
身体改変技術について
ではない。
身体をどこまで社会に預けるか
にした。
自分で打っておいて、嫌な題だと思う。
嫌だが、他よりましだった。
*
午前八時二十三分、マサチューセッツ州ケンブリッジ。
アーメッド・カリルは、研究所の自動ドアが開く前から、もう負けている気がしていた。
眠っていない頭で読む文章ではない。だが眠っていたとしてもましになったかは怪しい。彼は四十五歳で、遺伝子工学研究所の所長だった。肩書はだいたい役に立つ。助成金には強いし、会議では最初に喋れる。だが、三万年前に生殖細胞系列の大規模改変をファッションとして済ませた文明の報告書を前にした時、その肩書はただの紙になる。
ラボの大型画面には、宇宙人の補足文と、それに対する各チームの注釈が並んでいた。
赤字。青字。黄色のハイライト。略語。疑問符。
人間は、分からない時ほど注釈を増やす。
「所長」
ポスドクのナタリーが振り向いた。
「飛行器官の件ですが、骨格、筋群、代謝、肺容量、神経系の同期まで全部弄らないと説明がつきません」
「説明はつくのか」
「つけようと思えば、です。人間に適用できるかは別です」
別、どころではない。
カリルは椅子に座らず、机の角に腰を預けた。若い研究者が二人、文章の一節をめぐって声を低くしていた。
「“装飾、治療、能力補助、老化抑制、生殖選択、行動制御、社会的適応は連続している”」
「この一文、最悪だな」
「分かってたことを、外から言われるのってきついですね」
「分かってたなら、もう少しましな議論の仕方できただろ」
ナタリーがカリルを見る。
「どう読みますか」
彼はすぐに答えなかった。
机の上に、昨日まで別世界の話だった資料がある。CRISPRのオフターゲット。胚編集をめぐる各国規制。疾患予防目的の介入と美容目的の介入の境界。出生前スクリーニングの拡張。米国内の州法の差異。
昨日まで、それが最前線だった。
「まず」
カリルは言った。
「三万年前という数字に酔わないことだ。時間の差は大きいが、問題の種類はたぶん似ている」
「似てますか」
「似てるよ。きれいになる、病気を防ぐ、子どもに苦労させたくない、能力を落としたくない、周りより不利になりたくない。入口はだいたいその辺だ。そこまでは人間ももう足をかけてる」
「でも、彼らは系統として固定した」
「そこだな」
彼はようやく椅子に座った。
椅子は回る。回るが、今日は回したくなかった。
「技術があること自体より、そのあと何を通常にしたかの方が大きい。翼が生えたことじゃない。翼が生えた人間を見ても社会が止まらなくなったことの方だ」
若い研究員が手を挙げる。
「これって、トランスヒューマニズムの普遍性を示してるんでしょうか。知的生命体が高度技術に達したら、必ず身体改変に向かう、みたいな」
カリルは口を開きかけて、閉じた。
その問いは綺麗すぎた。発表会なら使える。論文の導入にもなる。だが今ここで、その綺麗さは少し浮く。
「たぶん」
彼は言った。
「向かうんだろうな。たぶん、どこでも。でも、それだけじゃない」
「だけじゃない?」
「普遍的だから正しい、ではない。普遍的だから平等、でもない。火の発見だって普遍的だ。そこから先に誰が火傷するかは別だろ」
室内が静かになった。
「最初に得をするのは、たいてい選べる側です」
ナタリーが言う。
「選ばれる側じゃなくて」
「そう」
カリルは画面の文面を指した。
「だから向こうも、規制の失敗と階層化をわざわざ書いてきた。技術が万能なら、その二つは省いていい。省いてないってことは、そこが傷だったんだ」
誰かが、はっとした顔をした。
真理を掴んだ顔ではない。傷口を見つけた顔だった。
別の若手が端末を操作する。
「SNS、見ますか。もう完全に割れてます。『人類の未来だ』と『悪夢だ』で」
「その中間は」
「ありますけど、伸びません」
ラボの隅で、誰かが短く笑った。
笑ってから、すぐ黙る。
カリルは自分のタブレットを開いた。
友人の小児科医からメッセージが来ていた。
患者の親から朝だけで17件。
うち4件は“将来、子どもの見た目を選べる日は来るか”
3件は“病気を防げるならなぜ禁止するのか”
2件は“いま妊娠中だけど待つべきか”
残りは説明不能
彼は画面を閉じた。
現代は反応が早い。考えるより先に質問が市場の形になる。
「所長、午後の記者会見ですが」
広報担当が言う。
「主な論点を三つに絞りたいです」
「三つね」
「技術的な実現可能性。人類への含意。倫理的距離感」
どれも間違っていない。
間違っていないから、少し腹が立つ。
「四つにしてくれ」
カリルは言った。
「階層の話を入れる。自由とか進歩とかだけで喋るな。親が子どもに何をしていいのか、金がある家に何が先に配られるのか、そこを抜くと半分嘘になる」
広報担当は少し嫌そうな顔をした。嫌そうだったが、反論しなかった。
話が重くなるのは分かっている。だが軽くできる段階ではもうなかった。
「あと」
カリルは付け加えた。
「人類はもう身体改変の外側にいる、みたいな言い方もやめよう。歯列矯正も、補聴器も、人工関節も、向精神薬も、ホルモン治療も、化粧品も、筋肉増強も、老化治療も、みんな同じ線の上にある。途中から急に聖域が始まるわけじゃない」
ナタリーが頷く。
「線引きの場所が違うだけですね」
「そうだ」
彼はそこで初めてコーヒーを飲んだ。
冷めていた。
その冷たさがちょうどよかった。
*
午前十一時四十分、聖都。
聖座市国の一室では、文章が机の上で何度も殺されていた。
紙。ペン。印字されたドラフト。赤い線。脇に積まれていく没稿。電子化された世界で、最後まで残る修羅場だけは紙で行われる。そういう古さがまだここにはある。
アレクシウス十三世は、二枚目のドラフトを読み終えて、黙った。
向かいには国務省の補佐官、神学顧問、生命倫理の専門家がいる。誰も急かさない。急かしていい題ではなかった。
「“神の設計への冒涜”」
教皇はそこだけを読み上げた。
「強すぎます」
神学顧問が言う。
「保守派には分かりやすい表現です」
「分かりやすすぎる」
レオは紙を置いた。
昨日から続く外部の反応は、彼のところにも届いている。熱心な信徒の不安。修道会からの照会。米国の司教団の一部から届いた、もっと明確な警告を出すべきだという要請。逆に、カトリック系病院や障害者支援団体から届いた、身体の違いをそのまま悪と結びつける言葉は避けてほしいという懇願。
どちらも分かる。
分かるから、簡単に書けない。
「人はすでに眼鏡を使います」
レオは静かに言った。
「ペースメーカーも入れる。義足も使う。移植も受ける。痛みを抑える薬も飲む。傷を縫う。顔を直す。性別に関わる医療も受ける。そこへ来て、急に“ここから先だけは神に触るな”と言うなら、どこを境にするのか説明が要る」
「説明は可能です」
生命倫理顧問が言った。
「治療と設計、回復と強化、個人の意思と親による選択、可逆性の有無――」
「ええ」
レオは頷いた。
「可能です。だが、いま世界が聞きたいのは定義表より先でしょう」
補佐官が慎重に訊く。
「何を先に置かれますか」
教皇は少し考えた。
窓の外で、昼前の鐘が鳴る。古い街はいつでも、鐘の音だけは事情を知らない顔をして鳴る。
「まず、人は形が変わっても人だということです」
言ってから、自分で首を横に振った。
「いや、今のは短すぎる」
紙を引き寄せ、ペンを持つ。
一行書く。消す。
また書く。
真向かいの神学顧問が、待ちながら言った。
「米国の一部では、“悪魔は美しい姿で現れる”という説教がかなり拡散しています」
「でしょうね」
「それに正面から反論しますか」
レオはすぐに答えなかった。
若い頃なら、もっと鋭く返せたかもしれない。だが長く教会にいると、鋭い言葉の多くは半日だけ強くて、一週間後に害だけ残ることを学ぶ。
「正面からは、やめましょう」
彼は言った。
「彼らの恐怖に勝つために、別の恐怖を大きくする必要はありません」
「では」
「私たちは、身体の差異そのものを悪と呼ばない。その一点をはっきりさせる。そこから先の改変の是非は、親子、弱者、強制、商業化、共同体の圧力、そういう言葉で考える」
生命倫理顧問が少し息を吐いた。助かった顔にも、もっと強く出てほしかった顔にも見える。
「要するに」
補佐官が確認する。
「容姿への嫌悪で判断しない、と」
「そうです」
レオは言った。
「耳の形や虹彩の色で魂の所属先が変わるなら、教会はずいぶん忙しくなる」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
誰かが笑うほどではない。けれど、全員の肩がほんの少し下がる。
教皇は書き直した。
神の創造は、私たちの習慣より広い。
ゆえに私たちは、異なる身体を見ただけで、その存在を退けてはならない。
しかし同時に、人間が身体を支配しようとする欲望が、弱い者を傷つけ、親が子に過剰な未来を課し、市場が尊厳に値札を付ける危険も忘れてはならない。
そこまで書いて、止める。
完璧ではない。だが完璧に整った文が出る題でもない。
「午後の声明はこれでいきます」
誰も異議を唱えなかった。
唱えられる種類の静けさではなかった。
レオは椅子を引き、立ち上がった。
次の予定まで七分ある。短い。短いが、その七分でできることもある。彼は小聖堂の方へ向かった。
祈りたいというより、一人になりたかった。
*
午後一時十七分、銀座。
宇宙人の補足文は、当然のように商業圏へも落ちた。
銀座の美容外科ビルの八階。待合室では昼の情報番組が音を消したまま流れている。字幕だけで十分うるさい。来院者は普段より少なかった。だが電話は普段の倍だった。
「はい、当院では耳介形成は可能ですが、現状、遺伝子レベルの改変は――はい、翼は扱っておりません」
受付の女性が受話器を置く。
二秒後にまた鳴る。
「カラコンではなく虹彩そのものを、ですか。申し訳ありません、国内では――」
置く。
「はい、お子さまの先天性疾患については形成ではなく――」
置く。
「テレビで見た“背部器官”については――」
置く。
院長の森崎は、診察室のドアを半開きにしたままその音を聞いていた。
四十代後半。形成と再建の両方をやってきた。火傷痕を直したことも、事故で顔面を損傷した患者を拾ったこともある。生まれつきの口唇裂を縫ったことも、芸能人の鼻先を一ミリだけ削ったこともある。
同じ手でやってきた。
世間はたいてい、そのことを忘れたがる。
「先生」
看護師がタブレットを持ってくる。
「問い合わせの分類、ざっと出ました」
「見せて」
画面には項目が並んでいた。
見た目を近づけたい。
翼は可能か。
子どもの病気を避けたい。
背を高くしたい。
老化を止めたい。
競技能力はどこまで上げられるか。
“もう倫理とか言ってる場合じゃないのでは”
最後の一文で、森崎は口元を歪めた。
軽蔑でも共感でもない顔になる。
「先生、どうします」
「どうもしないよ」
彼は言った。
「今日できることは昨日と同じだ。切れるところを切って、縫うところを縫うだけだ」
だが言った直後に、それが半分しか本当でないと分かる。
今日からは、患者の頭の中に別の尺度が入った。比較対象が近所の誰かではなくなった。インフルエンサーでも、女優でも、同級生でもない。銀河の向こうから来た、生まれつきの完成形みたいなものが入ってしまった。
それは診療科目の変更ではない。
欲望の物差しの変更だった。
午後の患者は二人続けてキャンセルした。
かわりに、予約のない若い夫婦が来た。二十代の終わりくらい。女性は妊娠中で、男性の方が早口だった。
「不躾なのは分かってます」
男が言う。
「でも、先生、あと十年二十年したら、子どもにできることって一気に増えるんでしょうか」
「分かりません」
「分からないですけど、ゼロじゃないですよね」
森崎は女性の方を見た。
彼女は膝の上で母子手帳を押さえている。強く押さえすぎて、表紙の端が少し折れていた。
「何が心配ですか」
女が口を開くまでに数秒かかった。
「この子が、古い身体で生まれるのかなって」
診察室が静かになった。
その言い方は、森崎の想像より早かった。
古い身体。
たぶん彼女は、意地悪で言ったのではない。市場の言葉で言ったのでもない。本当に、昨日まで普通だったものが急に旧式に見え始めたのだ。
それがいちばんまずい。
「奥さん」
森崎は言った。
「いまここで、その不安に値段は付けません」
男が何か言い返しかける。
だが彼は先に続けた。
「あなたたちの子どもに必要なのは、今日の時点では普通の妊婦健診です。それ以上の話をするには、分かっていないことが多すぎる。焦って買うものほど、あとでろくなことになりません」
男は黙った。
女は母子手帳から手を離した。指先に少し跡が残っている。
「すみません」
彼女が言う。
「謝る話じゃない」
森崎は答えた。
「みんな同じこと考え始めてる。考えるのは止められない。ただ、今日それで子どもの身体を怖がらないでください」
夫婦が帰ったあと、森崎は受付の方へ出た。
電話はまだ鳴っている。看護師が疲れた顔で取っている。
「今日、外見系のカウンセリングは全部一旦止めよう」
彼は言った。
「再建と急ぎの術後だけにする」
「問い合わせ、断りますか」
「断るというより、冷やす」
「冷えますかね」
「知らない」
彼はガラス越しに銀座の通りを見た。
人は普通に歩いている。看板も出ている。信号も変わる。だが、街のどこかに新しい値札の気配があった。まだ印刷されていないだけで、もう置き場は決まり始めている。
*
午後四時十分、連邦首都
大統領府西棟では、その日いちばん人間的な会話が、いちばんしょうもない単語から始まった。
「耳だそうです」
レイノルズが言った。
大統領執務室にいた全員が顔を上げた。
リード、ウォーカー将軍、首席補佐官、科学顧問、保健福祉省の連絡役。机の上には、朝から増えたレポートの束がある。宗教界の反応。各国世論。バイオ関連企業への問い合わせ。SNS上のトレンド。今日に限って、国家安全保障と検索ワードが同じ机に乗っていた。
「耳?」
リードが言う。
「一般検索の急増項目です」
レイノルズが淡々と答える。
「“尖った耳にできるか”“虹彩の色を変えられるか”“翼の手術は可能か”。美容外科、遺伝子医療、妊娠、老化、能力強化のワードが全部連結しています」
首席補佐官が紙をめくる。
「宗教側の反発も強いですが、そちらより検索量が多いのは若年層の身体改変関連です」
リードは一瞬だけ呆れた顔をした。
本当に一瞬だけだ。
「地球が終わりかけてるのに、みんな耳のことを考えるのか」
ウォーカーが低く言う。
「終わりかけてるから、かもしれません。戦争なら将軍に訊く。市場なら銀行に訊く。身体のことは、自分に近い」
それは妙に納得のいく説明だった。
誰も否定しない。
レイノルズが次の紙を出す。
「もう一つ。補足文の中で、向こうは“装飾、治療、能力補助、生殖選択は連続している”と書いています。これがかなり効いています」
「効いている?」
「ええ。人々が急に、自分たちが外側に立っていないと気づき始めた」
リードは椅子にもたれた。
窓の外は晴れている。芝はまだきれいだ。明日、その芝生に降りてくる。景色だけは平常だ。
「つまり」
彼は言った。
「彼女は新しい技術を見せたんじゃない。こっちがもう手を出しかけてるものを、ずっと先まで伸ばして見せただけだ」
「その通りです」
保健福祉省の連絡役が口を開いた。
「親による選択、能力強化、寿命延長、精神状態の調整、見た目の標準化。議会では分野ごとに別々に審議してきましたが、向こうは最初から一本線として見ているようです」
「一本線」
リードはその言葉を反芻した。
嫌いではない。政治家は、複雑な問題を一本線にしてしまうときに強い。だが今日は、その一本線が自分たちを追い詰める方に働いている。
「今日の質問案、見せてください」
レイノルズは三枚のペーパーを差し出した。
昨夜までの版と、だいぶ違う。
一、身体改変は、家族制度と出生の倫理をどう変えたか。
二、改変の自由と、改変を拒否する自由は両立したか。
三、富と身体能力の固定化をどう防いだか。
四、軍事利用をどこで止めたか。
五、宗教的・文化的共同体との衝突をどう処理したか。
六、改変後も“同じ社会”でいられたか。
リードは一枚目をめくった。
二枚目には、没になった質問が残っている。
エネルギー生成。
推進理論。
材料革命。
延命技術。
食料生産最適化。
そちらはもう、恥ずかしいくらい露骨だった。
「これを捨てたのか」
「捨ててはいません」
レイノルズが言う。
「ただ、最初に出すとすれば、向こうが答える気になる質問はたぶん別です」
「答える気になる」
「はい。向こうは政治家ではない。少なくともこちらの意味での」
ウォーカーが机上の新しい紙を見て言った。
「軍事利用をどこで止めたか、は入れておくべきです」
「当然だ」
「ただ」
将軍は続けた。
「それだけ聞くと、こちらがまだ軍の頭でしか考えていないと見えるかもしれない」
リードは紙から目を上げた。
「じゃあ何を足す」
ウォーカーは答える前に少しだけ間を置いた。
この部屋では珍しい間だった。
「改変をしなかった人たちが、どう生き延びたか」
誰もすぐには喋らなかった。
将軍の口から出る題ではなかったからだ。
「向こうの文章を読む限り」
彼は言った。
「全員が喜んで進んだわけじゃない。拒否した共同体もあった。つまり、力の問題だけじゃない。取り残される側の話がある」
レイノルズがゆっくり頷く。
「それは使えます」
リードは椅子から少し体を起こした。
机の端に置かれた百七十三項目の技術リストへ、一度だけ目が行く。
もう隠してはいない。だが触ってもいない。
「人間らしい質問だな」
「そうですか」
レイノルズが言う。
「欲しい物の一覧よりは、な」
リードは紙を揃えた。
「これに一つ足す」
「何を」
「親が、子どもにどこまで決めていいのか」
レイノルズがすぐにメモする。
将軍はその横顔を見た。昨日までの大統領なら言わなかった類の問いだった。変わったのか、追い詰められただけか、そこはまだ分からない。
窓の外で報道ヘリが回っている。
テレビでは、どこかの番組が“人類は古い身体を捨てるのか”というテロップを出していた。くだらない。くだらないが、みんなそこに吸われる。未来の話は、戦略より自分の肌に近づいた瞬間に強くなる。
「もう一つあります」
保健福祉省の連絡役が言った。
「全米の患者団体から共同声明案が来ています。障害、慢性疾患、外見差別、先天性の違いをめぐる団体です」
「何と言ってる」
「“完全な身体を標準にしないでほしい”」
リードは何も言わなかった。
紙を受け取る。
読み終えるまで、部屋の誰も口を開かなかった。
「これは会談資料に入れろ」
彼は言った。
「人間は、強くなりたいだけじゃない。強くなれないまま生きてる人間もいる。それを消したら、文化とか歴史とか言ってる場合じゃなくなる」
レイノルズが目を上げる。
何か言いそうになり、やめる。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「昨日より、会う意味がはっきりした気がします」
リードは小さく鼻で笑った。
「遅いんだよ」
「その通りです」
窓の外では、芝の上を数人のスタッフが歩いている。
動線確認だろう。意味があるかは誰にも分からない。分からないが、それでも人は歩いて測る。現代はそういうふうに出来ている。
*
午後七時二分、東京。
真帆は官邸から外へ出なかった。
出られなかった、の方が近い。昼のあと、各国から届く反応の量が増えた。科学者の質問案。宗教界の懸念。患者団体の声明。トランスヒューマニストを名乗る集団の歓迎メッセージ。逆に“自然人類戦線”とでも名付けたくなるような雑な反対声明。外から入ってくる言葉の大半が、まだ角の取れていない石だった。
夜の会議は小さくした。
城崎、木原、外務、防衛、厚労、文科、それに真帆たち数人だけ。大部屋でやると、もう議論が散りすぎる。
「各国案はどうですか」
城崎が訊く。
「割れています」
外務省。
「米国は質問案を修正中。欧州は生命倫理と規制。中国は統治可能性と社会安定性の観点が強い。中東は宗教的正統性と共同体秩序。アフリカ諸国の一部からは、技術格差の固定化に関する質問が来ています」
「その方が正常ですね」
城崎は言った。
「身体の話で、全員が同じ不安を持つわけがない」
真帆の前には、まとめ直した日本側ペーパーがある。
朝の版からさらに変えた。質問を減らし、項目の順番を入れ替えた。
一、親が子に施す改変の限界を、誰が決めたか。
二、改変を拒否した人々の地位は守られたか。
三、病気の治療と望ましい形質の選別は、どこで混ざったか。
四、身体の規格化に市場が果たした役割。
五、技術が社会の序列を固定した期間はあったか。
六、それでもなお、文化や宗教は身体より強く残ったか。
城崎が三枚目まで読み、最後に言った。
「四番、いいですね」
市場。
その単語が入るだけで、少しだけ嘘が減る。
「ありがとうございます」
「褒めてません」
城崎は顔を上げないまま言う。
「嫌なところを外していないと言っただけです」
真帆は「はい」とだけ返した。
嫌なところ。
本当にそうだった。会議を重ねるたび、技術そのものより、値段と家族と序列の話に人が引き戻される。未来の話なのに、やたら古い。
「ところで」
木原が資料を置く。
「国民向けメッセージですが、何を出すべきでしょう。恐怖の抑制と、変な期待の抑制が両方必要です」
「変な期待」
文科省が繰り返す。
「はい。今のネットはかなり危ない」
木原は珍しく露骨に言った。
「救済待望論と嫌悪の爆発が同時に来ている。“全部解決してくれる”と“全部壊される”の両方です」
城崎が頷いた。
「どちらも、外に答えを置きすぎている」
その一言で、部屋が少し静かになる。
「人類側の宿題を見えなくしないことです」
彼女は続けた。
「この七日間で何度もそうでしたが、相手が上位だからといって、こちらが自分の問題を預けていい理由にはなりません。改造をするかしないかも、してはいけないことをどこに置くかも、まずは自分たちの問題です」
真帆はその言葉を聞きながら、朝から届いたメッセージの束を思い出した。
病気の子どもを持つ親。
自分の身体に長く違和感を抱えてきた人。
老化を止めたい人。
事故で失った機能を取り戻したい人。
美しくなりたい人。
競争に負けたくない人。
何も変えられたくない人。
全部が同じではない。
同じではないのに、市場はすぐ一つの棚に並べる。
「総理」
真帆は口を開いた。
「メッセージの中で、“人間はすでに複数の身体介入を行っている”ことを認めた方がいいと思います」
何人かが顔を上げた。
危ない言い方に聞こえたのだろう。
「認める?」
木原が言う。
「はい。外部の文明に指摘されて初めて気づいたふりをしない方がいい。医療、補助具、美容、矯正、選別、薬物、リハビリ、全部を同じとは言わない。ただ、無関係だった顔はできないと思います」
城崎は少しだけ考えた。
「いいでしょう」
彼女は言った。
「ただし、“だから何でもありだ”に聞こえないように」
「分かっています」
「本当に?」
真帆はそこで言葉を詰まらせた。
本当に分かっているかと言われると、分からない。どこまでが認めるで、どこからが開くなのか、その境目こそ今みんなが揉めている。
だが黙っていると、もっと違う嘘になる。
「分かっていない部分も含めて書きます」
彼女は言った。
城崎はそれでよしとした。
よしというより、それ以上は誰も言えないと判断した顔だった。
*
午後十時十一分。
官邸の作業机の上には、紙が三種類に分かれていた。
国際向け質問案。
国内向けメッセージ草稿。
そして、真帆が勝手に作り始めた資料。
題はまだ決めていない。
そこには、人類が自分の身体にしてきたことを、できるだけ広く並べていた。
ワクチン。歯列矯正。帝王切開。輸血。ピル。義歯。補聴器。抗うつ薬。人工関節。美容整形。筋力増強剤。低身長治療。皮膚の漂白。刺青。断種政策。出生前診断。不妊治療。ホルモン補充。臓器移植。カロリー管理アプリ。睡眠トラッカー。毛髪移植。レーシック。
並べていくと、気持ちが悪くなる。
悪くなるが、途中でやめるともっと悪い。
人類は身体を神聖視してきた。
同時に、ずっと加工してきた。
両方本当だった。
机の隅でスマホが震えた。
母からだった。
あんた歯並び直したとき何歳だっけ
急に変なこと聞いてごめん
真帆は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
昼間の会議より、このメッセージの方が来る。
母はテレビを見て、たぶん昔のことを思い出したのだ。中学の頃、真帆は犬歯の位置が嫌で、でも痛いのはもっと嫌で、矯正の装置を何度もサボった。母はそのたびに歯科医院へ連れて行った。あれは治療だったのか、見た目の調整だったのか。今さら訊き返すようなことではない。両方だったのだろう。
真帆は返信した。
13歳
痛かったやつ
すぐ既読がつく。
だよね
あれも今思うと身体いじってたんだね
真帆は、少しだけ笑った。
泣きそうだったわけではない。救われたわけでもない。ただ、その言い方が雑で助かった。いじってた。そういう語彙の方が、今夜はましだ。
画面にまた来る。
でもあんたはあんたのままだったよ
そこは大丈夫だと思う
真帆は返事を書きかけて、やめた。
大丈夫、と言い切れるのか分からない。自分のことではなく、人類全体のことが。
けれど、母が言っているのはそういう大きな話ではない。たぶん、もっと小さい。痛かったね、と同じ種類の確認だ。
彼女は短く返した。
うん
たぶん
送ってから、机の上の紙へ目を戻す。
題名の空欄がまだ白い。
何と書くか迷って、結局、いちばん地味な言葉にした。
人類は身体をどう扱ってきたか
良い題ではない。
だが、良い題を付けると嘘になる気がした。
時計は十時四十六分を回っている。
ワシントンは朝。聖都は夕方を過ぎた頃。地球のいろいろな場所で、今夜と同じように、誰かが自分の身体のことを急に考え直しているはずだった。鼻。目。骨。皮膚。子ども。老い。障害。病気。欲望。祈り。
宇宙人が一人来るまで、そんなに近くなかったものばかりだ。
真帆は資料を綴じ、クリップで留めた。
明日、各国共有に回すかはまだ分からない。回らないかもしれない。政治的に使いにくい。広すぎる。いやらしすぎる。言い訳がきかない。
それでも作るしかなかった。
技術の話だけをしていると、人間の側がやけに薄くなるからだ。
部屋の外を人が走る音がした。
誰かがまだ起きている。みんな起きている。
現代は、壊れながらも勤務時間を守らない。そこだけは妙にしぶとい。
机の上の一番上に、補足文の最後の一行だけを抜き出した紙が置いてあった。
私は今回、技術を提供する予定はありません。
昨日までなら、それを読んで失望した人間が多かっただろう。
今は、少し違う気がした。
渡されなくて助かったものまで、そこに含まれていると、みんな薄々分かり始めていた。
真帆は部屋の電気を落とさなかった。
明日も使うからだ。
使う資料の題は、もう決まっている。
人類は身体をどう扱ってきたか。
その次に何をするのかは、まだ決まっていない。
*
午前十一時三十二分、連邦首都。
芝は前日より短く見えた。実際に短いのか、見ている側の神経が削れているのかは分からない。大統領府の南側は静かだった。静かすぎた。報道用の高い足場、対狙撃監視、金属探知、検問、規制線の向こうの群衆。歓迎のためというより、失敗の形を少しでも減らすために組まれた風景だ。
リードは決められた位置に立っていた。旗は減らした。楽隊も入れなかった。世界中が見ている以上、何をしても演出になる。だったら、せめて足し算をやめるしかない。
空は晴れている。雲は薄い。何も降りてこないように見える。
それでも来る、と全員が知っていた。
最初に変わったのは音だった。
遠くのヘリの回転音が、ふっと薄くなる。消えたわけではない。音の置き場所だけがずれた。群衆のざわめきも同じように浅くなり、誰かが息を吸う音だけが妙にはっきりした。
芝生の上、十数メートル先。空間が白く折れた。
光ではない。裂け目でもない。ただ、そこにいた。
銀色の髪。淡い青の目。白に見える翼状の構造。最初の通信映像と同じ顔。だが画面で見た時より、ずっと小さかった。小さいのに、周囲の建物が急に書割みたいに見えた。
少女は一歩だけ前へ出た。
「予定通り来ました」
通訳を待たない英語だった。前回より少しだけ、人間の会話の速度に寄せてある。
「この場では、まず確認を優先します。あなたたちは依然として緊張が強い」
その瞬間だった。一発目が来た。銃声だった。
音は遅れて届いた。乾いた、よく知っている種類の破裂音。誰かが叫ぶより先に、少女の全身から薄い膜のようなものが半球状に広がった。色はない。ないのに、そこだけ景色が一度だけ水面みたいに揺れた。
銃弾はその外側で止まり、進む勢いを失って、白い砂みたいに砕けた。
群衆の奥で何かが倒れる音。警護が一斉に動く。リードは半歩だけ下がり、そこで止まった。伏せるよう訓練された身体と、伏せた瞬間に政治が負けると知っている身体が、ぶつかった顔だった。
少女は砕けた粒を一度だけ見た。
表情はほとんど変わらない。だが、そこで彼女は何かを誤解した。
最初の通信で、こちらは十分に理解したと思っていた。していなかった。なら、提示の仕方が悪かったのだと。だから攻撃されたのだと。
「失礼しました」
少女は言った。
「最初の提示が抽象的すぎたようです。これは私の責任です。」
だが二発目は、その言葉の途中で撃たれた。
今度は射線の始点が分かった。隣接建築の高層階。対狙撃班が位置を叫ぶより速く、少女の右手の先に細い光が集まる。銃というより、どちらかというと矢の形に寄せた理解しやすい何かだった。
閃光は一度だけ走った。爆音はない。遠方の窓ガラスが白く曇り、次の瞬間、発射された銃弾と銃身の前半分だけが粉のように崩れた。射手の腕も頭も残っている。人だけを外して、武器と弾だけを壊したのだと、見ていた全員が数秒遅れで理解した。
警備側の制止、怒号、群衆の悲鳴、報道の絶叫。その全部が一度に戻ってきた。
それでも、少女の周囲だけは静かだった。
「これで十分ですか」
彼女は首をかしげずに訊いた。
「私は敵対のために来ていません。ただ、敵対の定義をこちらだけが決めるつもりもありません」
リードは喉の奥で何かを飲み込み、ようやく言葉を出した。
「……歓迎する、という言い方が正しいかは分からないが、来訪は確認した」
それは大統領演説としては弱い。だが、その場では弱い方がましだった。強い文は、たいてい状況より先に行く。
少女はうなずいた。
「妥当です」
数秒の空白ができた。今度は誰も撃たない。撃てる空気でもなかった。人類はようやく、自分たちが“守られた”のか“見逃された”のか、その違いすらまだ判断できない場所に立っていると理解し始めていた。
「みなさんの疑問を解消するために。一つ、先に補足します」
少女は言った。
「この身体は、私の種の標準形ではありません。接触効率を優先した調整体です。標準形を基に数万年前に創られた肉体の子孫です。あなたたちの感覚器、保護反応、会話速度に合わせています。想像されているような年齢概念とも一致しません。数百歳ほどでしょうか。」
言い終わると、群衆のざわめきがまた別の質へ変わった。恐怖だけではない。嫌悪、安堵、失望、納得、侮辱された感じ、救われた感じ。全部ある。
かわいく見える理由まで設計のうちだったのか、と気づいた人間。いや、そう単純ではないと思った人間。自分たちも同じことを日々やっているではないかと、急に鏡を見せられた気分になった人間。
「では」
少女は続けた。
「ここからは、武器の確認ではなく、言葉の確認をしたい」
リードの横で、レイノルズが紙を一枚落とした。誰も拾わない。拾う順番がもう変わっていた。
芝の上には、砕けた弾の名残だけが白く散っている。庭師が見たら嫌がるだろう、と真帆なら思ったかもしれない。東京では、同時刻の官邸地下で映像が遅れて届き、数人が言葉を失っていた。聖都では声明文の草案が破られ、ケンブリッジではチェンが録画を止めて、まず弾道の消失角から見直し始めていた。
火曜日はまだ終わっていない。
だが人類はその日、自分たちより上の文明が来たことより先に、上の文明が“分かりやすい圧倒的な強さ”を必要に応じてだけ選んで見せられると知った。
それが救いなのか絶望なのかは、まだ決まらない。
決まらないまま、最初の会話が始まる。
「はじめまして、地球人のみなさん」




