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10日間の問い  作者: ライカの三日月
本編 10日間の問い
1/9

1日目 午後2時11分






―20XY年3月1日、連邦首都/東京/聖都


 世界が壊れるとき、サイレンが鳴るとは限らない。

 むしろ、鳴らない。

 いつも通り動いているものが、ひとつだけ、音もなく止まる。最初にそれに触れた人間だけが眉をひそめる。次の人間は舌打ちをする。その次は担当部署に投げる。現代はそういうふうに出来ている。異常は、だいたいチケット化される。優先度が振られ、誰かの受信箱に落ちる。そこではじめて出来事になる。

 だから、その日も、最初の一分はただの不具合だった。


 某超大国 大統領府西館。日曜の午後。


 府主執務室の隣の小会議室では、予定より短いはずの打ち合わせが延びていた。テーブルの上には紙のメモよりタブレットの方が多い。関税、電力、対イラン、南部国境、支持率。グラント・リードは椅子に深く座り、補佐官が並べた数字を眺めていた。数字は好きだった。好きというより、数字だけは嘘をつくときに手間がかかるから、まだマシだと思っていた。

「電力負荷の件は?」

 彼が言うと、エネルギー担当のスタッフが端末を操作した。

 グラフが出るはずだった。

 出なかった。

 画面が黒いままだった。

「回線か?」

「すぐ戻します」

 若い補佐官が指を滑らせる。反応がない。会議室前方の大型モニターも、壁際の予備端末も、卓上のタブレットも、数秒遅れて同じように沈んだ。

 会議室の空気はまだ変わらない。誰も立ち上がらない。大統領府では、こういう瞬間にも階層がある。最初に狼狽えていい人間と、いけない人間がいる。

 大統領警護局の一人が耳に手を当てた。

 無線は死んでいた。


 同時刻の聖座市国


 日曜の正午の祈りが終わり、聖門広場に残った群衆がまだゆっくり散っていた。教皇アレクシウス十三世は控室で用意された水を飲み、次の面会のメモに目を通していた。選出からまだ日が浅い。白い法衣はもう身体に馴染んでいたが、周囲が向けてくる期待の重さには、まだ時々だけ、驚く。

 補佐官のタブレットが消えた。

 廊下のモニターも落ちた。

 近衛兵の一人が眉をひそめ、通信機を確認する。赤いランプが点かない。彼は口を開きかけたが、そこで廊下の全スクリーンが一斉に明滅し、別の映像を映したので、言葉は引っ込んだ。


 東京 午前4時11分。


 総理府中枢庁舎の危機管理センターは、夜というには明るすぎ、朝というには汚れすぎていた。二月十八日に城崎政権が発足してまだ二週間も経っていない。机に積まれた紙は新しい。だが徹夜の匂いは古い。城崎玲は仮眠を取るはずだった。取れていなかった。党内調整、税の扱い、防衛体制、情報機能の強化。勝った直後の政権ほど忙しいものはない。勝ったから動ける。動けるから紙が増える。

 官房長官の木原が説明している途中で、壁のスクリーンが落ちた。

 防災情報、通信ログ、在外公館からの定時報告。

 全部、消えた。

「停電ではありません」

 危機管理監がすぐに言った。

 照明は生きている。空調も落ちていない。だがそれで安心する人間はその部屋にはいなかった。電気があるのに情報だけがない時の方が、よほど質が悪い。

 副長官補が端末を叩く。反応なし。

「衛星回線も?」

「……つながりません」

「自衛隊は」

 誰もすぐには答えなかった。

 そこで、官邸のスクリーンが白く光った。


 その瞬間、世界中で同じことが起きていた。

 駅の案内板。病院の待合番号。証券会社の巨大ディスプレイ。ラスベガスのカジノ。ブラジルの家電量販店。インドのコールセンター。渋谷のスクランブル交差点。ドバイの空港。大連のホテル。ナイロビの電子広告塔。ロサンゼルスの小学校の廊下。映像の出るものが、種類の差をやめた。全部、同じ光り方をした。

 広告は消えた。

 ニュースも消えた。

 操作権限も消えた。


 少女が映っていた。


 誰が最初にそう思ったのかは分からない。たぶん、ほとんどの人間が同時にそう思った。

 年齢は十三か十四に見えた。銀色の髪。淡い青の目。耳の先が少し長い。背中に、白い翼のようなものがあった。

 ようなもの、というしかなかった。羽根に見えるが、羽根の並び方ではない。金属に見えるが、光り方が違う。人体の一部に見えるが、構造の都合がなかった。デザイナーが描いたと言われれば納得できる。生物学者に説明しろと言えば嫌な顔をする。そういう形だった。

 背景は宇宙だった。

 ただし、人類が壁紙に使ってきた親しみやすい宇宙ではない。暗い。遠い。星が多すぎる。深度がうるさい。視線を置く場所がない。

 少女はしばらく何も言わなかった。

 無音だった。

 そこがいちばん気味が悪かった。映像の乱れもノイズもなく、ただ沈黙だけが完璧だった。


 大統領府で、首席政務補佐官が先に口を開いた。

「切れ」

 大統領警護局が動く。切れない。

 軍の通信将校が別回線を試す。割り込めない。

 リードは肘掛けに片手を置いたまま、画面を見ていた。怒鳴らなかった。怒鳴る相手がまだ誰か分からなかったからだ。


 少女が口を開いた。

 英語だった。

 それも、大統領府向けに訛りを消した英語。言葉の継ぎ目が機械的に整いすぎていて、逆に、英語を後から着せた感じがした。


「こんにちは。あなたたちの現在の通信環境と認知負荷を考慮し、この言語で開始します」

 平坦な声だった。抑揚が薄い。だが機械音声ではない。息継ぎの位置だけ人間に近い。

「私はアンドロメダ銀河第三腕外縁域、恒星系識別番号L3-221の居住者です。あなたたちの分類では個体名に近いものを省略します。必要があれば後で伝えます」

 政務補佐官の何人かが、意味を取るより先に記録を始めた。速記端末は死んでいる。ペンに戻る。こういうときはアナログに頼るしかない。

「9日後、地球時間で3月10日、私はあなたたちが大統領府と呼ぶ建造物を訪問します。軍事的意図はありません。外交上の威嚇もありません。先行して、地表および近傍宙域の主要兵器管制、早期警戒、戦略通信、軌道上監視資産の一部を安全のため停止しました。破壊はしていません。復旧可能です」

 そこで、会議室の誰かが小さく息を吸った。

 安全のため。

 その一語が、説明になっていなかった。だが、向こうは説明したつもりでいるのが分かった。

「あなたたちが迎撃、誤射、報復、報復への報復という行動様式に強く依存していることは事前に確認済みです。今回はそれを省略しました」

 少女は一度だけ視線を動かした。画面越しなのに、見られた感じがした。

「私は一個体で訪問します。大規模な使節団は必要ないと判断しました。あなたたちの政治指導層は、私にとって特別な脅威ではなく、交渉上も中核的ではないからです」

 大統領府の空気がそこで変わった。

 短い文だった。

 だが足りた。

 誰かが侮辱と取るには十分で、誰かが事実認識と取るにも十分だった。

「今回の目的は、取引ではありません。救済でもありません。観察と交流です。あなたたちの文化、物語、倫理、記憶の持ち方、孤独の扱い方に関心があります」

 孤独、という言葉のところだけ、通訳済みの各国言語で妙にきれいに変換された。たぶん対応表の問題ではない。

「歓迎の儀式は不要です。軍事的儀礼も不要です。装飾された声明文も不要です。必要なら、よく眠ることを推奨します。」

 そこで少女は少しだけ黙った。

 映像の向こうの宇宙は動いていない。止まっているように見えるのに、目が慣れると、遠くで何かがずれていた。

「では、また」

 映像が落ちた。


 黒い画面に、世界中の人間の顔が映った。


 最初に三人が同時に話し始め、全員が途中で止まった。

「核の認証を確認しろ」

「大統領を移動させます」

「サイバーコマンドに――」

 言い終わる前に通信担当が首を振る。

「届きません」

「軍は」

「北方、南方、戦略軍、全部だめです。応答していません。というより、端末は生きているのに中身だけ抜かれています」

「衛星は」

「監視映像が来ません」

 リードが立ち上がった。

「これは誰の仕業だ」

 誰も答えない。

 問いが荒すぎた。国家か、組織か、何かか。どこから切ればいいのか分からない。

「中国か」

 国家安全保障担当補佐官が首を振る。

「この規模は」

「ロシア」

「違います」

「なら誰だ」

「……分かりません」

 分かりません、という言葉は大統領府で好まれない。だがその日ばかりは、そこから先を持っている人間がいなかった。

 大統領警護局が大統領の移動を促す。リードは画面から目を離さない。

「もう一度出せ」

「出せません」

「記録は」

「ローカルには残っていない可能性が」

「じゃあ世界中から拾え」

 言った瞬間に、その命令の規模だけが妙にはっきりして、部屋の何人かがますます無言になった。世界中から拾え。ふだんならできる。大手プラットフォームに連絡し、通信事業者に圧力をかけ、同盟国を動かし、サーバーを押さえる。現代は大きい顔をした会社と国家が、ほぼそれで回っている。

 だが今、その回路の全部に、さっきの映像が割り込んだのだ。


 東京


 城崎が立ったままスクリーンを見ていた。

 映像が消えた後も、誰も椅子に座り直さない。

「国防省」

「連絡不能です」

「在日合衆国軍」

「同様です」

「官邸のシステムだけではない?」

「はい。外部でも同時多発です」

 木原が短く言う。

「総理、地下への移動を」

「地下へ行って、何をするんですか」

 声は大きくなかった。

 それで十分だった。部屋が止まる。

 城崎は机に置かれた資料に目を落とした。サイバー防衛の法整備。宇宙監視の強化。情報機能の統合。昨夜まで意味のあった紙だ。今も法的には意味がある。だが、たぶん相手は法域の外にいる。

「確認します」

 彼女は言った。

「被害は」

「現時点で物理的破壊の報告はありません」

「死者は」

「確認されていません」

「なら、侵攻ではない」

 誰かが何か言いかける。

「少なくとも、従来の意味では」

 城崎はそこで止めた。従来の意味では。そこを言い切るほど甘くなかった。

 彼女は窓のない部屋の壁を見た。壁しか見えない時、人はだいたい国家のことを考える。国家は地図の色ではなく、最終的には“自分たちで決められる”という感覚の集積だからだ。

 その感覚が、今、剥がれかけていた。

 選挙も予算も法律も、同じ人間サイズの争いの中にあるから効く。上から手のひら一枚で押さえられた時、それらは急に地方自治みたいな顔になる。

「各国首脳との接続を確保してください。映像でも音声でも何でもいい。暗号化できないならできないままでいい」

「安全性が」

「今、こちらだけ安全でいる意味は薄いでしょう」

 木原は一拍遅れてうなずいた。

「それと」

 城崎は続けた。

「文化行政局にも声をかけてください」

 危機管理監が顔を上げる。

「……文化行政局、ですか」

「相手は技術を求めていないと言った。交流だと。ならこちらが出すのは兵器の一覧ではありません」

「しかし外交上の窓口は」

「対外調整省はもちろん使います。ですが対外調整省だけでは足りない。宗教、文学、教育、芸能、アーカイブ。全部です」

 部屋の何人かが戸惑った顔をした。

 戸惑うのは当然だった。官邸が非常時に最初に思い出す役所ではない。

 城崎はその顔を見た。

「通じないかもしれません。でも、ミサイルよりは通じる可能性がある」


 聖座市国


 通信の混乱の中でアレクシウス十三世が短い祈りも命令も口にせず、ただ記録係を呼んでいた。

「今の映像を言葉で残してください」

 秘書が戸惑う。

「録画ではなく、ですか」

「録画は消えることがあります」

 言ってから、彼は自分の言葉に少しだけ苦い顔をした。録画が消えることなど、二時間前まで日常の比喩ですらなかった。

 近衛兵の隊長が一歩進み出る。

「聖下、避難を」

「どこへ」

 アレクシウス十三世は穏やかに返した。

「ここが世界の外なら、外に出る必要があります。しかし、そうではないでしょう」

 彼は窓の向こうを見た。広場にはまだ人がいた。スマートフォンを掲げ、何かを喋り、泣き、笑い、祈っている者もいた。信仰より先に配信を始める人間が多いのは、聖座長としては考えさせられる現実だったが、それもまた現実だった。

 怖い時ほど、自分の顔を映そうとする。

「声明は急がない」

 彼は言った。

「いま声明を出せば、我々は理解したふりをすることになる」


 理解したふりをしているのは、宗教だけではなかった。

 インターネットは三分で説明を始めた。

 ディープフェイク。量子ハッキング。合衆国軍の偽旗。中国の心理戦。ロシアの報復。新興宗教の大規模テロ。OSINTを名乗るアカウントが、静止画のピクセルから背景の星図を読み取ったと主張した。AI研究者が音声のフォルマントを解析した。投資家は、月曜の先物を気にした。暗号資産だけがすぐ動ける市場だったので、先に壊れた。配信者は切り抜きのタイトルを考えた。広告自動配信は数十分で回復し、少女の切り抜き動画の前に格安航空券とエナジードリンクの宣伝を差し込んだ。

 世界は終わる時にも広告を挟む。

 便利な時代だった。

 何にでも値札をぶら下げられる。悲鳴にも、祈りにも、不安にも、かわいいにも、世界の終わりにも。

 だから、その少女が「取引ではない」と言ったことは、技術停止よりも遅れて効いた。現代のほとんどの仕組みは、取引ではないものをうまく扱えない。無料は広告にする。善意は可視化する。文化はIPにする。悲しみは体験談にする。孤独はサブスクにする。

 交換不可能なものは、だいたい使いにくい。

 その使いにくさを、向こうは最初から持ってきた。


 西海岸工科大学


 日曜だというのに研究棟の一室に人が集められていた。天文学者、情報工学者、理論物理学者。専門の違う人間が同じ画面を見る時、だいたいろくでもない。

 デイヴィッド・チェンは映像を三回見て、四回目で止めた。

「背景、拡大」

「ノイズ除去かけます」

「かけるな。元のまま出せ」

 若い研究員がキーボードを叩く。天体の散らばり方が画面いっぱいに広がる。チェンは眉間を押さえた。

「これ、合成なら、合成した奴は天文学を遊びでやっていない」

「既知の深宇宙画像と一致しません」

「一致したら逆に困る」

 別の研究者が言う。

「電波観測施設から変な報告が来ています。アンドロメダ方向で、時系列の合わないパルスが」

「時系列の合わない、って何だ」

「そのままです。到達順がおかしい」

 チェンは黙った。

 現代科学は万能ではないが、少なくとも怒り方を知っている。何が間違っているのかが分かれば怒れる。だが今回は、間違っている場所が多すぎた。

「偽物なら」

 研究員の一人が言った。

「偽物でも、人類の手には余る」

 チェンはうなずいた。

 それ以上の言葉はなかった。


 大統領府


 ようやく別室に移った大統領の前に、メモが積み上がり始めていた。

 損害評価。通信障害。各軍からの断片報告。民間インフラへの波及。北洋安全保障機構。中国。株価への見通し。聖座市国の動き。日本政府の反応。全部まだ“速報”としか書けない。

 リードは椅子に座り直した。

「彼女は何を欲しがっている」

 国家安全保障担当補佐官が答える。

「現時点では、本人の発言通りなら、文化的接触です」

「それは答えじゃない」

「答えになりませんが、それしか出ていません」

「誰だって何か欲しい。資源、基地、支持、信仰、服従、技術、見返り」

 彼は指で机を二度叩いた。

「何も求めない相手とは交渉ができない」

 老将軍が一人、視線を落とした。

「求めてはいるのかもしれません」

「何を」

「……私たちが出せると思っていないものを」

 リードは彼を見た。

 気に食わない言い方だった。だが否定しにくい。大統領はそれをよく知っている顔をした。

「リストを作れ」

「何のリストを」

「向こうが受け取らないかもしれないもののリストだ。エネルギー、材料、医療、防衛、宇宙、AI、全部」

「彼女は技術の交換を拒否しています」

「拒否は最初に言うもので、最後まで同じとは限らない」

 言い方はいつもの大統領だった。だが、部屋の誰も少しも楽にならなかった。交渉の形に持ち込みたいのだと分かってしまったからだ。形に持ち込めれば、人間はまだ落ち着ける。落札、条約、共同声明、握手、失敗。勝ち負けはともかく、流れがある。

 だが、あの映像には流れがなかった。

 ただ、上から置かれた感じだけがあった。


 東京


 各国首脳との接続がようやく不安定な形で通り始め、音声会議は途中で何度も切れた。合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、インド、オーストラリア。画面の中の顔が、普段より少しずつ年を取って見える。高精細で見えるからではない。全員が、自分の国家が世界の上位レイヤーに属していると信じて政治をしてきたからだ。その床が抜けた顔だった。

「共通認識として」

 城崎が言う。

「現段階で相手は破壊より無力化を選んでいます」

「同意します」

 欧州側の誰かが答える。

「しかし、それは好意を意味しない」

「分かっています」

 城崎は返した。

「ただ、こちらが間違っても『戦争として理解したので戦争として応答した』という形にはしない方がいい。できるなら」

 合衆国側の回線の向こうで、誰かが小さく鼻を鳴らした。たぶん賛成でも反対でもない。ただ、できるなら、という部分に引っかかった。

 できるなら。

 その条件つきがもう負けに見える場所に、皆いた。

「彼女は大統領府を指定しました」

 フランスの声が言う。

「なぜ合衆国なのか」

「単に象徴性でしょう」

「あるいは」

 別の声。

「最も自尊心に効く場所を選んだ」

 数秒の沈黙。

 城崎はそれを否定しなかった。

 相手がそういう趣味を持っているとは限らない。だが結果としてはそうなる。世界の中心を自称しやすい場所で、“交流に来る”と言う。征服しに来るのではなく。そこに入るのは軍隊でもない。

 一人だ。

 一人で足りる、という意味になる。


 その夜、合衆国中西部の小さな町


 スーパーの夜勤をしていた男は補充用のダンボールの上に座り、休憩室のテレビで少女の映像を見直していた。彼は政治に詳しくない。株もやらない。宇宙にも特に興味がない。だが、あの最後の言葉だけは妙に残った。

 よく眠ってください。

 眠れるわけがなかった。

 それでも少し、変だった。脅し文句ではない。慰めにも聞こえない。天気予報みたいに言った。

 男は紙コップの冷えたコーヒーを飲み、スマホを開く。タイムラインには宇宙人のミームと、終末論と、かわいいイラストと、連邦政府陰謀論と、割引クーポンが並んでいる。

 区別がつきにくい。

 彼はふと、何がいちばん怖いのか考えた。殺されることか。支配されることか。違った。

 向こうに悪意がないことだった。

 悪意がある相手なら、まだ怒れる。

 悪意もなく上回ってくるものは、処理の仕方がない。


 同じころ 秋葉原の雑居ビルの一室


 徹夜の動画編集をしていた若い配信者が、少女の静止画に仮の名前をつけてサムネイルを量産していた。再生数が伸びる匂いがした。本人もそれを嫌だと思っているのかどうか、よく分かっていなかった。怖い時、人は手を動かす。編集、投稿、拡散、考察。手を止めると、自分が世界に対して何もできないのが分かる。

 彼はサムネの文字を打ち直した。

 【速報】では弱い。

 【確定】でも足りない。

 結局、いちばん伸びたのは【もう戻れない】だった。

 自分でも安いと思った。

 でも押した。


 日付が変わる頃、大統領府


 窓の外は静かだった。記者が増え、フェンスの外に人も増えたが、暴動にはならない。まだみんな理解の途中だった。恐慌は理解の後に来る。今はその手前。検索して、電話して、投稿して、画面を見直している段階だ。

 リードは執務室に一人で残り、机の上のメモを見ていた。

 “交流”

 手書きで丸がついている。

 その横に、“No trade?” と殴り書きがある。

 彼は窓の外を見た。芝生。柵。照明。いつもの大統領府。だがもう、建物の意味が少し変わっていた。世界でいちばん有名な政治の建物であることに変わりはない。変わりはないのに、それだけでは足りなくなった。

 彼は何かを思いつきかけた顔をして、それをやめた。

 言葉にすると安くなる。

 少なくとも今は。

 その代わり、受話器を取る。

「各分野のトップを集めろ」

 秘書が向こうで何か言う。

「科学だけじゃない。映画、音楽、軍、宗教、ネットの連中もだ。あの子が何を見に来るのか知らないが、見せるものはこっちで選ぶ」

 受話器を置き、彼はまた窓を見る。

 芝生の先、暗い空。

 何も見えない。

 それでも、あそこから来る。


 日本 総理府中枢庁舎


 城崎は官邸の一室で、各省庁から上がってくる報告を読み、途中で読むのをやめた。言い換えの多い文章だった。未確認、想定、可能性、慎重に精査。官僚の文章としては正しい。だが今欲しいのは正しさではなく、何を失ったのかの手触りだった。

 彼女はペンを置いた。

 窓の向こうにはまだ東京の灯りがある。コンビニもタクシーも配送トラックも動いている。国は壊れていないように見える。

 けれど、その見え方がもう怪しい。

 機能している都市と、主権を持っている国家は別だ。

 彼女はそれを、今さら実感していた。

「文化を集める」

 誰に向けるでもなく、そう言った。

 言ってから、少しだけ笑いそうになった。危機対応で最初に出る台詞ではない。だが他に何がある。ミサイル一覧表を出しても、向こうはたぶん退屈する。

 退屈される。

 それが一番きついのかもしれないと、城崎は思った。


 聖座市国


 アレクシウス十三世は深夜、短いメモを書いた。

 神学的判断は保留。

 敵対認定も保留。

 驚愕は認める。

 この順番だけは崩さないようにした。驚いたあとで説明を作る。逆にやると、だいたい人は嘘をつく。

 彼はペンを置き、礼拝堂に入った。誰もいない。小さな明かりだけが残っている。

 祈りの言葉はすぐには出なかった。

 それでよかった。

 言葉が遅れる時の方が、たぶん誠実だ。


 明け方近く、世界中の観測施設から断片的なデータが集まり始めた。

 アンドロメダ方向。

 到来順の合わない信号。

 既存理論の外。

 その報告を受けたデイヴィッド・チェンは、ホワイトボードの前でしばらく黙り、やがて数式を書き始めた。途中で止まり、全部消した。また書き始めた。五十代の終わりに入ってから、こんなふうに最初からやり直すことはほとんどなかった。

 少しだけ。

 ほんの少しだけ、顔つきが若くなっていた。

 絶望している時の研究者は、時々そうなる。


 日曜は終わった。

 正確には、地球のどこかではまだ日曜だったし、どこかではもう月曜だった。だがそんなことは大した差ではなくなっていた。

 同じ映像を見たからだ。

 同じ言葉を受け取ったからだ。

 九日後、来る。

 取引ではない。

 交流だ。


 人類は長いこと、未知との遭遇を勝ち負けの文法で考えてきた。

 撃つか、撃たれるか。

 奪うか、奪われるか。

 支配するか、されるか。

 そのどれでもないものが上から落ちてくるとは、あまり思っていなかった。

 支配より厄介だった。

 勝ち負けに入れてもらえないからだ。


 大統領府


 大統領府の庭師は、夜明け前の芝の状態を確認するために外へ出た。記者の数がいつもより多い。警備も変だ。だが芝は芝だった。踏まれれば傷むし、手を入れれば戻る。

 彼は空を見た。

 肉眼では何も分からない。

 星も少ない。

 それでも、そこから来ると言われてしまった空は、昨日までの空とは違っていた。

 庭師は肩をすくめ、作業手袋を引っ張った。

 九日後、ここに降りる。

 だったら、少なくとも芝は整えておくか。

 その判断だけが、この巨大な出来事の中で、妙に人間のサイズだった。


 その朝、世界中で最も大量に使われた言葉は、たぶん「本当か」ではなかった。

 「で、どうなる」でもない。

 「何だったんだ、あれ」だった。

 人は理解したい時より、理解できないものの輪郭をなぞる時の方が長い。だから各国政府は会見を開き、専門家は解説を始め、司会者は平静を装い、宗教家は慎重な言葉を選び、投資家は月曜を気にし、子供は翼を描いた。

 現代は、分からないものを分からないまま置いておくのが苦手だ。

 すぐにタグをつける。分類する。危険、かわいい、陰謀、投資機会、歴史的、フェイク。

 けれど、その夜の少女は、そのどれにもきれいには収まらなかった。

 収まらないまま、9日後の予定だけを残した。

 だから人類は、その日、初めて同じ予約を入れられた。

 自分たちよりずっと上にいるかもしれない何かとの、面会予約を。

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