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婚約破棄されたい公爵令嬢と絶対しない王太子

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/02/13

 王太子レオポルド・アーヴィングは、朝の執務机の前で書類に視線を落としていた。

 王国の次代を担う者として積み上げられていく報告は途切れることがなく、季節や天気よりも先に、判の位置と署名の形を覚えてしまう生活が続いている。


 扉の外で、慌ただしい足音が跳ねた。

 控えていた侍従が止める間もなく、勢いよく押し開けられる。


「レオポルド様、今、廊下で侍女と笑い合っておられましたね、あれは新しい婚約者候補でしょうか、それとも浮気ですか、ついに私の婚約破棄が決まりましたか?」


 飛び込んできたのは、公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラー。

 幼少より王太子妃候補として育ち、この部屋に遠慮なく踏み込める数少ない存在だった。


 レオポルドは顔を上げ、ペンを置く。


「どこをどう眺めれば、挨拶が婚約解消の前触れに化けるんだ、むしろ君の頭の中のほうが国家機密として保護したいくらいだよ」


「だって笑っていました、あれは穏便に婚約者に別れを切り出す前の、新恋人への柔らかな態度に違いありません、私、もう覚悟を整えるべき段階ですよね?」


「整えなくていい、解散だ、帰れとは言っていないが落ち着いて座れ」


 促されるより先に、セラフィナは机の向かいへ陣取っている。椅子に腰掛けながらも身を乗り出し、逃げ道を塞ぐように視線を合わせた。


「今日はどなたですか、最近は厨房の娘が怪しいと思っていましたが、まさか宮廷付きの侍女まで候補に入るとは、物語の進みが早すぎません?」


「候補という言葉を勝手に増やすな、私は面接官ではない」


「しかし読んだ本では、幼馴染は油断しているうちに舞台から落ちるのが定番でした、のんびりしている場合ではありません」


「その定番とやらは燃やしてしまえ」


 ぴしゃりと返しながら、レオポルドの口元は緩む。止める気配を見せない勢いに、怒るより先に笑いが込み上げるのは昔から変わらなかった。


 セラフィナは机を指で叩く。


「笑いましたね、余裕ですね、つまり裏ではもう婚約破棄が準備されている、そうでしょう、黙っていても顔に書いてあります」


「書いてあるのは寝不足だ、昨日も君の長文の手紙を三通読まされた」


「愛想の尽きた王太子が、最後に未練を整理するために読み返す場面ですね」


「違う」


「ではどこが違うのですか、具体的に否定してください、曖昧な態度は疑惑を育てます」


「育てなくていい」


 話が一歩進むたびに三歩飛躍する。幼い頃、庭で迷子になった子犬を追いかけて池に落ちた時から、この癖は治っていない。


 レオポルドは立ち上がり、書棚へ向かった。視線を外しただけで、背後から椅子の擦れる音が追いかけてくる。


「どちらへ、もしや次の相手に贈る詩集を選びに?」


「君に貸した歴史書を返してもらいにだ」


「読みました、裏切りの章ばかり」


「なぜそこを重点的に」


「備えは必要です」


「必要ない」


 返された本を受け取り、レオポルドは息を吐く。毎日同じやり取りをしているはずなのに、少しも擦り切れない。


「今日はもう執務が山積みだ、疑いは後日に回してくれ」


「先延ばしは不誠実です、宣告は早いほど心の準備ができます」


「準備させる予定がない」


「そんなはずありません、ここまで引っ張って何も起こらない物語があるわけがないでしょう」


「ここは物語ではなく王城だ」


「知っています、だからこそ盛大に行われるのです」


 きっぱりと言い切り、セラフィナは満足げにうなずいた。結論が出た顔である。


 レオポルドは額を押さえた。


「では確認するが、仮に私が誰とも恋に落ちていなかったらどうする」


「そんな不自然な展開は読者が許しません」


「誰が読者だ」


「私です」


「厄介だな」


 だが、その厄介さごと手放す未来が想像できないことも、また事実だった。


 セラフィナは立ち上がる。


「分かりました、今日は準備段階ですね、決定的な場面は夜会まで取っておく、そういう構成でしょう?」


「違う」


「では夜会で待っています、きっとそこで全てが始まりますから」


「始まらない」


「楽しみにしています」


 まったく聞いていない。


 颯爽と部屋を出ていく背を見送りながら、レオポルドは苦笑する。嵐のような訪問が過ぎると、静寂だけが残る。


 机へ戻り、ペンを握る。


 紙の上に落ちる影は、先ほどまでと何も変わらない。


 ただ、胸の奥に浮かぶのは、夜会でどんな顔をして詰め寄ってくるだろうかという、妙に楽しげな予想だった。



 公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラーは、自室の姿見の前で腕を組み、うなり声にも似た息を漏らしていた。

 今夜は王宮主催の夜会。

 王太子の婚約者として隣に立つことが当然とされる場でありながら、本人の頭の中では、そこは断頭台か、それとも新章の開幕舞台かという両極端な意味を持っている。


「落ち着きなさいと言われて落ち着けるのなら、私はもっと楽な役回りでここに立っています、ええ、分かっていますとも、嵐の前は空が澄むものです」


 手伝いに来ていた侍女たちが、互いに視線を交わしながらドレスの裾を整える。

 彼女たちは幼い頃からこの光景を見てきた。

 突飛な予測と、どこまでも真剣な顔。その両立に慣れてしまっている。


「本当に、今夜だと思われますか?」


 遠慮がちな問いに、セラフィナは勢いよく振り向いた。


「条件はそろっています、最近の彼は妙に優しい、視線も多い、つまり罪悪感が先に立っているのです、これはもう鐘が鳴る直前の静けさと言って差し支えありません」


「鐘は祝福に鳴るものでは……」


「甘いです、祝福は別の女性に向かいます」


 拳を握りしめ、深くうなずく。


「覚悟は決まりました、私は気高く身を引き、そして次の恋へ進むのです、ええ、涙は一粒だけ、横顔に美しく」


「具体的ですね……」


「練習は裏切りません」


 言い切った直後、また迷いが生まれる。

 鏡の中の自分へにらみつけるように顔を寄せた。


「ですがもし、平民の娘ではなく、隣国の姫だったらどうしましょう、格式の差で負ける展開は悔しいです、悔しいですが王道です」


「まだ何も起きておりません」


「起きます」


 強い断定だった。



 王太子レオポルド・アーヴィングは、広間へ向かう回廊を歩いていた。隣には護衛、背後には侍従。進む先には光と音楽。いつもの夜会と変わらない、はずだった。


 遠くからでも分かる。人垣の中央で、こちらを待ち構えている影がある。


「来ましたね、主役の登場です、舞台装置が歩いてきます」


 第一声がそれだった。


「装置扱いは初めてだな」


「本日の台本を確認させてください、どのあたりで私の未来がひっくり返ります?」


「ひっくり返らない」


「では、どの角度から新しい女性が現れます?」


「現れない」


「隠しても無駄です、物語はいつだって本人より周囲が先に気付くのです」


「では周囲にも確認してくれ」


 レオポルドは周囲へ視線を送る。視線を向けられた貴族たちは、さっと顔を背けた。巻き込まれたくないという意思表示が見事に揃う。


 セラフィナは満足げにうなずいた。


「ほら、皆さん察している顔です」


「違う、関わりたくない顔だ」


「同じことです」


「違う」


 音楽が高まり、開会の合図が告げられる。視線が集まる中、セラフィナはぴたりと寄り添った。


「さあ、いつでもどうぞ、衆目は十分、逃げ場もありません、完璧です」


「何の準備だ」


「婚約破棄宣告です」


「予定にない」


「驚きました、ここまで来て焦らすとは」


「焦らしてもいない」


 レオポルドは肩を落としながら、彼女の手を取った。


「まず踊る、それが先だ」


「最後の思い出作りですね」


「違う」


 手を引けば素直についてくる。足取りは軽い。終わりを待ちながら始まりを夢見る、不思議な表情だった。


 レオポルドは思う。


 どう説明すれば、この未来が一度も揺らいでいないと伝わるのか。


 音楽の中、彼女の視線は絶えず次の登場人物を探している。


 その忙しなさに、口元がまた緩んだ。



 王太子レオポルド・アーヴィングの城外視察は、早朝から始まり日暮れに終わった。

 農地の確認、街道の整備、商人との挨拶。

 予定通り、何一つ問題はない。護衛も侍従も、完璧な一日だったと胸を張る。


 ただし王城へ戻った瞬間、その平穏は終わる。


 正門の前に立っている人物を見たからだ。


 公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラー。

 待ち伏せという単語を堂々と行動に変換した姿で、両手を組み、逃走経路をすべて計算済みの顔をしている。


「お帰りなさいませ、遠出お疲れでしょう、馬車の揺れで芽生えた恋はございましたか、それとも道端でぶつかりました?」


「挨拶が尋問だ」


「誤魔化しは効きません、城外は危険です、運命の恋が転がっています」


「石ころなら踏んできた」


「女性の形をしていませんでしたか」


「していない」


 即答に、セラフィナは目を細める。


「隠すのが上手くなりましたね、物語も中盤に入ると主人公は秘密を抱えるものです」


「だからここは恋愛小説の中ではない」


「では戦利品を見せてください、手紙、ハンカチ、意味深な視線、何でも構いません」


「最後のは持ち帰れない」


「つまり受け取ったのですね」


「違う」


 レオポルドは侍従に合図し、包みを差し出させる。整然と結ばれた布の中には、小さな焼き菓子と、精巧な細工の髪飾り。


「市場で評判だと聞いた、君が甘いものに目を輝かせる姿は幼い頃から変わらないからな」


 ほんの一瞬、セラフィナは言葉を失う。だが、すぐに息を吸い込んだ。


「分かりました、これはあれですね、別れの前の優しさ、罪悪感を軽くするための贈り物」


「なぜそちらへ進む」


「手厚いほど怪しいのです」


「君は疑いの才能に満ちているな」


「鍛えました」


 胸を張る方向が違う。


 城門前でのやり取りに、周囲の兵士たちが視線の置き場を失っている。止める者はいない。止めても無駄だと知っているからだ。


「では質問を変えます、今回は見送ったのですね?」


「何をだ」


「運命の相手です」


「最初からいない」


「そんなはずがありません、何も起こらない視察など、読者があくびをします」


「だから誰だ」


「私です」


「また君か」


 レオポルドは笑いを噛み殺し、包みを押し付ける。


「温かいうちに食べろ、そして少し黙って考えてくれ、私が城外へ出るたびに恋を拾ってきたら、この国はどうなる」


「恋で満ちます」


「政務が崩壊する」


「壮大ですね」


「頭が痛い」


 セラフィナは包みを抱えながら、じっと顔を覗き込む。


「では次はいつですか」


「何がだ」


「決定的な出会いです」


「予定にない」


「そんなに先延ばしにすると、私、別の本を読んでしまいますよ」


「読んでくれ、恋愛小説以外を」


「そこで影響を受けたらどうします?」


「もう十分だ」


 くすりと笑い、彼女は踵を返す。


「分かりました、今回は準備不足ということにしておきます、次こそは逃しませんからね」


「何から逃げるんだ」


「運命からです」


「追いかけているのは君だ」


 軽やかな足取りで去っていく。兵士たちが深く息を吐く。


 レオポルドは額を押さえた。


 どうすれば、すでに隣にある答えへ気付かせられるのか。


 考えながら、口元はどうしても緩む。


 次はどんな角度から疑ってくるのか、その予想ばかりが浮かんでしまうのだ。



 王宮の大広間は、普段の夜会よりもさらに華やいでいた。壁際の燭台は数を増やし、天井の装飾は光を受けて細かく輝き、床に映る影さえも衣装の一部のように揺れている。


 今夜の趣向は仮面舞踏会。

 素性を隠し、名乗りを控え、振る舞いだけで相手を測る夜。


 公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラーにとって、それはついに訪れた舞台装置だった。


「来ました、仮面です、身分を消すということは、つまり本命を差し替える準備に決まっています、ここで運命が滑り込んでくるのです」


 広間の入口で、彼女は胸の前で手を組む。期待に満ちた呼吸が忙しい。


「大丈夫です、私は受け止めます、ええ、驚き、戸惑い、それでも惹かれてしまう流れ、完璧にやってみせます」


 侍女たちは頷くしかない。


 やがて音楽が始まり、色とりどりの仮面が動き出す。誰が誰か分からないざわめきの中、ひときわ迷いのない足取りが彼女の前で止まった。


「一曲、お願いできますか」


 低く整った声。

 差し出された手袋越しの指先は、礼を尽くしながら逃げ道を与えない位置にある。


 セラフィナの胸が跳ねた。


「……ええ、もちろん、こういう場合は偶然を装いながら必然を受け入れるのが作法ですもの」


「難しい作法だ」


「心得ております」


 手を取る。

 導かれる。

 歩幅が合う。


 それだけで、彼女の視界は一気に明るくなった。


 完璧だった。距離、力加減、視線の高さ。どれもが不自然なくらい整っている。

 これまで隣に立ってきた誰かに似ている気がして、それでも違うと胸が叫ぶ。


「あなたは……どなたです?」


「今夜は名を持たない」


「素敵です、その含み、実に素敵です」


「そうか」


「では、どこで私を見初めました?」


「さあ」


「隠しますね、隠すほど本物です」


 足がもつれるほど高鳴りながら、セラフィナは回る。


 周囲がぼやけ、彼だけがはっきりと見える。

 待っていた瞬間。

 ついに現れた新しい相手。


「言っておきますが、私は簡単ではありませんよ、長年の婚約という高い壁を越える必要があります、それでも?」


「越える」


「即答……!」


 視線が絡む。逃げ場が消える。

 胸の奥で鐘が鳴る。


 音楽が終盤へ差しかかり、彼はそっと彼女を引き寄せた。


「それでも、最後に選ぶのは同じだ」


「え?」


 次の瞬間、仮面が外れる。


 見慣れすぎた顔。

 忘れるはずのない瞳。


 王太子レオポルド・アーヴィングが、そこにいた。


「……は?」


「一曲、ありがとう」


「違います」


「何がだ」


「違います、今のは違います、やり直してください」


「やり直さない」


「だって今の流れなら、新しい人が名乗るはずでしょう、どうしてあなたなんですか!」


「私だからだ」


「横取りです!」


 彼女は顔を真っ赤にして後ずさる。

 周囲の視線が集まり始めるが、止まらない。


「返してください、今のときめきを返してください、私はきちんと落ちる準備をしていたのに!」


「落ちなくていい」


「落ちます!」


「だめだ」


「どうしてですか!」


「君が選ぶ先は変わらない」


 静かな声だった。


 逃げ場を与えない、優しい断定。


 セラフィナは言葉を失う。

 胸の鼓動が、まださっきの速さのまま鳴っている。


「……ずるいです」


「何が」


「知らない人のふりをして、全部持っていくなんて」


「持っていく?」


「そうです、期待も展開も、全部」


「最初から私の分だ」


 言い切られ、彼女は視線を逸らす。


 悔しい。

 だが、踊っていた時間が確かに輝いていたことを、どうしても否定できない。



 仮面舞踏会のざわめきから逃れるように、公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラーは回廊へ飛び出した。磨かれた床に靴音が強く跳ね、裾が乱れる。背後から追ってくる足音が一つだけあることを、振り返らなくても知っている。


「待て」


「待ちません!」


「足を止めるだけでいい」


「それが罠です!」


 勢いのまま柱の陰まで進み、そこでようやく振り向いた。追いついたのは王太子レオポルド・アーヴィング。仮面はすでに外され、見慣れた顔が息一つ乱さず立っている。


「卑怯です」


「何がだ」


「全部です、声も、手の取り方も、あの距離も、知らない人として完璧でした、それなのに最後に正体を出すなんて、あれでは逃げ場がないでしょう!」


「逃げる必要があるのか」


「あります、だって私は新しい恋に落ちるはずだったのです!」


「落ちなかったな」


「邪魔されました!」


「私にか?」


「あなたに!」


 指を突き付け、セラフィナは唇を震わせる。怒りでいっぱいの顔なのに、先ほどの音楽がまだ身体に残っている。足先がわずかに拍子を覚えているのだ。


 レオポルドはそれを見逃さない。


「楽しくなかったか」


「……質問がずるいです」


「答えは簡単だろう」


「簡単ではありません、私は混乱しています、順番が違うのです、本来なら見知らぬ相手に心を奪われ、そのあとで障害が現れて苦しむ予定でした」


「障害が先に立っているのか」


「そうです!」


「ではその役はもう終わっている」


「終わっていません!」


 強く言い切り、彼女は顔を背ける。


「だって、ときめきました」


「うん」


「知らない人だと思ったからです」


「私は同じことをした」


「分かっています!」


 拳を握りしめ、視線が戻る。


「分かっているから困っているのです、あれほど完璧に連れ出されて、優しくて、息が合って、心地よくて、それを全部あなたが持っていくなんて、そんなの、反則でしょう」


「反則か」


「ええ、反則です、私は今、怒るべきなのに、思い出してしまうのです、さっきの一歩一歩を」


 レオポルドは少しだけ目を細める。


「君はさ、いつも新しい誰かを探しているが」


「はい」


「見つかった試しがあるか」


「これからです」


「今日、見つけたつもりになったな」


「なりました」


「結果はどうだ」


「あなたでした」


「つまり?」


「言わせないでください!」


 回廊に声が跳ねる。


 沈黙は生まれない。代わりに、二人の間にだけ通じる長い積み重ねが立つ。


「誰が現れても、最後に仮面を外せば同じ顔になる」


「違う可能性もあります!」


「ない」


「どうしてそこまで言い切るのですか!」


「君が私を見るからだ」


 逃げ場のない答えだった。


 セラフィナは口を開き、閉じる。言葉を探しても、胸の奥から出てくるのは先ほど踊った時間ばかり。


「……ずっと前から知っていたくせに」


「何を」


「私がこうなることです」


「まあな」


「性格が悪いです」


「君ほどではない」


 思わず、吹き出す。


 怒っているのに、笑ってしまう。負けた気がするのに、嫌ではない。


「認めませんから」


「何をだ」


「終わりをです」


「終わらせない」


「新しい恋をです」


「必要ない」


 言葉が重なるたび、距離が縮む。


 彼女は目を伏せ、そして小さく呟いた。


「……それでも、今夜はずるいです」


「ありがとう」


「褒めていません」


「受け取っておく」


 顔が熱い。

 どうにもならない。


 セラフィナはゆっくりと息を吐いた。


「分かりました、今日はここまでにしておきます」


「助かる」


「ですが覚えておいてください、私はまだ諦めていません」


「何をだ」


「もう一度、新しい恋に落ちる瞬間をです」


「何度でも用意する」


「……本当に性格が悪い」


 だが、その言葉はどこか柔らかかった。



 王城の礼拝堂には、朝の光が静かに差し込んでいた。高い窓から落ちる色は柔らかく、整えられた花々の白をいっそう引き立てる。参列者たちは声を潜め、結婚式が始まるのを待っている。


 その中心に立つのは、公爵令嬢セラフィナ・ウェクスラー。


 長い時間をかけて用意されたウェディングドレスをまとい、逃げ場のない位置で深呼吸を繰り返していた。


「まだです、まだ何かあるはずです、ここで別の人物が飛び込んでくる可能性だって捨てきれません、最後の最後で運命が裏返ることも……」


「やめろ」


 即座に返ってきた声。


 振り向けば、正装の王太子レオポルド・アーヴィングがすぐ後ろに立っている。


「どうしてそんな余裕の顔で近づいてくるのですか、ここは緊迫する場面でしょう、少しくらい慌ててください」


「十分慌てさせられてきた」


「私は真剣です」


「知っている」


 彼は一歩近づき、逃げ道を塞ぐように真正面へ立った。


「確認だ」


「何でしょう」


「今、ここに来る途中で、誰か別の相手に手を引かれたか」


「ありません」


「名も知らぬ誰かに胸を奪われたか」


「……ありません」


「私と離れる未来を想像したか」


 セラフィナは口を閉ざす。

 長い沈黙の代わりに、視線が揺れた。


「……想像は、しました」


「それで?」


「途中で、あなたが現れました」


「だろうな」


「勝手に出てこないでください」


「無理だ」


「私が主役なのに」


「私もいる」


 言い返せない。


 逃げようとして、逃げられない。何度試しても、最後に立っている人間は同じ顔で、同じ声で、同じように手を差し出してくる。


「……悔しいです」


「何がだ」


「もっと劇的に転びたかったのです、誰かに奪われて、抗って、それでもあなたに戻る、そういう順番が欲しかった」


「遠回りだな」


「大事です」


「必要ない」


 きっぱりと告げられ、胸の奥で何かがほどけた。


「君は最初からここへ来る」


「断定しないでください」


「外れたことがあるか」


「……ありません」


「なら終わりだ」


「終わりにしないでください!」


 思わず叫んでから、セラフィナは息を呑む。


 違う。

 終わってほしくないのは、夢見た空想ではなく、ここまで続いてきた時間のほうだ。


「違います……その、これは」


「うん」


「仕方がないのです」


「うん」


「どれだけ探しても、最後に見るのはあなたです」


「知っている」


「だから」


 視線を上げる。


「観念します」


 レオポルドはわずかに笑った。


「遅い」


「うるさいです」


「これからも疑うんだろう?」


「疑います」


「新しい誰かを期待して」


「します」


「そして最後は?」


「……あなたです」


 もう、否定できなかった。


 扉の向こうで合図が鳴る。

 参列者の気配が整い、進むべき道が開く。


 レオポルドは手を差し出した。


「行こう」


「はい」


 重ねた指先は迷わない。


 どれほど騒いでも、どれほど遠回りを望んでも、結局ここへ戻る。


 セラフィナは小さく笑い、彼の隣に立った。


「ですが覚えておいてください、私はきっとまた言いますからね」


「何をだ」


「これは婚約破棄でしょうか、と」


「好きにしろ」


「そのたびに答えてください」


「何度でも」


 歩き出す。


 祝福が満ちる中、彼女の胸は不思議なほど軽かった。


 新しい恋を夢見続けた令嬢は、結局いつも通りの相手の手を取る。


 それでいいのだと、ようやく思えた。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
王太子の忍耐力に胡座をかいているヒロインに全く魅力を感じなかったです… 最後の最後に本当に婚約破棄されてしまえば良かったのに
いわゆる悪役令嬢物は、ヒロインと悪役のポジションを入れ替えた構造で、悪役令嬢の実態は、主人公であり読者が感情移入する対象、つまりヒロインです。 物語のような恋に、恋するセラフィナは、ドアマットで虐げ…
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