第7話 ミラという英雄
ヴァルド診療所を出たとき、夜の空気は思ったより冷たかった。
昼間はあれだけ人の気配があったのに、今は嘘みたいに静かだ。
家々の窓は暗く、遠くで犬が一度だけ吠えて、それきり音が途切れた。
ミラは、ゆっくり歩いた。
急ぐ理由が、なかった。
足元の砂利を踏む音が、やけに大きく聞こえる。
そのたびに、自分がひとりだということを思い出す。
腰に手をやって――
そこで、動きが止まった。
「……」
剣が、ない。
診療所の壁に立てかけたまま、置いてきた。
誰かに言われたわけでも、奪われたわけでもない。
自分で、そうした。
「……置いてきたんだよね、私」
小さく呟く。
胸の奥がざわつくかと思ったが、そうでもなかった。
怖さも、焦りも、ない。
ただ――
「……軽い」
それだけが、正直な感覚だった。
身体を包んでいたはずの重さが、すっぽり抜け落ちている。
鎧を脱いだからじゃない。
もっと、奥のものだ。
宿は、村の入口近くにあった。
古い木造で、看板の文字も少し欠けている。
扉を押すと、小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、年配の女主人が顔を上げる。
「一晩、泊まりたい」
「お一人ですね」
その問いに、一瞬だけ間が空いた。
「……ええ」
鍵を受け取り、階段を上る。
足を乗せるたび、木がきしむ。
案内された部屋は狭かった。
ベッドと机、椅子がひとつ。
それだけ。
ミラは荷物を置き、ベッドに腰を下ろした。
「……」
何も言わず、ただ座る。
部屋は静かだ。
あまりにも。
戦場では、静かな時間のほうが怖かった。
何かが起きる前触れだからだ。
でも、ここでは違う。
何も起きない。
起きるはずがない。
それが、分かっている。
深く息を吸って、吐く。
胸の奥まで、空気が入ってくる。
「……」
身体が、楽だ。
肩を回してみる。
首を傾けてみる。
「……痛く、ない」
思わず、眉をひそめる。
どこも。
本当に、どこも。
筋の張りも、鈍い痛みも、残っていない。
「……こんなの」
声が、少し掠れた。
「……いつぶりだろ」
ベッドに仰向けになり、天井を見る。
木目が走っているだけの、低い天井。
豪華さなんて、どこにもない。
それなのに――
胸が、ざわつく。
目を閉じると、音が戻ってきた。
剣がぶつかる音。
怒鳴り声。
金属が擦れる感触。
まだ、何も思い出していないのに。
ただ、静かな部屋にいるだけなのに。
身体の奥が、勝手に反応する。
「……」
ミラは、目を閉じたまま、息を吐いた。
そして、ゆっくりと――
記憶が、ほどけ始める。
――――――――――――――――――
王都の門は、見上げるほど高かった。
「……」
ミラは、無意識に立ち止まった。
石で組まれた門。
人の流れ。
響き続ける足音と声。
「なに突っ立ってる。入れ」
背中を押され、よろける。
「……はい」
声が少し高い。
周囲を見れば、自分より背の高い者ばかりだった。
15歳。
少女兵。
分かっていたはずなのに、ここに立つと実感が違った。
「名前」
「ミラです」
「……小さいな」
正直な感想だった。
「145か?」
「……はい」
笑われるかと思ったが、そうでもない。
「前線だ」
「……前線?」
思わず聞き返した。
「嫌か」
「……いいえ」
嘘だった。
でも、下がりたいとは言えなかった。
「小さいほうが、死角に入れる」
「生き残れたらな」
そう言われて、書類を渡された。
最初の戦場は、考える暇もなかった。
「行くぞ!」
「遅れるな!」
押し出されるように、前へ。
視界は腰の高さ。
敵の腹、脚、鎧の隙間。
「……っ!」
振り下ろされた剣を、身体を沈めてかわす。
――低い。
自然と、そう動いていた。
次の瞬間、懐に入る。
「……!」
短い刃が、鎧の下に入った。
手応え。
抜く。
「……生きてる?」
足が震える。
でも、立っている。
「ミラ! 後ろ!」
反射で転がる。
剣が頭の上を通り過ぎた。
「……小さいな、ほんとに!」
誰かが叫んだ。
それは、悪口じゃなかった。
「ミラ、前!」
「低く入れ!」
次から次へと、声が飛ぶ。
ミラは、低く踏み込む。
相手より低く。
相手より内側へ。
剣は、振らない。
刺す。
その日の戦いが終わったとき、ミラは生きていた。
「……生きてる」
自分の声が、他人のものみたいだった。
「お前、よく動けてたな」
「小さいの、悪くないな」
そう言われた。
次の戦場でも、呼ばれた。
「ミラ、前に」
「ミラが行け」
理由は単純だった。
小さい。
速い。
懐に入れる。
そして――
戻ってきた。
「……また、生きてる」
回数を重ねるごとに、動きは洗練されていった。
敵の視線が上に向く。
だから、下に潜る。
剣が大きい。
だから、振らせない。
「……小さいから、死ぬと思った?」
いつからか、そう呟きながら戦うようになっていた。
街を守った。
村を守った。
「助かりました……」
「ありがとう……」
泣きながら頭を下げられる。
そのたび、胸の奥がぎゅっとなる。
「……はい」
それしか言えなかった。
気づけば、名前で呼ばれるようになっていた。
「ミラがいるなら、持つ」
「ミラなら、抜けられる」
戦線が、前に伸びる。
被害が出ても、ミラが補う。
「……私が行かなきゃ」
そう思うようになった。
叙勲もされた。
すごい勲章らしい。
その期待が、肩に重く乗った気がした。
「ミラも、とうとう英雄だな」
その言葉に、笑えなかった。
「……英雄」
重かった。
でも、否定できなかった。
だって――
行かなかったら、壊れる。
自分が行かなければ、街が。
人が。
それを、知ってしまったから。
いつの間にか、
前に出るのが役目になっていた。
小さな身体で、
低く踏み込み、
誰よりも前に。
それが、
ミラが英雄と呼ばれるまでの道だった。




