第18話 一日が過ぎる
午前の診療所は、いつもと同じ匂いがしていた。
消毒薬と、乾いた木の床。
窓から入る風が、カーテンを少しだけ揺らす。
「はい、では腕を出してください」
レオンの声は一定だった。
患者は言われた通りに腕を差し出す。
「……先生、これ、痛くないか?」
「ええ。触るだけです」
「本当か?」
「触るだけです」
指が当たる。
「……あ、本当だ」
「はい」
セレナが横で腕を組む。
「動かないで。逃げない」
「逃げないよ」
「前の人は逃げた」
「え」
「逃げた」
患者が苦笑いする。
次の患者。
「今日は腰ですね」
「昨日より楽だ」
「それは良かったです」
帳簿に、さらっと一行。
「ただ、無理はしないでください」
「畑は?」
「畑は、今日もあります」
「……ありますね」
セレナが肩をすくめる。
「畑はなくならない」
昼前。
レオンが帳簿を閉じる。
「休憩にしましょう」
「賛成」
「腹が限界」
「ミラのパン、残ってる時間ですね」
「急がないと」
外に出る。
パン屋の前は、今日も人が多かった。
紙袋を抱えた村人が並んでいる。
「……並んでるだけで、ありがたいわね」
セレナが言う。
「前はさ」
街道の方を顎で示す。
「パン食べるのに、二日歩いた」
「行商人からだと、高かったですね」
「それが」
「ここで買える」
「同じ値段で」
店の中で、ミラが顔を上げる。
二人を見つけて、ぱっと表情が明るくなる。
手を振る。
少し大きめに。
レオンとセレナも、自然に振り返す。
「……あれ、完全に見つけてるわね」
「ええ」
「振らないと後で言われるやつ」
「振りましょう」
順番が来る。
「いらっしゃいませ」
ミラの声は、店用の声だった。
「お疲れさまです」
「こんにちは」
ミラは一瞬だけ周囲を見てから、棚の下を開ける。
紙袋を取り出す。
「こちら、取り置きしておきました」
「助かる」
「後ほど、診療所に伺いますね」
「待ってます」
診療所に戻る。
スープを温める音。
パンを割ると、柔らかい感触が返ってくる。
「……派手じゃない」
セレナが言う。
「ですが」
「落ち着きます」
「毎日食べたい味です」
食べ終わる頃、扉が開く。
「失礼します」
ミラが胸を張る。
「本日も、完売いたしました」
「おめでとう」
「すごいな」
「一人で作っておりますので、これが限界ですが」
「十分です」
午後。
ミラは自然に診療所に残る。
箒を手に取り、床を掃く。
棚の前で立ち止まり、薬の数を数える。
「こちら、少なくなっております」
「ありがとうございます」
患者が来る。
「次の方、どうぞ」
ミラが声をかける。
治療台の横。
「体を固定いたしますね」
患者の肩に、そっと手を置く。
余計な力は入れない。
「動かないでください」
レオンが治療に入る。
「……良い位置です」
治療が途切れない。
判断が早い。
セレナが小さく息を吐く。
「……余裕ある」
「ええ」
レオンが頷く。
「看護が一人入るだけで」
「判断が遅れません」
「患者を待たせずに済みます」
「結果、治療の精度が上がります」
ミラは、手を止めて少しだけ視線を落とした。
「……お役に立てておりますでしょうか」
「立ってます」
即答だった。
「ミラがいるから」
「今日は、無理をせずに済みました」
夕方。
給金を渡す。
ミラは一瞬だけ見て、すぐ受け取る。
「ありがとうございます」
「働いた分です」
「……お金をいただくの、楽しいです」
「それは良いことです」
ミラは、英雄だった頃の蓄えがある。
本当なら、何もしなくても暮らしていけるだけの金額だ。
それでも。
自分の意思で金を使うようになってから、
パン屋で売ることも、
診療所で給金を受け取ることも、
以前よりずっと嬉しくなっていた。
数字として受け取っていた頃とは、
重さが違う気がしていた。
———夜。
ミラの家。
新しい木の匂い。
三人で食卓を囲む。
「落ち着きますね」
「キッチン、広い」
「パン屋の名残でして」
「浪費?」
「人生で初めてです」
レオンが、目線を少し下げる。
「楽しいことに、使ってください」
ミラは、スカートの端をきゅっと握って頷いた。
「……はい」
そのまま、いつもの家。
ソファに三人。
「今日は、静かだった」
「良い日です」
「……はい」
セレナはすぐ眠る。
レオンも、ゆっくり目を閉じる。
ミラは、目を閉じたまま起きていた。
セレナさんの寝息が、一定になる。
レオンさんも、目を閉じたまま動かない。
(……寝て、いらっしゃいます)
ミラは、ゆっくり息を整えた。
身体を起こして、少しだけ身を寄せる。
レオンに近づいても、反応はない。
(……大丈夫)
ミラは、ほんの一瞬だけレオンに顔を近づけた。
唇が、触れる。
それだけ。
すぐに、離れる。
自分が何をしたのか、
ちゃんと分かっている。
(……キス、してしまいました)
胸が、どくんと鳴る。
ミラは慌てて元の位置に戻り、
何事もなかったふりをして目を閉じた。
夜は、静かなままだった。




